第二部 中章
ここから物語は加速していきます。時間も忘れるぐらい、楽しく出来上がってますので、是非楽しんで読んでください
汽笛が鳴る。黒い煙が峠を突き抜けた。次第に黒い煙に薄く白い霧が混じってきた。私は汽車に乗って神霧村に向かっていた。もう、三十年は帰っていない。何故そんなに立ったのか自分でも分からず、これが早いのか遅いのかも分からない。
山は、静かに流れているようだった。汽車は山の狭間を走った。私は窓の外を見ていた。山の狭間を走り、トンネルを走り、また山の狭間を走る。変わらぬ風景だ。乗客車両にはたくさんの人が乗っていて賑わっている。子供達は走り回り、読書する者、重たい荷物を背負う者、話に夢中になる者、様々な人が乗っていた。私は美月に会うため、神霧村に忘れた思いを取り戻すために戻ってきた。窓の外を見た。黒い煙が濛々(もうもう)と流れて、霧も濃くなっていく。先程まで無かった小さな白い粒が舞い降りた。なんと言えばいいのか、その白い粒が、私の胸には突き刺さる。あの日も同じだった。私は窓の外を切ない思いをして見ていた。
汽車は止まった。扉は開く。私は汽車を降りて、駅のホームに足を踏んだ。私はジーンズに皮のジャンパーだ。見上げると、神霧村駅と書かれた看板がある。顔が綻み、また歩き出した。
改札を通る。すると、皺を寄せた男が立っていた。
「橘か。橘愁か」
「久しぶりです」
高山春彦だった。二人は抱き合う。
「十年か・・・」
「はい」
「早かったなぁ」
「ええ」
「おまえ、いくつになったんだ?」
「六十になりました」
「六十か!俺は、七十だ。お互い年取ったな」
「ええ・・・」
二人は歩き始めた。
「あの〜」
その時、二人の背後から声がした。二人は振り向いた。
「あの〜、橘、橘愁さんですか?」
三十半ばぐらいの女だった。
「ええ・・・」
「やっぱり。何て今日は運がいいのかしら。私、先生の小説のファンなんです」
「ああ、どうも」
私は思わず素っ気無い返事をしてしまった。
「すみません、握手してもらえますか?」
「ああ、いいですよ」
私はにこやかに笑い、答えた。
「あの〜一つ聞いてもいいですか?」
女は聞きづらそうな顔で言った。
「ええ」
私は少し女の表情が気になったが、返事をした。
「何で、十年前に引退したんですか?」
私は少し顔を強張り、女は私の顔を見て、すぐさま自分の言葉を訂正した。
「ごめんなさい、初めての人にこんな事聞いて。私、興奮してるんだわ」
「何であなたは、私の顔を知っているのですか?」
私は聞き返した。。
「随分前に、雑誌に載っている先生を見たんです。その時より大分皺が寄ってるけど間違いないなって思って、声かけました。でもよかった〜、声かけて。やっぱり今日は運がいいわ。最高な日です」
「それはよかった」
「私の、最高のクリスマスプレゼントです。ありがとうございます。長々と私ばかりしゃべって・・・それでは、よいクリスマスを」
女は笑顔で言うと、歩いていった。私と高山さんも歩くことにした。
「そうか、今日はクリスマスイブか」
「ええ」
「村が賑わってるわけだ」
雪は散っていた。霧も薄く流れていた。
「サングラス、かけていいですか?」
私は言った。
「ああ」
「雪が眩しくて・・・」
私は皮のジャンパーの内ポケットから、サングラスを出してかけた。
「十年前、お前は何で突然引退した?」
高山さんは尋ねたが、私は答えることが出来なかった。
「また黙るのか。おまえはいつもそうだ」
何も答えられない。だが私は沈黙を破ぶり、口を開いた。
「私が・・・美月を殺しました」
高山さんは、驚いて私を見た。
「美月を、殺しました」
私は言った。
「違う!彼女は自殺だ。おまえは何もしていない。何も悪くないんだ」
「でも、美月を追い込んだのは私です。私が殺したのも同然だ」
「そんなに自分を、追い込むな!」
「じゃあ、何故美月は死んだんですか?」
私も、高山さんも黙った。村の風景は見違えるほど変わっていた。田園という田園はもうなく、住宅や、いろんなお店が建ち並び、なかにはビルも建っていた。昔のような静けさはなく、賑やかな村となった。今日はクリスマスというイベントで、村は様々な飾り物や、サンタクロースの服装をした人が出歩き、賑わっていた。ただ、ゆったりとした薄い霧だけは変わらず流れていた。
暫く歩くと私の家があった。周りは変わっても、この家だけは三十年前と同じだ。私は三十年この村に帰っていない。家を見上げた。そして私はゆっくりと玄関へ近づき、扉を開ける。湿った臭い。埃は舞う。暗く、とても静かだった。
「ここが、お前の家か?」
私の後ろに立ち、高山さんは言う。
「ええ・・・」
私は辺りを見渡した。何も変わりはない。テーブルの位置も、タンスの位置も変わりはなかった。私はその暗く、埃がかった部屋を見渡していると、目の前に、あの頃の記憶が蘇ってくる。埃もなく、部屋も明るかったあの頃。私はテーブルに座って読書をしている。
「シュウ!」
声が聞こえたが、幼い愁は読書に夢中になっている。
「シュウ!」
台所から声が聞こえ、顔を上げた。
「何?」
答えると、台所から声が聞こえてくる。
「テーブルの上、片して!」
だが台所からの声は、油が跳ねる音で消えていった。
「え?」
大きな声で聞き返した。
「もうそろそろ料理が出来るから、テーブルの上を片して!」
恵子はフライパンの上の物を炒めながら、大声で愁に叫んだ。
「たちばな!」
恵子の顔は、凛々しかった。
「橘!」
声が聞こえる。私は気づくと暗く、埃がかった部屋の真ん中で顔を上げて、テーブルをジッと見ていた。
「どうした?」
後ろから高山さんが近づいてきた。
「いえ・・・何でもありません」
私はそう言うとゆっくりと歩み、窓の外の景色に気づいて近づいた。そこから見えたのは薔薇山だ。あの湖のある薔薇山だ。
「高山さん・・・」
「なんだ?」
「ちょっと行きたいところがあるので、付き合ってくれませんか?」
「ああ・・・」
高山さんが返事をすると、家を出た。
家の横に薔薇畑はあった。色鮮やかに咲いていた薔薇はもう無く、ただ枯れ果てた花壇だけが残っていた。私はその道を通った。すると、目の前に聳え立つ山がある。父と私が名を付けた、薔薇山だった。山は微かに雪で染まっていた。私と高山さんは、山に入った。
山を深く行くと、霧も深まった。私は止まった。見上げると、枝に赤い糸がついている。父が付けた赤いリボンだ。もう何十年もたって、リボンという名も呼べないほどになっていた。
「ここから、入るんです」
高山さんに言った。
「何処へ行く」
「湖です」
「湖?何もないじゃないか」
「いえ、見えないだけです」
私はそう言うと、草むらに入っていった。高山さんも疑問を持ちながら入った。私は草を掻き分け掻き分けて、湖にたどり着いた。高山さんは戸惑いながら背の高い草を掻き分けて湖に向かった。
私は湖に辿り着き、驚きに満ちた。‶ガサガサ″と草を掻き分ける音がする。私が後ろを振り向くと高山さんが辿り着いた。
「こんな所に湖があるんだ・・・」
高山さんはそう言うと、湖に近づいていったが、もう湖とは呼べない。私が知っている湖ではなかった。確かに霧はあった。緩やかに濃い霧が流れていた。雪も降っていない。花も咲いていない。大きな樹木も枯れ果てていた。何かの残骸のように辺りは暗く、枯れ果てていた。湖も青くはない。暗く、汚れ、辺りの枯れ葉や枝が浮かんでいた。私も湖に近づき、高山さんの隣にしゃがんだ。
「ここに昔、妖精がいたんですよ」
私は言った。
「ようせい?」
高山さんは、私を見た。
「ええ、妖精です」
「そんな物が見えるのか?」
「ここは美しかった。様々な色彩を持つ花が咲き、緑はあった。湖も青い光を放っていたんです・・・私には、妖精が見えた。いえ、誰もが見えたんだ。でも皆忘れる。それを覚えている人間だっている。私みたいに・・・」
私は枯れた湖を見ている。すると私の目に写り変化していく。枯れた湖に青い光が放ち、枯れた花は色鮮やかに咲き乱れ、樹木は青々と葉を付けて、草も青く茂った。雲は晴れやかになり、太陽の光が湖に向かって降り立った。
私が足元を見ると妖精が現れて、ズボンの裾を引っ張って湖の奥へ指を指していた。私はにこやかに妖精に笑いかけると、指さしている方向を見た。霧は深く、よく見えなかったが、奥に影が見えた。私はさらによく見た。すると霧は左右に引いていき、その物の影が見えてきた。私は目を疑った。それは、私の、私自身の姿だった。笑って、私を見ていた。私も覚悟は決めていた。笑って、その姿に頷いた。
「橘・・・」
高山さんの声が聞こえた。
「どうした」
私が気づくと、色鮮やかに染まった湖はなく、枯れ果てた湖があった。
「どうした?」
高山さんが聞いてきた。
「いえ・・・」
「何か変だぞ。昔のことか?」
「いえ・・・」
「じゃあ何だ」
「何でもありません」
私は暫く黙って、高山さんの顔を見上げて口を開けた。
「高山さんは今、毎日どうお過ごしですか?」
「何もだ。十年前に退職して、おまえも引退した。それからおまえは俺に美月ちゃんの墓を探してくれと依頼して、もう十年だ。だが、何故十年前おまえは引退した。何故二十年立って突然美月ちゃんの墓を探し出す?」
「墓は、何処にありましたか?」
「ハワイだ。母親の隣にあった」
「やはりあそこですか。私も一番にあそこに行った。だけど無かったんです。きっと、奴が隠した。ずっと墓を探してた。美月の墓を・・・」
私は暫く言葉が出なかった。自分の思いが高ぶって、その後の言葉を出すのに精一杯だった。だが、私は高山さんに自分の思いを伝えたかった。それはいつも高山さんは、私を優しく見ていてくれたからだ。高山さんを尊敬し、感謝し続けたんだ。今もそう、私の言葉をジッと、待っていてくれている。
「私は、高山さん以外に仕事をする気はなかった。様々な物語を作って、数々の賞も貰って、引退した。だけど私の中の物語で、たった一つだけ結末のない物語がある。その結末を見つけるため、ずっと探してた」
「じゃあ十年前からずっと、その物語を作っていたのか?」
「ええ・・・」
「その結末は、いつ見つかるんだ?」
「さあ、でも、そんな先の話ではありません」
「そうか」
「ええ」
「じゃあ、完成したら一番に見せてくれ」
「もちろんです。一番にお見せします」
「分かった。楽しみだ。俺は、おまえの物語を読むのが一番楽しみなんだ。それは年取っても変わらん」
「有り難うございます」
高山さんは、本当に嬉しそうだった。私は高山さんみたいに笑えず、ずっと湖を見ていた。
「松永・・・松永健太郎は元気ですか?」
私は言った。
「相変わらずだ。おまえ、彼奴と仲良かったろ」
「ええ、親友でした」
「もう何年会ってない?」
「三十年です」
「三十年?何故会わないんだ」
「彼は、私を覚えていない」
「それはないだろう」
「いえ、きっと覚えていない」
「寂しがってるぞ。会ってやれ」
「はい、分かりました」
私は立ち上がり、突然歩き出した。
「おい!何処へ行く」
高山さんの声を後に、私は霧の中に消えていった。
雪は降っていた。村は白く染まり始めていた。あの日と同じだった。私は山を下り、枯れ果てた薔薇畑を通り、美月の家に向かった。この村も変わった。私の家の隣にも家が出来、またその隣にも家はある。私の家から、美月の家が見えなかった。歩くたび歩くたび、人も車も通り過ぎる。今日はクリスマスイブだ。子供達は走り回り、大きいクリスマスツリーを飾る家もある。そして、家と家の間に空き地があった。ここは昔、美月の家だった。空き地には『立入禁止』と書かれた古ぼけた看板にロープが張られていたが、私はそのロープを潜り、中へと入った。それは昔と変わらない。焼き焦げて湿った木々や、ガラスの破片、焼き焦げた布団、綿の出ている熊のぬいぐるみ、何も変わってない、何故だ!その熊のぬいぐるみを手に取ると、私のサングラスの向こうにある目は、あの時の情景を写した。炎が、炎が渦巻く。家を取り囲み、ガラスは割れ、「キャー!」と女の叫ぶ声が聞こえ、「みつき〜!」炎の中から、そう叫ぶ男の声が私の耳に轟かした。「やっぱりここか」その声に私は振り向いた。そこには高山さんがいる。また、私は熊のぬいぐるみを見つめた。
「何故、この土地がこのままに?あの時と同じく、破片や物が置いてある。いったい誰が、何のために?」
「俺がこの土地を維持した」
私は驚き高山さんを見た。
「俺はおまえが好きだ。美月ちゃんも愛していた。おまえ達のためなら、何をしてもいい。俺はいつかお前がここに戻り、美月ちゃんの残した物を手に取ることを願って、あの時のまま、ここを維持した」
高山さんの思いに胸を押さえつけられながら私は黙り、その放置している物を一つ一つ見ると、ある物のところで目が留まった。それは、土に半分埋まっていた。錆びきっていて、火に炙られて黒こげになっていた。あの、銀の、まあるい缶だった。私は近づき、その缶を手に取った。そして錆びきって開きずらくなった缶を、音を立てながら回して開けた。そして中身を見たが、その缶の中身はサラサラの土だった。私はその土を手にとって、地面に落とした。
「なんだ?土か」
高山さんが言った。
「妖精がいたんです」
「妖精?」
「ええ、でも土に帰ってしまいました」
あの時、確かに妖精を捕まえたんだ。湖で、美月にプレゼントした。美月は大事にその缶を持っていた。奴が、その缶を奪って捨てようとしたとき、美月は一生懸命逃げた。逃げて、逃げて、奴に見つからない床底に隠れたんだ。床底から見える奴の足は美月に迫り括った。どんな気持ちだったろうか。美月はその恐怖に脅えながら、小さい体を渦くめて、土を掘って缶を埋めた。見つからないように、大事に────大事に────
「橘行くぞ」
高山さんは声を張り上げた。辺りは暗くなり始めていた。廊下や、部屋も暗く、電気はは点いていなかった。私は私の家の洗面台にいた。鏡を見ると、白く凍った無精髭が汚らしく生えていた。鏡の扉を開け、中から古くなったシェービングフォームを取り出した。まだ使えるだろうか。シェービングフォームを良く振り、吹き出し口のスイッチを押した。するとジュルジュルと白い水が出たが、更にスイッチを押し続けると微かに泡のような塊が吹き出た。その泡を掌にのせて、顔のほっぺや顎になだらかに塗った。また、鏡の扉を開け、洗面台にある引き出しを開けたが、剃刀はなかった。私は台所や居間にもいきそこらの引き出しを開けたが無かった。そして二階に足を運び、私の部屋に向かった。そして扉を開け、部屋に入った。そこも何も変わっていない、昔のままだ。タンスの引き出しを開けた。そのタンスの一番上の小さな引き出しを開けると、そこに刃渡りが十センチほどのナイフがあった。そのナイフを手に持って、タンスの上に立てられてる鏡を自分の顔に向けて髭をそり始めた。
階段を上る音がしてきた。その音は部屋に近づいてきた。
「何してる?」
高山さんが扉に寄りかかって立っていた。
「美月に会うのに、綺麗にしたくて」
「そうか・・・電気を付けないと暗いぞ」
高山さんは電気のスイッチを入れると、部屋は明るくなった。
「チケットは取ったのか?」
「いえ、まだ・・・」
「ちょうど良かった。これは、俺のクリスマスプレゼントだ」
高山さんは、封筒を差し出した。私は髭を剃るのを止め、その封筒を受け取って中を開けた。
「これは・・・」
それは、ハワイ行きのチケットが一枚入っていた。
「今の時期、チケットは取れない。知り合いに頼んで取ったんだ」
「ありがとうございます」
高山さんはにこやかに笑った。
「髭をそり終わったら、そろそろ行くぞ」
「ええ」
「俺は下で待っている」
そう言うと、部屋を後にして階段を降りていった。私は鏡に向かい、ジッと自分を見た。そしてジーンズのポケットを探り、一枚の紙切れを出す。それは、ハワイ行きのチケット。私はそのチケットをジッと眺め、クチャクチャに丸めてゴミ箱に捨てた。そしてまた鏡に向き、髭を剃り始めた。
私は髭をそり終わると、タンスに入っている服で顔を拭き、ナイフを拭いた。そして、そのナイフを革のジャンパーの内ポケットに仕舞って部屋を出た。
二人は家の扉を開けて外に出た。辺りはもう暗かった。村は白く染まっていた。二人は駅への道を真っ直ぐ歩いていた。何も話さず、私は流れるように歩いた。
駅の前に着いて、二人は止まった。
「俺はここで・・・もう少しおまえの村を見たい」
高山さんは言った。
「そうですか、では、ここで。色々、有り難うございました」
「ああ、気をつけろよ。また、連絡する」
私は深くお辞儀をすると、改札に向かって歩き出した。高山さんは、ずっと私の後ろ姿を見送った。私が改札を入ると、駅に背を向けて歩き出した。
暫く歩くと、高山さんは止まって駅に振り向いた。私の後ろ姿。振り返らずに改札を通った姿が気になって振り返ったが、もう私の姿も見えず、また駅に背を向けて歩いていった。
高山は暗く湿るような廊下を、音を響かせながら歩いていた。そして一つの部屋の前で止まった。高山が上を見上げると『集中治療室』と書かれている。その扉を開けた。部屋の中は、青がかった光が充満している。ベッドがあった。何やら音が響き渡っている。高山はベッドの横の心拍モニターを見ると波形がなく、警告音が鳴り響いていた。急いでベッドに近づいて、布団を捲くし上げた。すると震え、後退りをして急いでその部屋を出ていった。
ゆっくりゆっくり時は過ぎていった。その姿に誰も気づいていなかった。心拍モニターの波形は消え、警告音が鳴り響く。ベッドには『松永健太郎様』と書かれていた。布団は捲くし上げられ、酸素吸入マスクは外されて、そこに、男が上目遣いで口を開けて死んでいた。
まだ、心拍モニターの警告音は鳴り響いていた。