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第二部 第十七章

 携帯電話のベルが鳴る。着信メロディではなく着信音だ。カーテン越しに日の光が射し込んだ。薄暗い部屋の中に音がした。テーブルの半分を占領してパソコンが置いてある。そのパソコンが消し忘れてあり、スタンバイ画面となっている。画面の中には四角いロボットが荷物を運んでいた。そのロボットが動く音がした。六畳一間の部屋だ。まだ畳んでいない洗濯物が放り投げられ、ゴミ箱の中のゴミは溜まり、物も多くて決して綺麗な部屋ではなかった。

 布団の中から手が出てきた。着信音が鳴っている携帯電話を探している。あらゆる方面に手で触り、やっと携帯電話を掴んで布団の中に手を引いた。電話を取る音が鳴る。「もしもし」寝惚けた声だった。「え、あっ、おはようございます。今?今起きたところで。十二時四十七分?」また、布団から手を出して探り、目覚まし時計を掴むと布団の中に手を引いた。「十二時四十七分。十二時四十七分。十二時四十七分・・・あ!十二時四十七分?ごめんなさい。今日十二時半だ!今から行きます。だから後三十分です。ごめんなさい。ごめんなさい」携帯電話を切った。するとガバッと男が体を起こして立ち上がった。服は着ていた。寝癖頭のままテーブルの下にあるプリンターから原稿を取り出して茶封筒に入れて、パソコンの電源を切り、洗面所の鏡を見て水道水で寝癖を直して玄関を飛び出した。

 二度目の恋は、橘愁が三十となる冬のことだった。街はランチタイムで賑わっていた。ビルが建ち並び、オフィス街となる道を走っていた。ビルの狭間にあるもみじ並木が赤々と染まっている。男は今の季節に似合わないぐらいの汗を掻きながら走っていた。今日は肌寒く、ひんやりとした空気だ。スーツや制服を着た人々が入り乱れて歩いていた。その人々を避けながら男は走った。途中、大きな公園があり、男はその公園に入っていった。また、その公園にも人はたくさんいた。ベンチにはお弁当を持った制服のOLの団体や、カップル、紅葉を楽しむ人、鳩に餌をやる人、噴水を眺める人とたくさんの人がいた。男はまたその公園を横切り、路地に出た。さらにその路地を行くと、人の姿は薄れていった。そして男は止まった。手で顔の汗をふき取り、乱れ呼吸を整えた。そこは、喫茶紅涙(こうるい)と書かれた丸太の看板が掲げられていた。一呼吸して男は店のドアを開けた。チャランそんな音だった。ドアに鈴がぶら下がっている。男が店にはいると、三段の階段がついていた。その階段を降りると、そこが床となっていた。少し低い場所に店はあった。少し明かりを暗くした演出で、カウンター席にテーブル席が三つしかない小さな店だ。辺りを見渡しても、客は一人しかいなかった。その一人が立ち上がった。「橘、遅刻だ」店内に入ってきた男、それは橘愁だった。背はそれほど高くはなく、やせ細っている。顔は目が二重に眉は凛々しく生えていた。三十となる男としてはその年に見えない童顔だ。また、似合わない無精髭も生えていた。

 橘愁はその客の一人に近づいた。「すいません、遅れまして。寝坊しました」その客は頷いた。その客、その男の名は高山春彦(はるひこ)だ。年は四十の編集者で橘愁の担当だった。高山は背が高く、鋭い目をしていた。「まあ座れ」高山は言った。「え?ええ。ああ、これ」愁は少し戸惑い、座りながら手に持っている茶封筒を、テーブルの上に置いた。テーブルの上には高山にきているおしぼりと水、そしてコーヒーがあった。

「おう、そうだ。おまえ何飲む?ここは人気ねえ店だが、コーヒーが旨いんだ」

「あ、じゃあ、コーヒーで」

「マスター!」

 高山は呼んだ。だが、誰も来なかった。

「マスター。チッ、また寝てやがる」

 そう言うと高山は立ち上がり、カウンターに向かって歩いた。そして前屈みに寄りかかり、マスターを呼んだ。

「マスター!マスター!」

 すると奥から髭を生やした初老の男が出てきた。

「ああ、マスター。えっとね、コーヒーひとつ、粗挽きね。あと水とおしぼり」

 マスターは水とおしぼりをカウンターに置くと、また奥の部屋に入った。高山は水とおしぼりを持って席に戻り、愁の前に置いた。

「すみません」

 愁は言った。

「おまえ、粗挽きでいいな」

「ええ、何でも」

「この店は手で豆を挽くんだ。ひとつひとつな。だから自分の好みの味が出来る。俺は粗挽きだ。コーヒーは粗挽きが一番美味しいんだ」

 高山は目の前に置かれた茶封筒に目がいった。

「おう、ごめん。出来たか」

「ええ」

「徹夜か。後ろ髪に寝癖がある」

「ええ、まあ。昨日、結局明け方までやって、服のまま寝ちゃいました。だからこの服昨日と同じで・・・」

「書けたか」

「ええ、何とか。ただ最後の言葉に悩んで、そこがまだなんです」

「そうか」

 愁は茶封筒を持って、中の原稿を取り出そうとした。

「ああ、ちょっと待て」

 高山は愁の動きを止めた。

「実は、まだ、一人来る」

「え?」

「新人だ。おまえに紹介したい。だが彼奴、寝坊しやがって、もうそろそろ来ると思うんだが・・・」

 その時‶チャラン″と大きな音がした。それと同時に‶ドスン″と大きな音もした。

「イッテ!」

 愁と高山は入り口を見た。すると背の高い男が倒れていた。その男はすぐに立ち上がり、高山に向かって歩いてきた。

「すんません。寝坊しました」

「俺はいいんだ。ほら、謝れ」

 高山は男を、愁の方に向けた。

「橘さん、遅れてどうもすんませんでした」

「バカ!先生と呼べ」

「あ、すんません。橘先生、遅れてどうもすんませんでした」

「いや、僕は別に。先生なんて呼ばれる身分でもないし。それに僕も遅刻してきたから」

 愁は言った。

「えっ、そうなんですか?」

「そうなんですかじゃねぇよ。早く自己紹介しろ。橘、此奴、新人の松永だ」

「はい、松永、松永健太郎といいます。宜しくお願いします」

「へ〜、年は?」

 愁が聞いた。

「はい、十二月の十七日で二十五になります」

「へ〜、じゃあ僕と五つ違うんだ。僕はね、十二月の二十三日、天皇誕生日に三十になるんだ」

「そうなんですか。誕生日も近いですね」

 愁は松永を見上げた。

「背、高いね」

「ええ、昔、バスケをやってました」

「そうか・・・」

 松永健太郎は二枚目だった。髪は黒髪だ。

「今日からおまえの担当だ」

「えっ?」

「はい、宜しくお願いします」

 松永健太郎が言った。

「担当?」

「ああ、おまえもちゃんとした担当が出来てもいい頃だ。もう原稿を持ってこなくていいぞ。今度から此奴が家に取りに行く」

「編集長が橘先生、とても優しい方だって」

 松永が言うと、愁は

「編集長って?」

 聞き返した。すると松永は、高山を指した。

「俺は、編集長になった」

「あ、おめでとうございます」

「ありがとう。編集長になって現場には出なくなるが、俺はいつでも橘の担当だと思っている。おまえの原稿に目を光らして読むから覚悟しておけ」

「はい、分かりました。覚悟しておきます」

「何かあったら、すぐ俺の所に連絡してこい。相談に乗るから」

「分かりました」

 愁は松永を見ると、松永はずっと立っていた。

「松永君、座ったら」

「あ、すんません」

 松永は座った。そこにマスターがコーヒーを持ってきた。何も言わずにコーヒーを愁の前に置くと、歩いて行ってしまった。

「松永君、何か飲む?」

 愁が言った。

「いえ、大丈夫です。僕は水で・・・」

 目の前にある水を飲んだ。

「ばか!それは橘のだ」

 横にいた高山が、思わず松永の頭を叩いた。愁はその光景に吹き出して笑った。

「す、すんません」

「いいよ。ほら、僕にはコーヒーがあるから」

 愁はコーヒーカップを持ち上げて一口飲んだ。

「おいしい。高山さん、ほんと、ここのコーヒー美味しいです」

「ダロッ!ここは旨いんだ。何故流行らないのかわからん」

 松永は目の前にある茶封筒を手に取った。

「原稿だよ。まだ最後が出来ていないけど」

 愁が言った。

「へ〜、これが原稿ですか」

 松永は茶封筒から原稿を出し、捲った。

「まあ、今日集まったのは松永の紹介だ。原稿取りが目的じゃない。おまえ、明日なら最後出来てるな」

「はい」

「じゃあ松永、明日橘の所へ取りに行け」

「はい」

 三人は目の前にある飲み物を飲んだ。



 霧は木々の狭間を流れていた。橘恵子はその中を掻き分けるように彷徨い走っていた。額に汗を浮かべて、何かに追われるように焦っていた。

 途中、赤いリボンがあった。橘恵子は、その赤いリボンが結ばれている、樹木の横の草むらに体を埋めた。そして、草を掻き分け掻き分けて、後ろを振り返り、何かに脅えて走った。すると、草は途切れ、恵子は飛び出した。そこは、あの、湖だった。恵子は、まだそこが何処なのか理解できなかった。朦朧(もうろう)と湖を見ていると、背後から草を掻き分ける音がしてきた。恵子は咄嗟に後ろを振り向き、その恐怖から後退って思わず尻餅をついてしまった。‶ザクザク″と草を掻き分ける音は近づいてくる。恵子はもう動けなかった。その、恐怖から逃れられない。体は震え、瞬きするのも怖く、体中汗を掻いていた。その、最後の草が掻き分けられ、その物が姿を現そうとした。恵子の目は力一杯見開いた。

 ガバッっと起きあがった。額には汗を浮かべている。橘恵子の姿だった。ベットの上だ。<また夢・・・>ずっと、あれからこの夢が彷徨っている。橘恵子はもう、別人だった。皺を顔中に寄せ、頭は真っ白く白髪で染まっていた。その夢に恐怖を覚えていた。<いつか来る>そんな気がしていた。


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