第二部 二十章
「橘!ここだ」高山の声だった。そこは、喫茶紅涙。客は高山だけだ。そんなに大声で呼ばなくとも分かる。「また遅刻だ」高山は席を立って愁を呼んだ。「すみません、寝坊しました」愁は言った。「寝坊?また徹夜か」高山は言った。「いえ、昨日田舎に帰りまして・・・」愁は頭をかきながら言った。「まあ座れ」高山が言うと、愁は座った。その姿を見ると、高山も落ち着いて座った。
「田舎?どこだ」
高山が言った。
「神霧村と言う村です」
「神霧村?」
「知ってますか?」
愁は前にのめり込んで聞いた。
「いや、知らん」
「まあ、小さい村ですから。で、今日は何ですか」
「ちょっと待て!もう一人来る」
「松永ですか?」
「そうだ、またあいつ寝坊だ」
その時、チャランという音と同時にドスンという音も聞こえ、「イッテ!」と言う男の声が聞こえた。愁と高山は入り口のドアを見ると、階段から落ち、腰をさすっている松永健太郎がいた。健太郎はすぐさま立ち上がり、愁と高山に近づいた。「すんません、遅刻しました」そう言うと高山は席を立った。
「橘に謝れ」
「先生、すんませんでした」
「おまえ、寝坊か。昨日、何やってたんだ」
高山は苛立ちながら言った。
「先生と一緒でした」
高山は『橘と一緒にいろ』と健太郎に言った言葉を忘れていた。その健太郎の一言で思い出した。理由は分かった。<ならば、橘も納得するはずだ>高山は自分自身に納得した。そう思うと怒る気力も失せたが、表面上に出した以上、その苛立ちを保たなければならなかった。
高山は表情を変えずに、何も言わず静かに座った。その姿に愁は健太郎を見て微笑んだ。健太郎も愁を見て少し顔を綻ばした。健太郎は少し安心したのか、腕を体の後ろで組んで右足を少し曲げた。その姿を見て愁は言った。
「松永君、座ったら」
「あ、すんません」
健太郎は高山に横に座った。
「松永君はいつも体の後ろで腕を組むよね。何で?」
「いや、特に理由は・・・」
「理由は無いんだ」
「いえ・・・」
「いえ?」
「安心するんです。体の後ろで腕を組むのって。何か心休まるって言うか・・・」
「そうか・・・」
「何かありましたか?」
「いや、気になっただけだよ」
「気になりますか?」
「ああ、ちょっとだけだ」
その二人の会話を見て、高山は言った。
「仲いいじゃないか」
「ええ、仲いいですよ」
愁は言った。健太郎はその言葉に高山の顔色を窺った。それは、橘愁と新人である自分が仲良さそうにいることを、高山はどう見ているのか不安だった。だが、その不安もすぐ吹き飛んだ。
「気が合ってよかった。二人はもうチームなんだ。気が合わなければやれないからな」
高山はそう言うと、微笑んで二人を見た。
「ええ」
愁も笑顔で返事した。健太郎も高山の隣で頷いた。
「今日集まったのも、二人の様子を見たかったからだ」
「様子?」
愁は言った。
「ああ、別に監視する訳じゃないが、二人の会話や二人の顔が見たかった」
「二人の様子?でもまだ紹介されて、四日しかたっていないですよ」
「四日?まだ四日か。俺も物忘れが激しくなった。だが、まだ四日しかたっていないのに、おまえ達は少しずつ信頼関係を築き上げている。俺は、橘の今日みたいな笑顔を見たことがない。安心に満ちている」
愁は、微笑んで高山の話を聞いていた。
「松永、安心しろ!橘はおまえが好きだ」
健太郎も少し照れたように頷いた。
「まあ、今日は日頃の様子なんかも話ながら、次回作の考えを聞きたい」
高山は、健太郎を見た。
「今日は大人しいな。ほら、何ボーとしている。これからはおまえの仕事だ」
「あ、すんません。ではいきます。え〜っと、先生は次回作をどのようにお考えでしょうか」
健太郎は慌てて言った。その様子を見て、愁は少し吹き出して笑ったが、すぐさま真面目な顔をして次回作のことを話し始めた。
「ローカル電車で旅を続ける詩人の青年と、旅館の若女将との不倫の恋です。そこに、旅の途中に知り合った女の子も巻き込んだ恋の話が進みます。その心情に、青年の詩が盛り込まれていくんです・・・」
三人は、それからまだまだ次回作のことや、神霧村での出来事などを話した。四、五時間は話したろう。愁が店を出るときにはもう辺りは暗くなっていた。
この町には山がない。ビルや西洋風の煉瓦の建物は多かった。もみじやイチョウの木で埋まり、秋には町中が赤と黄色に染まる。この街の名は紅髯町。その全ての物からとった意味合いの強い名でもあった。
愁はこの町で一番大きい公園を横切って自宅へ帰る途中だった。自然に満ちたこの公園もまた、もみじとイチョウの木が立ち並び、その中央には大きな噴水があった。もう、水は噴き上がっていない。静かにその場に留まっている。愁は木々の間から顔を出すと、その噴水の前に姿を現した。人は誰もいない。ぼやけた街灯と月明かりで噴水は照らされた。静かに愁の目の前に落ち葉が舞う。愁は、何故かそれがとても懐かしく思えた。神霧村を思い出す。すると、愁の目の前にその情景が広がった。少年の愁と少女の美月は駆けずりまわりながら草むらを走り、湖へ出た。あの大きな湖だ。湖の底から青い光が放っている。霧も薄く流れていた。少年の愁は駆けずり回り、少女の美月を追いかけた。そこに、大人となった自分もいる。自分はただその場に立ち、二人の様子を見ていた。そこに、何か気配を感じた。自分の足元を見ると、一人の妖精が立っていた。その妖精を見、顔を上げて、霧の向こう、湖のもっと先に目を向けた。どこからかコツコツとした音が聞こえる。その音は近づいてきた。徐々に近づき、霧の奥からその影が浮かび上がり、一人の女性の姿があった。
愁の目の前に、湖は消えていた。噴水の脇からその女性は現れ、白いコートを羽織り、ハンドバッグを持っていた。コツコツと愁に近づく。二人の間をゆらゆらと落ち葉は舞い降りた。愁はその場に立ち止まりながら、女性の行方を追った。女性は、愁の立っている側に近づき、そして愁の体と擦れ違って、歩んでいった。その擦れ違う瞬間、愁の目は見開き、体に身震いが起きた。女性は青い目をしている。愁は直ぐさま振り返り、口を開いた。「み・・・つ・・・き・・・?」声ははっきりと聞こえなかったが、女性はその声に気づき、歩むのを止めて振り向いた。「みつき?」愁は言った。女性は首を傾げ、少し考えて、顔の表情が徐々に徐々に驚きの顔へと変わっていった。「シュウ?」女性は言った。「愁なのね」そう言うと、愁に近づいた。その女性は倉岡美月だった。白いロングコートを羽織り、手にはハンドバックを持っていた。体は細く、目も細く、まるでモデルのような体型をしていた。<綺麗だ・・・>愁はその美月の美しさに目を疑った。二人は見つめ合い、その再会に祝して、お店で飲むこととなった。
静かなバーだった。客はいた。店内の明かりは薄暗く、青い電灯が所々に照らされている。客層も皆落ち着いた社会人が多く、ネクタイに背広姿の年配のカップルが殆どだ。
愁と美月はカウンター席に座っていた。ボルドー産の赤ワインをグラスに注ぎ、その味を噛み締めた。グラスを置くと、まず口を開いたのは愁だった。「元気だった?」美月は頷き、口を開いた。「愁は?」愁は頷き「元気だった」にこやかに言った。愁が見ると、美月の左手の薬指には指輪をしていた。「結婚・・・したんだ」美月は頷いた。「幸せ・・・なんだ」美月は大きく頷いた。
「愁は?」
美月は聞いた。
「いや、してない」
「結婚・・・しないの?」
「相手がいればね。生憎、まだだよ」
「今何やってるの?」
「今?小説やってる。小説家としてデビューしたんだ」
「凄いじゃない!今小説家なんだ」
「そう!小説家」
「どんなの書くの?」
「恋愛小説」
「じゃあ恋愛豊富なんだ」
「ううん、恋愛はしたこと無いんだ」
愁は少し悲しい顔をした。そんな顔をするつもりはなかった。だが、寂しさが胸に突き刺さったんだ。
「神霧村には帰ってるの?」
美月が聞いた。
「昨日、帰った。鉄道が走ったんだ」
「鉄道?」
「うん、汽車だ」
「汽車なんだ」
「ああ、観光目的だよ」
「へ〜、そうなんだ」
美月は目の前にあるグラスに注いだ赤ワインを飲んだ。<何やってんだ。会話が、ドギマギしている>愁はそう思っていた。あの事件以来の再会だ。こんなところで気分を害したくはなかった。だが、複雑な心境でもあった。忘れていた記憶が、あの記憶が、体の底から過ぎっていくんだ。
「また、会えるかな」
愁が言うと、美月は大きく頷いた。その顔を愁は確認すると、大きく息を吐き出して微笑んだ。落ち着いた表情だった。そして二人は目の前のワインを飲んだ。
愁は狭い部屋の中を、落ちつかない様子で歩き回っていた。そこに、部屋のチャイムが鳴った。ピンポ〜ンその音を聞くと直ぐさま玄関に直撃した。そして玄関を勢いよく開けた。そこに、健太郎が立っていた。
「遅い!遅い遅い遅い!!!」
愁が興奮して言った。
「遅いって・・・こんな夜遅く、突然呼び出して来いって言われたって、そう簡単に来れないって」
健太郎は取りあえず部屋に上がった。
「いいか・・・聞いてくれ」
愁は気持ちを落ち着かせる為、唾を飲んだ。
「会ったんだ・・・」
「会った?誰に?」
健太郎は言って取りあえず座り、愁は落ちずかずに立ちながら説明していた。
「初恋の人」
「初恋?」
「ああ、変わってなかったなぁ。青い目をしてるんだ」
「青い目?外人?」
「アメリカ人とのハーフなんだ。体中細くて凄い綺麗だった。感動した」
「いつの時の恋なの?」
「僕が十二の時だ。僕はこの時しか恋をしたことがないんだ。今まで、本気で人を好きになった事って、一度だけなんだ」
「マジ?」
健太郎は顔を引きつっていった。
「マジ」
愁は健太郎の顔に近づいて言った。
「何て言うのかなぁ。落ち着かない。心臓が破裂するようにドキドキするよ。彼女の名前は美月って言うんだ。いい名だろ。美しい月って書くんだ。彼女、結婚したんだ。幸せなんだなぁ。また会ってくれるって」
「愁が幸せだよ」
健太郎は呆れ顔で言った。
「何で?」
「結婚してんだろ。何でそんなにドキドキするんだ?」
「だって久しぶりの再会だよ」
「恋に落ちるだろ」
「落ちないよ。彼女に恋はしないよ。それぐらい、僕にも分かるよ」
「絶対だな」
「うん、絶対」
愁は確信に満ちた表情で答えた。
「結婚している女と、恋に落ちるのは危険だ」
健太郎は独り言に、興奮している愁を見ながら落ち着いて言った。
ドアノブが回り、ドアは開かれた。すると、美月が家の中に入ってきた。「ただいま」小声で言った。家の中は暗い。少し疲れた表情だった。
靴を脱ぎ、家に上がり、靴を正しい方向へ揃える為にしゃがんだ。靴の方向を変え揃えた。何か音がする。何かの声が聞こえた。美月はその声のする方へ敏感に振り返り、目を向けた。そこは、長い廊下。その奥から聞こえる。男の荒い息使いと女の喚き声。美月は長い廊下を歩いた。その声は徐々にハッキリと聞こえてくる。すると美月は立ち止まった。廊下の途中に部屋があり、その部屋から声は聞こえる。その部屋の扉は、少しだけ開いていて、部屋の中を覗けた。美月はその隙間から中を覗いた。
部屋は暗い。ダブルベッドが部屋の奥にある。ベッド脇のランプは点いていた。ベッドだけがその横のランプでほんのりと照らされていた。そこに、裸の男と女が激しく抱き合い、喘ぎ声を出していた。
美月はただ、表情も変えることなく、その光景を扉の隙間から覗いていた。