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第二部 十八章

 街は真っ赤に染まっていた。もう夕刻だ。真っ赤に染まる太陽が、辺り一面なる赤い葉と街を更に赤くした。橘愁は、パソコンに目を向けていた。この部屋は暗かった。部屋が狭いと日の光も入らない。暗い部屋でも愁は明かりを付けなかった。物語の最後の言葉が今キーボードに打たれようとしている。最後の大切な一行だ。そっとキーボードを打った。これで連載の第一段が終わる。綺麗な物語だった。美しくも悲しいラストだ。この恋愛に幕を閉じた。橘愁はこの連載でデビューを果たし、その第一段が終わる。この物語が好評で、雑誌の連載を決定づけた。愁はキーボードの最後の一文字を打ち終わると、テーブルの上にあった一本のタバコに火を付けた。

 チャイムが鳴る。部屋のチャイムだ。愁はタバコを吹かして玄関の扉を見た。またチャイムは鳴る。愁は立ち上がり、玄関へ向かった。

 そして玄関のドアを開けた。そこには松永健太郎が立っていた。「先生、お疲れさまです」松永が言った。「おう!お疲れ」そう言うと、愁はまたテーブルに戻った。「あの、上がっていいですか?」松永が言うと「おう!上がれ」愁が言った。「お邪魔しま〜す」松永は靴を脱いで、部屋の中に足を踏み入れて辺りを見渡した。「セメ〜」松永が部屋の中に入って一番最初に放った言葉だ。愁は松永のその言葉に苦笑した。松永も思わず口走ってしまった言葉に焦って口を閉じた。「すんません」愁は少し顔を(ほころ)ばせた。「正直な奴だ」松永は頭を掻きながら頭を下げた。「まあいいよ」愁はそう言うと小説の最後の一枚をプリントアウトした。「小説は完成しましたか?」松永が言った。「今、完成したところ。ちょっと待って、プリントしているから」テーブルの下にあるプリンターから音がする。プリントされた紙が出てきた。愁はその紙を取り出して松永に渡した。松永は立っていた。左手を右腕の肘に後ろで組んで立っていた。足は、少し左足を曲げている。「俺、先生の連載、全て読みました。ハッキリ言って感動です。だから今日来るのがとても楽しみだったんです。だって、俺が先生の物語のラストシーンを一番最初に目にする訳でしょ。これって感動ですよね。だからこの感動を家に帰って、じっくり味わいたいんです。今日ここで見ないで持ち帰っていいですか?」松永は言った。「ああ」愁は言った。

「ありがとうございます」

「おまえ何で立ってるんだ?座れば?」

「あ、すんません」

 松永は座った。

「おまえ、普段なんて言われてる?」

「えっ?」

「おまえの呼び名だ。友達から何て呼ばれてるんだ?」

「健太郎って・・・」

「健太郎か・・・よし、僕もそう呼ぼう」

「・・・はい」

「あと僕のことを先生って呼ぶの止めてくれないかな」

「あ、でも、先生なんで」

「やなんだよ。何か偉ぶってるって言うか、照れくさいって言うか・・・」

「でも、編集長がそう呼べって」

「じゃあ高山さんの前だけ、先生って呼べばいい」

「あ、でも・・・」

「そう、呼べばいい」

「あ・・・はい」

「僕のことは何と?」

「はい?」

「愁・・・愁と呼んでくれ」

「えっ、それは、でも・・・」

「愁だ。呼んで見て!」

「シュウ・・・さん」

「シュウ!」

「いや、それは・・・」

「それは?」

「呼べません」

「何で?」

「それは・・・何でって言うか、年も上だし・・・」

「関係ないよ。愁だ。分かった?」

「・・・はい」

 健太郎には分からなかった。<何故、先生は突然こんなこと言うんだろう>愁はだた、そう呼ばれたかったんだ。

「ここから始めたいんだ。ここから・・・そうだ!おまえ、明日何してる?」

 愁は突然声を張り上げて言った。

「いや、別に・・・編集長から先生に一日付き合えって言われてるんで」

「愁だ!」

「あ、愁に付き合えって」

「分かった。じゃあ僕に付き合って」

「えっ、何処に?」

「神霧村」

「神霧村?」

「知ってる?」

「いえ」

「僕の田舎だよ」

「何か?」

「とにかくつき合って」

「・・・はい」

 健太郎は茶封筒を抱き抱えて、愁と話していた。この、橘愁という人間がもうすでに分からなくなっていた。愁は健太郎を見てタバコを銜えて笑っていた。



 静かな夜は続いた。涼しげな風は吹く。家は暗く。部屋の隅から隅まで散らかっていた。疎らにゴミは散らばり、空の酒瓶が床に散らばっていた。そこは台所。橘恵子は床にお尻をつけ、壁により掛かって酒瓶を飲み干していた。指は震え、目には涙を浮かべていた。あの日のことを思い出した。それは、橘愁がまだ十二歳の時のこと。倉岡美月の家で起こった出来事。美月が実の父親にレイプされていたこと。亨が殺されたこと。あの日の月は綺麗だった。雲は多かったが、風も吹いていたが、月は光って黄色く染まった稲や原っぱのススキに反射した。あの日に起こったことが、頭から離れない。毎日が苦しんでいた。

 恵子は直也と対峙した。虐待を受けていた美月のために、彼女を守ろうとした愁のために、そして殺された亨のために、何度も殴られた。あの日の月は、恵子にとって冷たかった。奴が、直也が家を出るときの顔が忘れられない。笑いかけたあの顔が─────

 涙を一滴流した。酒の無くなった酒瓶を一滴残らず嘗め回し、床に放り投げた。



 橘愁は公園にいた。大きな公園だ。イチョウの木やもみじが黄色と赤に染まっていた。今日は風がある。その風のせいで落ち葉となった。愁は公園の噴水のベンチに座っていた。ただ一人ベンチに座り、周りは誰も座ってはいなかった。人はいた。辺りは暗く、帰宅する人の群だ。愁は通りすがる人を見て思い出していた。昔のことを─────

 雨樋を上って美月を部屋から連れだした。美月を、彼女を、守るために。ススキの中を走った。美月の手を離さないように。真剣に走ったんだ。奴の顔がいつも、自分の後ろにあった。だけど、美月は奴に捕まって連れて行かれた。愁は動けなかった。守ろうとしたのに、守れなかった。

 次の日、美月は奴にいろいろな物を捨てられていた。美月は奴から逃げ回っていたんだ。愁は、その姿を自分の部屋の窓越しから見ていた。だけど、動かなかったんだ。美月を守ろうとはしなかった。怖かったんだ。だから夜、気になって美月の家に行った。<僕は、美月を守れなかった。自信はあったのに・・・守るどころか、疑った。傷ついている彼女を疑ったんだ∨暗闇に、裸の美月が服で体を隠している。愁はその側にいた。奴と恵子は対峙している。愁は、その二人の会話で亨が殺されたことを知ったんだ。震えが起こった。奴を見、美月をも怖くなった。その場から離れた。その時の美月の悲しい顔は忘れない。愁の心に、ずっと焼き付いた顔だった。

 愁は立ち上がった。周りは暗いのに、上着の内ポケットからサングラスを出してかけた。そして歩き出す。噴水は止まった。風は吹く。落ち葉が疎らに散った。人はまだ多くいた。その人々の中、スラッとした髪に、スラッとした目、スラッとした体の白いコートに、ハンドバッグを持っている女性が前から歩いてきた。小綺麗な服装をしている。二人がすれ違う瞬間、風は吹いた。多くの葉が落ち葉となって、疎らに散らばった。彼女の目は青かった。だが、二人はその存在に気づきはしなかった。


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