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第二章〜第八章


              第二章



 リュウが勝手口の透き間を鼻で開けて、家の中に入ってくる。愁はテーブルで本を読んでいる。『アメリカの夜』というマイケルビッシューネが書いた冒険活劇だ。恵子は台所で、食器をかたしていた。亨が愁に近づいて、小声で言った。

「出掛けよう」

「どこに?」

 愁が言った。

「シッ、声がでかい。ママに聞こえるだろう」

「何処に行くの?」

 愁が小声で言った。

「いつものだ」

「いつもの?」

「役場だ」

 愁は少し考え、思い出したように言った。

「ポーカーゲームだ!」

 リュウが愁の足元に寄り添って歩いてきた。亨は少し台所の恵子の動きを気にしながら、愁に言った。

「ああそうだ。ママに内緒で出るぞ。見つかるとまた(うるさ)いからな」

「リュウは?」

「リュウは置いていけ。散々だ」

「この前のこと?」

「ああ、この前もママに内緒で出掛けようとしただろ。俺とお前とリュウと、役場へポーカーゲームをやりにだ。そっと外に出ようとしたらリュウが吠えた。計算外だったよ」

「でもリュウが悪い訳じゃ……」

「確かにそうだ。あの時も俺等は咄嗟に走って逃げられたが、問題はその後だ」

「その後?」

「家に帰ってからだよ。お前はすぐ寝たからいいが、俺はママに散々叱られた」

「でも…」

「ママはギャンブルも嫌いだが、お前を連れて行くことによく思ってないんだ」

「でも、でもリュウは連れて行きたいよ。いいでしょ」

「だめだ、今回だけは置いていけ。今日は珍しくメンバーが全員揃うんだ。パパはいろいろ話すことがある。リュウのことで気を散らしたくないんだ」

 愁は少し俯いた。亨は少し言いすぎたと思って愁を見た。亨は寂しそうにしている愁に優しく話した。

「愁はいつもリュウと一緒だもんな」

 愁が頷いた。

「リュウが好きか?」

 愁が頷いた。

「パパもリュウが好きだ。リュウがいるとパパの気持ちも和む。でもな、これはパパの我侭なのかもしれないが、今日はみんなと話をしたいんだ」

 亨は愁を心配そうに見た。

「愁もパパ達の話、好きだろ?」

 愁は大きく頷き、亨は愁の頭を撫でて言った。

「ごめんな」

 愁は頭をあげ、笑顔を零した。

「よし、元気になった。早速だがママの様子を見てきてくれ」

 愁は席を立ち、台所へ向かった。

 廊下の隅から台所の様子を窺った。恵子は鼻歌を歌いながら、食器を洗っている。愁の気配に気づく様子も無かった。

 愁は深刻な顔をして亨の所へ戻ってきた。

「どうだった?」

 亨は愁の深刻な顔に驚き、少し戸惑いながら聞いた。だが愁は突然笑い、OKサインを出した。亨にも笑顔がこぼれた。

「よし、ゲームはもう開始している。愁、これから足音を出すな。瞬きをするな。息もなるべく堪えろ。さぁ、玄関へ向かうぞ」

 亨と愁はそっと歩き始めた。足音を立てず、瞬きもせず、息も堪えて玄関へ向かった。だが、愁の後ろから‶ミシミシ″と足音が聞こえる。

 愁はそぉーと後ろを振り返った。するとリュウも愁の後ろを歩きついてきていた。愁は慌ててリュウに向かって手を(かざ)し、ストップの合図をした。すると、リュウは歩くのを止め、しゃがんだ。

「いい子だ。そのまま、そのままずっと、そこに座っていて」

 愁は願い言った。亨は胸元に手を当て、ホッとした表情を浮かべた。そしてまた二人は歩き始めた。少しづつ、二人、玄関へ向かった。

 その時突然リュウが立ち上がり、大きな口を開けて吠え叩いた。愁と亨はその声にビクつき、背筋をピンと伸ばして立ち止まった。二人は顔を見合わせてから、同時に後ろをそっと向いた。そこには舌を出し、尾っぽを振ったリュウの姿があった。そしてまた二人は同時に前を向き、生唾を飲み、一斉に玄関へ向かって走った。その姿にリュウが何度も何度も吠え続けた。

 二人が玄関へ辿り着こうとした時、「あなた!」という怒鳴り声が聞こえてきた。それは、リュウの吠えた声が台所まで聞こえ、恵子が亨の企みを感じ取った怒鳴り声だった。

 愁と亨は光も無い闇の中を走り続けた。もう家も遠く、その家の光さえ見えなくなっていた。亨が止まった。続けて愁も止まった。フクロウが不気味に鳴いている。

「パパ、ひかり」

 愁が言った。

「おう、懐中電灯」

 亨は後ろのポケットに入れていた懐中電灯を取り出し、スイッチを押した。愁と亨の目の前にほんの少しの道が開けた。まだ、蘇生されてない道だ。

「ママ、怒ってる?」

 愁が言った。

「ああ、大丈夫だ」

 亨が言った。

「でも帰ってからまた怒るんじゃないかな」

「なあ愁、女はいつも男を怒鳴りまくる。男はいつも女の尻に敷かれまくる。男は女に弱い生き物なんだ。だがな、それは表面だけだ。男は本当は強いんだ。強い自分を隠し、弱く演じること。女の尻に敷かれること、それをうまく使い分けることが、家族円満に暮らす秘訣だ」

 亨は愁の肩に手を組み、歩きながら言った。



 役場の明かりが近付いてきた。村役場は二階建てで、この村にしては一番綺麗な建物だった。小さな部屋から大きなホールまで様々ある。なかなかな広さだ。二人は玄関に着き、中に入った。

 「あら、シュウちゃん」誰かが声をかけた。二人は振り向くと、そこに、笑顔をふりまいた浅倉(あさくら)(ゆい)がいた。まだ二十八の若造で、やせ細っていて、少し内股で身長だけはあるが、カマっぽかった。つまり、女っぽいということだ。この村の村長の息子で、この村役場の管理人をやっている。

「なんだ唯か」

 亨は言った。

「亨さん、遅いよ」

 唯が言った。

「ああ」

 亨が答えると

「おじさんこんにちは」

 愁が、口を出すように言った。

「お兄ちゃんと呼びなさい!」

 唯が言った。

「みんなは?」

 亨はすかさず言うと

「来てるよ。亨さん待ち」

 唯が言った。

 一階の奥の部屋から明かりが零れている。そこは、村役場の中でも一番小さな部屋。六畳の部屋と小さな台所がある。唯がドアを開けた。すると三人が畳の上のテーブルにカードを揃え、座っていた。愁は見渡した。みんな亨と愁を見ていた。「亨、遅いよ」一番奥に座っていた古希(こき)ガン太が声をかけた。ガン太は大のギャンブル好きで、いつも一番乗りでこの役場に来ていた。今日も一番に来てみんなを待っていた。

「まあいいじゃないの。亨ちゃんも早く座って始めようよ。ねっ!愁ちゃん、こんばんは」

 芳井(よしい)秀夫(ひでお)が言った。

「こんばんは」

 愁が言った。

「愁ちゃん、おじさんの隣りに座るかい?」

 愁は頷いた。芳井秀夫がまたやさしい口調で言った。一番ドアに近い席に座っている。小太りで、眼鏡をかけている。いつも額には汗をため、ティッシュで拭き取っていた。そしてもう一人、ガン太と芳井の間に座っている男。竹中直紀だ。無口な男で、いつもタバコを吹かしていた。このメンバーで、いつも集まっていた。亨は芳井と竹中の間に、愁は芳井とガン太の間に、座布団を敷いて座った。

「さあ、始めましょうか」

 ガン太が気合いを入れて言った。

「よし!この前はガンちゃんにやられたから、今回はやり返さないとね」

 片手に一本タバコを取り出し、火を付けて口に銜えながら芳井が言った。

「さあ、ポーカーゲームの始まりだ!」

 ガン太の一声で、みんなカードを持ち、カードを睨みつけながらカードを引き、カードを捨ててゲームが開始した。

「唯、ビール」

 亨が言った。

「はい、分かりました。」

 唯が台所に向かった。それに従って愁も立ち上がり、台所に向かった。

「唯兄ちゃん。唯兄ちゃん」

「おう、愁か。何?」

 唯が冷蔵庫からビール三本出し、オレンジジュースも手にとって

「飲むか?」

 と、愁に差し出した。愁は頷いて、ジュースを手に取り

「ねぇ、唯兄ちゃんはやらないの?」

 聞いた。唯は冷蔵庫から、カットチーズを取り出してつまんだ。

「苦手なんだよね、賭け事は。それにポーカー知らないし」

「ふ〜ん」

 頷き、愁はコップを四つ取った。

「愁、戸棚の下からエプロン取って」

 愁は一度コップをお盆に乗せ、エプロンを取って唯に渡した。

「じゃあ、これ持っていって」

 缶ビールを三本。オレンジジュースを一本。つまみのカットチーズとクラッカーをお盆に乗せて愁に渡した。そして愁は台所から出ていった。

「はい、ビール」

 台所から戻った愁は、それぞれの前にコップを置き、それぞれの人にビールを注いだ。

「サンキュー」

 ガン太が言った。

「それじゃあ今夜はわたくし、芳井秀夫の大勝利を願って、一気飲みしたいと思います」

 すると、芳井はゴクゴクとビールを飲み干した。

「うんめぇー!」

 芳井が、最高の笑顔と感情を、言葉に出した。

「バカ!勝利は俺だ!」

 亨が言って、ビールを口にした。芳井は余裕の笑みで、美味しそうに一服した。

「ビールばっか飲んで、だからお前は太るんだよ」

 ガン太が言った。

「関係ないでしょ!それに、ガンちゃんだって飲むでしょ」

 芳井がその言葉に反応し、少しムキになって言った。

「俺はそんなには飲まないよ。お前は食って飲んでばかりだろ」

 ガン太が言った。

「そんなことないよ!食事だって、ちゃんと……」

 言葉が詰まった。

「ちゃんと……なんだよ」

「ちゃんと、栄養をとってだな〜」

「どんなんだよ」

「ハンバーガーに焼き肉、酢豚、ポテトサラダのマヨネーズ和え……」

「バカ!」

 ガン太は呆れていったが

「チキンドリア、イタリアンハンバーグ、スペシャルチョコレートサンデー……」

 芳井は続けて答えていた。

「お前、今いくつあるんだ?」

 亨が聞いた。

「え?体重?九十三だけど……」

「え?九十三?体重が九十三……デブ……」

 ガン太が言った。

「デブじゃない!」

 少し興奮して芳井は言った。

「知ってる?こいつの小学校の時のあだ名」

 ガン太は意地悪ににやけ、芳井を見て言った。

「黙れガン太!」

 芳井は怒鳴った。

「豚猿だよ」

 ガン太が言った。

「豚猿?」

 亨が聞いた。

「眼鏡をかけた豚猿だ」

 ガン太は言うと

「ハハハ、似てる似てる」

 亨が笑い言った。

「ハハハ、似てる似てる」

 愁も真似た。

「ちょっと、シュウちゃん」

 芳井が叫んだ。

「ほら、早くカード!」

 ガン太が言い、芳井はカードを引いた。

「お前、小学校の頃から太ってたよな」

 亨が言った。

「俺なんか、こいつが転校してきたとき顔、見れなかったもんな」

 ガン太が言った。

「ちょっと!その話は終わったでしょ!」

 芳井は叫び

「何で?」

 愁は聞いた。

「ちょっと、シュウちゃん!」

 焦り叫んだ。

「うわぁ!ダルマ?」

 ガン太が言うと

「二十代は痩せてました!三十代になったら戻っちゃったけど……」

 芳井はムキになって答えた。みんな、芳井をからかって楽しんでいた。

「ガン太は?お前、仕事辞めたのか?」

 竹中は銜えタバコで煙を吹かし、カードで顔が隠れてあまりよく表情は見えなかったが、低い声で初めて言葉を放った。

「ん?まあ……」

 誤魔化して答えた。ガン太は少し気まずかった。<余計なことを……>少し竹中を睨んだ。

「辞めた?」

 亨が言った。

「なんで?」

 芳井が聞いた。

「クリーニング屋は大変か?」

 亨は聞いた。

「店長と喧嘩したんだよ」

「ど〜すんだよ」

 亨はまた聞いた。

「考える」

「考えるって……」

 芳井は言った。

「それで競馬に行ったの?」

「シュウ!」

 ガン太は叫んだ。

「競馬、行ったの?」

 芳井が言った。

「何で愁が知ってるだよ」

 亨が言った。

「だって、ガンちゃん木曜日に言ってたじゃん」

 愁は言い

「あれは失業前だ!」

 反論した。

「じゃあ、行ってないの?」

 芳井は聞き返した。

「行ったよ、腹癒せに……」

「いくら……いくら擦られた!」

 亨が怒り口調で言った。

「なんで?」

「お前が競馬で勝つわけがない!」

 言い切った。

「十万……」

 少し声を小さく答えた。

「え?」

 みんな聞き返した。

「十万、擦っちまったよ」

「バカ!」

 亨が言った。

「大丈夫だよ」

 ガン太は苦笑いを浮かべた。

「がんちゃん、月にいくら注ぎ込んでるの?」

 芳井が聞くと、ガン太はブツブツと考え始めた。

「えーと、日曜日に……二万……五万……十七万。今月は十七万……かな?」

「十七万?」

 亨と芳井の目が点となった。

「……で、結果は?」

 亨が呆れていった。

「全て、吸い込まれました」

「バカ!」

 亨と芳井は呆れかえって、二人同時に言葉を吹き飛ばした。それでも竹中はカードを睨み、銜えタバコで煙を吹かしてニヤッと笑っていた。

「こりゃ〜静江さんも呆れるや」

 芳井が言った。

「だいじょーぶだよ。あいつにはバレてねーから」

 ガン太が言った。

「でも仕事どうするの?」

 芳井が言った。

「今捜してるよ」

「本当、ガンちゃん好きだよね〜」

 唯が台所から戻ってきた。

「お前は黙ってろ!」

「はい、ピラフ」

「うまそ〜」

 芳井は言い、唯はそれぞれの席に置いた。

「今日、料理教室で習ったんだよ」

 唯は腰に手を置き、自信ありげに言った。

「うまい!唯、これうまいよ」

 亨は口いっぱいに、ピラフを詰めながら言った。

「よかった〜作った甲斐があったよ。今はね、男も料理ぐらい出来なきゃダメなんだよね」

「はい、愁」

 愁にも渡した。

「おい!」

 声が聞こえた。

「愁は今伸び盛りだから、沢山食べてね」

 愁は頷いた。

「おい!」

 その声に振り向き

「な〜に、ヨッシー」

 芳井に言った。

「僕のだけ、少ない……」

 膨れていた。

「そうだよ」

「そうだよって、何でだよ」

「だってダイエットしてるじゃない」

「してないよ」

「ダメ!お腹出てきてるでしょ。今何キロ?」

「九十三あるんだよ」

 愁が言った。

「ちょっと、シュウちゃん!」

 芳井は言い

「痩せればいい男なんだけどねぇ」

 唯は呟いた。

「煩いよ、お前は。おかわり!」

 芳井はピラフを平らげ、お皿を唯に突き出した。

「おかわりないよ」

 唯が言うと

「本当に?」

 芳井はショボンとして、お皿を引き下げた。

「おかわり!」

 愁が元気良く叫んだ。

「ちょっと待ってね。今持ってくるからね」

 唯は愁のお皿を引き取り、台所に行こうとした。

「おい!唯」

 芳井が冗談交じりの怒った口調で言った。

「な〜に?」

 唯は立ち止まり、振り向いて芳井を見た。

「さっきおかわりないって、言ったじゃないか」

「はい、言いました」

「じゃあ、何で愁はあるんだよ」

「僕は、ヨッシーのがないって、言ったんです」

「ひいきだ」

「ダイエット!」

 そう言い捨てると、唯は台所へ行った。

「だから女に逃げられるんだよ」

 芳井は貞腐れながら呟いた。

「え!何?誰が?誰が女に逃げられたの?」

 ガン太が興味深くは言ってきた。

「唯だよ」

「あの一緒に住んでた子?」

「そう」

「あの可愛い子だ」

 亨が聞いた。

「そう」

 唯が台所から戻ってきた。

「はい、愁。いっぱい食べてね」

 大量のピラフが盛られた皿を、愁に渡した。

「お前、女に逃げられたのか」

 亨が聞くと、唯は直ぐさま芳井を睨みつけた。

「ヨッシー内緒にしてって言ったでしょ!」

 そっぽを向いていた。

「逃げられたんじゃないよ。ちゃんと、彼女とは繊細な心を持って、別れようって」

 亨に説明した。

「でもお前、同居してたろ。出ていったのはどっちだ?」

 亨はまた聞いた。

「彼女だけど……」

「逃げられたんじゃない」

 ガン太が言った。

「逃げられてないよ!」

「此奴ね、逃げられた理由、何だと思う?」

 芳井が言った。

「何?」

 ガン太が聞いた。

「女っぽいから」

 芳井が言った。

「どっちが?」

 亨は聞いた。

「此奴に決まってるでしょ!だって、炊事洗濯全てやるから彼女にね『こんなに忠実な人嫌だから別れましょ』って」

「楽でいいじゃない」

 ガン太は言った。

「でも仕事で疲れて帰って来て、玄関でエプロンぶら下げた此奴が『おかえり!』って待ってたら?」

「やだな」

「でしょ!」

「でもお前、何でそんなに詳しいんだ?」

 亨が言った。

「此奴から泣きの電話が来て、彼女からも来たんだよ」

「ヨッシーが紹介したんだもんね」

 ガン太が言った。亨がカードを引いた。そのカードを睨みつけ、微かに微笑んだ。そしてカードを捨て

「フルハウス!」

 叫び、みんなの会話が止まった。

「ハハハ、ごめんね。ガン太は?」

「スリーカード」

 ガン太はカードを見せた。

「芳井は?」

「ダメ!ワンペア」

 芳井はカードを投げ捨てた。亨はみんなのチップをかき集めた。

「ちょっと待った!」

 ガン太が叫び

「まだ、一人いる……」

 そう言うと、その方向を見た。そこには、竹中がカードを睨んでいる。みんな、竹中に注目した。

「たけちゃん、カード」

 竹中は銜えタバコに煙を吹かし、微かに微笑んだように見えた。そして竹中はゆっくりとカードを落とした。一瞬の時が止まったように、みんながそのカードに注目した。

「ストレートフラッシュだ」

 竹中は微笑みを浮かべ、落ち着いた口調で言った。

「たけちゃんだ!」

 芳井は叫んだ。

「このチップ、たけちゃんのね」

 ガン太はそう言うと、亨からチップを横取り竹中の前に置いた。

「よし、次!」

 亨は悔しみながら叫んだ。竹中がカードをかき集めて素早く切り、みんなに配った。そしてまたみんなカードを手に取り、睨みつけた。それぞれが目の前にチップを置き、ゲームは再開された。また竹中はタバコに火を付け、煙を吹かして静かに微笑んでいた。その日のゲームは夜遅くまで続いた。



 懐中電灯を片手に、亨と愁は歩いていた。役場からの帰りだ。(ふくろう)の鳴き声が聞こえる。木や草がざわめく。暖かい風が緩やかに走る。愁はあの話を思い出した。ブラックの話だ。ドキドキした。徐々に徐々にその空き家が近付いてくる。

 愁は自分を落ち着かせようとした。愁の心臓の鼓動は止まるどころか激しく鳴り響いている。少しでも空き家に近付くのを遅くしようと思い、愁は立ち止まり靴の紐を結び直した。<きっと、パパも待ってくれるだろう>愁は思った。ただ、亨にわざと歩くのを遅くしているのが分からないのを願った。怖がっていると知ったら、またバカにされるだろう。ところが亨は、愁を待たずにどんどん歩いていった。愁は慌てて立ち上がり、亨の後についた。

 空き家が近付いてきた。空き家を通るとき、見ないようにした。だが、愁の心のほんの一部分が収まりつかず、あの目が気になってチラッと見た。

 愁の想像は、最大限に引き出された。

 薄暗い陰がある。かなりの襤褸家のようだ。小さな窓がある。トイレの窓だろうか。風呂場の窓だろうか。愁は見た。何者かの目が見開き、光り出したんだ。人影が感じられるその光の背後に、愁は吸い寄せられた。硬直した。心臓の鼓動が鳴り響いていた。

 気づくと、家の中にいる。あちこちに蜘蛛の巣が張り、椅子や机、全ての物が、埃で埋め尽くされていた。すぅーと愁の横を風が通った。生暖かい風だ。その時、家の奥でギシッと音がし、愁の心臓は突き刺さるようにドクンッ大きく鳴った。寒気が体中に通り、手や足、瞼さえ動かなかったが、愁は思った。<誰かいる!>重い足を上げ、ゆっくりゆっくりと前へ前へ進んでいった。

 リビングを出ると、そこには廊下と二階に繋がる階段があった。恐る恐る二階へ行く。階段は腐りかけている。ミシミシと音は鳴り、いつ崩れ落ちるか分からない。恐怖と不安の紙一重で、愁は慎重に上っていく。そして二階へ着く。愁が見渡すと、いくつかの部屋があった。どの部屋もドアは閉まっている。

 一つ一つ部屋を見る。もう、恐怖とか言う心境ではない。何かが愁の心を爆発させた。まず、一つ目の部屋のドアを開けた。

 すると、心底深まる暗闇と、そこに沸き上がる月光が愁を星当てた。埃と蜘蛛の巣が部屋一面に塗したち、その蜘蛛の巣を払い退けながら部屋を見渡したが誰もいない。次の部屋に行くことにし、一つ目の部屋のドアを閉めた。

 二つ目のドアに着くと、颯爽(さっそう)とドアを開けた。この部屋も見渡し<やはりこの部屋もいない>そう思うと、直ぐさまドアを閉めて次の部屋に向かった。

 三つ目のドアの前に着いた。またすぐにドアを開けて中を見ようと、ドアノブに手をかけると愁の顔色は変わった。<冷たい!>さっと手を離した。ドアノブが凍るように冷たい。愁は嫌な予感がし、身震いさえしたが勇気を出してドアを開けることにした。ドアノブを暖めるように手でさすりながら握り、一気に回してドアを倒すように押したが、開かない。この部屋だけ建て付けが悪く、開かなかった。もう一度、押し倒すように体をドアにぶつけてみた。少し開きそうになったが、ドアの先端が詰まって開かない。もう一度、今度は体中の力を最大に振り絞ってドアにぶつかっていった。すると、ドアはもの凄い音を立てて勢いよく開き、愁もそのまま部屋のがらくたの中へ投げ出された。愁の体にいろいろな物が乗ってきたが、その物を退かして起きあがった。この部屋は月の光も届かないところにある。廊下から漏れるほんの少しの明かりで物の陰が出来る。かなりながらくたばかりで、埃も充満していて咳き込むほどだ。どうやらこの部屋は物置部屋だったらしい。<やはりこの部屋にもいない>愁は思った。<じゃあ、何処にいるんだ?隣の部屋か?>その時、後ろでバタン!と音がした。その瞬間、愁は暗闇の中へと埋もれた。後ろを向くとドアは閉まっている。愁の体は凍り付いた。埃と共に暖かい空気が上昇し、暗闇の中から一点の光が現れる。それはやがて微かな少女の姿だと気づいた。少女は全身に光で包まれている。すらーとした透き通るように細い髪をしており、すらーと透き通るような白いドレスに身を包み、すらーと透き通るような繊細な目をしていた。愁はジッと見た。少女の目に釘付けになり、身動きが出来なくなっていた。やがて少女は愁へ歩み寄ってきた。愁は恐怖を感じ咄嗟に目を閉じると、少女は愁の体の中を通り過ぎていった。

 そして愁はゆっくりと目を開けると、先程の場所に立っていた。空き家に見入って吸い込まれた場所だ。亨はもう随分前を歩き、家の玄関に着いて中に入ろうとしていた。リュウも玄関に迎え出ており、愁も亨の側に駆け寄った。そして、一緒に家の中に入っていった。

 静かな夜が過ぎ、また梟が誇らしげに鳴いていた。




第三章




 愁は深い眠りについていた。柔らかな布団に包まれ、部屋の窓は少し開いていて、その透き間から青臭い風が愁のからだを覆った。とても気持ちいい。

 愁の部屋のドアが開いた。すると亨が顔を覗かせる。亨はベッドに横たわっている愁の姿を確認すると、部屋の中に体を入れた。亨はパジャマを着て無く、かといって部屋着を着てる訳でも無かった。下はジーンズ。上はベストを着込んでいる。

 亨は愁に近付くと、体を揺すった。「愁。愁」何度も揺すり、何度も呼んだが愁は起きない。更に体を強く揺すり愁を起こした。すると愁は微かに目を開け、目を擦った。何事か把握出来なかった。長い沈黙があった。暫くして、やっとベッドの横に誰か立っている事に気づいた。「パパ?」そう呟くと「さあ、行こう!」亨が言った。また愁は目を擦り、長い沈黙があった。そしてまた口を開いた。「何処に?」愁が言うと「いいから早く着替えろ」亨は言った。愁はベッドの横にある、目覚まし時計に目をやった。まだ四時前だ。「何処行くの?まだ外も暗いし……」愁はそう言うと「早く着替えろ」亨はすかさずそう言った。「やだよ。明日学校があるもん」愁は全く行く気など無かった。誰がこんなに朝早く、何処に行くかも分からないのに、出掛ける気になるだろうか。「釣りだよ。釣り」亨は言った。「釣り?」<僕が例え十二才の子供だとしても、明日は学校があるんだ。誰が釣りなんかに……>愁は思った。亨の突然の行動に、理解出来なかった。「いい所を見つけたんだ。秘密の場所だ。まだ、誰も知らないんだ。おまえとパパの秘密の場所だ」亨は興奮していた。愁には何故それ程まで興奮しているのか、分からなかった。<どうせ、また大袈裟(おおげさ)なんだ>愁は思った。亨は小さな事でも、大きく言っていた。「湖があるんだ」亨はすかさず言う。「湖?」愁はその言葉に少し反応したが<どうせ、何処かの池だろう。この村で湖なんか見たことない>少し考えてそう思った。「魚がいるんだ……いっぱい……愁に見せたいんだ……」行きたくない気持ちは変わらなかった。ただ、亨の懸命な誘いに、愁はベッドから足を下ろした。『愁に見せたい』この一言に、いつも負ける。愁にとって、気持ちを変えられる言葉だった。亨の気持ちを考えると、行かずにはいられない言葉だった。そして愁は着替え始めた。



 玄関のドアを開けて外に出ると、もううっすらと明るくなっていた。二人は同時に深呼吸した。冷たい空気がひんやり体に染みる。そこから歩き始めようとした。その二人の気配に、リュウは眉を(ひそ)め、目を開けて立ち上がり、尾っぽを振った。「よし、リュウも行くか?」愁が言うと、リュウはトコトコと寄ってきた。

 薔薇畑を通り、薔薇山(いばらやま)の麓で立ち止まる。愁は朝の山の風景を見るのは初めてだった。冷たい空気に、日の光で山の影が出来た。顔を空に向け、その空気に浸った。すると愁の顔に、いくつかの水滴が落ちてきた。「パパ、雨!」愁は叫び、顔を戻して亨を見ると、もう既に山の奥に入ったようで、姿は見えなかった。すると「安心しろ!それは露だ」山の中から声が聞こえた。「つゆ?」愁が言うと、亨はまた山の中から姿を現し、愁の側に歩み寄ってきた。そして愁の隣りに立つと、肩を叩いて言った。「愁、後ろを見てみろ」愁は後ろを振り向いた。それは、初めて見る風光(ふうこう)だった。村全体が太陽の光に覆われ、露が塵となり、家や田園、薔薇畑の上を日の光に照らされて、絢爛(けんらん)に舞い降りていた。愁はその光景に、瞳を輝かせた。そして日の光に照らされている二人の影は、山の中へ一歩踏み込んだ。

 亨はまた、そそくさと歩き始め、愁は辺りを触れ歩いた。リュウは愁の周りを駆けずり回っている。いつにない風景だ。草や花に触れ、樹木に耳をあてると、樹液が流れる音がする。ドクッドクッドクッと聞こえる。愁はそのまま、目を閉じた。ドクッドクッドクッ心臓に響き渡るように聞こえてきた。目を閉じた瞳の奥は暗闇で、樹液の流れる音だけが、体を通じて聞こえていたが、そこから何か青い光が遠くに見える。それはもの凄い早さで近付いてた。「愁!」声が聞こえ、愁は素早く目を開けた。すると愁は樹木から体を離し、辺りを見渡すと、リュウが寄り添って座っていた。「愁!ちょっと来い!」亨の声が聞こえたが、霧は緩やかに愁の周りを駆けめぐっていて、亨の姿など見えなかった。愁はただ真っ直ぐと道なりに歩いて行った。亨はかなり山の奥に進んでいるようで、姿など見えなかったが、やがて霧の奥から人影が写し出された。亨だ。樹木に寄り添って、愁を待っていた。

「愁、ここだよ」

 笑顔で言った。

「ここ?」

 愁は見渡したが、湖など何処にもない。少し考えた。今まで歩いてきた道は知っている。学校に行くとき通るんだ。このまま真っ直ぐ行き、山を下ると隣町に着く。湖どころか池さえも見当たらない。<やはり嘘なのか?>周りは巨大な樹木と、茫々と生え伸びる草むらだ。

「ここから、草むらに入るんだ」

 亨はしゃがみ、愁を宥めるように話した。

「草むら?」

 愁には、何を言っているのか分からない。

「そうだ。この木にリボンをつけておこう。ここで入る目印になる」

 亨はズボンのポケットから赤いリボンを出し、木の枝に結んだ。

「愁、ここからはパパと一緒だ。お前の背丈ほどある草が襲うように生え、周りにある巨大な木の根っこがお前を飲み込む。危ないから、パパの手を離すなよ」

 愁は亨の手をシッカリ握った。そして亨と愁は手で草を掻き分けて、この壮大なジャングルと言える草むらの中へ、足を踏み入れた。草と草の狭間に亨と愁の姿が消えると、リュウも後について草むらへ消えていった。

 草と草に(さえぎ)られて、亨の背中しか見れなかった。木の根っこが愁の足場を絡み始め、それを解かし歩いた。リュウも木の根っこを飛び越え飛び越えて、草に埋もれながら愁についていった。かなり歩いた。もう一キロ、いや、二キロは歩いただろうか。出口など一向に見えてこない。

 更に奥に奥に亨は足を進めると、突然立ち止まり、愁は亨にぶつかった。リュウは愁の足にぶつかった。愁は亨を見上げた。亨は手で草を掻き分け、その向こう側に顔を覗かせた。愁は少し顔を傾げ、亨の横に出た。草の向こう側は見えなかったが、透き間から青い光が漏れていた。亨と同じく草を掻き分け、向こう側に顔を覗かせた。リュウも愁を真似、目の前を遮る草の向こう側に顔を覗かせた。

 愁には言葉はなかった。ただ口を開け、瞬きもせず、それはまるで天国のようだった。大きな樹木が立ち並び、花が辺り一面咲き誇り、草は青々と茂っていた。

 そこに、今まで見たことがない、大きな湖がある。湖の底から青い光を放っていた。



 岩に腰をかけた。大きな岩だ。二人は一緒に座る。それとリュウも愁に寄り添うようかのように、岩に寄り添い座った。その大きな岩は、湖の岸にある。その横には岩を被せるぐらいの、大きな樹木があった。その岩とその大きな樹木は、この湖の主のようだ。

 愁が湖を眺めていると、亨は釣り竿と餌を渡してきた。愁は黙って亨から貰い、取りあえず餌付けをしてみた。初めての釣りだ、餌付けは勿論したことがない。愁は戸惑っていた。その姿を亨は見て「かしてみろ!」愁から釣り竿を奪い取り、釣り針に餌を慣れた手つきで付けている。愁はその姿を真剣に見ていた。それが、とても嬉しく感じた。

 亨は餌付けが終わると、また愁に釣り竿を渡し「投げてみろ」言った。そう言われ、愁は思いっきり湖めがけて振ると、みるみると釣り糸が伸び、ポチャン水に落ちる音がした。それを見、続いて亨も釣り竿を振った。それから長い沈黙があった。

 暫くして「シュウ」亨は呼んだ。愁が亨を見ると、亨は湖を眺めていた。「シュウ」亨は湖を眺めながらまた呼び、一息置いて言葉を放った。「ここはとても落ち着くんだ……」亨は言い、一度愁を見、また湖を見つめる。亨は不思議な気持ちになっていた。懐かしく、切なく、悲しい気持ちだ。愁は湖を眺めながら、亨の言葉を待った。暫くして、亨は静かに言葉を放った。

「ここはパパが小さい頃、見つけたんだ」

 亨は少し黙り、また言葉放った。

「知らなかったろ……」

「えっ?」

 愁は何のことか分からず、亨を見た。

「ここに、湖があったこと……」

 その意味が分かり

「うん……」

 頷いて、また湖を眺めた。

「神様が造ったんだよ。この湖は。パパはそう信じてる。ここに咲く花は決して枯れることはない。いつ来ても咲いてるんだ。色鮮やかに咲いている。パパはね、ずっとここに湖が合ったことを秘密にしてたんだ」

「ママにも?」

「そう、ママにもだよ」

 愁は一息置いて

「神様が造ったんだ……」

 呟いた。

神霧隠光(しんむいんこう)という言葉を知ってるか?」

「しんむ?……神霧村だ」

「そうだ。この村は昔、神霧隠光村といった」

「シンムインコウムラ?」

「神様が霧に隠れる村だ。そして最後につく『コウ』とは、光のことなんだ」

「神……霧……隠……光……」

「どの村にも、言い伝えの一つや二つはあるもんだよ。神霧村にも言い伝えはあってな、昔この村には神様がいたんだ。村の平和を守っていた。霧も闇さえない、とても明るくて輝いて見える村だったそうだよ。ある冬の日、その年の一番寒く冷え込む朝のこと。神様に仕える悪戯好きの天使の一人は、いつものように下界を見ていた。天使は朝早く下界を見ることが楽しみだった。それは、みんなが一斉に動き出す……」

 雲の上から天使は下界を覗いてた。光り輝く朝だ。新聞配達人が、家々のポストに新聞を入れていく。パジャマ姿で新聞を取りに行く者もいる。ジョギングをする者もいる。「おはよう!」その者はポストに新聞を取りに来た者に声をかけた。また、背広姿で会社に向かおうとする者もいる。それを見送る妻の姿がある。その脇からかけ出し、ランドセルを背負って「行ってきます!」と大声で走り去る子供もいる。

「それが、朝の風景だ。天使は毎日楽しみに雲の上から村の人々を見ていたが、その日は寒かった。この時期はいつも寒いが、その日はとくに寒かったんだ。天使はその寒さに耐えられなく、手を擦り、手で体も擦り、暖めようとした。そしてあまりの寒さに、フッ息を吹いたんだ。するとふぁっと白い物が浮き上がった。天使はその物を見るのは初めてだった。その物に吃驚して、もう一度息を吹くとまた‶ふぁっ″と白い物は浮かび上がり、消えた。天使にはもう寒さなど感じないほど、その白い物に興味を持った。その白い物が面白くなり、夢中になって何度も何度も息を吹くと、その度に‶ふぁっ″と白い物は現れ、そして消えるんだ。何度も何度も息を吹き、白い物は現れて消える。だが、その白い物は消えていたわけじゃないんだ。天使が息を吹く度に、一度は浮き上がって下界へ沈んでいくんだ。天使がその事に気づいたときは、もう遅かった。下界を覗くと村は白く埋まっていて、家も畑も田圃も全て見えなくなっていたそうだ。それを知った神様がもの凄く怒って天使を捕まえて罰を与えようとしたが、天使は神様の怒りを知って怖くなって逃げたんだよ。白く埋まった下界へね。ここなら見つからないと思ったんだ。だけど、神様は意図も簡単に見つけたんだよ」

 亨は愁を見た。

「何故だと思う?」

 愁は考えたが、答えは見つからない。亨は愁の顔を見て少し微笑み、また話し始めた。

「天使は太陽の光を辿って、下界に降りたんだ。白く埋まった村に太陽の光が降り立つと、まるで道のように、いくつもの光の線ができるんだ。その線を神様は辿ると、その先に白く輝く天使の姿があった。神様は罰として、この村の平和を見守るように天使に言い渡し、お社に閉じ込めたんだ。それからずっと、霧に埋もれた村となった。この湖も霧に囲まれて、ずっと見つからないでいたんだよ」

「でもこの村には、お社なんかないよ」

 愁は言った。

「ああ、でも何処かにあるんだよ。この村の何処かに……みんな信じてるんだ。だからお社は建てない。みんながその言い伝えを信じて、ずっと探してるんだ……」

 その時愁の周りに何か、光る小さな者が通った。<何だろう?>愁は思った。何処かで見たことがある。青白く光り、愁に近付いてくる。<妖精?>そう思いながらも愁は疑い深く、その者を見た。小さい頃に絵本で見たことはある。たしか絵本の中の妖精は、顔は青く、髪は縮れて長い。目は細くて吊り上がっていた。そしていつも体から光を発し、何処にでも現れる。愁が見ている目の前の者は、絵本で見たのと同じだった。

 その者は三人現れ、愁の前を通りすぎて亨の体に乗った。一人は左肩に乗り、もう一人は右肩で飛び跳ね、そしてもう一人は、頭の上で髪の毛を引っ張っていた。愁は驚き、その様子を見ていた。絵本で見たことはあっても、実際に見ることは初めてだったからだ。だが愁は、まだ少しその者が妖精か疑っていた。その時、亨は愁の方を向き

「どうした?」

 訪ねたがその声は聞こえず、亨の体に乗る者を見ていた。

「……妖精か?」

 亨から出たその言葉に、愁は驚きを隠せない表情で、亨の顔を見た。

「妖精だろ?」

 亨は愁に訪ねたが、愁は驚きのあまり、言葉が出なかった。

「パパも小さい頃見たよ。まだいるんだ……何処にいる?」

 また亨は訪ねた。愁は驚きから、体は固まっていたが、亨の顔から、ゆっくりと妖精に目を向けた。

「パパの、体に触れている……」

「体?何処だ?」

 亨は何か、楽しそうだ。

「頭と……肩」

「頭と肩?」

 亨はすぐ手を持ち上げて触れようとしたが、その手を止めた。

「どんなんだ?髪の毛は?」

「背中まである……」

「背中まで?じゃあ、目はどんなんだ?」

「目?目は……細くて、少し吊り目」

「色は?」

「色?」

「目の色だ」

「あお……」

「青?じゃ、じゃあ、顔は?顔は何色だ?」

「顔も、あお……」

「やっぱりか!」

 亨は興奮していた。

「そうか……俺が、子供の頃に見た妖精と、同じだ」

 亨は妖精が自分の体に乗ってることが凄く嬉しく、誇らしげに何度も両肩を見た。

「何で、見えるの?」

 愁は妖精を見ながら、ゆっくりと言った。

「さあ、何でかな?俺にも分からん」

 亨は子供の頃を思い出していた。愁と同じ頃。十二才の頃だ。父親と二人、巨大な岩に座って湖を眺めていた。会話は無く、二人湖を見て、黙って釣りをしている。ポチャン湖から音がし、水はそこから小さな輪が出き、それが大きく広がって波打っていった。その時、まだ幼い亨の足元に、小さな妖精が現れた。亨は驚きはしなかった。妖精を見たことは初めてだったが、妖精がいることを信じていた。亨は妖精を手に取り、そっと持ち上げた。

 すると妖精は‶パッ″と消え、亨は慌てて辺りを見渡すと、父親の足元にパッと現れた。「パパ……」亨は呼びかけたが父親は振り向かず、それが聞こえたのか聞こえなかったのか分からないが、そのままずっと湖を眺めて釣りをしていた。妖精は一人、また一人と次々現れ、みんな父親の体に乗り、髪の毛を引っ張ったり腕を引っ張ったりし始めた。「パパ?」亨は父親の顔を見て、顔を傾げながら呼んだ。「パパ?」幾度も幾度も呼んだが、父親は一度も振り向くことはなかった。その父親の姿に、愕然と立ち上がって呼び続けたが、声は届かなかった。

 辺りは暗く、ポチャンと何かが水に落ちる音だけが聞こえ、そこから小さな輪が、大きく波打ち広がっていた。

 そして次の日、父親は死んだ        

「パパ!」愁の声が聞こえ、「ん?」亨は無意識に返事をした。<子供が大人になったとき、妖精は……見えないのか……思い出は……消えるのか……>亨は、湖に顔を向けて座っていたが、湖は見ていなかった。「パパ」愁は呼んだ。<ここは、現実なのか…>次第に亨の目に、湖が写り込んでくる。「パパ!」愁はまた呼び、亨は無意識に愁を見た。亨には、ここが現実なのかどうか分からなくなっていた。父親との思い出と、今ここにいる自分が重なり合っていた。「光った……」愁が言った。「ん?」また亨は無意識に返事をした。亨はただ湖を眺めるだけだ。「また!」愁は立ち上がり「ほらまた!あそこも!あっちも!まただ!」愁は光った方向を指さし、興奮して叫んだ。が、亨はまた無意識に愁を見た。愁が湖に向かって、一生懸命叫んでいる姿が見えた。その愁の姿に、亨は湖をもう一度見る。青い光、赤い光、様々な光が水の中から跳ね上がった。「魚だ……」亨は言った。「さかな?」愁が言うと、また水の中から跳ね上がり、光った。「あそこだ!」愁が指をさして叫び、亨はその方向を見た。すると魚が水の中から、光りながら高く跳ね上がっていた。それは空からの日の光と、その光に反射する水面が、跳ね上がった魚の鱗に光の元を与えていた。「さかな……」愁は口を開けて答えた。そして口を閉じ、湖をジッと見「パパ」静かに言った。「うん?」亨は優しく答えた。「ここに来てよかったよ」愁はそう言うと、笑顔で亨を見た。「ありがとう」亨も笑顔で返した。すると、湖の四方八方から数十匹の魚が、一度に跳ね上がった。日の光が魚に反射して、それぞれの色を放っていた。それは今までに見たことのない美しい光景だった。霧が立ちこめる湖に、太陽の光が線を通って降り立ち、それに反射する水面が魚に光を与えた。愁はその見たこともない光景に、目を輝かせている。リュウはその光景に少し脅え、岩の陰に隠れていた。

 それからどのくらい時間がたったろうか。随分とこの場所に座っている。妖精もいなくなっていた。「パパ」愁が呼んだ。だが、亨は振り向かなかった。愁の声が聞こえたのか、聞こえなかったのか分からなかったが、黙って亨の姿を見ていると、亨は突然静かに立ち上がり、その場を離れた。

 結局魚は一匹も捕れず、湖を後にした。深い深い霧の中、何も語らず山を下りた。日は昇っている。霧の中を彷徨い、愁の心の中に静かに水の音が木霊している。

<僕は、とても清々しい気分になった>



 愁は眠っていた。ベッドの中で、安らかな夢を見ている。

 カーテンの透き間から、強い日差しが部屋の中に差し込み、愁の顔にあたった。それで愁は目を覚ました。

 ベッドから降りて窓に向かい、そしてカーテンを開ける。晴天だ。朝亨と釣りに行ったことがまるで夢のようだった。涼しい風が部屋に入り込む。その風にあたり一呼吸して、部屋を出た。

 寝室を覗いた。亨がまだ寝ていると思ったんだ。だが、そこには誰もいなく、布団は畳んであった。一階からまな板を叩く音が聞こえ、愁は階段を降りると、恵子が台所で朝食の用意をしていた。「おはよう」愁が呼びかけた。「あら、起きたの?おはよう」恵子はまな板を叩きながら言った。「パパは?」愁は聞いた。一瞬恵子の動きが止まったが、またすぐにまな板を叩いた。「仕事よ」恵子は言った。「仕事?今日は早いんだね」愁は食器棚からコップを出し、冷蔵庫からオレンジジュースを出して注いだ。「そうね」恵子は愁の目を見ることなく言った。愁は居間へ行き、食卓へついた。その席から窓の外を覗くと、赤いオンボロの軽自動車が見えた。亨がいつも仕事に行くときに乗って行く車だ。「ママ!車あるよ!」愁が叫ぶと、恵子は食事を持って、台所から来た。「パパはね、遠くへお仕事に行って、暫く帰ってこないの」恵子は言った。「遠く?」愁は不思議に思った。「とっても遠い所よ」恵子は言った。「どこ?」疑問に思った。「……山を二つぐらい越した先ね」暫く考えて、恵子は答えた。「だって今朝……」何も言ってなかった。亨は今朝湖に行った時は、何も言ってなかった。「今朝?」愁は慌てて口を瞑った。湖の事は秘密だ。<パパはママに何も言わないで、家を出たんだ。約束だ ……パパとの約束だ>愁は自分に言い聞かせた。恵子は愁の行動に、少し疑問を持ったが、話を続けた。「パパね、急に決まった仕事で、迎えの車が朝早く来たの。それに乗って出て行ったわ。……パパが、愁に宜しくって」恵子が言った。「宜しく?」愁が言うと「子供に宜しくって、変ね」恵子は少し寂しげに、笑って言った。「いつまで?」愁は続けて言った。「さぁいつまでかしら、分からないわ。何しろ朝早く慌てて出ていったから……」恵子も席につき、二人だけの食事となった。亨は村や町の開発事業団体に所属している。その仕事で、今朝家を出た。遠い場所、いつ帰るか分からない仕事は初めてだった。「ほら愁、早く食べて学校に行かないと、遅れるわよ」恵子は言った。「あ!もうこんな時間。行かなきゃ」愁は立ち上がり、ランドセルを取って玄関にかけていった。「忘れ物ないわね!」恵子は叫び、玄関に走った。「うん!」愁は返事を力強くし、玄関を飛び出して走っていった。



 愁は亨の帰りを待ち続け、毎日同じ日が続いた。決まった時間に学校から帰り、決まった時間にリュウを散歩に連れていき、決まった時間に食事をする。そして決まった時間に寝た。

 リュウと散歩の帰り、いつも薔薇畑で夕日を眺め、待ち続けた。それでも亨は帰って来ない。亨がいなくなってから一ヶ月が過ぎた。

 愁はいつも亨の話をしている。朝、学校に行く前に話し、学校から帰っても話し、食事の時も、寝る前にも話した。その愁の話を、恵子はいつも静かに聞いていた。愁には黙っているが、恵子は不安だった。亨から、一度も電話がない。こんな事は初めてでとても不安だったが、愁を不安にさせたくなくて、いつも笑顔でいた。だが、愁は何も話さない恵子の姿に疑問を持ちながら、いつも不安でいた。

 そして恵子はいつものように、夕食の準備をするために、台所に立った。そのとき電話は鳴った。



 愁は学校から帰ってきた。「ただいま!」愁はドアを開け、叫び玄関に入ったが、恵子からの応答はなかった。「ただいま!」靴を脱ぎ、探るように家に上がって問いかけが、返事はない。「ママ?いるの?」愁はあたりの部屋を探し始めた。もう夕暮れどきで、家の中は薄暗くなっていた。「ママ?ママ?」呼びながら、居間、台所、洗面所、それぞれを捜したが恵子の姿はなく、愁は二階に足を運んだ。「ママ?いるの?」そう呼びながら寝室のドアを開けると、そこに恵子はいた。窓辺で外を眺めて立っている。「ママ?」愁は呼びかけると、恵子は振り向いた。それはいつもの優しい顔の恵子ではなく、険しく思い詰めたような顔だった。「ママ、ここにいたの?」愁は静かに言ったが、恵子は何も言わなかった。愁は恵子の顔を見て安心し「よかった。ママも帰って来ないかと思った」笑い、何の疑問を持たずに、恵子の顔を純粋に見た。「ママ、今日夢見たよ」恵子は何か言い出そうとしたが、黙って愁の話を聞いた。「パパとママと僕がいるんだ。リュウもいる。パパが『たまには外で食事をしよう!』って言って、薔薇畑の前で……僕とママは文句を言ったの。『もっと違う所がいい!』って。でもパパは『ここが、いいんだ』って言うと、物置小屋の片隅からテーブルを出してきて置くんだ。僕とママはあまり乗り気じゃなかったけど、台所から持ってきたお皿やお箸を並べると、パパはどこからかスーパーの袋を持ってきて、その中にお肉が入ってたんだ。今日は焼き肉で、鉄板の上に肉を並べて焼いたんだ。凄く楽しかった。とても美味しくて……」愁は少し口を噤った。「シュウ」恵子は宥めるように口を開いたが、愁は話を止めようとはせずに続けた。「リュウもはしゃぎ回って、僕一人ずっと喋っちゃって、話が終わらなかったんだ。でもパパもママも僕の話を笑って聞いてくれて……」恵子の顔を見た。「……みんなで今度やろうね」愁は笑った。「シュウ」恵子は愁に近づき、膝を床につけて救うよう抱き締めた。「ママ?どうしたの?」恵子は抱き締めたまま、愁の顔は見なかった。いや、見れなく、愁に話す言葉を考えていた。愁は首を傾げて恵子の言葉を待ったが、言葉はなく愁はまた話し始めた。「今日ね、学校のテストで百点とったんだ。すごいでしょ。先生に誉められたんだよ。パパも喜ぶかなぁ」愁は嬉しそうだった。「シュウ?」恵子は愁の話を止めようとした。だが、口元は震え、胸が詰まって言葉にならなかった。「きっと、喜んでくれるよね。早く見せたなぁ。早くパパ、帰って来ないかなぁ」愁は恵子を見ている。「シュウ?」恵子はギュッと愁を抱き締めた。そして口に力を入れ言葉を吐こうとしたが、口元は震えていた。それを抑えようと、胸をさすり努力したが無駄だった。震えて、言葉にすることを拒んでいた。それでも力強く口を開くように努力して言った。「愁、パパね、死んだの」恵子はその言葉の後、愁の顔が見れなかった。目から涙は流れ、口元は震え、愁を抱いている手をもっと引き寄せて、強く思いっきり抱き締めた。愁はただ立ち往生したまま、恵子の言葉を待った。「パパね、もう帰ってこないの……ごめんね」その後の言葉はなかった。愁はその言葉の意味がまだ理解出来なかった。

第四章




 次の日の朝、亨の遺体が病院から運ばれた。静かな朝だった。亨の遺体が乗せられた車が家の前に着き、愁は二階の部屋の窓を開けた。恵子が玄関から出て迎え、車から二人の男が出てきて後ろのドアを開け、遺体を取り出して家の中へ運んだ。愁は二階の窓から、その光景を見ていた。

 午後、沢山の人が家に集まってきた。近所の人、親戚の人、知っている顔と知らない顔が入り交じっている。愁は自分の部屋で物の整理をしていた。足の踏み場もないぐらいに物を広げた。どこから片付けていいのか分からず、亨との思い出ばかり残っていて、何を捨てていいのかも分からなかった。一つ目に付いた。それはプラモデルの箱。戦艦のモデルだ。亨が十才の誕生日に買ってくれた。まだ、作りかけだった。

 階段を上って来る音が聞こえる。すると愁の部屋のドアが開き、恵子が顔を出した。「愁、何してるの。早く降りてきなさい。みんな来てるのよ、挨拶しないと失礼でしょ。それにあなた、まだパパに会ってないでしょ」そう言い、恵子は部屋を見渡した。足の踏み場もない部屋に呆れ<こんな忙しいときに、この子は一体何をしてるのかしら>そう思い、愁に怒ろうとすると、愁の方が先に口開いた。「ママ、戦艦。まだ作りかけなんだ」手に持っていたプラモデルの箱を、恵子に差し出した。「十才の誕生日に、パパが買ってくれたんだ」恵子は愁を見つめた。愁はプラモデルの箱を開け、恵子に見せた。「パパが買ってくれたのに、まだ作りかけだった。僕、忘れてたんだ……」恵子は愁を見つめていた。愁の気持ちは分かっていた。寂しく、悲しい。胸苦しい気持ちは、恵子にももの凄く伝わっている。恵子は優しい口調で愁に話し始めた。「愁、パパが待ってるわよ。パパ、愁に会いたがってるわ。整理は、後にしなさい」そう言うと、部屋に背を向け、階段を降りようとした時「夢の続き……」愁は恵子を留めるように、話し始めた。恵子は立ち止まり、振り返って愁を見た。「……昨日の夢、まだ続きがあるんだ。みんなで焼き肉を食べて、楽しくて美味しかったのに、僕、怒っちゃったんだ」恵子は少し愁に近づき「何で?」静かに聞いた。「分からない……分からないんだ。でも突然怒り出して、僕、席を立って走り出した。もうその場にいたくないと思って、走って走って、何処までも行こうとしたんだ。そしてらパパは、僕を心配して追ってきてくれたんだ。でも僕は、パパが追ってきてるのを知らなくて、ただ走り続けた。パパは僕を追って走り続けて、突然胸に手を当てて、心臓が裂けて……そこで目が覚めて……」恵子は優しく、愁に分かりやすいように話し始めた。「パパ、事故だったの。あの日、パパがいなくなった日、朝早くに開発事業部の人が来て『村が揉めてるんだ!』って言って、パパを車に乗せて連れて行ったの。二つ隣の村よ。パパね、大変だったらしいの。計画がうまくいかなくって」愁は恵子を見ていた。「計画?」疑問に思い、答えた。「その村をもっと、素晴らしい村にするための計画。村の人を一生懸命説得したんだって。一人一人、みんなが分かるまでね」恵子は一度口を噤った。「パパ……」無意識に言った。「それでもみんな納得いかなかった。パパの計画だったの。パパね、この計画の素晴らしさを分かってもらうために、もう一度現場に行ったの。一人で……そこで、パパは、死んだ……」恵子は胸を詰まらせた。愁はただ口を開け、瞬きもせずにその話を聞いていた。「雨が降ったの。静かで、そんな気配はしなかった。でも地盤は緩んでて、突然土砂が崩れて、生き埋めになったんだって……」恵子の声は震えた。「次の日まで、誰も気づかなかった……」涙が流れた。「うそだ……」愁はその話が信じられなかった。「山に囲まれた村にはよくあること。その村は電話の通りが悪くて、連絡する事も出来なかった。助け出したとき、パパはまだ意識があったの。パパね、微かな意識の中で、愁の名前を呼んだんだって……」一瞬時が止まったようだった。「僕の……?」愁は溢れ出ようとする、涙を堪えていた。<パパは、死んだんだ……>初めて亨の死を思った。<パパ……>色々なことを思った。亨と遊んだこと、話したこと、湖の出来事。亨を考え亨を思ったが、愁は亨の死を信じなかった。いや、信じたくなかった。

 いつの間にか、恵子の目に涙はなかった。恵子は寂しげに愁を見つめ「さ、パパが待ってるわよ」言うと、引きつるように笑顔に変え、愁も引きつって笑って頷いた。そして部屋を出た。



 沢山の人が集まっていた。シクシクと音を立てて(すす)り泣く人、亨との思い出に浸る人、それぞれが色々な思いを持っていた。

 廊下を歩く微かな音。客間の扉が開かれ、そこには愁が立っていた。人々の目は一瞬、愁に向いた。愁は周りの人々を見るわけではなく、真っ直ぐと向き歩く。その先には布団に横たわり、顔に白い布が被さっている亨の姿があった。愁は歩く。人々は愁を追った。愁はゆっくりゆっくりと亨だけを見て歩いた。恵子は遅れ、客間に入って愁の後ろ姿を見ていた。

 愁は亨の側に立つと静かに座り、顔に掛かっている白い布をそっと取る。亨の顔はとても綺麗だった。「パパ……」声をかけ、亨を見つめる。「パパ……」もう一度声をかけたが、返事は無かった。まるで生きてるような顔が、永遠の眠りについた孤独な抜け殻となってるようだった。「パパ……」最後にもう一度呼びかけたが、その声に力はない。愁にとって、初めての感情だ。胸が抑えられ、自分の思いさえ分からず、戸惑いを感じている。愁はそっと白い布を被せ、立ち上がった。目に力を入れ、涙を堪える。

 人々は悲しんでいる。その間をゆっくりと通り、客間を出た。恵子は部屋の隅で愁の行動を静かに見ていた。



 「出来た!」愁は笑顔に包まれた。プラモデルは完成した。まだ散らかっている部屋の片隅で、戦艦のプラモデルを作っていた。いつの間にか日は沈み始め、部屋は薄暗くなっていく。愁は完成した戦艦を何度も何度も見直し部屋の棚の上へ置いて、その作品の完成度に納得して頷いた。

 愁がふと窓の外を見ると、遠くに明かりがついている建物があった。村役場だ。<みんないるんだ……>そう思った途端、この場にはいれなくなった。愁は部屋を飛び出し、階段を駆け下り、玄関に向かおうとした。<ガンちゃん達は、パパに会いに来なかった>愁は廊下を走り、客間を通り過ぎようと思った時、客間の扉は開いていて、その場に立ち止まった。もう、誰もいなかった。部屋の奥に、亨の姿はあった。「みんな、帰ったわ」後ろから声がして愁が振り向くと、そこに恵子は立っていた。「うん……」愁は思わず返事をした。「パパ、きっと喜んでるわ。あんなに沢山の人が来てくれたんだもの」恵子は静かな声で言った。「うん……」愁は客間の奥にいる亨の姿を見た。「ねえ、ママ?」愁は恵子に訊ねた。「なあに?」恵子は優しい口調だった。「ちょっと、出掛けたいんだ」愁のその言葉に少し吃驚して「こんな時間に、何処行くの?」言った。「役場」愁が言った。「役場?」恵子は更に、疑問に思った。「待ってるんだ……」愁の言葉に「誰が?」恵子は訊ねた。「みんな、いるんだ……」そう言うと、愁は駆け足で家を出ていった。恵子は言葉をかけようとしたが、その余裕もないほどに愁は素早く走り去った。∧明かりがついてる。きっと、みんな待ってるんだ∨そう思いながら、村役場へ愁は走った。

 村役場の門を潜り抜けて中に入ると、奥にひっそりと明かりのついた部屋がある。愁はその部屋に向かった。そして部屋の前に辿り着くと、そっとドアを開けた。

 するとそこにはガン太、芳井、竹中がポーカーゲームをしている。「あれ?愁ちゃん」声が聞こえ、愁がその方向に向くと、唯が立っていた。相変わらずに、エプロン姿だった。「おう!愁か」ガン太はカードを睨みつけながら、唯の声を聞いて言った。「ちょうどよかった。愁ちゃん、おいで。一つ席が空いてるんだ」芳井は手にカードを持って振り向き、笑顔で愁の顔を見て言った。愁はそのみんなのいつもと変わらない状況を見て、何も言わずに立ち竦んでいた。「何やってんだ。早く座れ」ガン太が言った。いつもと変わらない、みんなの表情に少しホッとして、笑顔が零れた。凄く安心して笑顔の中、目に涙を溜め、グッと堪えて辺りを見渡すと、タバコの煙が充満している。「あ〜あ〜あ〜あ〜、も〜、こんなにタバコを吸って!」愁はそう言うと、歩き出して部屋の窓を開けた。「ほら、気持ちいい」外の空気にあたり、暫くジッとする。涙が零れて止まないのだ。悲しくて悲しくて思い留まらない気持ちだ。だが愁はそれをも我慢し、涙を両手で拭って振り向き、平然を装うように席についた。みんな愁の気持ちは分かっていた。愁の平然を装う行動も分かっていた。ガン太も芳井も竹中も暫くカードを睨みながら、沈黙は続いた。唯はその姿を見ながらも俯き、立っていた。「彼奴、いい奴だったよ」芳井は口開いた。その言葉も少し途切れ「その席、愁が座ってる席は、いつも亨が座っていた」愁は、思わず立とうとした。「座ってろよ!もう、お前しか座れないんだから」ガン太が言った。みんなカードを睨んで、愁と目を合わそうとはしなかった。愁は自分を落ち着かせ、カードを睨みつけているガン太、竹中、芳井を見た。「今日パパに会いに、来なかったね……」愁は言った。「バカ、亨はいつだって俺達と一緒なんだ。俺達がここにいれば、きっと亨もここに来るんだよ。わざわざ会いに行く必要はないんだ……」ガン太は言った。その時、窓から風が“すぅー”と入り込んで、カーテンは靡いた。カードを睨みつけていた目が、一瞬窓を見た。だがそれが風だと分かると、みんなまたカードを睨み始めた。唯だけは黙って窓を見続けている。「行けないよ……亨さんの顔、見れないよ……」唯の目に涙は溜まっている。「バカ!女みたいにメソメソすんなよ」芳井が言った。「ヨッシー!」竹中は一言、芳井の名を叫んだだけだ。その後もカードを睨み、タバコを吹かしている。竹中の言いたいことは、みんな分かっていた。みんな、悲しいんだ。

 「愁、これ」ガン太はズボンのポケットから、クチャクチャになったチケットを二枚テーブルの上へ出した。愁は黙ってそのチケットを手に取る。それには『巨人対ヤクルト』と書かれている。野球のチケットだ。「随分前に新聞屋から貰ったチケットだよ。今日、亨と行く予定だったんだ。もう、やってるな。愁、テレビをつけてくれないか」ガン太は言い愁は席を立って、部屋の隅にある十四インチの古ぼけているテレビをつけた。すると、まだ画面が現れる前に、歓声は沸き起こってきた。次第に画面いっぱいに、広い野球場が写し出される。その野球場のスクリーンに満員御礼という文字が、画面を通じて映し出された。また観客の歓声とともに、客席も画面に映る。それぞれのチームのメガホン。ポップコーンやおつまみを食べている人々。片手にビールを持って、楽しそうに応援している客の姿もある。「彼奴、野球下手なのに野球好きだったな」いつの間にかガン太は、カードをテーブルに置いて、無心にテレビを見ていた。「そう、この時期亨さんがいると煩いの。『テレビつけろ!』って、叫んで」唯が言った。「目、輝かせていたな……」ガン太は自然に、口が動くようだった。「そうそう、ポーカーやってる最中でも、テレビに釘付けになっちゃうから、いつも三人でやってたもんね」芳井は静かに言った。「知ってるか?彼奴ボール握れないんだぜ」ガン太が言い「知ってる。知ってる。手が小さいから握れないんだ」芳井が言った。その時、テレビから再び歓声が上がり、みんな注目した。「クッソー、巨人負けてるよ」竹中は言い、吸っていたタバコを灰皿に擦り消した。「何点?」芳井が聞くと、竹中はテレビを見入って悔し紛れに答えた。「三対二。九回裏だよ。もうダメだ。テレビ消して!」愁がテレビを消した。ガン太はまた手にカードを持ち「また、やろう」言い、カードを配り始めた。「じゃあ、僕はピラフ作るね」唯は台所に向かい「おう!頼むよ」芳井は言った。愁はまだテレビの前に立っていて、何も写っていない黒い画面を見ていた。「ほら愁、やるぞ。席につけ」竹中が言うと、愁の俯いていた顔が上がり「僕、知らなかったよ。パパ、野球好きだったんだ……」言った。その言葉にガン太が顔を上げ、みんなも愁に注目した。「家で、テレビ見たことなかった。キャッチボールもしたことなかった……」言葉ではとても表現できないような複雑さが、愁の心に渦巻いた。「ああ、好きだったよ。野球、大好きだったんだ」竹中は、優しい口調で言った。「でも亨、愁は野球出来ないって。嫌いなんだって言ってた」芳井が竹中の話に、口出すように言った。「嫌い?僕、パパとそんな会話もしたことないよ」愁は言った。「キャッチボールしたことあるよ」その言葉に、みんな竹中を見た。「昔、愁が小さい頃、亨と愁はキャッチボールしたことあるんだ。怪我したんだよ。大怪我だよ。亨とキャッチボールしていて、愁の頭にボールが当たって、病院に運ばれたんだよ」竹中は、静かな口調で言った。「そうそう、大変だった。亨、パニックになって『うちの息子を殺しちまった!』って、俺んとこ駆けて来たもんなぁ」ガン太が言った。

 唯が台所からピラフを運んで来た。「愁ちゃんの前では野球のこと、触れたくなかったんだよ。はい、ピラフ」それぞれの席にピラフは置かれた。「はい、愁」唯は、まだ立っている愁にもピラフを渡した。みんなピラフを見つめていたが、芳井だけはガッつくように食べ始めた。「あれ?味変わった?」芳井が言った。「分かる?ちょっと隠し味」唯は少し照れ気味に、頭を掻きながら答えた。「うまいよこれ!」ガン太がスプーンを手に持ち、一口食べた。「よかった〜ガンちゃんあんまり誉めてくれないから……」唯は言った。「本当だ。うまい!」竹中も言った。「うん、美味しい……」愁はにこやかに言った。愁はまだ立っている。立ちながらピラフを食べ、答えた。だが、本当は味なんか分からなかった。何を語っていいのか、分からなかった。<僕、何をしたらいいんだろう>その言葉が過ぎる。これからの事、それが愁の頭の中に、不安として過ぎった。「愁、早く座れ」竹中だった。愁は顔を上げて竹中を見、頷いて席についた。そしてまた、手に持っていたピラフを食べ始めた。「唯、ビールを持ってきてくれ」竹中の指示で、唯は台所に向かった。

 冷蔵庫を開け、三百五十ミリ缶のビールを四本だし、戸棚からコップを三つ出してお盆に乗せ、みんなのところに戻った。ビールとコップを配ると、みんな缶を開けてコップに注いだ。唯自身は、ビール缶を持って立っている。「愁ちゃんは、何を飲む?」唯が聞くと「愁はいいよ」竹中が言った。すると竹中はコップに注いだビールを、愁の前に差し出した。「飲め!」竹中は、愁に真剣な顔をして言った。「ちょっ、ちょっと……」唯は困り「いいから飲め!」更に強い口調で、竹中は言い迫った。「たけちゃん、愁ちゃんはまだ子供なんだから……ねぇちょっと!みんなもなんとか言ってよ!」唯はガン太や芳井に助けを求めたが「愁ちゃん、飲みな」芳井は言い「飲め!愁!」ガン太が言った。「もうみんな!愁ちゃん、無理しなくていいんだからね」唯は困り果て、ちょっと弱気にもなっていたが、竹中はその唯の話も聞かずに続けた。「お前はもう大人なんだよ。亨が亡くなって、お母さんには、もうお前しかいないんだ。お前が恵子ちゃんを支えていくんだぞ。さぁ、飲め!」愁は、目の前にある、ビールの入ったコップを見つめた。「愁ちゃん、飲まなくていいからね」唯がまた、慌てて付け加えた。みんな、愁に注目した。

 その時、愁はゆっくりとコップを手に持ち、そっと口に付けて、一気に飲み干した。「よくやった!愁!」竹中は手を叩き、喜び言った。ガン太と芳井も手を叩いた。唯は一人心配して「愁ちゃん、大丈夫?」何度も繰り返して心配した。そして竹中は、タバコに火を付けた。一つ吹かし、もう一つタバコを吹かした。吹かし終わると、竹中はそのタバコを摘み、愁に差し出した。「吸うか?」竹中は鮮やかに笑って言った。「たけちゃん!」唯は怒った口調で、叫んだ。すると愁はタバコに手を出し、口に含んで一口吸った。「愁ちゃん!」唯が叫んだ。その時、愁の様子はおかしくなった。タバコを持っていた手は止まり、口元が震え、目を白黒させて、一気に咳き込んだ。それと同時に口の中に含まれた煙は一気に吐き出され、ガン太や芳井の顔の辺りに充満し、空気と共に天井に上昇した。その光景に、竹中が大笑いした。続いてガン太も芳井も笑った。唯は少し微笑んだ。愁はみんなに笑われ、少しムッとしてまたタバコに手を伸ばして口に銜え、マッチを擦って火を付けようとした。それを竹中が横から奪った。「もうやめとけ。お前はまだ無理だ」そう言い、愁から奪ったタバコを口に銜えて火を付け、一つ吹かし、もう一つ吹かした。そして竹中は愁の肩に手を置いた。「お前には、根性がある。亨に似た根性。一途な根性だ。お前は恵子ちゃんを守り、全てを愛して生きろ。いろんな喜びを知れ、いろんな悲しみを知れ、いろんな苦しみも知ろ。生きることへの励み、楽しさ、人への思いやりや優しさを持っていくことが、お前への使命だ」竹中は微笑んで愁を見「今日から、お前は俺達の仲間だ」言い、またタバコを一つ吹かした。

 芳井が静かにカードを配り始めた。配られたカードを、竹中とガン太と芳井は手に取り、愁もそっと手に取った。爽やかな顔をしていた。唯はその顔を見て安心して、台所に戻った。

 そしてまた、ゲームが再開された。



 もう夜は更けていた。村中の明かりという明かりは消え、愁は暗闇を、懐中電灯もなく歩いていた。

 家に着き玄関を開けると、そこもまた、全ての明かりが消えていた。愁はまず居間の明かりをつけた。そして廊下をスタスタと歩き、客間に向かった。すると客間の障子の奥から、蝋燭の明かりが漏れており、そこに人影が見える。愁は少し障子を開けて、中を覗いた。恵子の姿があった。ずっと亨に寄り添って見つめている。涙を流していた。みんなの前では、決して見せなかった涙。亨の前で、一人泣いていた。愁はその姿を見、そっと障子を閉めた。すると、どこからかリュウが愁に歩み寄ってきて、愁はリュウの頭を撫でた

第五章




 山道を駆ける自転車がある。素早く動くペダル。その自転車の後ろには、手紙やら封筒やらがいっぱい入った鞄がある。鞄から溢れそうな手紙、今にも落ちそうだ。自転車はフル回転、漕いでいるのはガン太だった。妙に新しい、まだおろし立てと思える制服らしき服を着ていた。山を駆け下りている。「ヒャッホー!」と大声で叫び「ほらほらほらほら!ガン太様のお通りだ!皆の者、退け!」人気のない山道で、そんなことを叫びながら、もの凄いスピードで山を駆け下りていた。

 暫くして、自転車のブレーキをかけた。が、自転車は止まるどころか、前にも増してスピードが上がっていった。一度、もう二度、ブレーキをかけたが止まらない。終いにガン太は、ブレーキと共にハンドルをギュッと握った。「ブレーキが、効かない……」青ざめた顔をして「ワァー!」と、騒いで降りていった。

 亨の死から一ヶ月過ぎた、六月の中頃の事だ。木の影が、ガン太の顔を駆け抜けた。「誰か、誰か助けて……」腰を抜かしたような顔をして「誰か……誰か……神様……どうか、僕をお助け下さい……」自転車のスピードは、ドンドン上がっていく。自転車はバランスが崩れてぐらつき始め、ガン太もハンドル操作をするのがやっとだ。それでも何とか道に沿って走っていたが、もう限界は来ていた。「誰か!止めて!」叫び、山に木霊した。そのままのスピードで山を下り、薔薇畑を通過し、そのまま愁の家にある物置小屋に突っ込んでいった。ガッシャーンと、もの凄い音と共に、自転車は止まった。

 その時、愁は一人で食事していた。そのもの凄い音に驚き、慌てて窓の外を覗いた。すると、物置小屋に激突して破損した自転車と、倒れている人影が見えた。愁は、慌てて外に出た。

 物置小屋に駆け寄ると、飛び散った手紙と破損した自転車のタイヤがクルクルと回っていた。そして人影が見えた。愁はその人影に近付き、その顔を覗き込んだ。ガン太だ。仰向けに、目を真ん丸く倒れている。「ガンちゃん!」叫んだ。「おう!愁か。……おはよう」ガン太は言った。「……おはよう」愁は、ガン太の顔を覗き込んで答えた。ガン太が見た空は、青かった。雲が緩やかに流れていた。「今日は、いい天気だ……」ガン太は上半身起こし、散らばった手紙から、一通の手紙を探して手に取り、愁に差し出した。「はい、手紙」ガン太は言った。「手紙?」愁は首を傾げた。「ああ、今日から郵便配達人だ」そのガン太の言葉に、愁は少し微笑み「仕事、決まったんだ」言った。「郵便配達も危険だな……」ガン太は立ち上がり、服に付いた砂埃を振り払って、自転車を起こした。「あ〜あ、タイヤ曲がってんな。初日から散々だ」手紙をかき集め、鞄に入れてガン太は自転車を跨いだ「恵子さんは?」ガン太が聞いた。「ママ?仕事」愁は答えた。「そうか、日曜日なのに大変だ」恵子は仕事に出ていた。亨が亡くなり、生活源がなくなって、毎日仕事に明け暮れていた。ガン太はそれを知っていた。だから愁にそれ以上は問わなかった。「じゃあな」ガン太はまだ配達が残っている。「うん、頑張ってね」愁は笑顔で言った。その愁を見、ガン太は自転車を漕ぎ始めた。自転車はガタゴトガタゴト音を立て、漕ぎ難しそうに進んでいった。その姿を愁は、ずっと見ていた。

「ガンちゃ〜ん!」

 ガン太が暫く自転車を進めたところで、突然叫び呼び止めた。

「ガンちゃん、ちょっと待って!」

 ガン太は足を地につけて自転車を止め、振り向いた。すると愁が走り近付いてきた。

「何だ?」

「僕もやる!郵便配達!僕も手伝わせてください」

「どうした?」

「ママを助けたい。ママを少しでも楽にしたいんだ」

 ガン太は少し考え、愁に言った。

「分かった。乗れ」

 愁は後ろにあった手紙の入った鞄を抱えてそこに乗り、ガン太は自転車を漕ぎ始めた。曲がった自転車のタイヤが妙な音で唸り、‶ガタゴトガタゴト″揺られながら二人は進んでいった。



 二人の乗った自転車は止まった。愁が見ると、目の前に家があった。ガン太の家だ。「上がれ」ガン太が言うと、愁は自転車を降り、玄関の扉を開けて中に入っていった。

 愁はガン太の家に、久しぶりに来た。ガン太は愁を寝室へ案内し、愁は寝室に入った。その部屋には、洋服タンス、小型テレビ、本なんか殆ど入っていない本棚。他に、今は押し入れに入っているが、二人分の布団が敷けるスペースがある畳の殺風景な部屋だ。愁はそのスペースに座った。愁はよく遊びに来ていたから、見慣れてはいた。ガン太が押し入れを開け、二段になっている押し入れの、下の段から段ボールを三箱取り出した。ガン太はその段ボールの一つを開けると、中から服を放り投げ始めた。一つ目を空け終わると二つ目を開け、二つ目も空け終わると、三つ目を開けた。その時には、辺り一面投げ出された服で、部屋は埋め尽くされていた。「あった!」ガン太が叫んだ。段ボールの中から、取りだした物。それは、小さな黒い服だった。「愁、この服ちょっと着て見ろ。俺が小学校の時、着ていた学生服だ」愁はその学生服に触れた。「おい!お〜い静江」ガン太は少し威張り口調で呼ぶと、足音が聞こえ「何よ」古希(こき)静江(しずえ)が顔を出した。ガン太の妻だ。太ってはいないが、少し顔も腹もふっくらとしてきている。ちょっと食べると太る体質のようだ。

「あら、愁ちゃん来てたの」

 静江は、愁ににこやかに、優しい口調で言った。

「おばさん、こんにちは」

 愁はあどけない表情で、静江を見た。

「こんにちは。愁ちゃん元気?」

「うん」

「恵子ちゃんは?」

「ママ?ママは仕事」

「あら、日曜日なのに大変ね」

「うん、だから僕、ママを手伝うの」

「あら、偉いわね。何を手伝うんだい?お掃除かい?お洗濯かい?」

「ううん、郵便配達」

「ゆうびん……って、この人の仕事じゃないかい!」

 ガン太を指差した。

「あんた!また愁ちゃんに、何か吹き込んだんじゃないのかい!」

 ガン太を睨みつけた。

「お、俺は何も……」

 ガン太は懸命に弁解しようとしたが、言葉が出ない。

「違うよおばさん。僕がガンちゃんに頼んだんだ」

 愁はガン太をフォローした。

「そうだ」

 ガン太は腕を組んで、大きく頷き言った。

「もちろん掃除も洗濯もするけど、それだけじゃ、ママ大変なんだ」

「そう!愁のその気持ちに感激したんだよ。だから俺の仕事を手伝って、ちょっとでも生活の足しになればと……な」

 ガン太は言った。

「……分かったわ。おばさん、何かやることある?」

 ガン太が学生服を差し出した。

「この服、愁にあげたんだよ。郵便配達するのに丁度いいだろ。だけど、ちょっとデカイんだ。縫ってくれないか」

「分かったわ。ちょっと待ってて」

 静江は学生服を持って、部屋を出ていった。愁はガン太と静江のやり取りを、微笑んで見ていた。<ガンちゃんはおばさんが怖いんだ。だからいつも怖じ気つく。まあ、あのおばさんなら仕方無いだろう。何しろ気が強いんだ>

 暫くして、静江が戻ってきた。

「ほらあんた、出来たよ」

 静江は学生服をガン太に渡した。

「愁。着て見ろ!」

 ガン太は、静江から受け取った学生服を、愁に渡した。そして愁は、学生服を着てみた。ガン太は姿見を持ってきて、愁の前に置いた。

「お〜ピッタシだ」

「愁ちゃん、格好いいじゃないかい」

 静江は笑顔で言った。ガン太は学生服と一緒にあった、学生帽を手に取った。

「よし!後は帽子だ」

 愁は帽子を被り、鏡を見て整えた。

「よ〜し!」

 ガン太は愁を見て言った。静江が笑い、愁は満足げに鏡を見ていた。



 それから毎日郵便配達に明け暮れた。朝起きて恵子と一緒に食事を作り、掃除をして学校に行き、学校から帰るとガン太と一緒に郵便配達の仕事をした。

 それから何日か過ぎた。愁は一人で、仕事をするようになっていた。霧が濃く、仄かに小雨が降っている。愁はいつものように仕事を終え、隣町の郵便局へ向かって自転車をこいだ。そして愁は途中、自転車を止めた。そこは薔薇山の亨と一緒に行った、湖に通じる場所だった。上を見上げると樹木の枝に、目印の赤いリボンはある。愁はリボンを見、更にその上の空を見た。すると雲に途切れが出来、太陽の光がその透き間から漏れてきた。その太陽の光は、樹木に射し込み、霧は煙のように浮き上がった。その中を小雨はパラパラと降っていた。

 自転車を置き、道からはずれて草むらへ一歩踏み込んだ。一歩、また一歩進み、草を掻き分け、濃い霧も掻き分け、ゆっくりゆっくり前に進むとそこに湖はあった。

<パパと来た湖。あれから一度も、ここには足を踏み入れなかった。青い湖。白い花。ああ、妖精だ。おいで。何で草に隠れているの?僕、ここなんだ。あれ?あの赤い花、妖精に変わっちゃった。こっちへ来る。体中に光を放って、こっちへ飛んでくる>体から放った光が散らばり、そこらに茂る草の上に降り立つと、その草は花となり、赤や黄色、白と様々な色の花が咲いた。<ここは……ここは何処なんだ……パパ、ここは何処なの?>

 愁は何もない物を、掻き分けて歩いていた。ゆっくりゆっくり手を広げて歩いた。



 車のクラクションの音がする。遠く、車のエンジン音が聞こえてくる。荒れ狂うエンジン音。愁は振り返り、茂みの中へ体を突っ込んで、草を掻き分けて駆け抜けた。

 草を掻き分け掻き分けて、辿り着いた。愁はまだ道に出ず、茂みの中から、車のエンジン音がする方向へ、草を掻き分けて顔を覗かせた。だが霧は深く、エンジン音が鳴り響くだけで、車の姿は一向に見えなかった。愁は道に出た。自転車に(もた)れ、車を待った。

 微かに車のヘッドライトの光が、霧の中に浮かび上がってきた。徐々に車のエンジン音が大きくなってくる。徐々に徐々にエンジン音が大きくなると、車の姿が幻想的に霧の中から浮いてきた。大きな荷物を抱えた小さなトラックが、愁の方へ向かって来る。‶ガタガタ″と音を立てて、今にも落ちそうな荷物。初めて見る車。村の人ではないようだ。

 気がつくと、車はもう目の前に来ていた。霧が視界を邪魔し、遠近感を誤魔化していた。車の走る音だけが響き渡り、今愁の前を通りすぎる。

 車の窓は曇っていた。愁からは曇った窓で車の中は見えなかったが、車が通り過ぎる瞬間、誰かが車の中から指で窓を拭き、外を覗いた。それで愁は見えたんだ。<少女だ……少女がいる……>ジッと、窓から覗く少女の瞳を見た。<なんて、澄んだ瞳なんだ……>その時、少女と目があった。愁を見つめ、通り過ぎる。ただ呆然として、愁は立ち竦んだ。

少女は、青い瞳をしていた。

第六章




 しっとりとした雨が、神霧村に降り注いだ。静かな日は続く。青い目の少女は、愁の家の隣に越してきたらしいが、まだ誰も姿は見ていなかった。愁が少女を見てから、もう四日も経つ。本当に、その家に住んでいるのかさえ分からないほど、静かだった。

 次の日の夕方、まだ雨は降り注いでいる。愁は傘を差して学校から帰る途中、薔薇山を下っている。辺りは静かで風もなく、‶ピチャピチャ″と愁の歩く音だけが聞こえた。雨の音しかしない山を歩き、薔薇畑を通って玄関へと向かいドアを開けようとすると、遠くに人影が見える。愁は振り向いた。隣の家の外に、その人影はある。愁はジッと見た。少女だ。あの、少女だ。

<何をしているんだろう……>愁は思った。少女は傘も差さず、玄関の外で雨に濡れて佇んでいる。愁は暫く立ち止まって『何故少女が、傘もささずに立っているのか?』を考えたが、結局思いつかず、首を傾げて家の中に入っていった。

 次の日、まだ雨は降っていた。リュウを散歩に連れていた。傘を差し、リュウは繋がれて、雨に打たれていたが、喜びはしゃいでいた。行く道行く道リュウに従った。雑草の生い茂った原っぱや田圃の瑞々しい香り、薔薇畑の薔薇の匂いを嗅ぎながら薔薇山に入っていった。

 山を登った。山には余り雨は入ってこなかった。<傘を閉じよう>愁は思い、傘を閉じた。木の葉から垂れた雫が、愁た。<冷たい!>愁は首下に手をあて、上を見上げた。すると、次々と木の葉から雫が落ちてきた。愁は何故か、とてもいい気持ちになった。閉じた傘を振り回した。その振り回した傘が木の葉にあたり、そこからまた雫が落ちてリュウの体にあたり、身震いした。リュウもはしゃぎ周り、愁は傘を振り回し歩いて、湖の入口に着いた。

 愁は傘を放り投げ、リュウの綱を解いて草むらに入った。雨で濡れた草が体にあたり、服はビッショリと濡れる。リュウも愁の後をついていき、体で草についた雫を受け止めた。愁とリュウは歩き、そして湖に着いた。まるでここだけ、この湖だけは別世界だった。雨など一滴も入らず、ここだけ日が射し込んでいる。

 雨の降らない湖を陽気に歩いた。湖の岸に沿って、ステップを踏みながら歩く。それにリュウも愁について歩いた。そして、リュウは突然立ち止まり、遠くを眺めたかと思うと、吠え始めた。愁もそのリュウの姿に気づいて立ち止まり、リュウが吠えている遠い方向を見た。人影が見えた。遠く、目を擦って見直してもなかなか視界が定まらないほどの遠さ。愁は目を擦り、目を見開いてその人影を見ると、それはあの、青い目をした少女だった。<あの子だ……何でここにいるんだ……>愁はそう思うと走り出し、少女の影を追った。

 少女は木の影を、跨ぎ歩いている。少女は木と木の狭間を途切れ途切れに歩き、愁は少女を懸命に追った。<何処行くんだ……>息を切らし、少女を思い走った。少女と話したかったんだ。まだ誰も話したことのない少女と、話したかった。人の住んでいる気配のないあの家に、興味を持ち始めていた。少女の名前は何だろうか、家族は何人で、何故青い目をしているのか、少女の声はどんな声をしてるのだろう。愁は走って走って走りきった。だが、少女の姿はもう何処にもなかった。愁はただ一人、息をきらして立ち竦んだまま、動けないでいた。



 次の日、村に霧がうっすらと舞い込んでいた。まだ雨は仄かに降り注いでいる。愁は村役場にいる浅倉唯に、恵子が焼いたカスタードクリームがたっぷり入った、自慢のシュークリームを届けた帰りだった。傘を差し、家に向かっている。地面に雨が叩きつけられる音、雨が傘にあたり跳ね返る音、愁の水溜まりを踏みつける音しか聞こえなかった。愁は村役場から、家までの長い道程を歩いていた。いつもと同じ景色に同じ道、一週間止まない雨、愁は何か退屈に思い始めていた。

 愁の遠目に人影がぼやけて見える。少女だ。少女は雨に打たれて佇んでいた。愁は立ち止まって<また、あの子だ……>思った。愁はその少女に話しかけるかどうか迷ったが、勇気を振り絞って話しかけることにした。そして愁は少女に歩み寄った。少女は俯いて悲しい顔で立っている。愁の姿には気づかなかった。「あの〜」愁は声をかけた。少女はその声にビクッとして、脅えた顔で振り向き愁を見た。愁はまた静かに声をかけた。「名前……なんて……言うの……?」微笑んで少女を見た。少女はそれでも、愁を脅えた顔で見ていた。「傘……あげる。風邪……引くよ」愁は傘を差しだしたが、少女は傘を持とうとはせず、ジッと愁を見ていた。「み……つ……き……」嗄れた声で言った。雨の音でよく聞こえなかったが、愁はもう一度少女の言葉を待った。「く……ら……お……か……」愁は少女を見ていた。「み……つ……き……」少女の名前が分かり、愁は笑顔で咄嗟に答えた。「僕の名前は愁。橘愁って言うんだ。年は十二才。来年中学一年生。この村には学校が無くて、隣町まで行ってるの。山道を通って。倉岡さん?み、美月……ちゃん?美月……」美月の顔が少し微笑んだ。「この村、子供が僕しかいないの。よかった、この村に来てくれて。一緒に行けるね、学校。あれ?……美月は、年いくつなの?」美月は微笑んでいて、恥ずかしがるように俯いた。「どこから来たの?前に山で美月を見かけたよ。二度ね。その時も雨だった。美月と会うときは、いつも雨だね。……美月と呼んでも?」美月は俯きながら頷いた。愁は興奮していた。自分の村に子供がいる。愁は嬉しくて、自分の思いついたことを口にした。すると、美月は俯きながら、小さな声で言った。

「十二……才……」

 愁は微笑んだ。

「僕と……同じだ……」

 美月は頷いた。

「山を……二つ越した村……私の村……」

「でも、この村が、美月の村だよ」

 愁は笑顔で言った。

「この村?」

「この、神霧村だよ」

「うん」

 美月は大きく頷いた。

「ようこそ!神の村へ」

 愁は静かにお辞儀をし、傘を持ってる手を差し出した。

「この村の神は、そなたが来られたことを、心から歓迎する。その歓迎の意として、この傘を進ぜよう」

 愁は顔を上げた。

「風邪引くよ」

 そう笑顔で言うと傘を美月に渡し、走って自宅へ戻っていった。その二人の光景を、何者かが部屋の窓から覗いている。

 美月は愁が家に入って行くのを見届けると、傘を差してゆっくりと歩いて家の玄関に向かった。そして玄関の前に立つと傘を閉じ、少し家の中に入るのをためらうかのように、ジッと立ちつくした。傘をグッと握り締めたかと思うと玄関の横に放り投げ、そして玄関のドアノブをそっと回して家の中に入っていった。美月は髪も服も体中がビショビショで、水が垂れて一瞬のうちに床に溜まった。下駄箱下にあった雑巾で体を拭い、そしてその雑巾で床に垂れた水を拭いた。美月が床を拭く姿は、何か焦っているように見え、何か脅えているようにも見えた。

 男が近付いてきた。その気配で美月の動きは止まった。顔を上げ、男の顔を見ると、ゆっくりと立ち上がった。震えと脅えが重なり合って体中が硬直し、雑巾を床に落とした。

 その瞬間、男は美月の頬を勢いよくひっぱたいた。



 恵子が家に帰ってくると、床が濡れていた。「愁!」恵子は愁の名を呼んだ。だが返事はない。「愁!」もう一度呼んだ。すると奥から裸の愁が、バズタオルで体を拭きながら出てきた。体から湯気が出ている。その姿を見

「お風呂入ってたの?」

 恵子は聞いた。

「うん。体濡れて風邪引くから」

「あれ?あなた傘は?」

「隣の子にあげた……」

 恵子は質問していながら、その答えは聞いていなかった。それより床に垂れ落ちた水が気になる。

「ほら、こんなに床を濡らして。雑巾持ってきなさい」

 愁は雑巾を持ってきて、恵子はしゃがんで拭き始めた。暫く拭き、そこで愁の言葉に気がついた。

「隣の子?」

 床を拭きながら、愁の顔を見上げた。

「うん。僕会ったの」

「他は?」

 恵子は立ち上がった。

「その子だけ」

 愁は言った。

「どんな子なの?男の子?女の子?」

 恵子はもう、床に垂れた水のことを忘れ、隣の子が気になっていた。

「女の子でね、名前は美月って言うんだ。年は僕と同じ十二才」

「何処で会ったの?」

「家の前でね、濡れてたんだ」

「何で?」

 恵子は首を傾げた。

「分かんないけど、凄く寂しい目をしてた」

「みんな隣の家の噂してるわ。もう一週間よ。挨拶もないし、誰も見たことがないの。みんなが警戒しているわ。非常識な家として」

「青い目をしてた……女の子……」

「え!外人かしら?」

 分からないことは多かった。誰もが興味を示していた。それは愁も同じだ。愁はその日、布団に潜り込んでから、美月のことばかり考えた。一緒に学校へ行くこと。畦道を一緒に歩くこと。湖で一緒に遊ぶこと。あの湖で──────

 <そうだ!美月を湖に連れて行こう!あの、湖に……>愁は思った。あの湖は亨との秘密だが<美月ならいいだろう……僕の友達なんだ>そう思うと、嬉しくなってなかなか眠りにつけなかった。



 男はソファに腰を下ろし、バーボンを飲んでいた。男は三十代半ばで、なかなかのハンサムな顔をしている。背も高く、足も長くてお尻も引き締まっていた。顔は小さく短髪で、不精髭を生やしている。年を感じない風格をしていた。美月の父親である。

 コップに注いだバーボンも、底をついた。また倉岡直也はバーボンの蓋開け、コップに注いだ。不精髭を撫でるように触り、タバコに火を付けて一服した。直也の習慣であった。何かストレスや、不服があるときに決まってする習慣だ。

 夜十一時を過ぎていた。ドアをノックする音が聞こえる。直也は玄関を向いた。激しくノックする音が聞こえてくる。直也は立ち上がり、玄関へ向かった。足元はかなりふらつき、歩くのもやっとだ。

 玄関のドアを開けると、一人の女が立っていた。この女も足元がふらついている。雨に濡れ、体がビッショリと濡れていた。だが女はそんなこと構わず、ほろ酔い気分でかなり上機嫌に話しかけてきた。

「来ちゃった〜何でこんな田舎に住むの〜?」

「なにで来た」

 直也は表情を変えず、女を冷静に見ていった。

「あ〜れ」

 女が後ろを指した。そこには泥が跳ねて汚れている、ジープがあった。

「ね〜入れてよ〜家んなか〜雨が冷たいの〜」

 直也はジッと立っていた。すると女は突然直也に抱きつき、キスをした。

「やっぱりあんたが一番。気持ちいいわ〜あんたといると〜」

 女は直也の目を見、直也は女を家に入れた。その時、美月は二階の部屋にいた。壁に寄り添って座っている。天井に窓がある。その窓にあたる雨が、影となって美月の体に降り注いだ。

 隣の部屋から、女の喘ぎ声が聞こえてきた。美月は咄嗟に耳を塞ぎ、体中が震えだした。その震えを止めようと、焦ってもいる。隣の部屋でセックスをしている。直也はいろんな女を連れてきては、抱き合っていた。だがそこに愛はなく、一晩だけが殆どだ。一晩終わったら、女は帰っていく。美月はその事を慣れていた。その現実を、頭で整理出来ていた。だが体が抵抗し、震えが起こった。喘ぎ声が聞こえなくなっても、その震えは一日中止まることはなかっ

第七章




 一週間ぶりに、神霧村に晴れ間が訪れた。愁はカーテンを開け、窓を開けると爽快な日の光が入り込んできた。爽やかな風も流れた。

愁は部屋を飛び出した。走り走って、美月の家へ向かった。美月は二階の窓から、外を眺めていた。眩い光にあたり、田植えの終えたばかりの、苗の心地よい匂いが辺り一面に香った。

 愁が美月の名を叫びながら走ってきた。家の前に着くと、愁は二階の窓から覗く美月を見上げて言った。

「いこう!」

「えっ?」

 美月は驚いた。

「行きたい所があるんだ!」

 愁は言った。美月は一瞬戸惑ったがすぐさま笑顔に変わり、大きく頷いて慌てて下へ降りていった。



 二人は走った。愁は美月の手を、ギュッと握って引っ張った。腕が千切れるぐらいに引っ張り走った。愁は美月が村に来たことが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。それは美月も同じだった。愁との出会いが、自分の人生を大きく変えるとまで予感していた。

 愁は立ち止まり「ここだ!」言った。そこにある樹木の枝に、結ばれている赤いリボンがあった。すると愁は突然美月に背を向け、しゃがみ「僕に乗って!」美月は訳が尾分からなかったが、言うとおりにして負ぶさり、愁はゆっくりと立ち上がった。「美月、目を瞑って。僕を信じて。ここが入口だよ。僕がいいって言うまで、目を開けないで」美月は頷き、力いっぱいに目を閉じた。「じゃあ、行くよ」愁はそう言うと、美月を負ぶりながら勢いよく草むらに突っ込んでいった。愁は走った。草花を避け、木の根っこを飛び越え、そして辿り着いた。愁は立ち止まり、しゃがんでゆっくりと美月を降ろした。「目を開けていいよ」愁が言うと、美月はゆっくりと目を開けた。美月は驚きに満ちていた。そこは青々とした湖。色とりどりの花々、巨大な樹木、巨大な岩、そこに見たことのない自然があった。「こっちだよ」愁は美月の腕を引っ張り、岩に近付いて美月を座らせた。

 美月を座らせると、愁は色とりどりの花々をむしり取り、小さな花束を作った。

「これ」

 愁はあどけなく花束を渡し、美月の隣りに座った。

「私に?」

 美月は驚き、愁は頷いた。

「ありがとう」

 美月は大事に花束を抱き抱えた。その美月に愁は近づき

「やっぱりだ」

 マジマジと美月の目を見て言った。

「えっ?」

 美月はあまりにも愁が勢いよく近付いてきた事に驚き、マジマジと目を見られたことに恥ずかしくなって、少し後退った。

「青い……」

「あお?」

「水の色。湖と同じだ」

「えっ?」

「め……」

「め?」

 美月には何を言われているのか分かっていた。<きっと、自分の目の色のことを言われてるのだろう>コンプレックスを持っていた。急に目のことを言われ、誤魔化した。

「ねぇ、何で青い目をしてるの?」

 素直な質問だった。愁には全く悪気のない、素直に疑問に思っただけなんだ。だが、美月には愁の言葉に戸惑いを感じた。少し黙り、考えた。みんながこの目のことをバカにした。愁もバカにするだろうか。でもみんながバカにしたとき、母親はいつも美月を慰めてくれた。その言葉を愁に言おうか迷っていた。美月は愁を見た。すると愁は、美月の顔を見ながら黙って言葉を待っていた。そしてそっと、美月の口は開いた。

「ママは言ってたわ。青い瞳は、女を美しくする魂の輝きだって」

 その言葉に愁は、にこやかに笑い

「じゃあ、神様がくれたプレゼントだ!」

 叫んだ。美月を優しい笑顔で見ていた。

「でも私は嫌い」

 美月は愁の言葉に安心して、強がった言葉を吐いてしまった。

「なんで?」

 愁は、不思議に聞いた。

「こんな目、誰もいないじゃない。みんな、外人女だって馬鹿にするもの」

「外人?」

「ママが、アメリカ人なの」

「ううん、綺麗だよ。僕は好き」

 愁は美月の言葉を素直に聞き、素直に答えた。

「本当?」

 美月に笑顔が戻った。その時、美月の背後に小さな人影が過ぎった。愁はその人影を見て、何か思い立ったかのように美月に言った。

「美月、目を瞑って」

「なんで?」

「いいから」

 愁が言うと、美月は目を瞑った。∧果たして、美月に見えるだろうか∨愁は不安だった。美月の目に手をあてて、こう言った。

「これは、神様の誓いだよ。これから見る全てを信じる?」

 美月は少し戸惑ったが、頷いた。

「僕を信じる?」

 美月は頷いた。

「自分の声を信じる?」

 美月は頷いた。

「想像して!」

 美月は頷いた。愁は美月の目から、手を退けた。

「目を、開けていいよ」

 美月はゆっくりと、目を開けた。

 小さな妖精が、行進しながらやってくる。数えられないほど、大勢だ。湖全域から、美月を歓迎するように集まりだした。皆足元を揃えて行進し、二人の周りに集まって、一斉に止まった。愁は驚きに満ちていた。これほど凄いものが、見えただろうか。果たして美月は見れただろうか?美月を気にし

「美月……」

 呼んだ。

「何が起こったの?」

 美月は首を傾げていた。美月には、この妖精にパレードが見えなかったのだ。美月にはただの湖だ。そのことは、愁にも分かった。でもどうしても、美月に妖精を見せたくて、もう一度美月にいった。

「もう一度目を瞑って、祈るんだ。自分の声を……自分の思いを……自分自身を……信じて……想像して!美月は美しい湖にいるんだ……」

 愁は見続けた。そして一息置いて、静かに口開いた。

「目の前の花を信じる?目の前の木を信じる?想像して……ここは、今まで触れたことのない、自然があるんだ……僕の目の前に見える物は、みんな生きてるんだ……僕は、その中にいるんだよ……美月と一緒に……僕達以外の人達が、この岩の周りに駆け寄って、僕らを歓迎している……」

 妖精は行進しながら、二人が座る巨大な岩の周りを囲み始めた。愁はその姿に微笑み

「目を開けていいよ……ゆっくり……ゆっくり……そっと……そっと……声を出さないで……僕を信じて……きっと、見えるから……」

 愁は優しく言い、美月はゆっくりと瞼を開けた。

 するとそこには、妖精がいる。全ての物が覆い隠すほど、妖精で埋め尽くされていた。美月はその光景に、驚きを感じたと言うか、ただただその感情が言葉に出ず、呆然と辺りを見渡していた。だが、目には涙を浮かべていた。

 美月は思いだしていた。母親のことだ。アメリカ人だった。とても綺麗で、誰もが認める美貌の持ち主だった。美月は母親が世界一の美人だと思っていた。

 美月の中の記憶が過ぎった。母親は雨の中、傘もささずに走っている。その顔は、とても悲しかった。その母親を、美月は懸命に追いかけていた。

 その記憶も消え、また新たな記憶が蘇る。父親の直也は、美月を殴っている。硬直する美月。涙は流さず、ただ体の震えだけが、染み込んでいる。美月は恐れ、見ている。その美月の目に、もの凄い形相で、直也が近付いてきた。

「ここは、いろんな思いを感じるんだ……」

 愁は、周りの妖精を見ながら言い

「美月は?」

 美月を見て聞いたが、美月は咄嗟に首を横に振った。

「なにも?」

 愁は不思議に思って聞くと、また美月は首を横に振った。

「悲しい……」

 美月は呟き

「えっ?」

 聞き取れなかった。

「悲しい思い出だけあるの、私」

 愁は美月を見た。

「ママが、一ヶ月前に死んだの。まだ私、ママを忘れられない……」

「僕もパパが死んだ」

 美月は驚き、愁を見た。

「でも、僕は悲しくないよ。だって、楽しい思い出ばかりだもん」

 その愁の言葉に、美月は笑顔になり

「愁って、面白いね」

 言った。愁はにこやかに笑った。それにつられて、美月は吹き出して笑った。美月が気づくと、辺りは薄暗くなっていた。

「いけない!パパが帰って来ちゃう」

「パパ?」

「うん」

「じゃあ、明日も会おう!」

 愁は大きな声で言った。

「うん!」

 美月も大きく頷いた。

「よし!走ろう」

 二人は一斉に立ち上がり、走り去っていった。



第八章




 倉岡直也が帰宅した。ドアを開け、家の中に入ると、すぐさま服を脱ぎ始めた。襟シャツを脱ぎ、ベルトを外し、ジーンズを脱ぎ、靴下も脱いでパンツを脱いだ。全裸となった。胸板が厚く、太股も太く、お尻も締まりがある。体全身が、筋肉質だ。

 前方から美月が近付いてきて、直也は言った。

「風呂は沸いてるか?」

 美月を見

「うん、沸かしといた」

 美月は直也を見

「いい子だ」

 美月の頭を撫でた。そのまま直也は風呂場へ向かい、美月は直也の脱ぎ捨てた服を、拾い歩いた。



 村役場の管理室では、カードゲームをしていた。そこには竹中、唯、ガン太、愁がいた。

「畜生!何なんだよ!」

 突然ドアは開き、芳井が顔を出した。全身ずぶ濡れになっている。

「雨?」

 唯が言った。エプロンに身を包んで、布巾で皿を拭いていた。芳井は怒っている。唯はその芳井を呆然と見ていた。

「突然だよ!もう露は終わってるんだぞ!なんで俺が!唯!タオル!」

「はい」

 唯は咄嗟に、手に持っていた物を投げた。芳井は手に取り

「サンキュー」

 顔を拭いた─────が

「って、これは布巾だろが!!!!」

 芳井が手に取って顔を拭いた物は、今まで唯が皿を拭いていた布巾だった。

「あ、ごめん。今持ってくるよ」

 唯はタオルを取りにいった。

「な〜にが、『あ、ごめん』だ。彼奴は昔からそうなんだ。肝心な時に役に立たない。役立たずだ。いや、肝心なときじゃない。僕が困ってるときはいつもそうなんだ。僕に限ってそうなんだ。……待てよ。僕だけってゆうことは、計算か?」

 芳井はブツクサと独り言を言いながら、手に持っていた布巾で顔を拭いていた。

「愁、ちょっと窓を開けてくれないか」

 竹中が言い、愁は席を立って窓を開けた。外は雨がもの凄い降っている。

「すげ〜」

 ガン太は外の雨を見て言った。唯がタオルを持って、戻ってきた。

「はい、ヨッシータオル」

「おう!唯、ちょっとシャワー浴びるわ」

 芳井はタオルで頭を拭いながら、シャワー室へ向かった。愁はまだ外を眺めていた。

「愁、いつまでそんなとこにいるんだ。早くこっち来て、ゲームに参加しろ」

 竹中は言った。

「だって分からないんだもん」

「ブラックジャックだ」

 ガン太が言った。

「それは分かってるよ。ゲーム知らないよ。ブラックジャック知らないもん」

「分かった、教えてやるよ。こっち来い!」

 手招きしながら、ガン太は言った。愁はガン太の隣りに、寄り添って座った。

「いいか、ブラックジャックは、ゲームの中でも一番簡単なゲームだ。数字を二十一に近づければいい」

「二十一?」

「ああ、そうだ。まずたけちゃんを、ディーラーだとしよう」

「ディーラーって、何?」

 愁が聞いた。

「親のことだよ。俺等は子だ。たけちゃん、カード配って」

 竹中は裏向き一枚づつカードを配った。そして二枚目をガン太の前に置いた。クラブの十だ。愁の前にも二枚目を置いた。ダイヤのジャックだった。そして竹中は自分のもとにもカードを裏向きに置いた。

「さあ、カードが配られた。ここからが大切だ。チップを出すんだ。愁は一枚か?二枚か?」

 愁はためらった。

「ハハハ、これは練習だよ。チップは取らないよ」

 愁は安心してチップを一枚出した。

「一枚か。じゃあ俺は二枚出す」

 ガン太がチップを二枚出した。

「さあここからが大勝負だ。裏のカードをそっと覗くんだ」

 愁はカードを覗き、ガン太も自分のカードを覗いた。

「カードの合計は?二一にならなければまたディーラーにカードを貰えばいい。さあ、いくつだ」

 ガン太は自分のカードを睨み、笑っていた。ガン太は余裕だった。ガン太のカードはハートのジュウとクラブのジュウだった。合計は二十だ。ディーラーからカードをもう一枚請求する必要もなかった。勝ち誇った顔をした。たとえ練習だとしても、相手が子供だとしても負ける訳にはいかなかった。それがガン太のプライドだ。

「愁、二枚のカードを足してみろ。それが二十一の数字に近ければそのままでいい。程遠ければもう一枚ディーラーにカードを貰え。ただ、数字が二十一より大きくなったときそれはドボン、ゲームは終了だ。愁はカードを請求するか?」

 愁は首を横に振った。

「ほう、請求しない。数字は大きいか?」

 愁は首をまた横に振った。

「これ、何?」

 愁はいい、カードを表向きにテーブルに置いた。

「ブラックジャックだ」

 竹中が言った。愁のカードはダイヤのジャックとスペードのエースだった。

「負けた……」

 ガン太が泣き叫んだ。カードを投げ放ち、悔し紛れに竹中に聞いた。

「タケちゃんは?」

 ガン太が言った。

「だめだめ、クラブの七とスペードのキングで十七だ」

 ガン太はそれぞれ出したチップをかき集めて愁の前に置いた。

「ほら、チップだ全部持っていけ」

 愁はガン太のその言葉に驚きを感じながら

「えっ、練習だよね。チップは貰えないよ」

 と言った。

「ゲームに練習はねぇんだよ」

 ガン太がさらにチップを押し出した。

「いい気持ちだったー」

 芳井が肩にタオルを巻き、パンツ一丁でシャワーから上がってきた。



 倉岡直也はソファに座っていた。シャワーを浴びた後、全裸で寛いでいた。美月がバーボンとグラスをひとつ持って直也の隣りに座ると、黙ってグラスにバーボンを注いだ。そして、直也は左手でグラスを持ち、右手を美月の肩に乗せ、髪を撫でながら言った。

「ありがとう、お前はいい子だ。お母さんに似て綺麗だ。母さんの髪は世界一美しかった」

 美月は静かに直也の言葉を聞いていた。美月は幸せに思った。幸せに思おうとした。<これが、私の父親なんだ>そう、言い聞かせた。

 ドアが叩く音がした。玄関からだ。静かに直也が立ち上がった。そして玄関のドアを開けると、一人の女が立っていた。「ワーオ、素敵ね」女は直也の足元から見上げ、直也の全裸姿に興奮して抱きついた。「かおりか」直也が言った。吉河かおりだった。「あなたはいい男ね。いつ見ても、いい男だわ」かおりが言うとキスをした。「早く家に入れてよ〜、あなたの顔を、もっとはっきり見たいの」そうかおりが続けて言うと、直也はかおりの腕を掴み家の中に引っ張った。

 かおりが家の中に入ると美月の姿に気づいた。美月はソファの横で、呆然と立ち尽くして脅えていた。「あら、子供」かおりが言った。「俺のガキだ」直也が言うと、かおりは美月に近付いた。「かわいいわね。名前、なんて言うの?」かおりは聞いたが、美月は黙って何も答えなかった。「あら、脅えてるわ。すごい震えている。でもお姉さんは怖くないのよ」美月の頬にキスをした。その瞬間、美月の目に昔のことが過った。あの時も同じだった。美月は、母親と食事をしていた。バタンと玄関のドアが開かれ、体中濡れた直也と女が入ってきた。外は今年一番の大雨だった。「キャー、ビジョビショー」その女は言った。直也は笑っていた。女は長袖の白いTシャツにジーンズだった。Tシャツが体に張り付いていて、胸の形がクッキリと分かる。女は下着を身につけていなかった。その女が突然下品に笑い始め「何がおかしいんだ?」直也が聞いた。

「えっ?だっておかしいじゃない。こんな大雨に、人に『どこ行ってた?』と問われたら」

 女は吹き出し、笑いながら言った。

「どこ行ってた?」

 直也が言った。

「熊に餌やってたの。小熊よ、こ・ぐ・ま。野生の小熊。迷子の小熊ちゃん」

 また女は吹き出して笑った。

「動物は大切にしないとな」

 直也は笑いながら言った。

「そうよ、動物のお陰で私達は生きているの」

 女は言うと、直也の体に張り付いたシャツをはだき、胸元を見せた。

「この胸に生えるセクシーな毛がいかすわ。あなたも野生の動物よ」

 女は直也の胸元を何度も摩りキスをした。

 直也は女を抱き、キスをした。舌を絡ませ、情熱的に激しく止むことはなかった。そのまま直也は体を重ねながら床に落ちていった。

「濡れた体がまた、激しく興奮するぜ」

 直也は女のシャツを脱がすと、女の濡れた胸が飛び出した。直也は胸に顔をつけ、舌で体中なめ回し、その舌をまた絡めて激しく唇を重ねてキスをした。美月は驚きのあまり声が出そうになった。それを(さえぎ)るように母親が美月の口に手を当てた。二人は静かに寄り添って、その様が過ぎ去るのを脅えながら待った。

「おと……」

 女が言った。

「音?」

「音がした」

「ああ、俺の女房とガキだ。何処かにいんだろ」

 美月は震えが止まらなかった。母親も同じだった。体中震えが止まらず物に振動を与えた。その震える手で母親は、美月の震えを止めようと体をさすっていた。

「何処かで聞いてるのかしら、私たちのセックス」

 女が言った。

「ああ、何処かで聞いてるさ。きっと、震えながら感じている」

 直也は微かに微笑んだ。

「興奮するわ。それがまた感じるの」

 女は、うっすらと笑った。美月はその女を陰から見た。不気味に笑う女の顔が美月の心から離れなくなった。女の顔と叫びが美月の中で木霊した。その女がかおりと重なり合ったんだ。かおりは美月の頬にキスするとまた直也の元へ戻った。美月は微動だに、動きはしなかった。目を開いたまま、瞬きをしないまま、その場にしゃがみこんだ。「じゃあ、二階へ上がりましょ」かおりが直也に言うと二人は腕を組み、かおりは小さく美月に手を振って二階に上がった。

 やがてかおりの喘ぎ喚く声と直也の激しい息遣いが聞こえてきた。「ママ……ママ……」美月は少しも動かずにジッと座ったまま、ただその言葉だけを口ずさんでいた。



「ブラックジャックだ」愁が叫んだ。「まただ」ガン太がカードを放り投げた。「愁は天才だよ。五連勝だ」芳井が自分のカードを睨みながら言った。「愁、窓開けて」竹中が言った。「雨?」ガン太が言った。「ああ、音がしなくなった」竹中が言った。「雨、止んでるよ」愁が窓を開け叫んだ。「よし、これで家に帰って、もう一回シャワーを浴びなくてすむ」芳井が言った。「ねえ愁ちゃん、隣りに女の子が引っ越して来たんだって?」唯は台所仕事を終え、エプロンを脱ぎながら言った。「うん」愁は返事した。「どんな子?」唯が言った。「う〜んとね、背は僕より少し小さくてね、髪は肩まで、長いの。良い子だよ。あ、あと目が青いんだ」愁は窓に寄りかかって言った。「目が青い?」唯が言った。「ああ、あの太ってる子だろ」ガン太が言った。「痩せてるよ」愁が言った。「えっ?静江が言ってたそ。あいつもこの前の雨の日に、その子を見かけたんだって」ガン太が言った。「静江ちゃん、目が悪いから雨で歪んで見えたんじゃないの?」芳井がちょっと茶化すように言った。「あ、それ有り得るね」唯も茶化した。「それはないだろ」ガン太がちょっと膨れながら、まじめな顔で答えた。「外人か?」竹中が言った。「えっ?」ガン太が言った。「青い目してんだろ。外人か?」竹中が言った。「ママがね、アメリカ人なんだって」愁は、美月の事を聞かれたのが嬉しく、少し興奮して答えた。「三人家族か」芳井が言った。

「ううん、二人」芳井が言った。「ちょっと前にお母さん、亡くなったんだって」愁が言った。「それは気の毒に……」唯が言った。「パパと同じ時期に、死んだんだよ」愁が言った。「亨か……」竹中が亨を思いながら言った。「亨ね……」芳井の続けて言った。「でもきっとお父さんは、優しい方だろうね」唯が関心して言った。「なんで?」愁が聞いた。「だって女の子を男一人で育てるのって大変だよ」唯が言った。「会ったことは?」竹中が聞いた。「まだないの」愁が答えた。「どんな人なんだろうなぁ」ガン太が呟いた。



 部屋は暗かった。リビングのソファーに直也と美月は寄り添って座っていた。かおりは帰った後だ。直也はまたバーボンを飲み、美月は静かに立った。「どこへ行く」直也が言った。「トイレ」美月が言うと直也は細い目で美月を見、手を振り落として美月を再び座らせた。すると直也は腕を美月の肩や腰に絡ませ体中の匂いを嗅いだ。直也の息遣いが荒くなってきて、次第に足元を擦り出した。美月は目を開いたまま動けはしなかった。



 愁は時計を見た。「あ、もうこんな時間。帰らなきゃ」壁に掛けられた管理室の時計は十時だった。「まだいいじゃない。夏休みなんでしょ。ちょっとぐらい……ねぇ」芳井が言った。「でもママに怒られちゃう」愁はまだみんなと一緒にいたい気持ちはあったが、手に持っていたカードをテーブルの上に置いた。「駄目だよ愁。ゲームは終わってないんだ。それに俺はまだ一度も勝ってない」ガン太が言った。「だってママが……」泣きそうな顔で言った。「ママ、ママ、そんなにママが怖いか」ガン太が茶化して言った。「がんちゃんいい加減にして!愁が可哀想じゃない」唯が言った。「お前はいつも愁の味方だな」ガン太が言った。「当たり前でしょう、愁は子供なんだから」唯が言った。「もういいよ。今日はみんなお開きだ」竹中が言うと、みんなカードを置き揃えて片付け始めた。

 みんな、部屋を出た。玄関から外に出ると湿った土の匂いがした。「雨上がりだな」芳井が言った。「あ、月が出てきた」愁が言った。「じゃあみんな気を付けて帰ってね」唯が言った。「じゃあ」それぞれがそれぞれの方向に帰って行った。

 愁は家まで走った。月明かりに照らされた道をたどって、そこに、明かりも付いていない静かな美月の家の前を元気良く走り過ぎて行った。




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