第九章〜第十六章
第九章
「ようこそ!古希邸へ。これから倉岡美月ちゃんの、歓迎会を開きたいと思います。司会はわたくし、古希、ガン太が務めさせて頂きます」ガン太が一人立ち上がっていて、慣れた感じに軽快な口調で話していた。そこに愁と美月、竹中、芳井、唯、恵子に愁の愛犬リュウがいた。「お〜い静江!まだか〜もう始まってるぞ!」とガン太が大声で叫ぶと「ちょっと待って!すぐ行くよ!」と静江の、叫び声が返ってきた。その声の直後に部屋の扉が開き、静江が顔を出した。「お待たせいたしました」上品に、お淑やかな口調だった。静江はお盆に、みんなの飲み物を乗せて入ってきた。浴衣姿だ。「ウォー」みんな、静江の浴衣姿に歓声をあげた。「静江ちゃん、きれ〜」まず、褒めたのは恵子だった。「ありがとう。私が作ったのよ。明日、神社でお祭りがあるでしょ、それに着ていく浴衣。明日着る前にちょっとみんなの前で、お披露目しようかと思って」静江は上機嫌に言うと「うん、とても綺麗」唯が言い、更に喜び笑った。「バカお前、今日は誰が主役だと思ってるんだ!」ガン太が呆れて言い「ごめんなさ〜い。さ、続けて続けて」静江はみんなに飲み物を配って、席についた。「さぁ、気を取り直して、いきますよ。まず美月ちゃん、一言!」ガン太は言った。美月は少し戸惑った。少し恥ずかしかった。こんな事は、初めてだ。こんなに人に歓迎してもらうのは初めてで、ちょっと照れ臭くて立ち上がれないでいた。その姿を見て、愁は美月をつついて後押しし、美月は戸惑いながらも、立ち上がった。「あ、あの〜」言葉が詰まった。「美月ちゃん、頑張って!」恵子は応援した。美月は顔を引きつりながら笑い、愁を見ると、愁はジッと美月を見、頷いた。そして美月はそっと胸に手をあてて、気持ちを落ち着かせて静かに話し始めた。「あの〜倉岡、美月です。あの、こ、こんなに、いっぱいの、人の前で、話すの初めてで……あ、あの〜」美月の言葉に、先はなかった。そのとき「美月ちゃん、お座り!」静江は叫び、美月は訳分からず、その声に驚いて咄嗟にその場に座った。「おいお前、まだ自己紹介終わってないじゃないか!」ガン太が言った。「美月ちゃんが、可哀想じゃないかい!あんなに緊張して!」静江はガン太を怒鳴りあげた。「じゃ、じゃあ、みんなが美月ちゃんに、質問していきましょ。ねっ」ガン太と静江の喧嘩はいつもだ。その喧嘩が始まるのを阻止しようと、恵子は解決策を言った。
「その前に、みんなの紹介が先ね」
また静江が間を割って入り、続けて言った。
「まず、美月ちゃんの隣りに座ってるのが、芳井君ね。ヨッシー」
「宜しくね、美月ちゃん」
芳井は笑顔で言い、美月も笑って会釈すると
「ちょっと太ってるけど、人はいいから」
静江が付け足した。
「静江ちゃん、『太ってる』は余計だよ」
芳井が言った。
「……で、その隣はたけちゃん。竹中君よ」
「宜しく」
表情もなく、一言竹中は言った。
「無口なの。と言うか、照れ屋ね」
竹中を庇うように、静江は付け加えた。すると
「照れるとすぐに、タバコを口に銜えるの」
竹中はタバコを口に銜えていた。その光景に、美月は思わず吹き出し笑い
「……ね」
静江も竹中に笑顔で言うと、竹中は思わず、口に銜えたタバコをまたケースに戻した。
「で、次は……愁ちゃん。愁ちゃんは知ってるわよね」
美月は大きく頷いた。すると愁は、リュウの首を掴んで
「此奴はリュウ。僕の友達だよ」
言うと、愁はリュウの頭に手をやり、‶ペコリ″と頷かせた。
「愁ちゃんの隣りにいるのが、恵子ちゃん。愁ちゃんのお母さんよ。私のお友達」
恵子はにこやかに笑い
「宜しくね、美月ちゃん」
言った。
「そして、下手な司会をしてたのが、私の夫でガン太よ」
「下手はないだろ」
ガン太が言った。
「そして、ギャンブルばかりしている、駄目な夫なの」
「俺の事はいいんだよ!」
静江に対し、珍しく怒り口調で言うと、美月を見て急に笑顔を振りまき
「美月ちゃん、宜しく。俺とヨッシーとたけちゃんは、小学校からの同級生なんだ。ま、それだけ信頼もあるってことだ。何でも相談しろよ。協力するぞ。もう、美月ちゃんは俺達の仲間なんだから」
気を大きくして言った。
「そして私が静江よ。古希静江。何でも聞いてね。この村では、気のいいお姉さんで通ってるのよ」
静江はそう言うと、みんなの顔を見
「さ、一通り、紹介は終わったわね」
言ったとき、部屋の端に座っている唯に気づいた。
「あ、ごめん。まだ唯ちゃんがいたわ」
「ちょっと、静江さん酷いよ」
膨れていた。
「ごめ〜ん。はい、唯ちゃんどうぞ」
「美月ちゃん、こんばんは。浅倉唯と言います。みんなよりちょっと年下だけど、一番しっかりしてると思うから何でも聞いて。料理とか得意だし、何か好きな物があれば、作ってあげる」
唯は、満足そうに言った。
「有り難うございます」
美月は言った。すると
「こいつ、こう見えても男だからね」
「ちょ、ちょっとガンちゃん!」
「ある物あるから」
芳井が言った。
「ちょっと!」
ガン太と芳井が間に入って、唯はふて腐れた。そこに
「しかも、デカイんだよ」
「愁!」
愁まで割り込んだ。その言葉で
「えっ?」
静江は反応して、思わず唯の股間を見た。
「ちょ、ちょっと静江さん、何見てるの!それに何で愁が知ってるんだよ」
唯は、反射的に股間を押さえて言った。
「こないだ、一緒にお風呂に入ったとき、見ちゃった」
「……タクッ」
静江は顔を上げ、チラッとガン太の顔を見た。
「因みに私の夫のは、小さいです」
平然とした顔で言った。
「おい!俺は関係ないだろ!」
そのみんなの姿に、美月は楽しそうに思わず、吹き出し笑った。
「美月ちゃん、楽しそうね」
恵子が愁の耳元で囁くと、愁はそんな美月の姿を見て頷いた。竹中は、みんなの会話をただ黙って聞きながら、タバコを吹かしていた。
「じゃあみんな、美月ちゃんに質問よ」
静江が言った。
「美月ちゃんは、何て言う村から来たの?」
まず質問したのは、芳井だった。
「はい、この村から二つ山を越した、美天村という村から来ました」
答えた。
「あら美天村って、亨ちゃんがいた村じゃないのかい?」
静江が言った。
「そうだっけ」
ガン太が言うと
「ねえ、そうよね。恵子ちゃん」
ガン太を気に止めずに、続けて静江は言った。
「え?あ、うん」
恵子はあまり気の這った、返事ではなかった。
「静江さん!恵子さんに失礼ですよ」
唯が叫び言った。
「唯ちゃん、別にいいのよ」
恵子はそう言うと、少し黙り考えた。そしてまた口開き、美月に聞いた。
「ねえ、美月ちゃん。橘亨っていう人知らないかしら。美月ちゃんの村で前、事故に遭って亡くなったの」
美月は少し考えて、顔を傾げた。恵子は美月を見、美月に変なことを聞いてしまった自分を振り返った。
「あ、ああ、いいの。いいのよ。ごめんなさい。知らなくていいのよ。変なこと聞いちゃって、ごめんね。今日は美月ちゃんの歓迎会だもんね。美月ちゃんは、好きな食べ物は何?」
恵子は信じられなかった。もう亨の死から三ヶ月近く過ぎていたが、その死が未だ事故死だということに、頭で整理出来なかった。
「おまたせ〜」
唯が台所から、食事を持ってきた。
「お台所を勝手にかりました〜はい、ピラフ」
そう言い、それぞれの席に置き始めると、
「お前は、ピラフしか出来ないのか」
芳井が言った。
「だって、得意なんだもん。はい、ヨッシー。大盛りにしといたから」
唯が言った。
「お、今日は優しいね」
「いつもでしょ。はい、愁」
唯は愁の前にも置いた。
「唯兄ちゃんのピラフ、美味しいんだよ」
愁は美月に言い、ピラフは美月の前にも置かれた。
「ほんと?」
美月は一口食べた。
「美味しい」
最高の笑顔を見せた。
「よかった〜美月ちゃんの口にあって」
唯はみんなに配り終え、席についた。
「美月ちゃんは、お父さんと二人暮らしなの?」
竹中が聞いた。
「はい」
美月は答えた。
「あら、お母さんは、どうしたんだい?」
静江がピラフを口に含ませながら聞くと、芳井は慌て
「ちょ、ちょっと静江さん!」
唯が叫んだが
「ママは……いや、母は亡くなりました」
美月は冷静に答えた。その美月の冷静さに芳井と唯は少し驚きもしたが、安心感も取り戻した。
「あら、ごめんなさい。で、いつお亡くなりになったの?」
静江は聞いた。
「はい、三ヶ月ぐらい前に、事故で……」
「お気の毒に……」
静江が言うと
「お父さんのお仕事は?」
恵子が聞いた。
「私もよく分からないんですけど、父はいつも『みんなが幸せに慣れる仕事だ』『村を良くするための仕事だ』って、言ってます」
恵子は少し考え込んだ。その様子を竹中が気づき
「恵子ちゃん、どうした?」
聞いた。
「ん?いえ……別に……」
ハッキリとした答えは、返ってこなかった。恵子は黙り込み、その後の言葉もなかった。その様子を、竹中だけが見ていた。
「そうだ!美月ちゃんも、明日のお祭りに来なさいよ。愁ちゃんと一緒に来るといいわ」
静江は突然叫び、愁も大きく頷いた。
「あ、あの〜でも……」
美月は急に元気なく、俯いた。
「どうしたの?」
静江が聞いた。
「服が……」
「服?あら、何でもいいのよ」
言いながら美月を見ると、シワクチャの白いTシャツに白いスカートはいていた。今にも擦り切れそうで、汚れがかなりこびりついたような古びた服装だ。
「分かった!お姉さんが今夜作ってあげる!」
「あ、でも、一日じゃ……」
美月は戸惑った。
「いや、作るわ」
そう言うと、静江は立ち上がり
「じゃあ、早速作るわ!」
そう叫びながら張り切って、部屋を出ていった。
「何だ、彼奴は」
ガン太が言った。
「静江さんらしいね」
唯が笑いながら言うと、みんな笑いながら頷いた。その後も、みんなで美月を囲って、楽しい会話と笑い声が夜遅くまで続いた。
第十章
「キャッ!」美月は思わず、声を出してしまった。「なに?」愁は壁に寄りかかって言った。「虫!虫!」美月は這うように、後退りした。「シー、声、大きいよ。分かっちゃう」中腰になり、愁は窓の外から部屋の中を覗いた。「何が起こるの?」美月は聞いた。「シッ!きっと、面白いことが起こるよ」部屋の中は静まり返り、何か起こる気配さえ伺えなかった。
「ちょっと、まだ早かったか……」
「何?何が起こるの?」
「いいから、お楽しみ!ちょっと待とう。ここで、お話しよ」
いい天気だった。この家も日当たりはいい。愁と美月は壁に寄りかかって座った。最高の朝日が、まるで二人を包むようだ。雲ひとつない青空が広がっている。
「今日、お祭りだね」
愁が言った。
「うん」
美月は頷いた。
「薔薇山の頂上の神社でやるんだよ。屋台がいっぱいあるんだ。綿菓子だってあるんだよ。綿菓子、食べたことある?」
美月は顔を横に振った。
「ないの?」
美月は大きく頷いた。
「もの凄く美味しいんだよ。綿みたいに‶ふぁふぁ″してるんだ」
「私、お祭りって初めてなの」
「初めて!」
愁は驚き叫んだが
「……僕もまだ二回目。去年行っただけ」
美月は笑った。
「神社に屋台が並ぶの。あんず飴、お面、かき氷、カラメル、綿菓子……でも、綿菓子しか食べたことがないんだ」
愁は自分の発言に、思わず吹き出してしまった。美月も愁につられて笑った。
「何か、可笑しい」
愁は言った。
「うん」
美月は笑顔で頷いた。
「なんか美月のこと好きになっちゃった。美月は、僕のこと好き?」
美月は頷いた。
「じゃあキスしようか」
美月は愁のその発言に驚き、肩を窄めて恥ずかしく俯いた。
「好きだったら、キスするの当たり前だろ」
愁は得意げに言った。美月が小さく頷くと、愁はそっと美月の顔に近付き、静かに軽くキスをした。日の光は煌めきを放ちながら、その二人をあてていた。
「あんたー!」怒鳴り声と共に、窓からお皿、コップ、花瓶などが飛んできた。次から次へと、愁と美月の頭上を飛んでいった。愁は笑い、そっと窓から部屋の中を覗き「始まったよ」美月に言うと、美月も窓から部屋の中を覗いた。
それは、壮絶な戦いだった。ガン太がフライパンで防ぎ、静江がありとあらゆる部屋にある物を投げつけていた。ここは古希邸だ。愁と美月は、裏庭から忍び込んだ。
美月は驚き戸惑い、一瞬黙ったが「何?何があったの?」ガン太と静江の様子に、驚きを隠せなくて言った。「シー、しゃがんで!」二人はしゃがんだ。「昨日、ガンちゃんが、また賭けに負けたんだ」一息飲んだ。「賭け?」美月は聞いた。「くだらない賭けだよ。芳井おじさんと……」愁がそう話すと、美月は少しその話に興味をもった。「どんな賭け?」美月は興味深く聞いた。
「一ヶ月前からなんだよ。この一ヶ月で、静江おばさんが二キロ痩せるか、太るかで……」
「……で、どうなったの?」
「負けたよ。ガンちゃんが……」
「いや、そうじゃなくて」
「芳井おじさんが、二キロ太る方に賭けたんだ。ガンちゃんは、おばさんが二キロ痩せる方に賭けた。そしておばさんは、三キロ太ったんだ」
「……で、何でおばさんは分かったの?」
「分かるよ。おばさんは何でも。ガンちゃんの事は……ガンちゃんはおばさんが痩せるため、一生懸命だったんだ。食事だってガンちゃんが用意したんだよ。ガンちゃんが一生懸命になるのって、賭け事ぐらいしかないから。だからおばさんが『おかしい!』って。……でも気づいたのは、昨日の夜中だったんだよ」
「おばさんも鈍感。でもなんで昨日なの?」
「急に閃いたみたいで……」
ずっと二人の頭上に、家具や食器が飛び散っていた。愁は食器類を避けながら、そっとまた部屋の中を覗いた。
ガン太と静江は激しさを増すばかりに、いがみ合っていた。ガン太は静江に押されている。その姿を見ながら、愁はまたしゃがんだ。
「美月」そう呼ぶと、愁はまた美月に軽くキスをした。そして二人はまたそっと部屋を覗き、微笑ましく見、二人も目を見つめ合った。ガン太と静江の争いは終わらず、愁と美月の存在すら気づかず、食器や家具がきりなく窓の外へ投げ出されていた。
日は暮れていた。夕日が煌びやかに輝いている。
「愁ちゃんも美月ちゃんも、早く早く!」静江の声だった。家の玄関の戸が開けられ、カメラを持って出てきた。続いて愁と美月も出てきた。三人は浴衣姿だった。「何処がいいかしら〜」静江はキョロキョロし「あ、あそこがいいわ」静江は少し歩き、田園の中の道に入った。「早く!二人並んで!山に沈む夕日をバックに撮るわ」田園の真ん中で、村がよく見渡せる。遠く、沈んでいく夕日で、山はシルエットになっていた。二人は並んだ。静江はカメラを覗き、二人の姿に感動した。「凄く綺麗。二人とも似合うわ。私って天才かしら」愁と美月の浴衣を、一日で仕上げた。そのことに静江は、満足で上機嫌だった。「この浴衣も綺麗だわ」自分の浴衣も触ってみた。<なんて、素晴らしい日なんだろう>浴衣の完成度に、大変満足していた。朝の不機嫌さがウソのようだった。
「はい、愁ちゃんも美月ちゃんも撮るわよ」静江はシャッターを押した。愁は少し緊張気味に肩を窄め、美月は愁に寄り添って、最高の笑顔を見せて写真に写った。これが愁と美月が一緒に写った、たった一枚の写真となった。
静江が先頭に、愁と美月は後について山の斜面を歩いていた。薔薇山の頂上に上がっていくと、軽妙な音楽が聞こえてきた。
鳥居を潜ると、沢山の屋台が並んでいる。綿飴、あんず飴、お面、金魚すくい、とにかく沢山だ。屋台の裏に行くと、茣蓙を敷いて、民謡を歌っている者もいる。「すごい……」最初に言葉を放ったのは、美月だった。笑顔で驚きに満ちていた。「ね、凄いでしょ」愁は満足していた。美月の笑顔が見られることに、最高の幸せを感じた。「美月、走ろう!」愁は言い、美月の手を取って、しっかりと握り走り出した。
「ずーと、ずーと、まだまだずーと、屋台が続くんだ!」
「凄い!凄い!凄い!こんなの初めて!」
美月は、息切れしながら言った。そして美月と愁は、一番先頭の屋台まで来て止まった。すると遅れをとって、ものすごい形相で静江が走って来た。
「ちょ、ちょっと二人とも危ないから走らないで、ゆ、ゆっくりと行きなさい」
静江は息切れして言葉を吐き出すのが精一杯で中腰になって地面を向いて話した。
「はーい」
二人は元気よく返事をした。
「ほら二人とも、今日はおばさんの奢り。何でも買いなさい」
静江は五百円札を差し出し、愁はそれを受け取った。
「やった!おばさんありがとう」
愁が言った。
「ありがとうございます」
美月が言った。
「美月、綿菓子食べよう」
愁はそう言い、美月の手を思いっきり引っ張って走った。美月は愁に引っ張られながら、ふと後ろを振り向いた。<何か変だ>美月は思った。この神社には何かが足りない。
「おじさん、綿菓子二つ」
愁は綿菓子屋の前で立ち止まった。
「あいよ!」
屋台のおやじが喚いた。するとおやじは機械に粗目を入れ、割り箸を一本右手に、もう一本を左手に持ち、出て来た綿を巻き始めた。
おやじは一本でかい綿を作るともう一本作り始め、そのもう一本も完成すると
「あいよ!」
という叫びで愁に渡した。
「ワァーでっかーい。はい、美月」
愁はそう叫ぶと、右手に持って入る綿菓子を一口ガブリつき、左手に持っている綿菓子を美月に差し出した。だが美月は綿菓子に見向きもせず、自分が振り返った方向をずっと見ていた。
「どうした?」
愁は言った。
「ん?ありがとう」
美月は綿菓子を受け取った。
「何か、ここの神社おかしくない?」
「え?」
「だって……何か……こう……建物って言うか……何か……」
「お社がない?」
「そう!」
美月は叫んだ。
「この村には言い伝えがあるんだ」
二人は歩き始めた。
「言い伝え?」
「うん。神霧村っていつも霧が多いでしょ」
「うん」
二人は人の気配がない静かな神社の裏の道を歩き、その道の奥にある杉の木下で立ち止まって、綿菓子を食べながら話した。
「でも、昔は霧一つ無かったんだって。とにかく村全体が、透き通って見えるような輝いて見えるようなそんな村だったんだって。でもね、ある寒い日に、天界にいる一人の天使が息を吐くと白い煙のようなものが出て、天使はそれが面白くて何度も何度も息を吐き出したの。そしたらそれが一度浮き上がり、その後下界に沈んじゃったんだ。天使が下界を覗くとそこに村や畑が無かったんだ」
「消えちゃったの?」
美月を聞いた。
「ううん、隠れたんだ。その天使が吐いた白い物に因って。それを知った神様がものすごく怒って、天使を捕まえて罰を与えようとしたの。それで天使は逃げたんだって、白く埋まった下界に……ここなら見つからないと思ったんだ。だけど神様はすぐ見つけたの」
「どうやって?」
「どうやってだと思う?」
「分からない、どうやって?」
「天使は太陽の光を辿って逃げたの。白く埋まった村に太陽の光が降り立つと、まるで道のようにいくつもの線になって辺りを映し出すの。神様はその線を辿ると、そこに白く輝いた天使の姿があったんだ。神様は罰としてその天使にこの村の平和を見守るよう言い渡し、お社に閉じ込めたんだ。それからずっとこの村は霧に埋もれた村となった」
美月は聞き入っていた。
「でも、お社が無いんだ。昔の人はこの村のどこかに絶対お社があるって、信じてを建てなかったんだって。でもこんな小さい村、お社があったらすぐ分かるのにね」
美月は黙っていた。母親との記憶が微かに蘇った。美月の母親が雨の中、懸命に走っている姿。雨に濡れ、それはとても悲しい顔をしていた。
遠くから静江が走って来た。
「いたいた。もう、捜したわよ。そろそろ返ろうかしら」
「え〜、もお?」
愁が言った。
「ほら、恵子ちゃんも心配するわよ。美月ちゃんもお父さんが待ってるから帰りましょうね」
美月は頷き、二人は立ち上がった。
「美月、面白かった?」
愁が笑顔で聞いた。
「うん!」
美月は大きく頷いた。三人は、まだ明るく賑やかな神社を後にして、山を下って行った。
美月は、幸せにベッドで寝ていた。夢を見ていた。愁と美月が手をつなぎ、楽しく走り回っていた。あの、湖で、花や草に囲まれて、最高に幸せだった。
外は雨が降って来た。美月の家も雨の音が聞こえてくる。その雨の音に混じってミシミシと階段を上る音がする。静かに階段を上り、美月の部屋の前で立ち止まった。ドアノブを握り締め、静かに回転させた。‶カチャ″その音でドアは開いた。そこに、直也は立っている。美月は安らかに寝ていた。天井の窓に雨が降り落ちる影が美月の顔にうつり、廊下から漏れる光が美月の顔にあたった。直也は美月を見ていた。無表情に───────
雨の中、美月の母親は懸命に走っていた。
悲しい顔で───────
<次は、おまえだ>
第十一章
豪雨だった。夜の十一時を過ぎていた。美月は雨の中懸命に走っている。雨に打たれて、何かに脅えるように。愁の家へ向かっていた。昨日から雨は止むどころか、激しく降り続く。美月は何度も後ろを振り返り、愁の家へ向かった。
愁の家の明かりは消えていた。美月が愁の家の前に着くと、激しく玄関をノックした。その音は、雨の音に負けないぐらい響いた。
すると家の明かりがつき、玄関のドアがゆっくりと開かれて、ほんの少しの透き間から愁が顔を出した。愁の目には美月の顔が写った。「何だ、美月か」愁は少しホッとした。こんな時間に人が来ることはなかった。もし玄関のドアが大きく叩かれたらそれは、風の音か、動物の悪戯か、もしくは幽霊が戸を叩いたのか。愁は怖く、恐る恐る玄関のドアを開けていた。寝巻姿のままだ。「た……す……け……て……」美月は愁に助けを求めたが、雨の音で美月の声が聞こえなかった。その行動も、雨に濡れた髪から雫が落ちて顔を隠し、愁に気づかせなかった。美月だと分かると、愁は玄関のドアを全開にした。「どうしたの?こんなに濡れて。タ、タオル持ってくるね。中に入って!ちょ、ちょっと待っててね」愁は慌てた。∧どうしたんだ?∨分からなかった。何故こんな夜遅く来て、何で雨に濡れているのか。愁はそのまま振り返って、慌ててタオルを取りに行こうとした。美月は家の中に入り、すぐに力つきたように床に倒れ込み、震えた。愁は美月の姿には気が付かなかった。美月は倒れながら、遠ざかる愁の姿を見ている。「た……す……け……て……」その声が微かに聞こえ、愁は振り向くと、美月は床に倒れ込み、震え上がっている。愁は慌てて美月に近づいて、抱き抱えた。「たすけて……ど、どこかに、隠して……わ、わたしを……お、おねがい……」脅えていた。「ど、どうしたの?」抱きながら尋ねると「隠して……」美月の目は、途方もない方向を見ている。「わ、分かった」愁は訳が分からなかった。<何があったんだ……>とにかく美月を抱え込み、担いで玄関を出た。
雨に濡れた。家にいてはいけないと思った。美月を抱えて、物置小屋へ向かった。
物置小屋の扉が開かれると、暗闇の物置小屋に、光が差しこんだ。光というか雨粒の輝きが光りに感じた。小屋はほとんど暗闇と変わらない。ガラクタばかりで、亨の物しか置いていない。亨の死後、誰もこの小屋に立ち入っていなかった。
「ここに隠れて!」愁は奥にある小屋の天窓の下に美月を隠した。美月が少し俯き座ると「ちょっと暗いけど、我慢して」愁は言い、美月は顔をあげた。小屋の扉が見える。細狭い扉だ。美月を囲う薄暗い闇から細狭い小屋の扉を見ると、それはまるで異空間の入口のように思えた。愁は扉に向かい走り、小屋を出て扉を閉めた。扉が閉まると、美月の姿も暗闇に埋まった。
愁は家に戻り、タオルで濡れた体をふいていた。「シュウ?」恵子が叫びながら二階から、寝巻姿で降りてきた。「何か騒がしいけど、何やってんの?」そう言いながら恵子が愁の姿を見ると、体が濡れていることに驚いて「あんた、この大雨に外に出たの?」と言った。「うん、ちょっと何か音がしたから……」愁は言った。「風の音よ」恵子が言うと、また二階に上がって寝ようとした。すると玄関のドアを叩く音がした。その音が聞こえ、恵子は少し振り向いたが<また風だろう……>そう思って二階に上がろうとしたが、ドンドンドン、ドンドンドンまた激しくドアを叩かれる音がして、愁は気になって出ようとした。「待って!」恵子は止めた。愁は恵子を見た。「私が、出るわ」恵子は階段を下り、愁を横切って玄関へ向かった。
玄関の前で立ち止まった。そしてそっとドアノブを握り、ゆっくり回して開けると、そこには傘をさした男が立っていた。
「夜分遅くにすみません」
男は言った。
「ああ、はい……」
湿気た返事をした。
「私、隣に越してきた倉岡直也と申します」
「あ、あー」
<この人が!>恵子は驚いて声にならなかった。倉岡直也は、爽やかな笑顔で挨拶した。
「ご挨拶をしなければいけないと思いながらも、部屋の片付けや仕事が忙しくてなかなか挨拶にも伺えず、大変失礼致しました」
「あ、全然気にしなくてもいいんですよ。それよりうちの息子がいつもお宅のお嬢さん、美月ちゃんにお世話になってるみたいで……」
その言葉に、倉岡直也の顔が鋭くなったように思えた。
「ああそうでしたか。御迷惑お掛けしてませんか?」
だがすぐに爽やかな笑顔で恵子に接し、恵子もその鋭さに気づいていなかった。
「大丈夫ですよ。とてもいいお嬢さんで……」
「そうですか。有り難うございます。ところで、うちの美月はお伺いしてませんか?」
愁はドキッとした。
「いえ、うちには来ていませんが……」
恵子は振り向き、愁を見た。
「愁、何か知ってる?」
その言葉に、愁の体が硬直したように感じ
「ううん、知らないよ」
平静を装って答えたが、直也は鋭い眼差で見ていた。
「ああ、そうですか」
すぐに笑顔に戻った。
「あの、何かありました?」
恵子が聞いた。
「いえ、たいしたことはないんですよ。些細な親子ゲンカです。美月の奴、家を飛び出してしまって」
「あら、こんな夜遅く美月ちゃん、どこ行ったのかしら心配ね。私達も何か手伝いましょうか?」
その言葉に、愁は恵子に近付き
「あ、あー、ママ、だ、大丈夫だよ。美月なら心配いらないよ。きっとどこかに隠れているんだよ」
愁は慌て誤魔化した。∧ここで、小屋を見つけられたら大変だ∨
「あら、でもこんな大雨にどこに隠れるの?」
「大丈夫ですよ。あの子濡れるの好きですから」
直也は二人の間に入るように言った。
「でも心配だわ」
「お心遣いありがとうございます。でも大丈夫です。もしかしたらもう家に戻ってるかも知れません。私ももう一回りしてから家に帰ってみます」
「あらそうですか」
「はい、夜分遅くにとんだご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
そう言い頭を下げて、直也はドアを閉めた。そしてゆっくりと顔を上げ
<どこだ!あのガキ、どこかに隠れてると言ったな>
直也は辺りを見渡し、物置小屋で目が留まった。直也はニヤッと鋭く笑い、その物置小屋にゆっくり近づいて行った。
玄関のドアが閉まると恵子は愁を見
「早く寝なさい」
言って、歩き出した。
「う、うん」
愁は心配で、ドアを見ていた。恵子は家中の電気を消し、二階に足を運んだ。愁は暗くなった部屋に佇み考え<美月が危ない!>そう直感した。
直也は傘を綴じた。小屋の前まで行くと愁の愛犬リュウが直也の存在に気づき、襲いかかるように吠え始めた。その吠え方は異常なほど、恐怖心と敵意に満ちていた。直也はリュウに近づくとジッと見て思いっきり蹴り飛ばし、リュウは泣き声とともにその場に倒れてしまった。すると直也はまたドアに近づきゆっくりと開けた。錆びれた音がした。暗闇だった小屋もドアが開かれると、徐々に光が入り込むように感じた。それでも暗闇と変わらない小屋を、道しるべを辿るように歩いて行くと遠くに動く影がある。美月だ。直也が近づく影に脅えていた。
「おいで。いい子だ。パパと一緒に帰ろう」
物陰から美月の顔が浮かび上がった。するとそっと直也は美月に手を差し伸べ、美月は立ち上がろうとしていた。
愁は飛び出した。玄関のドアを撥ね退け、雨を突っ走り、小屋の前に着いた。リュウが倒れている。<リュウ……>近づき抱きかかえた。<誰が……>リュウは寂しい目で愁を見ると、ゆっくりと蹌踉けながら立ち上がった。愁はリュウの無事を確かめると、リュウから離れてまた小屋を見た。恐る恐る雨に打たれながら、小屋に近づいていった。
ドア前に差し掛かると、息を飲み込み、ドアに手をやり、頭から滴が、その手にポタポタと落ちた。静かにドアを開けた。
錆びれた音がした。小屋の中に光が漏れたように感じた。静かだった。愁は小屋の中に入り込んだ。ゆっくりと足下を確認しながら、恐怖に脅えながら歩いて天窓の下に辿り着くと、そこにはもう美月の姿は無かった。
「美月……」
第十二章
「リュウ!」愁は名を呼びながら勝手口を出てきた。いい天気だ。手にはリュウの食事を入れ物に入れて持っていた。昨日の雨が嘘のようだ。そこに小屋がある。愁は見つめ、少し足を進めた。まだ屋根から雨滴が垂れている。<美月……>美月は大丈夫だろうか。昨日の出来事がなんであったのか、愁にはまだわからないでいた。
「リュウ」愁は振り返り、物置小屋からリュウの小屋へ向かった。「リュウ?」愁がリュウの小屋の方を見るとそこにはリュウはいなく、鎖だけが小屋から繋がって、その先に外された首輪だけが地面に置かれていた。「リュウ・・・リュウ?」辺りを見渡した。それでもリュウの姿はなく、家の周りを歩いた。「リュウ?リュウ!」何度も名を呼んだ。だがリュウは現れる気配もなかった。
愁は一度家の中に入り、恵子に聞くことにし、勝手口の扉を開けた。「ママ、ママ!」叫んだ。「なに?」恵子の声が奥の方から聞こえた。「リュウがいない!」愁がそう言うと、恵子は奥から勝手口に向かってきた。「あら、何処行ったのかしら。その辺でまたチョロチョロしてるんじゃないかしら。よく探しなさい」そんなに慌てることはなかった。何故ならリュウはよく鎖を外して自由だと言うこと。辺りをよく嗅ぎ回ってもいるということだが、ただ愁が心配だったのは、家の周りに見当たらないこと。呼んでも姿を現さないこと。首輪が外されていることだった。自由でいても家から離れることはなく、呼んで姿を現さないこともなかった。「リュウ!リュウ!」その名を呼び続けた。
物置小屋のドアを開けた。中に光が射し込んだ。湿った匂いがする。ガラクタを退け、隅まで探したが、リュウの姿は無かった。愁は物置小屋を出て薔薇畑に行ってリュウを探したが、ここにも姿は見当たらなかった。そして愁は美月の家へと向かった。
ドアをノックした。すると玄関のドアが開いて美月が顔を出し「愁?どうしたの?」いつもと変わらない美月の姿があった。だが、昨日とは全く違っているようにも、愁には見えた。
「あの・・・昨日は大丈夫だった?」
美月の顔を見て、何だか不思議と安心してしまった。
「うん、何でもないの。ごめんなさい」
「ほんとに?」
美月は頷いた。
「それを心配してきてくれたの?」
「うん」
「ありがとう。昨日、私、どうかしてたの。気にしないで」
美月は笑顔で答えた。だがその笑顔がどことなく濁っていた。
「あの、あと、リュウ、見なかった?」
「リュウ?」
「うん、いないの」
「えっ?」
「一緒に探してくれる?」
美月は頷き、家を出た。
二人はリュウの名を叫びながら歩き探していた。村中を歩き、田圃のせせらかな匂いが漂った道を歩き、空き地の草を掻き分けながら探したがリュウの姿はなく、二人は薔薇山へと向かった。
「美月、リュウは何処行ったのかなぁ」
愁は不安になっていた。
「大丈夫、リュウは何処かにいるよ」
そう、美月は頑なに信じていた。
「どこ?」
「えっ?」
「昨日、僕散歩に行かなかったの。怒ってるのかなぁ」
美月は何か言おうとしたが、すぐに愁が話し始めた。
「最近、一緒に遊んでないの。きっと、寂しかったのかな」
「きっと、迷子になっちゃったんだよ」
「迷子?」
愁は美月を見た。
「うん、自分で散歩に出て、迷子になっちゃったんだよ」
「じゃあきっと、寂しがってる」
「ねぇ、湖に行かない。何か湖にいるような気がする」
「湖?そうか!湖にいるよ。リュウ、大好きだもん」
「うん、絶対いるよ!」
二人は希望を持った。笑みが零れ、手を繋いで湖の入り口まで走った。二人で枝に結んである赤いリボンを確認した。そして草むらに入っていった。道程が長く感じた。いくつもの草を掻き分けて、リュウを探しながら二人は湖に向かった。
そして、最後の草を掻き分けると、湖が現れた。その周りには霧がなだらかに流れ、視界もはっきりと定まらない。「リュウ!」愁は叫んだ。湖の、この空間に木霊した。「リュウ!」美月も叫んだ。だが木霊しただけだった。「リュウ、いないのかなぁ」愁は不安に言った。「もっともっと、湖の周り、探して見よ!」美月は愁を宥めながら言った。
二人は歩いた。この大きい湖の周りを。霧が邪魔して遠くまで見渡せず、目を真ん丸くしてリュウを探した。「リュウ、リュウ」段々不安は募り、愁の叫ぶ声も小さくなっていった。「リュウ!」それでも美月は諦めず、リュウの名を叫び続けた。「美月、諦めよ」愁は諦め、その場にしゃがんだ。「何で?きっと何処かにいるよ」美月は諦めていなかった。愁のためにもっとこの山や湖の隅から隅まで、一緒に探したかったのだ。だが愁はしゃがんだまま動きはしなかった。
「やっぱり怒ってるんだよ」
「そんなこと無いよ」
美月も愁の隣に座り言った。
「ううん、僕のこと怒ってんだ。前もあったの。リュウがいなくなったこと。パパと僕がもの凄く喧嘩したの。リュウの事だったんだけど・・・僕が、リュウの散歩をもの凄く嫌がって、そのことでパパが怒っちゃったんだ。その喧嘩をリュウ、聞いてたんだ。次の日小屋にいなかったの。リュウの事は嫌いじゃないよ。だって友達だもん。ずっと、友達だもん」
愁はとても悲しい顔をした。もう、リュウに会えないのかと思った。美月はそんな愁の姿を見て慰める言葉を考えていた。だけどどんな言葉を言っても慰めにはならないことは、美月にもよくわかっていた。
「そのとき、リュウは何処にいたの?」
美月は聞いた。
「森の隅で寂しそうに歩いてた」
「でも愁は悪くないよ。偶然よ。今回もそう、偶然よ」
「でも、何処にもいない。こんなに探したのに」
「まだ探してないとこ、いっぱいあるじゃない」
「どこ?」
「この湖だって、まだ探し切れてないんだよ」
その時、愁に近づいてきた影がある。<妖精?>一人の妖精が、愁の目の前で止まり見上げた。
「妖精だ・・・」
「妖精?」
美月は愁の足元を見た。
「ホントだ、妖精」
美月は思わず微笑んだ。
「ここにいるんだ・・・リュウ」
「えっ?」
美月は愁を見た。
「ここにいるんだ・・・リュウ、ここにいるよ!」
愁は叫び、喜び立ち上がって、辺りを見渡した。だが、霧が濃くて遠くまで見渡せなかった。
「何かいる!」
そう言葉を放ったのは美月だった。
「えっ?」
愁は美月の言った方向を見た。
「黒い影・・・今、霧の向こうで黒い影が動いたの!」
「何処!何処!何処!」
愁は興奮して辺りを見渡した。
「今、今動いた動いた!リュウ、リュウよ!」
美月も興奮して立ち上がった。
「リュウだ。美月、リュウだ!」
愁はとても興奮していた。
「愁、行こう!」
美月の言葉で二人は手を繋いで走った。<リュウがいる!>霧が二人の前を激しく流れていた。二人はとにかく無我夢中で走った。何処まで行けばいいかわからなかったが、黒い影が見えたところまで延々に走り続けた。湖は何キロも続いた。二人はとにかく走り続けたが、全然辿り着かない。愁は立ち止まった。美月は愁が突然立ち止まったので、引っ張られるように止まった。
「シュウ?」
美月が聞いた。
「やめよ。全然辿り着かないよ」
「もうすぐよ」
「もうすぐ?いつになったらもうすぐなの」
美月は黙り込んだ。
「もう、疲れたよ」
愁はその場にへばりこんだ。
「シュウ・・・」
すると、また黒い影が動いた。「シュウ」美月は静かに呼んだ。愁は美月を見ると、美月は何処か遠くを見ていた。愁も美月の目線に目を向けた。すると霧がうっすらと消えていき、そこに森林が現れた。「愁、見て」美月は目線を反らさず、森林に目を向けながら言った。二人がそこに目を向けると、何かが通った。「リュウ・・・」美月が言葉を放った。愁は一瞬美月を見て、また森林に目を向けた。
確かにリュウだった。あれは、リュウだ。だが、愁はもう立てなかった。体がクタクタなのと、リュウがいた安心感から体が動かなくなっていた。「シュウ」美月は愁の名を呼んでリュウを追いかけ走ろうとしたが、愁の手が美月を引っ張った。美月はそっと愁の手を放れ、リュウの歩いた方向に一人走って行った。愁はその姿を見てゆっくり体を起きあがらせて、美月の走っていった方向に歩いた。
美月はリュウを探すのに懸命に走った。笑みが零れた。美月が走ると猛烈に草が靡き、他に目もくれないほどリュウの方向に向かった。
そして突然、美月は止まった。思わず口を手で押さえた。顔を強ばてた。言葉など出なかった。その場に立ち往生したままだった。
愁は遅れ、ゆっくりと歩き進んだ。美月の背中が見えた。少し息切れしていたが、美月に話しながら近づいていった。「結構歩いたね。さっき、リュウを見た場所から結構あるよ。本当。ふー、良かったよ、リュウがいて・・・」美月は動かなかった。愁の言葉を聞いているのかわからないほどに止まっていた。「みつき?」愁は美月の名を呼び、美月を見ながら横に出た。だが、美月は一点を見つめ、愁に気づく様子もなかった。愁はそんな美月を不審に思い、美月の足元を見ると赤く染まった草が、先の方まで続いていた。愁はその染まった草を目で追った。
その先を見ると愁は硬直した。目を見開き、美月の足元から赤く染まった草は徐々に広がり、木にも染みつき、さらに追うと、体中の皮が剥がされ、血だるまの死体があった。「リュウ・・・」愁が言うと、咄嗟に美月は驚きの顔で愁を見た。愁に震えが起こった。息が詰まり、言葉など出なかった。その死体に近づき「リュウ・・・リュウ・・・」ただその名を呼ぶのに精一杯だった。「誰がこんな事を・・・誰がこんな事を・・・誰が・・・」愁は血だるまのリュウの死体を抱きかかえた。顔を頬摺り、そのまま抱き抱えて立ち上がり、美月に近づいた。美月はまだ動かないでいた。「美月……行こう……」愁の一声だった。美月は体が硬直したまま、愁に従って歩き出した。二人は山道を何も話さずに歩いた。もう日は沈みかけ、二人は影となり、愁はリュウを抱いてそそくさと歩き、美月は愁の後を継いで山を下っていった。
悲しみが耐えなかった。その夜、愁はリュウの小屋の横に穴を掘り、リュウを埋めた。穴の周りに恵子と愁と美月は囲み、祈った。
「何でこんな事になったのかしら・・・」
恵子は悲しみで、目に涙をためて言った。
「リュウは僕の友達だったんだ。いつも一緒だったんだ。僕はリュウに何でも話せた」
「誰がこんな事を?この村の人じゃないわ。リュウは山で迷って殺されたのよ」
恵子が言った。それを聞き、愁は冷静に答えた。
「違うよママ。リュウだと知ってて殺したんだ。昨日、リュウは鎖に繋がれてたんだよ。外せないよ。誰かが仕組んだことなんだ」
「誰?」
「それはわかんないよ」
「私、リュウの事良く知らないけど、何かとても悲しいの。どうして?」
美月が口を開いた。
「美月も僕と同じ。リュウが好きなんだ」
「私、リュウを殺した奴見つける」
「いいのよ美月ちゃん。もういいの。見つけてもリュウが殺されたという現実は変わらないんだから」
恵子は目を瞑って言葉を押さえながら答えた。恵子は決してこのままでいいとは思ってなかった。怒りと憎しみが漂っていたが、その感情を懸命に抑えていた。
「でも悔しいの・・・だって酷いよ・・・」
美月も同じだった。恵子と愁と同じぐらい苦しんだ。
「僕も犯人を捜す」
「愁、やめなさい。もう、いいのよ。もういいの。美月ちゃんも今日はもう遅いわ。帰りなさい。ありがとうね。ありがと。探してくれて、リュウもきっと喜んでるわ」
そう言うと恵子は勝手口を開け、家の中に入っていった。
「美月、送っていこうか?」
愁は優しく言った。美月は首を横に振って答えた。
「ありがとう。でも大丈夫、一人で帰れるわ」
「わかった。じゃあまたね」
愁は歩き、勝手口のドアを開けると家の中から光が漏れてきた。そこで立ち止まり、美月の方を向いた。
「今日はありがとう」
笑顔でそう言うと、家の中に入っていった。
美月は一呼吸して歩き始めた。満月の夜だった。田園は青々と実った稲がなま暖かい風とともに香った。蛙の鳴き声が妙に悲しく聞こえた。そんな明かりもない道を歩いていった。今日は星もよく見えた。
美月は家へ辿り着き、家の玄関のドアノブに手を当て、動きは止まった。しゃがんで玄関の床底を良くと見ると、所々に点々と赤く染まっていた。美月は咄嗟に立ち上がり「パパ、パパ」慌てて家の中に入った。玄関のドアを開けると明かりはついてなかった。靴を脱いで部屋の中に入ったとき、柔らかく、暖かい物が美月の足に感じた。美月は足元を見ると思わず息を引きつけ、その場を逃れた。
「いいマットだろ。丁度良いのがあったんだ」
美月は咄嗟に声のする方へ見ると、直也がソファに座ってタバコを吸っていた。ソファからはみ出した頭だけが見えた。
「パパ?」美月は精一杯声を出した。すると直也はソファから立ち上がり、美月に近づいてきた。美月は恐怖から体が硬直した。
直也は美月に近づくとしゃがみ、マットを撫で始めた。
「この手触りが良いんだ。柔らかくて優しく感じる。この足やこの顔も完璧だ」
「これ・・・どうしたの?」
声は引きつっていた。
「山で拾った・・・」
「パパが・・・殺したの?」
美月は恐怖に脅え、小声で聞いた。
「何を言ってるんだ美月。パパがそんなことをする分けないだろ。山に行ったときに、死んでたんだ。そのままにしておくのも可哀想だ。パパはこいつが何処の誰かも知らん」
「リュウなの。この犬、リュウなの」
「リュウって言うのか。初めて知ったな」
「なんで、山に行ったの?」
「パパだってたまには山に行きたくなる。あの、匂いが好きなんだ」
「パパが殺したんだ・・・パパが殺したんだ・・・パパが殺したんだ!」
美月は思わず感情的に叫んでしまった。すると、直也は立ち上がり、美月は少し後退んだ。直也は美月の体に自分を近づけた。
「美月・・・パパは殺ってないよ」
そう言うと美月の肩に手を組んだ。
「パパは、殺ってないよ」
直也は美月の耳元で、囁き歩いていった。
第十三章
田園に実る稲は黄色く染まっていた。空き地には背の高いススキが生えわたっている。
少し冷たくなった風が通り抜けた。美月は二階の窓から風に当たりながら昔の微かな記憶を思い出していた。
「ママ、ママ」美月は夕暮れ時の家の廊下を歩いている。「ママ、ママ」暫く廊下を歩き、角を曲がると一つの部屋がある。その部屋を覗いた。「ママ?」
すると鏡台に向かい座って化粧をしている倉岡シャリーがいた。
「何処行くの?」
美月が聞いた。
「ママ、出かけるわ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、すぐ帰ってくるからいい子にしててね」
「パパは?」
「パパは、今日お仕事で帰れないって」
シャリーは振り向いた。青い、目をしていた。フランス系アメリカ人で、髪の毛も金髪に透き通っていた。背も高く、足も細く、昔ファッションモデルをしていた。口元に黒子がある。それが特徴だった。
シャリーは化粧を終わるとすぐさま立ち上がり、ベッドの上に置いてあったハンドバッグを持って部屋から出ようとした。
「美月、今日は一人なの。寂しがらないで」
「寂しくなんてないわ。慣れてるもの」
「ごめんね。食事はテーブルの上に置いてあるから」
そう言うと部屋から走り去り、家を出た。美月は暫くすると階段を降り、テーブルに腰をかけた。テーブルの上に食事は乗っていた。お茶碗にご飯、器にみそ汁、お皿に鮭の塩焼き、小皿に納豆だ。シャリーはアメリカ人だが、日本料理を得意とする。いつもはキチンとした食事を作っているが、今日は夕食だというのに、まるで朝食のような食事だった。だが美月は慣れていた。たまにある。その時は必ずシャリーが出かけるときなんだ。美月はお茶碗に盛りついているご飯の上に納豆をぶち駆けると、それを美味しそうに口に含ませた。
「ただいま!」
玄関のドアが開かれた。
「パパ?」
「美月、ただいま」
直也の姿だった。
「今日、帰らないんじゃないの?」
飛び上がって直也に近づいた。
「ちょっと予定が変わってな」
「そうなんだ、ちょ、ちょっと待ってね。今食事の用意をするから」
美月は台所に向かった。
「ママはどうしたんだ?」
直也は聞いた。
「何かね、出かけるって」
台所に行く足を止め、直也に答えた。直也は疑心の顔で玄関の方向を見たが、すぐ振り返り美月に笑顔を振りまいた。
「美月、食事はいいよ」
「何で?」
美月は不思議に思って直也を見た。
「ほ〜ら」
直也は手に掲げていた箱を差し出した。
「お土産だ!」
満面の笑みだ。
「何?お寿司?」
直也の顔を見た。直也は眉を顰めかした。
「お寿司なのね!」
直也はにこやかに頷いた。
「ワーイ、パパ大好き!」
美月は思いっきり直也に抱きついた。
遠い風が美月の左右に交差した。美月はその風に当たりながら村を眺めていた。
「シュウ!」郵便局長が愁の名を呼んだ。愁は自転車の後ろに手紙が山のように入った郵便鞄を括りつけていた。「シュウ!」また局長が呼んだ。その声で愁は振り向いた。「これも頼む」そう言うと大きな鞄を一つ渡した。その鞄にも手紙は山のように入っていた。そこはざわめく郵便局。隣の村の郵便局だ。愁は渡された鞄を自転車の前に括りつけようとしていた。
「愁ちゃんも大変だ。後ろに一つ、前に一つ、二つの鞄を抱えて配達なんて、局長の人使いの荒さにも感心するよ。でも小さい体なのに良くやってくれるから助かるよ」一人の局員が言った。「そんなことないですよ。だって楽しいもん」愁は笑顔だった。「そうか。愁ちゃんがそう言うと、何かこっちも嬉しいな」その局員も笑った。「愁、行くぞ!」遠くでガン太が叫んだ。ガン太も自転車に郵便鞄を乗せ、配達の準備をしていた。「うん、今行く!」そう言うと愁は自転車を押してガン太の所まで歩いた。
ガン太の所までやってくると、二人は自転車をまたぎ、ペダルを踏み落とそうとしたとき、「ちょっと待ってくれ!」と遠くから叫び声が聞こえた。
局長が走ってきた。「愁、ちょっと待ってくれ!」愁は振り返り、ペダルから足を離し自転車から降りると、局長は息を切らしながらやってきた。
「いや〜年もとると、こんな短い距離でも息切れしてしまうな」
「局長、何のようです?」
ガン太が聞いた。
「愁に用があるんだ」
「何ですか?」
愁が聞いた。
「愁は神霧村に配達するだろ」
「はい」
「そこに、倉岡美月っていう女の子はいるか?」
「美月ですか?」
「知ってるのか!」
「はい」
局長は息を切らしながら真剣に、興奮して愁に迫りながら聞いていた。愁はその様子に少し後退った。ガン太はそんな愁を見ていた。
「この手紙を渡してくれ」
そう言って愁に手紙を渡すと、トコトコと歩き去ってしまった。愁は首を傾げ、手紙を見るとそこに宛先の住所はなく、ただ『倉岡美月宛』と書かれただけだった。
愁はその手紙を後ろの郵便鞄に入れ、自転車をまたぎ、ペダルを振り落としてガン太と一緒に走って行った。
美月は窓から村を眺めていたが、その目に村は写っていない。美月の目には悲しい過去が写っていた。
「何処へ行く」直也は振り返って言った。家は雨の音で響き渡る。シャリーが玄関から出ていこうとしたが、直也の方へ振り返って見た。それでも何も答えず、また振り返り出ていこうとしたが、そのシャリーに直也はまた言葉を放った。「あいつか・・・」シャリーは一瞬止まった。「あいつの所に行くのか」直也は笑ったように見えた。「彼奴は丘にいる。今日、会う約束をしているんだ。現場の下見でな」直也は鋭い眼差しで睨みつけた。シャリーは驚き、勢いよく玄関の扉を開けて家を出ていった。そんなシャリーを見て、直也はふと笑いかけた。
そのとき、美月が勢いよく階段を降りてきて、玄関へ向かった。直也は美月を止めようとしたが、美月は直也を振り払い、玄関に突進してドアを開け「ママ!」大声で叫んだ。外は土砂降りだった。シャリーはその声に立ち止まり、振り向いたが悲しく辛い顔でまた走り去っていった。雨が鋭くシャリーの体に叩き付けた。
美月はシャリーの後を追って走り出した。
「じゃあここで」
「うん」
ガン太と愁は自転車を止めた。ここからは分かれ道となっている。この先を行くと神霧村、ここを曲がるとまた隣の村へと繋がる。愁とガン太は薔薇山の頂上にいた。
二つの道を二人が同時に自転車を漕ぎ始め、違う方向へ走った。
愁は山道を下った。ペダルから足を離し、自転車は道行くままに流れた。風は靡き、愁は山の匂いを噛み締めていた。
倉岡シャリーは雨の中走っていた。悲しい顔で──────
雨に打たれて丘へ向かっていた。田園を走り抜け、家々の間も通り抜いた。そんなシャリーを追って美月も雨に濡れて走った。
丘に近づくとシャリーはゆっくりと歩き始め、一度立ち止まり一呼吸してにこやかな顔をしたと思うと、また歩き始めた。
美月も後れをとって追いついた。立ち止まり、遠くを見るとシャリーが丘に向かって歩いていた。その奥に、人影が見えた。微かな人影だ。美月はその人影に気を求めず、一呼吸して歩こうとしたとき、土砂は崩れ落ちた。
愁は山を下った。薔薇畑を通り、愁の家を通り過ぎると黄色く染まった稲の輝いた道を通り過ぎる。前から竹中がやってきた。
「よ!愁。配達か。がんばれよ」
「うん」
竹中はそう言うと歩き出そうとした。
「ちょっと待って!手紙、あるかも」
愁は自転車から降り、前に括りつけてある鞄を探り始めた。
「え〜と、え〜と、あ、あったあった」
愁は四通の手紙を取り出した。
「これ」
「おう!サンキュー」
そう言うと竹中は歩いていった。愁も自転車に跨り芳井の家へ向かった。
芳井の家に辿り着くと一通の手紙をポストに投函した。
「シュウ?」
庭から芳井が麦わら帽子に鎌を持って現れた。
「どうしたの?」
愁が聞いた。
「これ?この格好のことか」
愁は頷いた。
「草を取っていたんだ。庭のな。たまには庭の手入れをしないとな」
「何か、楽しそ〜」
「愁もやるか?」
「うん、やらない」
「なんだよいったい。相変わらず訳の分からない奴だな」
「だって大変そうなんだもん」
「で、手紙は何通来てるんだ?」
芳井はポストをあけた。一通の手紙が入っていた。
「なんだ、一通だけか。なんか淋しいなぁ」
「じゃあ僕いくね」
「あ、ああ」
芳井はその一通の手紙を眺めていた。そしてまた庭へ体を引っ込めた。
今度はガン太の家だ。
「おばさ〜ん」
愁は叫んだ。
「なんだい!」
静江が玄関から顔を出した。
「なんだ、愁ちゃんか」
「はい、手紙」
愁は二通の手紙を渡した。
「ありがとう。ねえ愁ちゃん、今日美月ちゃんは?」
「美月とは最近会ってないの」
「そうかい。どのぐらい?」
「う〜んとね、一週間ぐらい。リュウが亡くなってから」
「やっぱり・・・」
静江は腕を組んで考え始めた。
「どうしたの?」
「いや、何でもないのよ。でもこのごろ見ないじゃない。外にも出てないみたいだし。変な噂も聞いたし」
「噂?」
「だって変よ。あそこの家。美月ちゃんしか見ないじゃない。いつも電気は消えてるし、夜な夜な変な音が聞こえるって言うし、美月ちゃんのすすり泣く声も聞こえるらしいじゃないかい。あくまでもこれは噂だから私が聞いた訳じゃないけど・・・」
確かにその噂は嘘ではなかった。美月が神霧村に来たときも、良く雨に濡れて外に立っていた。それを静江は見ていたから、疑いはしなかった。愁は雨に打たれて立っていたことは覚えていた。だがその噂で美月のことを悪いように考えもしなかった。美月がなぜ会わないのか、静江が何を言いたいのかサッパリ分からなかった。
静江は愁が何か知っているのか少し探ってみたかっただけだった。リュウが殺されたことに関係あるのでは無いかと少し疑ってもいた。こんな事件はこの村では初めてだ。静江はサスペンスドラマの見過ぎで勝手に推理もしていた。
∧第一発見者は美月ちゃん。あの事件が起こってから美月ちゃんは一度もみんなの前に現れていないわ。きっとなんか事件に巻き込まれたのよ∨真剣に考えていた。
「じゃあおばさん、失礼します」
愁は自転車を跨ぎ、走り始めようとすると
「ちょっ、ちょっと待って!あ、あの、家でお茶でも飲まない?」
静江は慌てて愁を止めた。もっと愁を探ってみたかったのだ。
「でもおばさん、時間無いから・・・」
愁は自転車を漕ぎ始めた。
「あら、そうかい。じゃあ配達が終わったら家においで。お茶菓子用意して待ってるから」
静江は大声で叫んだ。まだ諦めきれなく、ジッと愁の背中を見ていた。愁も気にしていた。美月が事件に関わっているとは思わなかった。ただ、何故一週間会わなかったのか知りたかった。何度も美月の家を訪ねてもいつも留守だった。何故、留守なのか。今まで何処にいたのか。それも知りたい。だから愁は早く美月の家に手紙を届けに行きたかったのだ。あと唯の所にいって美月に届ければ配達は一段落する。そうすれば美月とも落ち着いて話せるだろう。今日はいるだろうか。
村役場にたどり着いた。自転車を置くと、両手いっぱいの手紙を持って入り口に入っていった。
「こんにちわ〜」
愁は入り口で立ち止まり訪ねた。すると廊下の奥から唯が歩いてきた。
「あら、シュウ」
「こんにちわ」
「はいはい、こんにちわ。今日はなに?」
唯は愁の両手に持っている手紙に目がいった。
「手紙?」
愁は頷いた。村役場にはいろんな手紙が届く。他の村や町の情報や村を開発する意見、その他いろいろだ。
唯はその手紙を受け取ると、何も言わず愁に背を向け歩いていってしまった。愁はその後ろ姿を見ると振り返り、入り口を出ていった。
愁が出ていくと、唯は振り返りその方向をジッと見た。
橘恵子は居間にあるテーブルの椅子に座っていた。テーブルに肘をつき、手を組んで考えていた。数ヶ月前のことを思い出している。
それは亨と愁が初めて湖に行った日のことだ。
「あなた、こんな朝早く愁と何処行ってたの?」
「何だ、知ってたのか」
「知ってるも何も、あんなに物音立てられたら分かるわよ」
「そうか、いや、愁とちょっと散歩したくてな」
「散歩?」
「ああ、リュウの散歩だ」
「あら珍しい。今までそんなことなかったじゃない」
「たまにはいいだろ。男同士、話もあったしな」
「あら、何の話よ」
「男同士の話だよ。女にはわからん」
‶ジュー″と油がはねる音がした。恵子は台所で朝食を作っている。亨は居間のテーブルの椅子に座って会話していた。
「愁は?」
「寝てるわ」
「そうか。食事、もう出来るか?」
「もうちょっとよ。あなた、今日は?」
「朝から村役場で会議だ。俺の計画が今動いてるんだが、ちょっと躓いていてな」
「鉄道?」
「ああ、鉄道、走らせるんだ。今の時代に交通手段が車しか無いなんて馬鹿げてる。国は何もしてくれない。俺たちで動いて、国を動かすんだ。だがちょっと問題があって、鉄道は三つ先の村まで走ってるんだが、その先に鉄道を通すのに反対する奴らがいる。美天村の奴らだ。環境破壊だなんだといってな。結局は自分たちだけなんだ。自分たちの土地を国にやりたくないだけなんだ」
「難しいわ。その問題に解決はあるのかしら」
「その村にも協力してくれる人がいたんだ。その人と一緒に頑張るしかないな」
「あら、良かったわね」
その時、車が止まる音がした。亨が振り向いた。「誰か来た」そう言うと立ち上がり玄関に向かった。
ジューという油が跳ね上がった音が大きくなり、恵子はフライパンを慣れた手つきで操って、オムレツの皮となる卵をうまく丸めた。
ダンダンダン玄関の戸がたたかれる音がした。亨は玄関に近づいた。
「亨さん、橘亨さんはいますか!」
男の声がした。
「あ、ちょっと待って、今開けるから」
「亨?亨か?」
亨は玄関に近づいて開けた。
「大変だ!」
「どうした?」
「ちょっと面倒があった。今すぐ村に来てくれ!」
「だからどうした」
「村の・・・住民が・・・あの件で、もめ始めたんだ。殆ど暴動だ。俺一人では・・・」
「わ、わかった。今すぐ行くからちょっと待ってろ」
ジューと油が跳ね上がった音が台所から聞こえてきた。恵子は二つ目のオムレツを作っていた。
亨は二階に向かったが、途中、台所に顔を出した。
「恵子、ちょっと面倒が起こった。出かける」
「えっ?」
亨はそう言うと二階に上がってバックに服やパンツなど身の回りの物を詰めた。そのものを無造作に詰め終わると、バックを持って一階に下り、そしてまた台所に顔を出した。恵子はオムレツをお皿に盛りつけていた。
「おい!もう出かけるぞ」
「えっ?」
亨はそう言うとすぐさま歩き出した。
「ちょ、ちょっと」
恵子は慌てて台所を飛び出した。
「ちょっと、何処行くの?」
「美天村だ。ちょっと面倒が起こった。暴動だ。暫く帰らんと思うが後は頼む」
「しょ、食事は?」
「いらないよ。あ、それと愁によろしくな」
そう言うと玄関の扉を開けて出ていった。恵子は亨を追いかけるように玄関の外に飛び出すと、亨と男は先に止まっているオンボロの軽トラックに向かっていた。
「雨?」
軽トラックから滴が垂れていた。
「何処かで、降ってたのかしら」
車のタイヤには泥が染みついていた。恵子はその車に少し気をかけたが、すぐに亨と男が車に近寄っていく様に目をやった。亨と男を見送った。男は亨に真剣に話していた。亨はその男の話を真剣に聞いていた。その男の顔をジッと見た。その男は、倉岡直也だった。
ガバッと目を見開き、恵子はテーブルを勢いよく立ち上がった。
軽トラックに亨と直也は乗り、キーを回し、エンジンをかけ、うねるような音を出して走り出していった。
電気もついていない暗い部屋で、その記憶は蘇った。テーブルを立ち上がった恵子は、そのまま動きはしなかった。
自転車のベルが鳴った。美月は窓から顔を出し、風に当たっていた。「美月!」遠くからそう名を呼ぶ声がした。愁が自転車を駆けてきた。「美月!」愁は叫んだ。美月が窓から顔を出しているのを見つけ喜び自転車を走らせたが、美月は愁の呼び声に驚いて思わず窓を閉め、部屋の中に顔を引っ込めてしまった。「美月・・・」家の前で自転車を止めた。<なぜ、逃げるの?>愁は悲しい思いがした。もう一度叫んだ。「美月!、美月!、何で僕と会わないの?」美月は窓辺の影に隠れて愁の様子を見ていた。「僕、何かした?」ジッと、愁の言葉を聞いていた。「今日、手紙、持ってきたよ。美月に手紙、届けたの、初めてだけど、宛名、無いんだ。倉岡美月宛・・・としか、誰からか分からないけど、美月に届いたの。ここ、玄関においとくから」一通の手紙を玄関のドアの前に置くと、自転車を押しながら歩いた。美月はその様子を部屋の影から見ていた。
美月は慌てて一階に下りた。玄関の前に辿り着くと、少し警戒し、そっとドアを開けて手紙を素早く取った。愁は自転車を押してゆっくり歩いて振り返り、美月が手紙を取る瞬間を見ていた。愁はその光景に微笑んだ。愁には美月の行動が予想できた。すぐ手紙を取りに玄関に出ることぐらい分かっていた。だからポストに入れず、また愁もその様子を見たいから、自転車を乗っていくのを止め、押して歩いた。あとは美月が愁の名を呼ぶかどうかの期待感でゆっくりと歩くだけだった。
美月が手紙の封を開けて、中から一枚の三つ折りされた紙を取り出した。そして、その紙を広げると一言だけ文が書かれていた。『逃げなさい』しっかりとした文字だった。美月はその手紙に震えと驚きを感じた。その手紙の下に名前があった。『倉岡シャリー』と。
美月は震えだした。<何でママが?私に?ママは死んだの。ママは死んだの。ママは死んだの>何度も言い聞かせると、勢いよく家を飛び出した。「シュウ!」叫んだ。「シュウ!」愁は振り向き、美月に気づくと自転車を方向転回して美月に近づいた。
「私、私、知りたいの」
「何を?」
「全て、何もかも・・・まず、この手紙のこと」
「その手紙、局長がくれたんだ」
「局長?」
「郵便局長だよ」
「じゃあ、局長に会わせて!」
「分かった。乗って!」
そう言うと自転車の後ろに括り付けられていた鞄をほどき、そこに美月が座ってその鞄を膝の上に置くと、愁は自転車を走らせた。
第十四章
人々は賑わいを見せていた。微かに神霧村よりは栄えていた。家の数は神霧村よりは多い。八百屋やお肉屋やお魚屋、少数の商店はあった。愁は自転車を止めた。そこに小さな一軒家がある。いや、一軒家風の郵便局だった。そこに人々は出入りした。
「着いたよ」愁は自転車を降りた。続いて美月も降りた。二人は郵便局の入り口に入っていった。
中にはいると人々は郵便物を出す為、窓口に殺到して並んでいた。愁は片手に郵便鞄、美月も片手に郵便鞄を持ち、並ぶお客を押しのけて窓口へ向かった。
「な、何なのこの子」
「ちょっと並びなさいよ」
「僕、ちゃんと順番にね」
様々な声が飛び交った。それでも愁は美月の手を引っ張って窓口に向かった。客を押しのけて一番前に立つと、愁は窓口の女の局員に言った。「ねぇ、局長は?」局員は愁の行動に驚き怒った口調で言った。「ちょっと愁、お客さんに迷惑じゃない」それでも愁はにこやかに言った。「局長は?」女局員は仕方なくその答えに答えた。「局長は今仕分け室よ」そう言うと「ありがとう」と愁は言い、美月の手を引っ張って客の間を突き抜けて奥の扉を開けてまた中に入っていった。
そこには数人の局員が、数々の村や町に届ける手紙の仕分けをしていた。愁と美月は仕分けしている局員の後ろを通って、奥まで歩いていった。「シュウ!」名を呼ぶ声がした。愁が振り向くとそこに局長がいた。
「何だ、ずいぶん早い帰りだなあ。もう配達は終わったのか?」
局長は愁の手元を見ると、まだたくさん手紙が入った郵便鞄を持っていた。
「何だその鞄は、まだいっぱい手紙が入ってるじゃないか」
局長は怒り口調で言った。
「おじさん?」
その声で愁の横に美月が立ってるのに気づいた。
「美月ちゃん?ハハハ、やはり来たか」
「おじさん、おじさんなのね」
「知り合いなの?」
愁は不思議そうに二人を見た。
「何で、何でここにいるの?」
美月は聞いた。
「赴任してきたんだ」
「赴任?」
美月は首を傾げ、愁は不思議と二人を見ていた。
「二人とも、奥に行こう。そこに部屋がある。ちょっと話そうじゃないか」
そう言うと局長は歩いていき、二人は局長についていき、部屋の扉を開けて中に入った。
「手紙、受け取ったか?」
局長は、部屋の中にはいるとそこに自分専用のデスクがあり、腰をかけた。美月は頷いた。
「なんて、書いてあった?」
局長は、真剣な眼差しで美月に聞いた。美月はポケットから手紙を出し、局長に渡した。局長はその手紙を受け取り、その手紙を真剣に、無表情に見て、また美月に返した。
「やっぱり、そうか・・・」
局長は独り言のように言った。
「ママは、生きてるの?」
美月は気持ちを落ち着かせて聞いた。
「期待させて悪いが、シャリーは死んでいる。この手紙は生前の物だ」
「じゃあ何で」
「わからん。シャリーが突然やってきて、その手紙を私に渡したんだ」
「ママは、何で私じゃなくて、生きてるときに、おじさんに渡したの?」
「わからん。だが、顔が死んでいた。青ざめていて、魂が抜けたようだった」
愁は二人の会話を聞いていたが、何を話しているのかまるで分からなかった。局長は愁の存在を気にせず、美月とだけ顔を合わせて話していた。
「あの日は、シャリーが死ぬ六日前だよ。忘れもせん。夜遅く突然私の所にやってきて『この手紙、私に何かあったら美月に渡してください。お願いします。ごめんなさい。ごめんなさい』そう言って何度も謝りながら去っていったよ。私は何のことかサッパリわからんかった。シャリーは何を思っていたのか。悲しい事故だったな・・・シャリーの死後、すぐ届けようとしたが何か不気味に思えてな、なかなか届けないでおいた。私の決心も固まり美月ちゃんに届けようとしたがもう遅く、美月ちゃんは引っ越してしまったな。だがやっと見つけた。愁に出会ったことで神霧村にいることが分かったんだ。でも私が知っているのはそんなことだけだ。シャリーに何があったかはわからん」
「あの日、私は見たの。ママが死ぬところ。一瞬だった。土砂が崩れ落ちた。でも、何でママがあの場所に行ったのか分からない」
「美月、美天村へ戻れ。私はもうわからん。国利と言う男がいる。知ってるか?」
美月は首を横に振った。
「名字は知らん。質屋を営んでいる。その男がシャリーと仲良くしてたはずだ。その男に聞けば何か分かるかもしれん」
「わかった。愁、行こう!」
「え?あ、うん」
美月は愁の手を引き部屋を出ていった。局長がふと見ると郵便鞄が二つ置いてあった。
「お、おい!愁。かばん・・・」
局長は鞄を持ち上げて言ったが、もう二人は郵便局を出ていってしまった。
愁は車輪を回した。美月は後ろに乗り、自転車は動いた。愁は猛烈に自転車をこいで美天村へ向かった。
風は靡き、美月は昔の記憶を彷徨っていた。
ザクッザクッと土を掘り返す音が朝から響き渡る。風は乏しく吹き、太陽の光は波打つ丘に反射した。ラジオからは時報の音が聞こえやがて陽気なDJの声が聞こえてくる。
「はい、午後三時を回りました。生電リク!タメちゃんのミュージックアフター。DJはタメちゃんこと溜幸正則一人で頑張っているミュージックアフター。番組も始まって一時間を過ぎました。あと七時間ぶっ通しで頑張ります。ここで今夜明日の天気にいきたいと思います。天気予報士の矢島今日子姉さ〜ん」
「は〜い、矢島ですって目の前にいるじゃないですか。遠くにいるような呼び方しちゃって!」
「ところで矢島さん、今夜から何か天気悪いようですね」
「そうなんですよ。今夜夜半頃から大雨になるんです」
「大雨ですか?こんな天気がいいのに」
「はい、夜半から降り始める雨は今日だけじゃ収まらず、明日も一日中雨に見舞われるでしょう」
「みなさん、夜お出かけの方は傘を忘れずに!」
「強風注意報も出てるんで外には出ない方がいいかもしれないですね」
「そうですか。それじゃあ傘も役に立たないですからね。土砂崩れの恐れもありますから今夜は大人しくこのラジオでも聴いて・・・」
「うまいですね」
「今日は八時間ぶっ通し生電リクスペシャルですからね」
「頑張ってください」
「頑張りますよ。天気予報士の矢島今日子さんでした。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「さあ、まだまだ続きますよ。番組始まってまだ一時間。ジャンジャン電話もかかってきていますミュージックアフター。続いてのリクエストは、橋本孝夫さん三七歳、ピンクレディーでUFO!」
ピンクレディーのUFOが流れ続けていた。ザクッザクッと土を掘り起こす音が聞こえる。
「パパ〜、パパ〜」美月が駆けてきた。その声に気づき、倉岡直也は曲げていた腰を真っ直ぐ立たせた。「どうした?」直也は優しい口調で聞いた。「ううん、何でもない。ただパパがいなかったから。パパ、何やってるの?」美月は上を見上げていった。
「これか?ちょっとな、この土地を耕して畑を作ろうと思うんだ。この小高い丘の上に畑を作ると気持ちいいだろ」
「何を作るの?」
「さあ、何を作ろうか。美月は何がいい?」
「う〜ん、サツマイモ!」
「サツマイモ?何で?」
「芋掘りできるから!」
「ハハハ、芋掘りか」
直也は丘の上から村を見渡し、鋭い目をして笑いかけた。
暗い部屋でテーブルに蝋燭を一本立て、倉岡シャリーは手紙を書いていた。
「今日は、出かけないのか?」その声にシャリーは振り向くとドアに寄りかかり、直也が立っていた。「いつも夜出かけるじゃないか」シャリーは黙って直也を見ていた。「男に会ってるんだろ?」シャリーは何か言葉放とうとしたが、上手く考えつかずまた直也の言葉を待った。「俺は、何でも知ってるぞ」そう呟くと「どうしたの?」と美月が目を擦りながらやってきた。すると直也は何も言わずにその場を去った。「パパ、どうしたの?」美月はシャリーに近づいていった。「何でもないのよ」シャリーは優しい口調で美月に言うとそっと頭を撫でた。
「ねえ美月、パパのこと好き?」
シャリーは美月を自分の体に寄り添わせ言った。
「うん」
「ママは?」
「ママも大好き」
「どんなとこ?」
「う〜ん、わかんない。でもみんなで一緒にいるとき好き」
「そう、みんなでいるときね」
シャリーは美月の頭を撫でながら何処か遠くを見つめていた。
缶ビールを片手に持ち、口に銜え飲み干しながら直也は暴れていた。飲み干された缶ビールは握りつぶされ、無造作に捨てた。家具を投げつけ、テーブルに置かれた物は全て蹴落とされ、家中の物が混乱した状態となった。
「汚ねぇ家で悪いが上がれよ」そう言い直也はドアに向かい開けた。すると女が立っていた。「いい家ね。最高!何かドキドキするわ」女は家へ上がると物色し始めた。「おい!そんなにおまえが見るほどのいい物なんか置いてねえぞ。それよりこっちこい」直也は女をテーブルへ呼び寄せた。「今日は朝まで飲むつもりで来たんだろ。付き合え」直也は台所から持ち出したウィスキーのボトルを女の目の前に置いた。
階段を降りる音がした。シャリーが二階から降りてきた。「あなた?」電気はついた。
するとテーブルで直也と女は飲んでいた。「誰?」シャリーは何なのか分からなかった。この女が何であるのか、何故直也といるのか、何でこの家にいるのか。「あの、どなた?」シャリーは聞いた。すると直也が席を立ち、フラフラになりながらシャリーに近づいてきた。「フフフ、だーれだ」シャリーは黙った。「ブー、時間切れです。答えは、俺の、大事な人。夜の友達」直也は呂律が回らないほどに酔っていた。シャリーの顔に近づき息を吹きかけて笑い、女の所へ戻り座ってる女の襟元をつかんで自分の近くへ引き寄せてキスをした。「帰って!」シャリーはその直也の行動に腹を立てて怒鳴りあげた。「帰って!帰って!帰って!」シャリーは女を押して玄関の外に追いやるとドアを閉め、少し深呼吸して直也の顔を見、また徐々に怒りがこみ上げた。「いったいあの女は誰なの?いったい何なのよ。部屋もこんなに散らかして。何なの、あなたは・・・美月が起きたらどうするの」息を切らし、鋭い目で直也を睨んだが直也は冷静に落ち着いてシャリーを見ていた。「おまえも、同じことしてるんだろ?」シャリーは怒りの顔から驚きの顔に変わった。直也の初めての変貌に戸惑いを隠せなかった。「おまえも同じことしてんだろ?おまえも同じことしてんだろ!」直也の冷静な顔が殺意を秘めた獣の顔に変わっていた。シャリーに攻めかかってきた。「おまえ、彼奴とやったのか?あの男とやったのか?俺以外の奴とやったのか?」直也はウィスキーのボトルをテーブルから無造作に取り上げ、一気に飲み干す勢いで口に含ませたが突然笑いだし、含ませた物が口のまわりに垂れ落ちた。直也は笑い続けた。腹を抱え笑い、床に転げて笑った。その光景にシャリーも少し顔が綻びたが突然直也が立ち上がり、シャリーの顔に自分の顔を近づけるとひっぱたいた。「俺を見くびるな!」シャリーは硬直して身動きできなかった。直也はシャリーにキスをするとまた笑い出し、突き放した。シャリーは倒れ、壁に強く体が打ち付けられた。それを無理矢理胸ぐらを掴み、シャリーを起き立たせてまた殴りつけた。またシャリーは床に倒れ込み直也は胸ぐらを掴んで言った。「俺以外の奴と会うことは許せねぇ。俺は、嫉妬深いんだ」シャリーはもう気を失っていた。それをまた胸ぐら掴んで殴りつけていた。「ママ?パパ?」美月の声がした。階段を降り部屋へ顔を出した。直也は美月に気づかずにシャリーを殴りつけていた。その光景に美月はただ何をしているのか分からず呆然と立ち竦んだままだったが、咄嗟に体が動き「パパ、やめて!」叫びながら直也の体を止めにかかって、直也は殴るのを止めた。ただ、息を切らしていた。美月は気絶しているシャリーのもとに寄り添い抱き抱えて「ママ〜」と叫び続けた。直也は壁に寄りかかり、片手に持っていたウィスキーのボトルを飲み干した。
美月はその記憶の狭間にいる。
「美月、美月?」愁は呼んだ。愁は森林の間をもうダッシュに自転車を漕いでいた。風は靡き、美月の髪は昔の記憶とともに靡いた。樹木の影が波打つように愁と美月に映し出された。森林の薄暗さが徐々に徐々に明るく、眩しさが襲ってきた。樹木がだんだんと少なくなり、道が開けていくとそこに波打つ丘の草原があった。愁は自転車を止めた。そこは小高い丘になっており、村全体を見渡せた。「ここが美天村?」愁が言った。「ここが、美天村。この丘をずっと下っていくと村の中心街に出るわ」美月は言った。「分かった」そう愁が言うと自転車を走らせた。
愁は丘と丘の間を下った。ずっと自転車を走らせると村の中心街が見えてきた。愁は一度自転車を止め、確認するとまた走らせて丘を下った。
中心街にたどり着くと人も賑わっていた。いろいろなお店もあり、車の通りも多かった。愁と美月は自転車を降り、押して国利の営んでいる質屋を探した。
いろんな服装の人たちが立ちこめており、いろんな街や村からこの村に集まるようだ。愁は辺りを物珍しく見渡していた。美月は質屋を真剣に探しながら歩いていた。
愁は少し歩くのに疲れてきた。「質屋さん、何処にあるんだろう」その言葉に美月が応えた。「分からないわ。こんなにお店も人もいるんですもの。もっと良く探さないと」美月は少し苛立ち加減で言った。愁は頷いた。二人はまた歩いた。「ねえ、路地を入ったところとか、あまり人目に付かないところにあるかも」愁は言った。「え?そうね、そうかも」美月は振り返り愁の言葉に納得した。そしてまた美月は歩き、愁は美月を追うように自転車を押しながら歩いた。そして路地を通り過ぎようとしたとき美月は突然止まった。愁は美月を通り過ぎて手前へ出ようとしたが、咄嗟に美月が愁を押さえ止めた。「愁!止まって」美月は鋭い顔つきで言うと、歩道から路地に少し顔を出して覗いた。愁も不審に思い、美月の後ろから路地をのぞき込んだ。
路地の奥に男がいた。愁は美月を見ると険しい顔になっていた。愁はまた男をよく見た。それは、倉岡直也だ。さらにもっと見ると、直也の隣に学生服と学生帽をかぶった小さな少年がいた。直也は中腰に少年に何か話すと、腰を伸ばして手を繋いで歩いていった。
「あれ、美月のパパじゃない?」
愁が聞いた。
「分かってる!何で・・・パパがいるの?」
美月は独り言のように呟いていった。
「愁、行こう!」
美月は険しい顔になり、愁の腕を掴んで慌てて突き進んだ。愁は美月に引っ張られて躓きそうになりながら進んでいった。
美月は愁の腕を掴んで急いで歩いていた。一つ目、二つ目の路地を通り過ぎたが質屋はなく、三つ目の路地を通り過ぎたとき、突然愁が立ち止まった。
「あった!」
「えっ?」
美月も振り返り、愁を見た。
「あそこ」
愁は指をさした。美月がその方向を見ると『質』と書かれた小さな看板があった。二人はその看板目指して路地を曲がった。
二人は看板の前に来た。すると小さく‶質屋″と書かれた暖簾が掛かっており、垣の中の小さな入り口を入っていき扉を開けた。
「あの〜、すいません」
美月が一声かけた。
「ダメダメ!こんな所子供が来たら。何を持ってきたのか知らないけど、何も変えられないよ。帰った帰った」
男が座っていた。三十半ばの男だ。随分と低い声で怒鳴った。
「あの〜」
今度は愁が声をかけようとした。
「わからねぇ子供だ。まだいるのか。何も変えられないと言ってるだろ。そうか、分かったぞ!取り立て屋に雇われたんだろ。彼奴ら子供を出しに取り立てようとしてるな。なんて卑怯な奴らだ!帰った帰った!いくら来たって金なんてねぇんだ!」
「違うんです!」
美月は力を入れて否定した。
「違う?何が違う。分かったぞ!おまえら俺をこの土地から追い出そうとしてるだろ!」 男は勢いよく立ち上がった。
「国利って言う人いますか?」
美月は聞いた。
「国利?国利は・・・俺だ」
国利は静かに席に着き、落ち着いてまた話し続けた。
「俺に何のようだ」
「倉岡シャリーって知ってますか」
美月は聞いた。
「シャリー?シャリーさんか」
「私、倉岡シャリーの娘なんです」
「ん?シャリーさんの娘?シャリーさんの娘か。なんだもっと早く言いなさいよ。ほら、何を遠慮してる。もっと奥まで入りなさい」
美月と愁は入り口からもっと店の奥に入っていった。店には様々な品物、宝石や時計や洋服やバッグまた何処かの観光地にあるような名産品や置物までが置かれていた。
「シャリーさんの娘か。シャリーさんにこんなかわいい娘さんがいたとはな。何も言ってなかった。もっと良く顔を見せてくれ」
国利は立ち上がり、美月に顔を近づけてよく見た。
「本当だ。確かにシャリーさんの娘さんだ。青い目をしている」
国利は顔を確かめると、落ち着き、顔を離した。斑と美月の後ろに立っている愁の姿にようやく気づいた。
「その子は?」
「橘愁です」
愁は言った。
「私の友達なんです」
「ああ、そう。まあ、座りなさい」
美月は近くにあった椅子を自分の近くに寄せて座った。国利も席に着いた。国利は愁に全く興味を示さなかった。
「僕、ちょっとお店の物見てる」
愁は自分に興味を全く示さなかった国利に対して、少し腹を立てて膨れてその場を離れようとした。
国利は美月に何か話そうとしたとき、愁の姿を見て少し考えた。
「ちょっと待ちなさい」
愁は立ち止まって振り向くと、国利は机の引き出しから銀の小さな丸くて平たい缶を出した。
「これでも嘗めてなさい」
国利が缶の蓋を開けると、七色の小さなあめ玉がいっぱい入っていた。
「ありがとう」
国利はその缶の蓋をすると愁に渡した。愁はそのあめ玉の入った缶を受け取ると、その場を離れて店を見回った。
「・・・で、話とは何だね」
「私のママは、事故で、死んだんです。知ってますよね」
「ああ、知ってるよ。悲しい事故だった」
「ママは、何であの丘に行ったんですか」
国利の顔色が変わった。少し息を吸って気持ちを落ち着かせると美月に話しかけた。
「美月ちゃん、ここで話すことは真実だ。ちょっとショックな事も話すと思うが耐えられるかな」
「覚悟は出来ています」
「さて、何から話そうか。シャリーさんは、いい人だった。この村に来たときからずっと・・・俺の所にもよく来た。何かと相談しにな。直也君とシャリーさんはこの村で知り合ったんだ。二人とも、もの凄く仲良かった。あの男が現れるまではな」
国利は一度言葉を途切った。美月の目を見て落ち着いてまた話し始めた。
「美月ちゃん、シャリーさんには直也君の他に好きな人がいたんだ」
美月は驚きを隠せなかったが何も言わず、国利の言葉を静かに聞いた。
「この村に来たときは、少し悲しい顔をしてた。何しろ気にはなっていた。俺は青い目をしたアメリカ人を見たことがなかった。そんなシャリーさんに声をかけたが俯いて愛想笑いを浮かべるだけだった。だが、直也君に出会ってシャリーさんは変わった。笑顔が見えるようになった。心を開いたんだろうな。二人は結婚した」
「ママは幸せだった?」
「ああ、幸せだったろうな。少なくとも俺には幸せに見えた」
愁は店内を見渡すと、お店の入り口の近くにあるテーブルに座って、先ほど貰ったあめ玉を嘗めて眉を顰めかした。
「これ、おいしいよ!」
愁は大きな声で二人に話しかけたが、二人は一瞬愁に目を向け、また二人の会話が始まった。その光景にまた愁は膨れてしまい、店内をその場でまた見渡した。愁には二人の会話はよく聞こえなかった。
「ある日この村に鉄道を通すという話が舞い込んできた。この村に鉄道を通して神霧村という村に繋ぎたいと、ある男がやってきて言ったんだ。その男の名前は・・・忘れちまった。俺たちは反対した。自然を壊す鉄道を無理に通すことはないと。直也君以外は・・・」
「パパは一生懸命だった」
「ああ、一生懸命だった。自分の土地を差し出すと言い出したんだ。自分の土地に通せばいいと・・・だけど、直也君は知っていたんだろうか。このあとその男とシャリーさんが恋に落ちると言うことを・・・」
「パパは優しかった。ママも優しかった。だけど、ある日突然変わったの。パパが暴力を振るうようになった。女の人を、家に連れてくるようになった。連れてきて、その後・・・その後・・・」
美月は涙ぐみ、言葉が出てこなかった。
「あの日、あの、事故のあった日。シャリーさんは丘に向かった。あの日は雨だったのに、何故丘に向かったんだ」
「ママは悲しい顔をしていた。あの日、私もいたの。私もママを追って出た。ママは、私の目の前で・・・」
また美月は言葉を詰まらせた。
「ただ解らないことがある。何故あの丘が崩れたのか」
美月は眉を顰めた。
「あそこは、地盤が固いんだ」
国利は何か思いだしたように机の引き出しを開けた。
「そうそう、写真がある」
その写真を美月の前に差し出した。
「シャリーさんが恋した男だ」
美月は手に取り見た。愁は美月が手に取った写真が見え、それに興味を示してテーブルを立ち上がりゆっくりと二人に近づいて横からシャシャリ出て見た。
「・・・これ?」
愁は何だか分からなかった。何が起こったのか、二人は何を話していたのか、自分はいったい何処にいるのかサッパリ分からなくなった。愁はその写真を美月から奪い、手にとってよく見た。そこに写る写真の人物は、橘亨だった。
二人は質屋を後にした。静かになった店内に国利は机に肘をつきタバコを吸った。
「お客さんか?」
店の奥から男の声がした。
「ああ」
「珍しいな。この店に客が来るなんて」
「たまに来て何言ってるんだ」
「たまに?ああ、でもこの店は小さい頃から知ってるぞ」
「直紀は俺に何か言われるとすぐ『小さい頃から』って言う。従兄弟同士でも知らないことはあるんだ」
「ああ、だから来たんじゃないか」
「それに、客じゃない」
「客じゃない?」
「子供だ」
「子供?」
「ああ、小さな男の子と、青い目をした女の子だ」
「青い目をした女の子?」
「ああ、名は美月とか言ったかな」
「美月・・・で、その子が何だって」
「おまえと同じ、捜し物を見つけに来た」
「俺と?」
「ああ」
「・・・で、見つかったのか?」
「さあ?」
国利と男は会話した。店の奥からタバコの煙がぷかぷかと浮かび上がってきた。その男、竹中直紀の姿だった。
第十五章
薄い霧が、愁と美月を包むようになだらかに流れた。大きな湖も遠い影となった。いつも晴れ渡るこの湖も、今日は少し曇り加減だ。美月は草花の間に座った。愁は落ち着かずに美月の周りをウロチョロしていた。
「美月、何で元気ないの?何か怒ってる?僕なんか変な事した?」
美月は顔を横に振った。座ったまま動きはしなかった。愁に少し不安が過ぎった。
「ねえ、さっきの写真は・・・何?」
愁は言葉に力んで聞いた。だが美月は黙っていた。
<何で黙ってるの?美月はパパを知ってる?>愁は疑問に思ったが、それ以上何を言っても美月は答えてくれないことは解っていた。だから、とりあえず美月を元気づけようとした。
「ねえ、知ってる?アメリカの夜って言う本」美月は首を横に振った。「その本に出てくる主人公は、僕らと同じ年の少年なんだ。その名はドーク。ドークシンガーソン。ドークはアメリカの田舎の小さな村にすんでいた。ある日その村に魔物が襲ってきて、村のみんなをさらっていったんだ。奇跡的に逃げ切れたドークが、魔物と戦いながらヒーローになっていく物語。川に浮かんだボートに乗って冒険するんだ。」
愁はすでにドークになりきっていた。体中でその様を表現していた。
「ドークは剣で魔物を切り砕く。どんなに強い魔物だって、ドークの敵にはならなかった。なぜならドークには秘密があるんだ。ドークの持ってる剣。それは冒険の途中に不思議な泉で見つけた。どこからか湧き出る泉に埋まっている岩の中にあった。ドークがその剣を振り放つと光があらわれて、魔物が切り裂かれる・・・」
愁は夢中で話していた。美月は国利と話した話に不安と疑問を浮かべながらも、愁の話に耳を傾けていた。
「ドーク。ドークシンガーソン。彼は次々と魔物を倒していく。そして最後に魔物の王に戦いを挑むんだ。たった一人で、みんなを救うため……だけど王は強くて切り裂くことは出来なかった。それどころかドークが切り裂かれそうになり、体力にも限界が来ていた。ドークは最後の力を振り絞って剣を空に掲げ、王に向かって走った。するとドークの体に光が走り、王の魔力も跳ね返してとうとう王を切り裂いたんだ。そして村の人々は助かった。だけどドークは・・・ドークは体力の限界を超え、その場に倒れて息を引き取ったんだ・・・僕は、ドークになりたかった」
愁は少し黙った。そんな愁を美月は見た。そして愁は斑と湖を見た。するとそこに一つのボートがあった。
「ボートだ・・・」
美月はその言葉で湖を見た。確かにボートはあった。愁は美月に手を差し伸べた。
「ボート・・・乗ろう。ドークみたいに冒険するんだ。勇気を沸かそう」
美月は愁の手を取ると、二人は湖に向かって走っていった。
ボートに乗っていた。ゆらりと揺れながら湖の中央に浮かべ、愁と美月は心を落ち着かせていた。霧が周りの全ての視界を消していた。
「何か、時間が止まったみたいだね」
愁が言った。
「うん」
「美月、少し落ち着いた?」
「うん大分」
「何があったの?」
「ママのこと。ママが死んだとき、何があったのかって」
「何か分かった?」
「少し・・・でも分からないことはたくさんあるの」
美月は俯いた。
「じゃあ、何か分からないことや、悲しいことがあったらこうすることだ!」
愁は突然ボートを揺らし始めた。横に大きく揺れ、湖の水は大きく跳ね上がって波打った。
「愁、やめて!」
美月は叫んだ。
「こうやって大きく揺れると、苦しいことや悲しいことが忘れられるんだ」
愁は笑いながら言い、その行動を止めはしなかった。
「怖い・・・怖い・・・愁、やめて!」
美月は叫んだ。すると次の瞬間、ボートはバランスを失い、愁もバランスを崩して湖に放り投げ出され、その反動でボートもひっくり返って美月も湖に放り投げ出された。ボートはひっくり返ったままだった。美月は懸命に泳いでボートにしがみついた。
落ち着き周りを見ると愁の姿はなかった。「シュウ?シュウ!」叫んだ。だが、愁の姿はなかった。「シュウ!シュウ!」美月はもう一度叫ぶと、突然目の前に愁が浮き上がった。
「よかった、無事だったのね」
美月が言った。
「見つけた・・・」
「えっ?」
「とうとう見つけたよ美月」
「なに?」
「湖の底、覗いてごらん」
そう言うと、愁はまた水の中に潜った。「ちょっ、ちょっと!」美月は全く分からないままにボートから手を離し、水の中に潜っていった。
水の中は暗く雲ってよく見えなかった。魚がいっぱい泳いではいた。愁の姿も消えていた。美月はもっとよく見ると、奥の、ずっと深くに青い光が見えた。
空は曇っていた。その雲が少しだけ途切れ、日の光が湖に向けて射し込んだ。
水の中は暗かったが、日の光が射し込むと徐々に徐々に明るくなっていき、奥の奥まで光が届いていった。すると何か物が見えてきた。そのものを見た瞬間、思わず美月は口を開けてしまった。空気が漏れて慌てて暴れて水の外に出た。すると愁も浮き上がった。
「ここにあったんだ!」
美月は興奮していった。
「うん」
「みんなが探してた。お社がここに、ここにあったんだ」
「美月、もう一度見よう!」
美月は頷くと、また潜った。
青い光が放っていた。大きなお社で、瓦の屋根に大きな柱が支えていた。すると美月と愁の周りに数多くの粒状の青い光が、お社に向かって落ちていった。その光を愁はよく見た。∧妖精だ……∨無数の妖精が、青い光を放ってお社に向かって泳いでいっていた。
ビッショリと濡れた二人は岸へ上がった。愁はすぐに上着とズボンを脱いでパンツ一丁になり、濡れた服を樹木の枝などにかけて乾かした。美月はその場にしゃがみこみ、俯いて縮こまった。「服、脱ぎなよ」愁が言った。美月は首を横に振った。「風邪ひくよ」また大きく首を横に振った。「何?」愁が言うと「あっち、向いてて」美月は恥ずかしがるように俯いていった。「あ、ごめん」愁は慌てて美月に背を向けた。美月は体を小さくして恥ずかしがるように上着を脱いで下着だけとなり、脱いだ上着を抱え込むように抱いた。愁は少し美月に顔を向けた。「見ないで!」美月は勢いよく叫んで、愁を睨みつけた。でも愁は、その瞬間に気づいてしまった。美月の背中にはいくつもの痣があった。愁は驚き、少しずつ後ろ姿のまま美月に近づいていった。「その痣、どうしたの?」愁は聞いた。美月は唾を飲み込み、体を小さくしたまま小さな声で答えた。「見ないで・・・」そしてまた「パパなの・・・」そう静かに答えた。
「えっ?」
愁は少し体を美月に向けた。美月はまた体を隠すように小さくした。
「見ないで・・・」
「ごめん・・・」
愁は小さく答えた。
「わたし・・・怖いの」
愁は少し顔を上げた。また、美月は静かに話し始めた。
「パパが・・・パパが、私を殴るの・・・怖かった。いつも酔って・・・夜遅くに帰ってきて・・・私の顔を見ると殴って・・・私が何か言ったり、何か失敗すると近寄ってきて『悪い子だ』って・・・私がいい子にしてればいいことなんだけど・・・」
美月は力強く自分の感情を抑えたが、瞳から涙がこぼれた。愁も静かに話を聞いた。
「女の人・・・連れてくるの。毎晩違う人が現れて、いつも変な声がする。ママがいるときからそうだった。ママが死ぬ少し前から・・・でも・・・最近・・・それもなくなって、パパは・・・いつも私を見ている・・・夜・・・私の近くに来て・・・私の・・・私の・・・」
息を切らした。愁は美月に向き、思いっきり抱いた。
「私の・・・体を引き寄せて・・・シャツの隙間から、私の胸の狭間に手が・・・ギュッと握られて・・・そして足元に・・・手がさすられて・・・私のパンツの中に・・・」
「もういいよ。もういい」
愁は美月を思いっきり抱きしめ涙を流し、何かを思いだしたようにポケットを探った。
「そうだ、あめ玉なめなよ。さっき、国利さんに貰ったの」
ポケットから銀のまあるくて平べったい缶を出して、蓋を開けた。するとまあるいあめ玉は一つしかなかった。
「一つしかないや。このあめ玉、あま〜くて美味しいの。幸せな気分になれるんだ」
美月は小さな手で愁の持っている缶から、あめ玉を取って口の中に入れた。
「美味しい・・・」
その時、どこからか一人の妖精が近づいてきた。
「妖精」
愁が言うと美月は頷いた。妖精は二人を見上げていた。すると愁はあめ玉の缶をおいて、その妖精を掬い美月に近づけた。
「僕らを助けに来たんだ」
愁はジッと妖精を見た。
「僕が美月を守る。美月のことを僕が守ってあげる」
美月は愁を見た。妖精は愁の掌から飛び降り、地面に置いてあるあめの入っていた缶の中に体をうずくめた。すると愁はその缶を持ち、そっとその缶の蓋を閉めた。
「これは、美月が持っていて」
「・・・でも」
美月は躊躇った。
「妖精がそう願ったんだ」
愁がそう言うと、美月は静かに頷いた。
二人は湖を後にした。辺りは夕暮れとなり、二人は影となって森林に映されていた。
「ねえ、一つだけ聞いていい?」
愁は歩きながら言った。美月は愁に顔を向け頷いた。
「国利さんが持っていたあの写真・・・何?」
美月は息を飲み呑み
「ママが、好きだった人」
答えた。愁は心臓が突き破れるような衝撃が走って、思わず立ち止まってしまった。
「どうしたの?」
美月は言った。
「ううん」
愁は平然を装って慌てて、美月の後ろを追うように歩いていった。
二人は田圃と原っぱの狭間を歩いていた。秋の虫の美しい音色が聞こえる。「じゃあ」愁が言うと「うん」美月は頷いた。美月の家の前についた。もう、辺りはすっかり暗くなっていた。今日は満月だ。テカテカと辺りの黄色く染まった稲や、原っぱのススキにあたり、いつもより明るく感じた。
家の窓から直也が二人の姿を見ていた。
美月は家の中に入っていった。その姿を見送ると、愁も自分の家へと歩いていった。
美月は玄関の扉を閉めた。家は暗く電気はついていなかった。靴を脱ぎ、家の中に上がろうとすると、そこに悲しく横たわるマットとなったリュウの姿があった。美月はそのマットを見つめた。<リュウ・・・>美月はそのマットをリュウの墓に一緒に埋めたかった。愁にも伝えたかった。でも美月にはそれが出来なかった。あの父親だ、何をするか分からない。そしてそのマットを避けて家の中へ上がった。
「早い帰りだな」直也が立っていた。「ごめんなさいパパ。ちょっと遅くなっちゃって。今食事の用意するから」美月は慌てて台所に向かおうとすると、直也は美月の腕を掴んだ。美月は立ち止まり、直也を見た。「橘愁か」直也は美月を睨みつけた。「橘愁に何を言った」それでも美月は黙っていた。「今日、美天村へ行っただろ」美月は瞼をピクリとさせた。慌てて違う会話に持っていこうとした。「パパもお腹空いてるでしょ。何食べたい?」だが、直也はピクリとも動きはしなかった。「彼奴に何をしゃべった」直也のこめかみに血管が浮き出た。顔の筋肉が痙攣した。美月はその直也の顔に恐怖し、動けなくなりまた震えが起こった。すると突然美月を殴りつけた。美月はそのまま飛ばされ、床に尻餅ついた。「奴に・・・何をしゃべった」直也はまた一歩前に出て美月に近づいた。美月は直也を驚きの目で見ると咄嗟に立ち上がり、直也の横を走り抜けた。直也は振り返り美月を追った。美月は階段を上がり、二階の部屋へ逃げ込むと鍵をかけ閉じこもった。直也は美月を追って二階へ上がり、逃げ込んだ部屋の前に着くと、ドアノブをガチャガチャと回して引っ張った。ドアは鍵が掛かっていて開かず、ドアを蹴り、思いっきり叩いて叫んだ。「開けてくれ。美月、何故逃げるんだ。パパが悪かった、さっきはぶったりして。もう怒らないから、お願いだから開けてくれ」美月は部屋の中でそのドアを叩く音に、恐怖を抱きながら泣いていた。部屋の中は月明かりが充満していた。ドアから離れ、ゆっくりと歩いて月明かりも届かぬような部屋の隅に腰を下ろしてただ、その物事が収まるのを待った。それでもまだ直也の声は響き渡った。
愁は自宅へ向かって歩いていた。だが美月が気になっていた。何度も振り返り、美月の家を眺めていた。愁には気になっていることが一つあった。それは美月が帰宅しても、家の明かりすらつかないことだ。愁は立ち止まり、美月の家をジッと眺めた。そして愁の中に一瞬の不安が過ぎり、後戻りして美月の家へ向かった。
愁は駆けて美月の家に到達した。するとどこからか悲しい音色の鼻歌が聞こえてきた。<美月・・・>するとそれを追うように、激しくドアを叩く音と叫び声が聞こえてきた。「開けてくれ〜美月。なあ、開けてくれよ」愁はその声に心臓を突き破るぐらいの衝撃が走った。<美月を助けなきゃ>すると辺りをキョロキョロし、家の端を辿っている雨樋にしがみついて二階へスルスルと上っていった。
二階の屋根へ降り立った。そこから美月の部屋まで辿って目の前までつくと、愁は部屋の窓を開けた。
美月は窓が開いた方向を見た。月明かりが邪魔して影となって見えたが、誰か分からなかった。そしてその人物が前屈みに動いたとき、初めて愁の姿だと分かった。「逃げよう!」愁は窓から一歩足を踏み入れて、美月に手を差し伸べて言った。「僕と一緒に逃げよう!僕が守るから・・・」美月は愁の言葉を聞き入った。ドアを叩く音が大きくなった。「さあ、早く!」愁は力強く手を差し伸べて言った。部屋の外で直也は体当たり押して、ドアを開けようとしていた。美月は愁に手を差し伸べ、窓の外に出て、二人は雨樋を伝って下へ降りていった。まず愁が降り、そして愁は美月の体を支えて雨樋から美月を降ろした。二人は背の高いススキの生えわたった原っぱに向かって走った。
思いっきり体当たりしてドアを開けようとした。そして直也は力を振り絞って思いっきり体当たりすると、勢いよくドアは開いた。直也は息を切らし、部屋を見渡すと美月の姿はなく、窓が開いてることに気づいた。窓に近づき外を見ると、原っぱのススキが揺れ動いている様が見え、直也はすぐさまその場を離れて玄関に向かった。
玄関のドアを開けて外へ出た。原っぱのススキは揺れ動いている。直也はその場に立ち、ニヤリと笑った。「みつき〜!みつき〜!今日はいい天気だ。とても気持ちいい。雲もない、風もない、とても美しい満月だ。おまえが生まれた日を思い出すよ。とても、美しい月だった。ハハハ、逃げても無駄だ。待ってろよ。今、パパが行くからな」直也は大声で叫んだ。
愁と美月は背の高いススキを掻き分けて懸命に走っていた。愁は美月の手をしっかりと握り、先頭を切っていた。
直也は原っぱに入り込み、草を掻き分けて目を食い入るように二人を追った。美月は少し後れを取っていた。愁のペースについていけずに引っ張られ、躓きそうになりながら走っていた。愁はそんな美月に気づかずに手をしっかり握って、とにかく早く先に行こうとした。∧急がなきゃ。彼奴が追ってくる。僕が美月を守るんだ∨愁は何度もそう思った。綺麗な月が三人を照らした。鈴虫やコオロギなど様々な虫の鳴き声が盛んに聞こえる。直也は一束の草を掴むと、力強く掻き分けて二人に徐々に近づいていった。愁と美月も懸命に懸命に先を急いだ。直也も力強く二人を追った。愁は先を急ごうと気ばかり焦り、美月は愁のペースについていけず、足を引きずって躓き走っていた。直也のペースは速くなり、徐々に二人に近づいていった。愁は美月の手をギュッと握りしめて走っていた。美月もそのペースについていくため、無理して走っていたがとうとう足がよろけ、バランスを崩してその場に転げた。愁の手が引っ張られ、後ろを振り向くと美月が右足を押さえて座っていた。「大丈夫?」愁が立ち止まり、美月に近づいた。「なんか躓いて、足を擦りむいたみたい」美月が言うと、愁は美月が右足を押さえる手を退かした。すると血は出ていないが、微かに擦り切れていた。「血は出てないね。まだ走れる?」美月に聞いた。「大丈夫、ちょっと擦りむいただけだから」そう言った。「いいよ、無理しなくて」愁が言うと、美月に背を向けた。「僕に乗って!」愁は言った。美月は少し躊躇ったが、ちょっと顔が綻びの笑みを浮かべた。そのとき、ガサッガサッとゆっくりと草を踏み歩く音が聞こえてきた。愁は恐る恐る後ろを振り返った。その音は近づいてくる。落ち着いた音だが確実に近づいていた。美月に再び震えが起こった。愁は静かに美月の名を呼んだ。「美月。美月、早く、早く」美月は動けなかった。するとその足音は止まる。愁はジッとその場に耐えた。草と草の隙間から二つの手が出てきて、その手が草の束を掻き分けると、直也の姿が二人の前に現れた。愁は体をしゃがめたまま、直也の顔を見た。直也は腰を低くして、座り込んでいる美月の手を黙って握った。そのとき愁は直也の顔が自分に近づいて睨みつけたように見えて、体中の筋肉が強張って瞼さえ動かなかった。直也は美月の手を取って、美月はその直也に従うままに静かに立ち上がり、そのまま引き摺られていった。愁の目の前からまるで何処かの暗闇に消えるように、美月は草むらに入り込んで消えていった。
満月は美しく、そのススキのたくさん生えている原っぱを映し出していた。一人草に埋もれる愁と、家に向かって美月の手を引っ張り歩く直也。それに抵抗もせずに引き摺られる美月の姿があった。
第十六章
車のヘッドライトの光はぼやけていた。この村には珍しく、うっすらと霧が掛かっている。波打って丘が立ち並ぶ。辺りは暗く、真夜中だった。車は止まった。ヘッドライトの光が眩く光っていた。運転席のドアが大きく開かれる。すると車の中から竹中直紀が銜えタバコを吹かしながら出てきた。そして、車のヘッドライトがあたる方向へと歩いていくと、そこに土砂が崩れ落ちた後があった。土砂に流された樹木も埋もれたままとなり、辺りには工事車両もない。もうこの土砂が崩れ落ちてからかなりの日は経つが、まだ元通りに直されようとしていなかった。
竹中はしゃがみ、そこの土を取った。
暗闇は、子供に夢を与える。明るい夢、悲しい夢、空想の世界が広がる夢。美月は楽しい夢を見ていた。昔、今よりもずっと小さかった頃、直也とシャリーと美月の三人は食卓を囲んでいた。
「ほら美月、野菜も食べなさい」
シャリーが大きな器に盛られているサラダを小皿に盛って、美月の前に置いた。
「ちょっとそこの醤油取って」
直也が言うと、シャリーはそばにある醤油を直也に渡した。
「今日の自治会は何て?」
直也が言った。
「何て事無いわ。いつもの畳屋のおばさんの自慢のクッキーを試食してお茶しただけ。あ、あと鉄道の話が出たわね」
「鉄道?」
シャリーはサラダを口にいっぱい含んでいた。
「ドレッシング取って」
美月が言った。
「レバーも残さず食べなさい」
直也が美月の目の前に、食べ残されたレバーを見て叱った。
「・・・で、鉄道が何だって?」
直也が聞いた。
「この村に鉄道を通さないかって話が来てるのよ」
「パパ、ドレッシング取って」
美月が言った。
「誰から来た?」
「村長よ。神霧村から話が来たって」
「鉄道なんかいらねえよ。この村を壊すつもりか」
「パパ!」
美月が叫ぶと、ドレッシングをシャリーが取って美月に渡した。
「村長はどんな考えだ?」
「『みんなの気持ちを考えると、便利に越した事はないだろう』って」
「便利だろうが何だろうが、俺はこの村を出るつもりもねえ。この村を壊すつもりもねえ。おまえらがいれば十分だ。愛してるよ」
「何を言ってるのかしら、や〜ね〜。ほら、ご飯のお代わりは?」
シャリーは席を立ち、直也から茶碗を受け取ると台所に向かった。
美月が台所に向かうシャリーを見ると、シャリーは光に埋もれてやがて暗闇に閉じ込められていった。その暗闇から大きな音が聞こえ始めた。ガタッ、ガタッと大きく物がぶつかる音。美月は目を開けた。布団に埋もれていた美月は、暫く目を開けてそのまま考えた。<何の音?いったい何が起こったのかしら>その音はすぐ美月のそばから聞こえる。美月は恐る恐る体を動かさずに、顔だけ横に向けた。そこには直也が何やら、いろんな物を外に放り投げている光景だ。美月は訳が分からずただ直也の行動を見ていた。そんな美月に直也は気づいた。
「おはよう!」
「おはよう、パパ」
美月は表情一つ変えずに言った。
「今日はいい天気だ」
そう言うと部屋にあるテーブルを外に放り投げ、タンスの引き出しを開けて次々と洋服を窓の外に放り投げた。美月はその光景に驚いて、体を起こした。
「パパ、何してるの?」
「ん?おまえの物を全て捨ててるんだ。もういらん。おまえは物があるとすぐ悪さするからな」
そう言うと、タンスの上に置かれていたぬいぐるみの数々を、放り投げ始めた。
「それはママに買って貰った物なの」
「だからどうした。もういらんだろ」
直也は美月に構わずに物を捨てて言った。美月はそんな直也の行動を冷静に見つめ、そっと布団の下に手を入れて探り、斑と止めてそっと手を布団の下から出した。手には銀のまあるくて平べったい缶を持っていた。その缶をそっと自分のパジャマのズボンに隠した。その瞬間を直也は見ていた。「何を隠した」美月は咄嗟に立ち上がり、ジッと黙ってその場が過ぎるのを待った。「何を隠したと言ったんだ」直也が手を差し伸べて近づいてきた。「出せ、出せ、出せ!」美月はジッと動かずに耐え、直也が美月に近づき押し迫った瞬間、突然直也を押しのけて走り出し、階段を降りていった。直也も美月を追って走った。美月は階段を降りて玄関に近づくと、そこにあるリュウのマットに気づいて立ち止まり、しゃがんでそのマットを握りしめて持った。
「そのマットを離せ!」直也が追いつき、また手を差し伸べた。美月は顔を横に振り、その場に立った。「その、マットを寄こせ!」美月は動かなかった。ジッと直也を睨み、立っていた。「いい子だ。動くなよ。マットをパパに寄越すんだ。これは、パパの大事な物だ。芸術だ」美月に近づいた。「いい子だ。パパの言うことを聞くんだ。動くな。変な行動は取るなよ」美月に近づきそっとマットに触れて取ろうとしたが、引っ張っても美月がマットを離そうとしなかった。「美月、その手を離せ!」強引にマットを引っ張ったが美月は離そうとしなかった。それでも直也は引っ張り続け、突然美月は手を離した。直也は少し蹌踉け、その隙に美月は玄関を出ていった。そして直也もすぐさま美月を追って玄関を出た。「何処だ、出てこい。何処にいる」直也は家の周りを探し回ったが美月の姿はなかった。「何処に逃げやがった」直也は辺りを見渡し、斑と人の気配を感じ取り、後ろを振り向いた。美月が立っている。直也の顔が綻び、美月に近づいた。「もう逃げるな。隠した物を出すんだ。さあ。おまえが持つ必要はない。パパに渡すんだ」美月は黙って、動きはしなかった。直也は美月の体を探り始めた。美月はそんな直也に顔を微笑みかけた。直也は美月の体を真剣に探ったが、銀のまあるくて平べったい缶は何処にもなかった。「何処に隠した」直也はそう問いかけたが、美月はただ笑って動きもしなかった。直也は怒り、美月の耳朶を掴んで家の中に連れて行った。
辺りは暗くなっていた。美月はソファに座っていた。寛いでいる訳ではなく、どちらかというと強張っていた。
月が雲の影に隠れた。虫たちの声は盛んに聞こえる。仄かに風も吹いていた。直也はバーボンをグラスに注いで、美月に近づいた。そして美月の横に寄り添って座った。「どうした、元気ないな。今日のことか?」直也は美月の髪を撫で、匂いを嗅いだ。「今日はパパもやりすぎた。それは謝る。でもおまえが悪いんだ。パパの言うことを聞かないから・・・」美月は体を動かさず真っ直ぐ見ていた。「おまえはいい子だ。よくこんなに綺麗に成長した。親子二人、ママにもおまえの成長をもっと見届けさせたかったが、パパに内緒で悪い事をしたんだ」美月は顔や体を動かさなかったが、眉だけが敏感に動いた。
愁は玄関の扉を開けて外に出た。遠く、影となって見える美月の家を見ていた。<あれからどうしたろう。大丈夫かな?>そして一歩一歩美月の家へと近づいた。
「おまえは違うだろ?。悪いことはしないな。パパに従うな」直也は美月の顔を頬ずった。美月はそれでも動きはしなかった。直也はバーボンを口にした。「ハハハ、おまえはいい子だ。綺麗になった。美しい。男の感性が擽られるよ」そう言うと直也は美月に優しく口づけをした。美月は言葉を放ちはしなかったが、背筋を伸ばした。「おまえが、可愛くてしょうがないんだ」直也はそのまま静かに、ソファの上に美月を押し倒した。美月は体をもっと強張った。「パパ、止めて・・・」力一杯の声だった。だが直也はそんな美月の声も聞かずに、美月の体中キスをした。そして、ゆっくりと美月の服を脱がし始め、またキスを何度も繰り返し、美月は口を力一杯閉じた。美月のブラジャーをゆっくりと直也の手が解すと、まだ未熟な胸が飛び出した。その胸をキスして、体中キスして口に激しくキスをした。そして直也は上着を脱いだ。美月は震え、一生懸命抵抗しようとしたが、直也の手が美月の腕を押さえつけて動けなかった。
愁は美月の家に徐々に近づいていた。虫の音は風とともに流れていた。雲も風とともに流れ、月が見え隠れした。美月の家はその影響で明るくなったり暗くなったりと家の壁に影が流れていた。だが、家の電気は点いていなく、うっすらと薄気味悪く建っている。虫の鳴き声と雲の影だけが通り過ぎていった。
直也は美月を激しく抱いた。美月は一生懸命顔を背け、直也に抵抗した。「パパ・・・パパ・・・」一生懸命の抵抗だった。力無く、直也に抵抗する事は出来なかった。直也は、そっと美月の体をさすりながら下着に手をいれて、そのまま脱がした。そして自分のズボンのベルトを緩めて脱ぎ、下着も脱いだ。直也は息づかいを荒くしてもっと激しく美月を抱き寄せた。
愁は美月の家の周りを歩いていた。静かだ。何も聞こえない。電気も点いていない。そっと玄関の横の窓に近づき、覗いた。だが、また風は止んで雲に月は隠れ、辺りは暗く、家の中の物は見えなかった。
直也は激しく抱いた。美月の目から、涙が流れた。股間から、血が、大量の血が、ソファの上に滲んだ。
愁は目を食い入るように部屋の中を覗いた。遠く、何かが動いて見える。その瞬間、少しだけ風が吹いた。その風で雲は動き、一瞬だけ雲が途切れて月の光が漏れ、部屋を明るくした。愁は、その瞬間を見逃さなかった。裸な体が激しく動いている。そして、ソファから、美月の顔が、悲しい顔が、目から流れる涙が、月の光で輝いて見えた。そして、また風は吹き、月は雲へ隠れ、徐々に美月の顔に光が消えていった。「み・・・つ・・・き・・・」声は出なかった。だが、確かに愁の口許はそう言っていた。顔を横に振りながら後退りした。そして玄関に近づき、ドアノブを睨みつけ、そっとドアノブを握ると愁の感情が一気に高上り、勢いよくノブを回してドアを開けた。
その激しい音に直也は動きを止め、玄関を見た。そこに愁が立っていた。直也はにやほやした。「おう!橘愁か」直也はそう叫ぶと、体を起こしてズボンをはいた。美月は近くに落ちていた服で慌てて体を隠した。愁の感情はますます高ぶった。「そこから離れろ」そう愁が言うと、直也は眉を顰めかした。愁は直也に指を指し、そのままリュウのマットを踏んで家の中に上がり、近づいていった。直也は愁がリュウのマットを踏むのを見ると、またにやほやした。「どうした。失礼だな。人の家に上がるときは、その住人の許可が必要だ。俺が許可したか?」直也は冷静に言った。「何をしてる」愁は直也を睨みつけていった。「何?さあ、何でしょう」美月は二人の光景に震えて見ていた。
「美月から離れろ」
「何故離れる必要が?」
「震えてる」
「震えてる?興奮してるんだ。楽しくてな」
直也はケラケラと笑い始めた。愁は拳に力を入れた。その姿と直也の笑いを、美月は見ていた。「愁・・・逃げて!」美月は叫んだ。息をのみ、苦し紛れだった。だが愁はその言葉を聞かず、直也に近づいて殴りかかった。が、愁の掲げた手は、直也に受け止められた。愁が抵抗してその直也に止められた手を離そうとしても、直也はギュッと掴んで離さなかった。「ガキに何が出来る」直也が言った。さらに愁は抵抗すると、直也は突然掴んでいた愁の手を離し、愁はその反動で蹌踉けた。直也は愁を見て笑い、殴りかかった。顔に一発、腹に二発、また顔に一発殴り、愁は蹌踉けて後退り、そしてお尻を床につけ、朦朧と直也を見た。
風がまた出てきた。雲は動き、月明かりが途切れ途切れ現れる。直也の顔にも途切れ途切れあたった。風で草が靡く音がする。虫の鳴き声は騒めいても静かにも聞こえた。美月は愁の姿を見ると、抱えている服をギュッと掴んで涙した。「逃げて・・・逃げて・・・」その言葉も声にならなかった。愁は目を見開き、朦朧と、直也の気迫を感じた。柔らかい物を感じた。お尻の下の柔らかい物。直也を見ながらその物の手触りを感じた。そして、自分の目でその物を見た。震えが、愁に緊迫した震えが起こった。その物の先にはリュウの顔が、森で死んだ、あの時のリュウの顔があった。愁はすぐにマットから体を退けて、顔で頬摺り、抱き抱えた。「どうして・・・どうして・・・」涙した。
直也が仄かに笑い始めた。
バタンとリュウが草の狭間に倒れた。男の手がリュウの足を持ち、引きずっていった。静かな森を、リュウが引きずられていた。死体となったリュウの足を持って引きずりながら歩いている直也の姿があった。直也は大きな樹木に近づくとリュウを放り投げ、後ろのポケットからナイフを取り出してリュウの体の皮を切り出し始めた。丁寧に丁寧に、皮が破れないように頭の先まで切り放つと、血だるまとなったリュウの死体をそのまま残して、皮だけ肩に背負って森を歩いていった。
「ママ・・・ママ・・・」美月は口の中で呪文を唱えるように何度も繰り返した。愁は直也を見て震えが起こった。愁はマットを抱え、そして直也と目線を反らさないように、後ろに静かに歩いていき、美月の側に来た。愁は何も言えなく、もう抵抗する気力も失せていた。直也はゆっくりゆっくりと愁に近づき、殴った。殴って殴って殴り倒した。愁はそのまま床に転げ落ちた。<殺される……>朦朧としたまま、何も考えられないまま、その言葉だけが頭の中で過ぎった。そんな愁にまだ直也は近づいてきた。そしてまた愁を殴りつけようとしたとき、ドスンと大きな音がした。その瞬間直也が床に倒れ落ちた。その背後に、直也が倒れた背後に人影があった。ちょうどまた雲から月が出て光が漏れ、その人物も分かった。長い棒を持って、息を切らしていた恵子の姿があった。「ママ・・・」愁は朦朧としたままそう叫んだ。「私の息子に手を出さないで」恵子が言った。「橘恵子か」直也は頭を抱えながら起きあがった。「私の夫を殺したのね」恵子の言葉が重圧に聞こえた。愁はその言葉にまだ疑問を抱き、美月はその言葉で記憶の影を彷徨っていた。
ザクッザクッと直也が丘の上で土を耕している音がした。その背後でラジオの音が流れる。
「はい、ピンクレディーでUFOでした。ちょっと昔の曲だけど、やっぱり名曲です。いい歌でした。さあ、まだまだいきますよ。タメちゃんのミュージックアフター。さて、次の曲は?・・・と、ごめん。ここでCM入るんだった。はい!CM」
美月は見上げて直也を見ていた。そこに一人の初老の男が通りかかった。
「お〜美月ちゃんこんにちは」
「こんにちは」
美月が言った。そして男は丘を見上げた。
「直也!」
男は叫んだ。
「あ〜、こんにちは」
直也は作業を止めて言った。
「何やってるんだ?」
男は言った。
「畑作るんだ」
「畑?だっておまえ、この土地は鉄道通すんだろ。おまえが国に売った土地じゃねぇか」
「だからそれまで、まだ時間はあるから・・・夢だったんだ。畑作って、自分の好きな物を育てるの」
「だけどおまえ、この土地は畑には向いてねぇぞ。土が悪い」
「ああ、そんなだいそれた物じゃないんだ。小さくて、家庭栽培みたいな」
「そうか」
男がそう言うと、直也はまた畑を耕し始めた。
「彼奴にあんな趣味があったなんて初めて聞いたぞ」
男が美月に小声で言った。
「私も」
美月は笑顔で答えた。
「今日の夜は大雨だ。せっかく耕した畑も滅茶苦茶になっちゃうな」
そういうと男は去っていった。美月は男を見送ると、また丘の上の直也を見上げた。
恵子と直也は対峙している。
「この村に何しに来たの?」恵子が叫んだ。「私たちも、殺しに来たのね」直也はにやほや笑った。「何言ってるんだ。俺は、おまえたちの無様な姿を見に来ただけだ」直也が言った。「パパを・・・殺した?」愁は恵子と対峙している直也の顔を見上げ、その二人の姿を見ている美月を見て、後退りした。その愁の姿に美月は気づいた。「違う・・・違うの。私は、知らない。何も知らないの」美月は愁の目を見た。愁は震え、肩を窄めて顔を横に振った。「私を、信じて・・・」美月は悲しく、涙を流した。愁は美月の目を見て、ずっと顔を横に振っていた。美月の目に写った愁の姿に、またあの悲しい記憶が過ぎった。
もの凄い音が美月の家を襲った。外は大雨で、その雨粒が家の屋根にあたる音だ。直也はテーブルの椅子に座って新聞を読んでいた。直也は背後に人の気配を感じた。「何処へ行く」直也は振り向き言った。シャリーが玄関に向かおうとして、直也の言葉に振り向いた。シャリーは一度立ち止まり、直也を見てまた玄関に向かった。「あいつか・・・」シャリーは一瞬止まった。「あいつの所に行くのか」直也は微笑んだ。「ちょうどいい。奴は、家にはいない」シャリーは直也を見た。「彼奴は、丘にいる。今日、会う約束をしている。現場の下見でな」直也はシャリーを鋭い眼差しで睨みつけた。「何故こんな大雨の日に、現場の下見なのでしょう」直也は言った。シャリーは驚きの顔を隠せなかった。勢いよく、玄関の扉を開けて出ていった。ドアは、勢い余って、開いたり閉まったりして、雨が家の中のに入ってきた。シャリーの後ろ姿を見て、直也はふと笑いかけた。
その時、美月が勢いよく階段を降りてきて玄関に向かった。直也は椅子を立ち、美月を止めようとしたが、美月は直也を振り払って、開閉されている玄関の扉に突進して、激しく振りゆく雨の渦に入り込んで立ち止まり「ママ!」大声で叫んだ。シャリーはその声が微かに聞こえた気がした。立ち止まり、振り向き美月の顔を見て少し微笑み、また、悲しい顔で走り去っていった。
美月はシャリーの後を追って走り出した。その光景を、玄関の扉の奥から直也は見ていた。
倉岡シャリーは雨の中走っていた。悲しい顔で……
激しい雨を受けながら、田園を走り抜け、家々の間を通り抜いた。美月もシャリーを追った。
シャリーの目に丘が見えてきた。微かに写る人影もある。丘の下で傘を差しながら待っている男がいた。俯き、顔は見えなかった。
シャリーはゆっくりと歩き始めた。男はシャリーの足音に気づいて顔を上げた。その、男は橘亨の姿だった。亨は、驚きの顔を隠せなかった。思わず傘を手放した。シャリーは亨の顔を確認すると、にこやかに近づいていった。
美月も後れを取って追いついた。遠くを見ると、丘がある。シャリーの姿もあった。シャリーは丘に近づいていた。その奥に亨の影はあったが、美月はその姿に気づきはしなかった。立ち止まり、安心の笑みが零れた。
シャリーは手を広げ、亨に近づいた。亨に笑顔はなかった。シャリーは最高の笑みを浮かべ、亨に抱きついた。そのとき、もの凄い大きな音が辺り一面に響き渡った。二人は辺りを見渡した。
美月が一歩丘に近づこうとしたとき、その音は聞こえた。その音で美月は歩くのを止め、辺りを見渡した。静かではあった。激しく振る雨の音以外は聞こえはしなかった。だが、その大きな音は、突然美月の耳に襲った。また、美月が丘に近づこうとしたその時、美月の目の前で、シャリーを覆うように土砂は崩れ落ちた。
シャリーは亨と抱き合い、亨に笑顔は無かった。その大きな音に二人は辺りを見渡した。その瞬間、背後からなだれ込むように土砂は崩れ落ち、二人を飲み込んだ。
信じられない光景だった。足がガクガクした。「ママ、ママ」美月は足をふらつかせながら丘に近づき、土を掻いてシャリーを掘り起こそうとした。「ママ、ママ。誰か、誰か、助けて・・・」掻いても掻いてもシャリーの姿はなかった。「誰か〜、誰か〜」叫んだ。そのことは誰も気づきはしない。静かではあった。激しい雨が降り注いだ。だが、民家は近くにはなく、土砂が崩れたことを誰も気づかない。「ママ、ママ」美月は泣きながら土を掘り起こし、そして朦朧と立ち竦んで「誰か、誰か」フラフラになりながら助けを求めて歩いていった。
雨は激しく降り注いだ。静かだ。何もなかったようだ。雨の中を歩く足音が聞こえた。傘を持ち、静かにこの光景を見ている直也の後ろ姿があった。そして、雨の降り注ぐ土砂から這い出るように、立ち上がった亨の影があった。直也は土砂に近づいた。亨は体中泥に塗れ、フラフラとなって立ち上がった。息を切らした。辺りが見えないほど朦朧としながらも、助けを求めた。その亨が顔を上げたとき、目の前には直也はいた。直也は亨の顔を見て笑い、殴りつけた。亨は何が起こったかも考えられず、直也は亨の顔を何度も何度も殴りつけた。亨は抵抗できず、その場で地面に倒れ、直也は倒れた亨を立たせて何度も殴った。そして亨は倒れ、息はしていなかった。直也は亨の足を持って、引きずって歩いていった。
「証拠は何処にある。誰が、土砂が崩れることを予測できるんだ」直也と恵子は対峙している。「あなたは、私の夫を殺した。それは間違いないわ」恵子は表情一つ変えず、冷静な口調だった。直也は突然笑い出し、愁に近づいて言った。「俺は嫉妬深いんだ。おまえのパパは、俺の女とセックスした。おまえは、分かるな。悪いことをしたら、それなりの報復はあるんだ」愁は震えた。直也は笑い、また恵子に近づいて殴りかかった。顔を殴った。「おっと、顔はいけねぇな」腹を三発なぐり、恵子は床に落ちた。「やめて、ママ、ママ」愁は涙を流し、ゆっくりと立ち上がった。直也は床に落ちた恵子を蹴っていた。「シュウ?」美月は愁に気づいて見ると、愁は恵子が直也に殴りかかった棒を持って、直也に近づいていった。「やめて、愁」美月は言った。直也は愁の姿に気づかずに恵子を蹴り尽くしていた。愁の持っている棒が、天高く振るかざし、そして直也に落とした。直也はその瞬間フラフラと床に倒れ込み、気を失い駆けていた。それでも愁は止めず、棒を何度も直也の足に振り落とした。「やめて!愁、やめて」美月は叫んだ。「シュウ、シュウ」恵子も微かな意識の中、愁の名を呼んだ。愁はそれでも止めはしなかった。もう、誰も止められない勢いだ。誰がそうさせたのか分からない。愁は無意識の中、棒を振りかざしていた。直也は足を一生懸命押さえて痛み喚いていた。
その時「やめろ!」と玄関のドアを叩き割るように開けて竹中が入った来た。「愁、落ち着け」竹中は愁の体を抱き、愁の行動を止めさせた。愁はまだ興奮していた。直也はもう動けないでいた。竹中は恵子に近づき、恵子は床に這い蹲りながら竹中を見て笑った。そして竹中は美月に近づいた。「もう大丈夫だ。美月ちゃん、安心して服を着なさい」優しい口調で言った。美月は笑顔となり、服を着た。その時、直也は微かな意識の中ゆっくりと床に這い蹲って、動かなくなった足を引きずって愁に近づいていった。愁も誰も気づきはしなかった。直也は愁の足元につくと、強引に愁の服を持って、体を床に転げさせて最後の力を振り絞って殴った。愁はそのまま倒れ込んで気を失なった。「キャー!」美月は叫ぶと竹中は直也に近づき、一発殴ると直也はそのまま気を失った。そして、愁に近づき抱いた。「シュウ!シュウ!」竹中の声が響き渡っていた。
<あれからどれぐらいたったろうか。僕はどのくらい気を失ってた?>愁が気づくと、静江が愁を抱えていた。ガン太も芳井も唯もいた。みんな、玄関へ向かって立っていた。二人の警官が家の中に飛び込んできて、倒れている直也の両腕を掴んで、動かなくなった足を引きずりながら連れて行った。
<奴は、もう目覚めていた。足を床に擦りながら、両腕を抱えられ、抵抗するわけでもなく、玄関に向かった。だが、僕は見ていた。奴が玄関を出る瞬間、ゆっくりと振り向いて、僕に笑いかけたこと。そして、その顔に気づいた人がもう一人いた>愁は見上げた。みんな玄関に向かって立ち並んでいる。愁を静江が抱きかかえている。その隣に玄関に向かって立っている、恵子の姿があった。直也は警官に連行され、振り向いて愁に笑いかけた。恵子だけが直也のその姿に気づき、その顔は恵子の記憶の中に留まった。そして、玄関の扉は静かに閉じた。
山に落ちる太陽が、村を赤く染めた。カラスの鳴き声が聞こえる。<どこからか女の人がやってきて、手を繋ぎ美月と歩いていった。美月は施設に入るらしい>恵子と愁は手を繋ぎ、美月を見送った。「美月!美月!」愁は叫んで手を振った。美月は振り返り、優しく愁に笑みを浮かべてまた、山に向かって歩いていった。美月の姿は影となり、沈む太陽を追って歩いていた。愁は、美月の姿が消えても、暫くその場から離れることはなかった。