第二部 第三十五章
白い霧を青々と染めている湖がある。霧は湖の上に籠もる。橘愁の目元には痣があり、口元には傷がある。湖を眺めて立っていた。風が緩やかに吹き、髪を靡かせた。愁の中に記憶の風が舞い込んだ。まだ幼い愁は愛犬リュウと湖畔を歩いている。リュウは突然立ち止まって吠えた。愁も立ち止まってリュウの吠えた方を見ると、人影が見えた。湖の反対の岸。人影は緩やかに流れる霧に映し出されながら歩いている。愁はその影をジッと見た。それは青い目の少女。愁は走り出し、その影を追った。少女は木の影を跨ぎ走っていった。息を切らして少女を思い走った。少女と話したくて思い、走り走って追いかけた。だが、少女の姿はもうどこにも見えなかった。愁はただ一人、息を切らして立ち竦んだまま動けないでいた。
風は靡く。橘愁はその記憶を思い、湖を静かに見続けた。
ざわめく商店街。ジングルベルの曲が鳴り響く。人々は慌ただしく歩き、ケーキ屋の前ではサンタクロースの格好をした女性の店員がケーキを売っている。その狭間を走り抜ける三人の男がいる。その中に、高畑秀太もいた。
汽笛が鳴り響く。たくさんの人々は駅から出てくる。駅の屋根から煙が上がるのが見え、今汽車はまさに神霧村を発車しようとしていた。汽笛はまた大きくうねりながら鳴った。
駅の外の大きなロータリーを抜けると、そこには様々な商店が建ち並んでいる。スーパーもある。帽子屋。洋菓子店。喫茶店。玩具屋。雑貨屋にCDショップと様々だ。浅倉唯は大きな袋を片手に玩具屋から出てきた。汽笛が大きくうねり、それと同時に煙も大きく上がった。そして汽車は神霧村を発車した。唯は一度駅の方を見た。すると屋根から煙が上がるのが見え、その煙も徐々に駅を離れていく。その光景を見るのが好きだった。神霧村の村長、浅倉唯は自分が作り上げたこの駅から、出入りする人々を見るととても喜ばしく安心する。今日はクリスマスイブ。神霧村に訪れる人も多かった。そしてまた歩き出す。唯は片手に大きな袋を持っている。その中にはクラッカーにパーティ用のカラフルな三角帽が入ってる。その袋を持ち、人混みを歩いた。
雪はひらひらと舞う。今日はクリスマスイブ。町中とは違い、オフィス街は静けさの中コートを羽織り、肩を窄めながらサラリーマンやOLが急ぎ足で歩いてた。
人の姿はあるが静まりかえった外の風景とは裏腹に、ビルの中に入ると暖かく、賑やかに人々の話し声は聞こえる。ここにクリスマスなどなかった。ここは、恋酔出版社。そこの九階の恋愛大衆編集部の編集員が見渡せる、デスクの上に高山春彦は鞄を置いた。そして肩についてる雪を払いのけ、コートを脱いだ。高山は一度編集員の仕事ぶりを見渡して席についた。「ねえ、編集長最近会社来ないよね」女の編集員がパソコンに原稿を打ちながら、隣の男の編集員に囁いた。「松永のことで忙しいんだろ」男の編集員も、パソコンを打ちながら言った。「分かるけどさ、ちょっとは私たちのことも考えて欲しいわよ」女は言った。「まあな、編集長がいないと、この雑誌も成り立たないもんな」男の編集員はパソコン画面を見続けて話した。「そうよ」女は少し膨れたようにパソコンを打つのを止め、男を見た。「俺達の生活にも関わってくるってことだ」男もパソコンを打つのを止めて、女を見た。「松永松永って、いい加減にしてほしいわよね」女は呟き、二人は高山を見た。
高山は山のようにデスクに積まれた、原稿をチェックしていた。だが、考えていることは橘愁の事だ。今、愁はどこにいるのか。携帯も繋がらない。連絡も来ない。家にも戻っていない。警察も愁のことを捜している。何故捜しているのか、それも知っている。倉岡直也の事件で事情聴取をしたいんだ。倉岡直也の事件に関わった人物として。そして、倉岡直也の家に火をつけた、永瀬敬生の事も聞きたいんだ。それも高山は心配だった。愁を早く見つけて安心させたい。だが、見つかってほしくない気持ちもある。警察の事情聴取をさせたくない。それは、警察の捜査方法に疑念を抱いているからだった。「編集長!」女の声が聞こえた。「編集長!お客さんです」女の叫ぶ声が聞こえて、高山は顔を上げた。山のように積まれた原稿の間から、高畑秀太の姿が見えた。その他に二人の若い男がいた。高山は原稿を持ちながら、ゆっくりと立ち上がった。「高山さん、ご無沙汰、しています」高畑秀太が立っている。そして高山に近づいた。随分とゆっくり、確実に、言葉を噛み締めて話す。「これは、どうも」高山は愛想なく答えた。そして高山は高畑の脇にいる二人の若い男を見た。「ああ、自己紹介、します。今一緒に、捜査してる、若造です。まず、こちらが、宮原」高畑の左横に立っている。「宮原です」言った。三十近くになる青年で、黒のスーツにはシワはなく、ワイシャツは新品のようだ。ネクタイも真っ直ぐに結ばれ、髪型もハードジェルで固められている。「で、こちらが、中西です」高畑の右横に立っている。「中西です。・・・どうも」軽く頭を下げた。まだ二十代前半となる男。スーツにシワはあり、ワイシャツもシワだらけだ。ネクタイはしていない。髪は少し後ろ髪が寝癖で立っていた。高山は二人を紹介されて頷いた。「今日は、ちょっと、聞きたいことがあって、来ました」高畑が言い、高山は眉を顰めかして「聞きたいこと?」言った。「ええ、少し、大事な話なので、別場所で窺いたいのですが・・・」すると高山は少し睨んだ感じで「ここで、窺いましょう」言った。その言葉に高畑は「でも、人目がありますので、別場所で・・・」と言うと、力強く「ここで、窺います!」と、高山は言った。高畑は少し考えて「分かりました」と返事をし、そしてまた、冷静に話し始めた。「話と、言うのは、倉岡、直也、の、事件の件ですよ」高山の目を見て言い、高山は高畑の脇にいる宮原と中西を見た。「私たちは、今、永瀬、敬生を、捜しています」高畑は少し間を空けて、高山の顔に近づいてまた言った。「奴は、倉岡、直也の、自宅に火をつけて、行方を、眩ました。そして、そこにいた、妻の、永瀬、美月さんと、橘、愁さんは、一緒に行方を、眩ました。・・・何故でしょう」高山を睨みつけるように「高山さん、あなたも、あの時、いましたね」言った。「ああ」高山は二度頷いて答え、何か言おうとしたが、それを遮るように「何の、説明も、いりません。もう、調べは、ついてます。永瀬、敬生の、事も。永瀬、美月さんの、事も。橘、愁さんの、事も。倉岡、直也と、永瀬、敬生との、関係も。もう、調べは、ついています」笑みを浮かべて言った。その高山と高畑のやり取りを、それぞれの作業をやめて、編集員達も聞き始めた。また、高畑の話は続く。「実に、複雑な、人間関係だ」高山の顔を見た。「何故、こう、なったのか・・・高山さん」高山は高畑を見た。「橘、愁さんから、連絡、ありましたか?」聞いた。「いや・・・」答えた。「私たちは、高山さんの所には、連絡が、来ていると、思っていました」高畑は言った。隣りに立っている宮原も中西も高山を見て、黙って高畑との会話を聞いていた。「橘さんは、高山さんのことを、もの凄く尊敬していると、窺っていたので・・・」その言葉を言うと、高畑は振り向いて歩き去ろうとした。本当は他の話もあった。だが、それはあくまでも高山が愁と連絡を取っていたときに知りたかったことだ。連絡もないことを知り、高山に言葉も交わさずにその場を去った。モタモタしている暇はない。橘愁、永瀬美月、永瀬敬生を捜さなければいけない。そう考えると落ち着いていられなくなり、立ち去る。失礼極まりない態度だが、高畑はそれが失礼なことなどとは感じていなかった。だから宮原も中西もそれに慣れたように、高畑の後を継いで歩いた。「ちょっと待ってくれ!」高山は慌てて声を張り詰め、叫んだ。その声に、高畑は立ち止まって振り向き、高山を見た。宮原も中西も高山を見た。「橘を捜さないでくれ」俯いた。「何故です?」高畑は言い、また高山に近づいた。「少し、そっとして置いて欲しいんだ」言った。「だが、橘さんは、事件の、中にいます。放って置くことは、出来ないんですよ」高畑は高山を見て言い、また振り向いて歩き出した。「どこ行くんだ!」叫んだ。すると高畑はまた振り向き「放って、置くことは、出来ないんです」言い、また振り向いて歩いていった。高山はその場から動けずに俯いたまま、立っているだけだった。
霧は彷徨う。樹木は立ち並ぶ。とても静かだ。何もなく、心安らいだ。橘愁はゆっくりと霧の狭間を歩いていた。
静かな外観。人の出入りはなく、周りを霧が彷徨った。薄暗い廊下。そこにも人の気配はない。その廊下の奥に管理室がある。そこから明かりが廊下に漏れていた。
管理室の窓から外を覗いている、古希静江の姿がある。テーブルに座っている竹中直紀、古希ガン太、芳井秀夫、竹中国利はカードを持ち、ポーカーゲームをしていた。誰一人話す人間はいない。テーブルに置かれた灰皿には、たくさんのタバコの吸い殻があった。部屋に煙は充満している。「彼女はいったい、何処いったんだ・・・」芳井がタバコを吹かして呟いた。「彼女?」カードを睨みつけている竹中の目は、芳井にいった。「倉岡直也の家を彷徨っていた・・・」国利は芳井を見た。ガン太はその話を聞いていた。「ガン太が連れてきたんだ」その言葉でガン太は話し始めた。「美月ちゃんを知っていたんだ。永瀬敬生の愛人だと言っていた」その言葉に「愛人?」竹中は答えた。「うん、この部屋に連れ込んで話を聞いた。美月ちゃんをこの村まで追って来たんだ。でも・・・逃げた」その言葉に被って芳井が「でも僕は追ったよ。追ってこの村役場を出て走った。でも霧で見失ったの。彼女は美月ちゃんを捜し続けてるんだ」言った。「じゃあ何で追い続けないんだ」竹中は言い、目の前のカードを一枚引き、一枚捨てた。「どうやって追うの?だって美月ちゃんの居場所も分からないのに・・・」芳井はいい「美月ちゃんは美天村にいるよ」竹中は言った。その竹中に驚いた顔で芳井は見た。ガン太も竹中を見、国利はその話を静かに聞いていた。「何で、分かるの?」芳井は言った。「愁に会ったんだ。美月ちゃんと一緒に」またその言葉に芳井とガン太は驚き「どこで?」言った。「だから美天村だよ」国利は言い、竹中は頷いた。
静江は四人の話に口は出さず、静かに窓から外を見ている。「霧が濃くなってきたわ〜」呟いた。その静江の言葉に気づかず、四人は話を続けた。
「愁に会ったって?」ガン太が言った。「ああ」竹中と国利は頷いた。「何で連れて帰って来なかったの!」芳井は叫んで持っていたカードを、テーブルの上に投げ捨てた。「今はそっとして置いた方がいいよ」竹中は芳井の目を見ながら言った。「何で?」ガン太が言い、「何で!」芳井が割り込んで叫んだ。その時、二つ三つのクラッカーの鳴る音がして「メリークリスマス!」叫び声が上がり、竹中、国利、ガン太、芳井の頭上に紙テープが舞った。そのクラッカーの鳴る音に、窓の外を見ていた静江は振り向いて部屋のドアを見ると、そこにはカラフルな三角帽を被り、手には鳴らした後のクラッカーを持っている浅倉唯が笑顔を振りまいて立っていた。
頭上の上を舞った紙テープは竹中、国利、ガン太、芳井の頭とテーブルの上に落ち、四人もまた入口に立っている唯の姿を見ていた。
濃い霧は流れては途切れ、また流れては途切れた。その狭間を愁は歩く。霧が愁の前を流れると姿は消え、途切れると姿は現れる。何も植えられていない花壇の狭間を歩いていた。そして、家に近づく。生まれ育った家だ。亨と恵子と愁。親子三人が住んでいた家だ。今は誰もいない。愁は鍵を開け、ドアを開けて中に入った。
家の中は暗く、とても冷え込んで外にいるよりも寒く感じた。ゆっくりゆっくりと廊下を歩く。居間がある。ここで良く、寛いでたんだ。愁の目には昔の姿が写る。テーブルには食事が並び、亨に恵子にまだ幼い愁はその並べられた食事を口にしていた。三人は楽しそうに会話し、その姿をテーブルを見上げて、愛犬リュウが見ていた。
愁はその目に写った光景に仄かに笑うが、もうそこには三人の姿はない。振り向き、台所に顔をだした。皿やコップの破片が散らばり、空のビール缶が散らばっている。恵子は床に倒れている。周りには薬が散らばっていた。<かあさん・・・>その姿を見、愁は台所の床に倒れている恵子に近づいていった。<かあさん・・・>愁はしゃがみ、恵子を救うように手を差し伸べて抱いた。<かあさん・・・>だが、そこに恵子はいない。<かあさん・・・>
高畑秀太が先頭で宮原と中西は、公園の樹木の狭間を少し速いペースで歩いていた。
「奴は、家に、戻った・・・」
高畑は言った。
「奴というと・・・橘愁ですか?」
宮原が言った。
「いや、永瀬、敬生と、永瀬、美月だ」
「何故、二人は一緒にいるんですか?」
「何故、かな?わからない・・・今、杉本が、二人の、家を、張り込んでいる」
「奴は・・・永瀬敬生は、橘愁と、永瀬美月を見つけたって事でしょうか?それとも永瀬美月が、自ら永瀬敬生の元に戻ったのでしょうか?」
「さあな」
高畑は急ぎ足で歩いていた。その足に食いついて宮原は高畑に話しかけている。少し遅れて中西もついていった。
「もし、もしも、永瀬敬生が橘愁と永瀬美月を見つけたとしたら、何処で見つけたのでしょうか?永瀬敬生が永瀬美月を見つけて連れて帰ったとしても、橘愁はどうしたのでしょうか」
高畑は急ぎながらも、宮原の話を聞いていた。
「・・・父親と同じで、殴り殺されたとか」
「さあな」
「それとも永瀬美月は自ら永瀬敬生の元へ、戻ったのでしょうか。もしそうだとしたら、何故?」
「さあな」
宮原は少し考えた。
「永瀬美月は、もしかしたら橘愁を庇うために、永瀬敬生の元に戻ったのかも知れません。だとしたら、橘愁は・・・」
宮本は少し唾を飲み、そして仄かに笑った。
「また、事件が起こるかも知れませんよ」
「さあな、分からない・・・」
高畑はそう答えた。二人から後れを取って、中西は会話を聞いていた。
「そ、それじゃあ、これから二人の家に行くんですね」
中西は割り込んで、後ろから二人に叫んだ。
「そうだ!」
高畑は言った。
「二人の家に着いたら、すぐに永瀬敬生を捕まえるのでしょうか?」
中西が言ったその言葉に、高畑と宮原は立ち止まった。そこは松永健太郎が倒れていた場所。目の前には噴水があった。三人の足跡しかない。
「何故、捕まえなければ、ならない」
高畑が言った。
「え?いや、でも放火犯として、何をするか分からないから危険だと。一緒にいる永瀬美月が危険じゃないかと・・・」
宮原が歩き近づこうとしたとき、高畑も歩き出し、中西に近づいた。
「お前は、ここに来て、どのぐらい、経つ?」
「え?あ、はい。半年です」
答えた。
「年は、いくつだ?」
「二十四です」
「そうか・・・お前は、まだ若い。何も、知らないんだ」
高畑はジッと中山を見て言った。
「シャツは、シワクチャ。ネクタイは、していない。髪は、寝癖だ。これでは、誰も、信じない」
「ああ、はい・・・」
中西は高畑が、何を言っているのか分からなかったが、ただ言われる通り、呆然と疑問を持ちながら答えた。
「世の中は、まやかしながら、生きていくものだ。服装を、キチンとしていれば、人を、まやかせる」
中西は黙って高畑を見ていた。
「事件とは、何だ?」
「え?あ、事件・・・ですか?」
「そうだ。何故、俺達は、事件を、追う」
「それは・・・」
中西は考えた。その答えは、入社当時に教えられた上司からの言葉と、自分自身の考えを合わせたものだ。
「それは・・・人を助け、その事件の真実を追うためです。僕たちは、常に真実を追究していかなければいけないと、思います。その、事件の真相を追うことで、犯罪手法を学び、僕らはそれを役立てて、この世の中から犯罪をなくすよう、努力することが必要だと思うんです」
「そうか、それは、正当な答えだ。だが、マニュアル通りの、答えでもある」
高畑は、中山の顔に近づいて、また言った。
「事件とは、まやかしながら、解決していく。キチンとした、服装を、するのと、同じ事だ。人の目を、欺くことが、大事なんだ。今の、世の中に、初めから、分かる、真実など無い。事件が、起きて、初めて、真実が、分かるんだ」
高畑の目は迫力があった。その目に中西は少し怯んだが、高畑の目を避けて自分の意見を主張した。
「でも、それではいつになっても犯罪は、無くならないのではないでしょうか」
宮原がのめり込み
「お前、まだ分からないのか!」
叫んだが、高畑が押さえ、引っ込ませた。
「お前は、若い。まだ、ここに来て、半年だ。俺は、もう、二十年以上も、この、仕事を、している。何が、真実なのかは、分かるつもりだ」
中山は聞いていた。
「永瀬、敬生は、倉岡、直也の、家に、放火し、殺した。放火、殺人だ」
高畑は中山の目を見た。
「・・・だから、何だ。永瀬、敬生を、捕まえるだと?永瀬、美月が、危険だと?奴は・・・永瀬、美月に、何もしない。俺達は、今、張り込んでいる、杉本と連絡を取り、奴の、動きを、見張るだけだ」
中西は、高畑の静かな迫力に少し震えたが、それでも自分の意見を、声を小さくして言った。
「でも、放っとくこと出来ないです。永瀬美月にこれ以上、精神的苦痛を与える訳にはいきません」
その言葉に高畑は、中西を睨みつけた。
「俺達の、利益は、どこにある。この程度の、事件で、捕まえる訳には、いかない。小さな、事件を、解決して、何の、評価になる。上の人間は、何も、評価せずに、それが、当たり前だと、言う。事件は、起きて、しまうんだ。この事件は、終わらない。自分達の、為に、俺達は、事件を、解決していく。これが現実で、それが、真実だ」
高畑は、そう言うと振り返り、歩き始めた。それに着いて、宮原も歩いた。だが、中西は歩けないでいた。それに高畑は気づき、振り返り
「どうした?」
中西は俯き、佇んでいる。どうしても、高畑の言うことに納得できず、理解できなかった。
「僕は・・・」
少し顔を上げた。
「少し、調べたいことがあります」
高畑と目を合わせずに言った。
「そうか、分かった。お前も、現実を、知ることが、必要だ。じゃあ、俺達は、永瀬、敬生の、家で、待っている」
高畑はそう言い、振り向いて歩き出した。その後ろを宮原も歩いた。そして、中西も振り向き、二人と反対の方向を歩き出した。
暗く、静かな階段をゆっくり上がっていた。懐かしい匂いがする。階段を登る音が聞こえてくるような気がする。橘愁はゆっくりと階段を上がり、廊下を歩いて一つの部屋のドアを開けた。するとそこは明るく、部屋には足の踏み場もないぐらいに、物が散らばっている。壊れかけの目覚まし時計。ウサギの縫いぐるみ。埃だらけのオルゴール。ミニカーやガラクタとも言える玩具が散りばめてある。その中央に体の小さな少年の姿があった。「愁、パパが裏山で呼んでるわよ」女の声がした。それは、まだ若い恵子の姿だ。「何?」
愁は振り向いて恵子に答えた。「分からないわ。朝から何かやってるから手伝ってあげたら?」恵子は部屋の入口に立って言った。愁は辺りを見た。部屋いっぱいに広げた玩具。「今日は部屋の整理があるから、手伝わなくていい?」恵子は見渡して部屋を見た。「そうね、いいわ。でもパパの所へ顔は出してあげて。今日、何だかとっても機嫌良く裏山に行っていたから」優しい顔で恵子は愁に言った。「うん、分かった」その顔を見、笑顔で頷き、愁は立ち上がり、窓から外を覗いた。すると、父親の亨が、花壇に咲く薔薇を眺めている姿が見えた。その姿を見ると、微笑み歩き出した。
愁はその姿を見ながらドアに凭れて立っていた。自分の横には恵子の姿がある。幼い愁は、笑顔で歩き、自分の中を通って廊下に出た。そして、恵子は愁の頭を撫でながら歩き、二人、階段を降りていく。すると、辺りの明るさは無くなり、部屋の中も暗く、何もなく、埃被っている。愁は二人の姿をジッと見、微笑みながら立っていた。
地面に積もる雪を踏み走る足がある。その足音は雪に消される。街灯が佇み、雪はその光にあたり、ひらひらと降り注ぐ。その下を、花崎志帆は彷徨い走る。息を切らし、今にも倒れそうだ。それでも志帆は、何かを追い求めるように、誰も通らない路地を走った。走り、走り抜いた。そして躓き、転ぶ。志帆は暫く俯せに倒れたままだったが、ゆっくりと立ち上がり、救いを求めるように、近くにある街灯の柱にしがみついて、そこに座り込んだ。街灯の光が志帆にあたる。雪も静かに志帆の上を、ひらひらと降り注いだ。志帆は悲しく、寂しい思いがした。胸が詰まる。「たかお〜」白い息を吐き、凍えた声で呟いた。「たかお〜」優しくお腹を摩った。「あなたの子よ〜」凍り付いた顔を引きつりながら、無理矢理笑顔作り、お腹を摩すり問いかける。「寒いかい?ごめんね〜あなたはね〜とても幸せなのよ〜ママとパパが愛し合って、あなたは生まれてくるの。でもパパは、まだ気づいていないみたい。二人が愛してあなたが生まれてくること。だから、気づかせてあげるの。もう少し、もう少しで暖かくしてあげるからね〜」志帆は白い息を吐きながら、鮮やかな顔で言った。暗い路地に街灯の光は志帆をあて、その上をひらひらと雪は降り続けた。
花壇の前に亨が立っていた。
「やっと、完成した」
亨が振り向くと、まだ幼い愁が近づいてきた。
「うん」
返事した。
「レンガを周りに積み立てて、花壇を造ったんだ」
「うん」
「レンガで囲って、畑に道を造る。みんながここに集まるんだ。後もう一つ。この畑の真ん中に風車を立てる。風車と言っても、そんな大きなものじゃないけどな。その風車をパパが造るんだ」
亨は夢中になって笑顔で言った。その姿を橘愁は見ている。晴れ渡った空。爽やかな風。やがて、そこに霧が流れ込み、辺りも薄暗くなってきた。辺り一面に咲いていた薔薇は消え、そこには枯れ果てた花壇があった。その真ん中に、寂しげに風車が回っている。愁は、ジッとその記憶を思い、見ていた。
パン!パン!と大きな音がし、「メリークリスマス!」叫び声が上がり、紙テープが宙に舞いて静江はドアを見た。竹中、国利、ガン太、芳井の頭上に紙テープが舞って四人もドアを見た。そこにはカラフルな三角帽を被り、手には鳴らした後のクラッカーを持っている浅倉唯が笑顔を振りまいて立っていた。
頭上の上を舞った紙テープは竹中、国利、ガン太、芳井の頭とテーブルの上に落ち、四人もまた入口に立っている唯の姿を見た。
その姿に唯は一つ溜息をつき「今日はイブだよ!」そう言って、四人の座っているテーブルに近づいて、自分の被っていたカラフルな三角帽を脱いで芳井に被せ、「世間は賑わってるんだから、そんなに沈んでると何か腐っちゃうよ!」言いながら、四人を囲むように回った。「クリスマスって言うのは、幸せになるためにあるんでしょ!みんなが幸せになるためにあるんじゃない。そんなに沈んでたら幸せも逃げちゃいそうだよ」また歩きながら言った。「お前が幸せだよ」芳井は呟いた。「よくこんな時に、叫べるな」ガン太が言った。「どうしたの?」唯は言い、芳井とガン太に近づいた。「愁に会ったんだって」ガン太が言った。「誰が?」唯は続けて答えた。「たけちゃんとコクリンとあいつだよ」ガン太が顔で窓際に立っている静江を指しながら言った。「何で連れてこなかったの?」唯は急に冷静となり、椅子に座ってテーブルに向かった。「だから今、聞いてんだよ!」芳井が少し苛ついた感じで答えた。「俺達は、あの丘の下で愁と美月ちゃんを待ったんだ」竹中が答え始めた。「あの丘?」ガン太が訪ねた。「亨が死んだあの丘だよ。愁と美月ちゃんは絶対来ると思って待っていたんだ。俺達が考えてたとおり二人はやってきて、丘の麓に立ち、しゃがんで土を取った。あの日の事を思ってたんだろうな、悲しい顔で土を取っていた。俺達はゆっくりと近づいて声をかけたんだ」竹中は静かに言った。「それで?それで、二人に何て声をかけたの?」唯が言った。「『帰ろう!』って。そしたら、『まだ帰れない』って言ったんだ」竹中は言い、その隣で国利も聞いていた。「何で!」芳井と唯は同時に叫んだ。「まあ、冷静に直紀の話を聞いてくれ」国利は言った。「どうして?」ガン太が冷静に言った。「俺達は、この事件がまだ終わっていないのを知っていた。だから愁と美月ちゃんを迎えに行ったんだ。二人を守るためにね」竹中はガン太、芳井、唯を見ながら落ち着いた口調で言った。「そうだよ。僕たちは三人でこの役場で待ってたんだ。たけちゃん達を信じてね。愁と美月ちゃんを連れて帰って来ると思って待っていた。連絡をずっと待ってたの。二人を心配して、連絡が来るのを待ってるのって、とても不安なんだから・・・」唯の顔は泣きそうだった。「ごめん・・・」竹中は謝り、少し俯いた。「俺達は二人には安心させるために、『もう終わったから帰ろう』って言ったよ。だけど、愁は『まだ、帰れない』って」竹中は顔を上げて、ガン太、芳井、唯の顔を落ち着いてみてまた話し始めた。「・・・愁の顔を見たら、連れ戻せなくなった」その言葉で止まった。「俺は追おうとした。今、愁君と美月ちゃんを見逃したら、俺達の目的は何だったのか。今までの苦労は何だったのか、分からなくなるんだ。何よりも二人を守ってやるのが優しさだろう。二人は追われているんだ。危険なんだよ。俺達が助けなくてどうするんだ!此奴、直紀が俺を止めた」国利は二人を見つけたときの状況を思い出し、二人を追わなかった後悔、竹中に止められた事に少し苛立ち、叫んだ。
静江は皆の会話を黙って聞きながら、窓の外を見ている。霧は濃く、周りの景色が何も見えない。
「お前は愁の顔を見たか?」竹中が国利に訪ねた。「見たよ」国利は答えた。「あの顔を見て、何とも思わなかったか」竹中は続けて訪ねた。「え?」国利はその時の愁の顔を思い出した。「あれは、守ろうとしている顔だよ。男が、女を命かけてでも守ろうとしてるときの顔なんだよ。・・・男なら、分かるだろ」竹中の言葉に考え、国利、芳井は俯いた。ガン太は窓際に立つ静江の姿を見た。「愁は十二歳の頃の事を、未だに思い悩んでるんだ。美月ちゃんを守れなかった事を、未だに思ってるんだ。今、俺達が連れ戻して愁はどう思う?その思いが晴れないまま、生きていくことになる。男が、駆け引きをする顔だ。愛する女を守る為に戦おうとしてるんだ」竹中は瞬きもせず、真剣な眼差しで、ガン太、芳井、唯、隣りに座っている国利を見た。ガン太はいつまでも静江の姿を見続け、国利と芳井は愁と美月を思い、俯いていた。唯だけが竹中を見続け「そんなの分かんないよ!」叫んだ。その事に驚き、芳井と国利は顔を上げ、ガン太も唯を見た。竹中は静かに訪ねた。「どういうことだ?」すると唯は「男が女を守ってるとか、過去のことを引きずってるとか、そんなのカッコつけだよ!二人は危険にさらされてるんだ!僕だってね、ただ脳天気にクラッカーを鳴らしたり、派手な帽子を被ってたわけじゃないんだ!みんなが沈んでるから、明るくしなきゃ沈んでいっちゃうから・・・」言い、少し言葉詰まらせて泣きそうになった。「今日はイブだよ!みんなが笑う日じゃない!愁と美月ちゃんは僕達の仲間だよ!仲間を助けなくてどうするの!僕達が助けなきゃ・・・僕達が二人を安心させなきゃ・・・」涙が込み上げてきた。皆黙った。
濃い霧は緩やかに流れる。その霧は、村を消していた。静江は何も見えない窓の外の景色を黙って見続けた。何も見えない白い景色に、遠く、影が動く。人影のようだ。静江はその影に気づいたのか気づかなかったのか、突然静かに口を開いた。「昔、悪戯好きの天使がこの村にはいたの。その天使はいつも天界から下界の村を覗いていた。透き通って輝くような村の風景を見るのが好きだったから・・・」静江は虚ろに呟いていた。その静江の様子に皆気づき、黙り俯いていた顔をそれぞれ上げて静江を見た。静江は皆を見るわけでもなく、ずっと窓の外を見ながら呟き続けた。「とても、寒い冬の日の朝、天使はいつものように天界から下界を覗いていたの。朝、下界を覗くことが天使の一日の始まりだった。村の人たちの一日が動くの。家のドアを開け、パジャマ姿でポストに新聞を取りに行く人、老夫婦でジョギングしている人、田園に向かう人。背広姿で車に乗り、仕事に出掛ける夫。それを見送る妻。天使は寒いのを我慢して、手をさすりながら見ていた。その時、息をフゥ〜と吹いたの。すると、ふわぁっと白い物が浮き上がった。思わずその物を見て、天使はまたフゥ〜と息を吹いたの。すると、またふわぁっと白い物が浮き上がった。天使はそれが面白くて何度も何度も息を吹いた。そして天使はまた下界を見た。すると、村は白く埋まって、畑も田園も、家も人も見えなくなっていた。その白い物は一度浮き上がり、下界へと沈んでいた。それを知った神様はもの凄く怒り、悪戯好きの天使は誰にも分からないような、神様にも見つからないような場所に逃げた。そう、白く埋まった下界へね。でも、神様はいとも簡単に天使を見つけたわ。太陽の光は、白く埋まった村をあて続けた。白く埋まった村に太陽があたると、いくつもの線となって村に降りる。天使はその線を辿って下界に降りたの。神様もその線を辿った。すると、白く輝く天使の姿は、そこにあった。神様は罰として、その天使に村の平和を見守るように言い渡した・・・」そう言うと、静江は振り返ったが、目線を下げ、皆を見ることはなかった。皆はその静江を見た。「この言い伝えと同じ濃い霧・・・」少し黙り、また呟いた。「この村に、神様はいるわ・・・」確信するように言い、そして目線を上げて皆を見た。「唯ちゃんの言う通り。私たちは間違えていたわ。今日はイブよ。私たちが悲しい顔してどうするんだい。愁ちゃんや美月ちゃんはとても不安なんだよ。私たちがあの子達の側にいてあげなくてどうするんだい。早く捜して、あの子達を笑顔で抱いてあげるのよ!」突然興奮して叫び始めた。「行くよ!」静江はそう言うと、歩き始めた。「ちょ、ちょっと静江ちゃん。行くって、どこへ?」竹中が、慌てて止めて聞いた。「紅髯町よ!」叫んだ。「紅髯町?」竹中は聞いた。ガン太、国利、芳井、唯は吃驚した顔で静江を見続けた。「そうよ!」そう叫び、少しニヤッと笑って振り返り、ドアを開けて部屋を出た。
静かな路地。街灯の明かりが地面を照らしている。家々の明かりもついている。そこに、大きなクリスマスツリーがあり、そこに飾り付けられた電飾が煌びやかに光る。その目の前にある建物は教会。屋根に立つ十字架が赤く光り、ドアの上にあるマリア像は教会の門を見下ろす。建物の周りにも飾られた電飾も煌びやかに光っていたが、教会はイブだというのに静かだった。建物の中の明かりもついておらず、誰もいないようだ。その教会の目の前の家も明かりがつかないでいた。その家を遠くの家の塀の影から見ている男がいる。背はさほど高くなく、スーツ姿にコートを着ていて、髪はムースで固めてある。コートのポケットに手を入れ、肩を窄め、口にはタバコを銜えて吹かしていた。
部屋の中は暗く、カーテンの透き間から覗いて外を見ている敬生の姿がある。「教会が静かだ・・・」敬生は教会を見て呟いた。「教会を気にするなんて、あなたらしくないわ」敬生に近づく美月の姿がある。ワイングラスを片手に、赤ワインを一口飲みながら敬生の側に立った。そして、カーテンの透き間を埋めるように閉め、敬生を見た。敬生も美月を見「今日はイブなのに何故信者は来ない?」聞いた。「教会より私を見て欲しいの。初めて、あなたとイブの夜を過ごせるのよ」美月は言い、「そうか、いつも仕事で忙しくて、お前の相手は出来なかった」敬生は美月の目を見ながら言った。美月は一瞬敬生の目を見たが、それを避けるように歩き出して、ソファに向かった。「テーブルにキャンドルを立てたの。ソファに座って、二人で飲みましょ」その言葉を聞き、敬生も歩き出してソファに向かった。
二人はソファの前に立ち、ゆっくりと座った。そして、敬生もワイングラスを持ち、注がれている赤ワインを一口飲んだ。「この日が来るのを待っていた。ずっと、ずっと、お前の愛を待っていたんだ。もう、邪魔する者はいない・・・」敬生は美月に寄り添い、肩に手を置いた。美月は敬生を見て、にこやかに笑った。「俺とお前は、父親の愛を逃れた。そしてお前は、橘愁の愛も逃れて、俺の元へ帰ってきたんだ。俺は初めて愛を知った。偽りのない、愛だ。・・・やっと、二人になれたんだ」言い、美月は少し間を置いて答えた。「私は、もう何処にも行かないわ。あなたといることが幸せなの・・・」敬生の肩に寄り添い、虚ろに遠くを見た。そこに、緩やかに濃い霧が流れるように感じる。木々の狭間を流れる。濃い霧の奥に、微かに見える足。何処かに向かい歩いている。山の一本道は続く。周りには巨大な樹木が立ち並ぶ。辺りは薄暗く、道の先にも後にも霧で何も見えない。その霧に影が写り見える。人影だ。それは、橘愁。無表情に霧の中を早足で歩いていた。
美月は、休まるように敬生の肩に寄り添い、虚ろに遠くを見ていた。
先程よりもざわめきは無く、人も少なくなっている。だが、数人はまだデスクでパソコンを打ったり、書類に目を通したり打ち合わせをしたりしている。中には帰らずに雑談をしている者もいる。そのフロアの恋愛大衆編集部のデスクで、高山春彦は書類を鞄に入れて帰ろうとしていた。そこにも数人の編集員は作業しており、高山の行動を気づく者はいなかった。
高山は全ての帰る準備が整い、鞄を手に持って歩き出した。すると前方から向かってくる男に気づき「どうした?忘れ物か?」訪ねた。それは、中西の姿だった。高山の声に気づき、編集員の一人が顔を上げて振り向いた。「あ!編集長、お疲れ様でした」言うと、また別の編集員も顔を上げ「お疲れ様でした!」そう言って作業に戻った。高山はその言葉を聞きながらも反応する事はなく、中西を見た。そして、中西は高山の前へ立った。「いいんですか?」中西は顔で編集員を指した。「挨拶か?」高山は言った。「ええ」中西はそれに答えた。「いいんだ。どうせ俺の話は聞かん。ほら、見て見ろ」中西は編集員達を見た。「すぐに作業に戻った。俺が挨拶をしたとしても、誰も聞いていない」中西は小さく頷いた。「どうした?」高山は聞いた。「永瀬美月さんは、家へ戻りました・・・」中西は少し俯き加減で言った。「永瀬敬生の元へ戻ったと言うことか」高山が聞くと、少し間を置いて「ええ」答えた。「橘は?」高山は聞いた。「まだ・・・」中西は俯き、高山は眉を顰めかせ「それを伝えに来たのか?」聞いた。「いえ・・・」答えた。「君は、永瀬敬生の元へ行かなくていいのか?」聞いた。「今、高畑と宮原が向かってます」答えた。「捕まえるのか?」高山は眉を顰めかした。「いえ・・・」中西は静かに顔を横に振った。「何故捕まえない?あの火事を引き起こしたのは、永瀬敬生だ」高山は人に聞かれないような小声で言った。「知っています。だから高畑と宮原は二人の家へ向かい、張り込んでチャンスを待つ」中西は言った。「チャンス?何のチャンスだ」高山は聞いた。「分かりません」中西は答えた「分からない?」高山は言った。「ええ、まだ新人の僕には詳しく言ってくれないんです。僕は・・・永瀬美月さんと、橘愁さんの事が知りたくて・・・二人に何が起こっていたのか知りたくて、ここへ、戻りました」中西は答え、高山はその言葉を聞いて暫く中西を見て「今から行くところがある。君も来るか?」中西はその言葉を言われ、高山を見た。「歩きながら、二人のことを話さないか?」そう言うと「ええ」中西は頷き、二人は歩き始めた。
二人はデスクとデスクの狭間を通り、廊下に出てエレベーターホールへ向かった。「二人の何が知りたいんだ?」言い、高山はエレベーターのボタンを押して二人は待った。「全てです」中西は言った。「全て?」高山が言うと、『チン!』音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。二人はエレベーターに乗り、中西は一階のボタンを押して、扉は閉まった。「二人のこと。橘愁さんはどんな生活を送っていたのか。永瀬美月さんの生活も知りたいです。何故この事件は起きてしまったか・・・」エレベーターは止まり、扉は開いた。そこに二人の中年男性が立っていて、エレベーターに乗り込んだ。そして扉は閉まり、エレベーターは動き始めた。高山と中西は暫く降りていく階数表示を見ている。そして三の数字でエレベーターは止まり、扉は開いた。そこに、三十代半ばぐらいの女性二人と、新人らしき若い男性が一人乗り込み、またエレベーターは扉が閉まって動き始めた。そして、エレベーターに乗っている者は皆降りていく階数表示を見ている。『チン!』音が鳴り、エレベーターの扉は開いた。階数表示は一階となっている。皆降り、高山も中西も降りてロビーを通り、エントランスの自動ドアを抜けて外に出た。外はひらひらと雪が降る。二人はエントランスに立ち止まった。その背後から次々と人は出てきて、二人の脇で立ち止まり、傘を開いて歩いていった。二人の周りは、皆傘をさしている。二人には傘は無かった。二人は着ているコートを少し窄み、歩いていった。
ビルとビルの狭間を歩く。周りは皆会社帰りの者ばかりだ。だが、傘をさしていないのは高山と中西だけだった。高山は静かに何かを考えながら歩いていた。中西はその高山を気にしながら歩く。
「二人の全て・・・」
高山はその言葉を呟くと、ふと笑った。その顔を中西は黙って見
「俺は、わからん。二人の事を何も知らないんだ・・・」
高山は言った。
「何でもいいんです。二人の会話や仕草。高山さんとの思い出でも何でもいいんです。僕は二人を知りたい。二人を・・・」
中西は言った。高山はその中西の顔を見ると、真剣な眼差しで自分を見ていて、まるで橘愁の瞳と似ているように感じた。嘘のない、透き通った目に見えたんだ。その目を見、高山はまた鼻で笑ったようだった。その高山に、中西は首を傾げ
「橘はいつも何かを見ていた。俺は感じてたんだ。小説を書いているとき、歩いているとき、食事をしているときも俺と話しているときも、見ていたのは目の前の物じゃない。それは、過去でも未来でも現代でもない。自分の中にある物。あいつしか見えない物を見ていたんだ。・・・橘は、父親を殺された。倉岡直也に」
中西は高山を見ていた。高山は中西を見るわけではなく、真っ直ぐと少し俯き加減で歩き話していた。
「知っています。美月さんのお母さんとの恋。それに嫉妬して殺したんです。倉岡直也の嫉妬はやがて、橘愁さんと永瀬美月さんへの恋にまで発展して復讐に及んだ」
「橘は、その現実を消そうとしていた。自分の中に、色々なイメージを置いてその全てを消そうとしたんだ。あの悪夢から逃れるのには、そうするしかなかった。・・・君は、橘の物語を読んだことが?」
「はい、この事件を捜査するにあたって、読ませてもらいました」
高山は中西を見て頷いた。
「小説は、純粋な愛を描いている。まだ心幼い少年が、一人の少女に恋をしながら大人の心を持って行く物語」
「あの物語を読んだとき、僕は心が締め付けられる思いがしました。少年の恋心がとても切なくて、純真な心でいたいのに、世間の荒波から逃れられずに大人になっていく。僕は、思わず自分と比べてしまいました。こんなにも純真な時が自分にも合ったのかと。こんなにも、一人の女性に恋をしていられる時が合ったのかって」
「その少年は、橘自身だ。物語の中で、主人公の少年は大人になっていくにつれて、いつしかその純真な心も忘れていくんだ。その少女に抱いた恋心も・・・」
高山は少し黙り、また話し始めた。
「誰だってそうだ。皆、忘れていく。それが普通なんだ。そうじゃなきゃいけないのかも知れない。だが、橘はまだ忘れられずにいる。・・・それが、どう言う事なのか分かるか?」
中西は高山を見ていた。
「苦しいんだ・・・胸が痛みつけられるように苦しい。一人残されたように寂しい。いつも誰かに救いを求めて生きている。誰も気づかないのに・・・橘は、そうゆう人間だ。俺は、橘を分かってやれなかった。橘を救えないでいるんだ」
二人は巨大な樹木の狭間を歩いている。雪はパラパラと降り注ぐ。地面に積もった雪に、足跡は二つしかない。更に歩き、樹木は途切れ、道が広がると雪はひらひらと降り注ぎ、目の前に大きな噴水があった。二人はまだ足跡の付いていない地面を歩き始めた。そして立ち止まり、高山は静かにしゃがんだ。そこは、松永健太郎が倒れていた場所。中西はしゃがんだ高山を見下ろす。高山はゆっくりと地面に積もった雪を掬った。
「メリークリスマス!」金の音が二度鳴った。ケーキ屋の店員は店頭で売っているケーキの前で金を鳴らしながら叫んだ。「メリークリスマス!クリスマスケーキはいかがですか〜」叫ぶ。そしてまた金を二度鳴らした。人々の賑やかさは増す。スーツ姿の者は鞄を手に持って早足で歩く。混雑している歩道を人々の狭間をぬって自転車を走らす少年。大きな買い物袋を持って歩く老夫婦。カジュアルな服装をしたカップル。プレゼントらしき箱を男が持っている。サンタクロースの服装をして、店の看板を掲げる者もいる。人々は、賑わい、叫び、溢れるぐらいに歩道に広がって歩く。そして皆、それぞれの目的のある方向へと歩いていた。その中に、橘愁も歩く。ただ、愁だけは他の者と違い、険しい顔をして早足で歩いていた。
「美月ちゃんのことは、俺は、よく知らないんだ・・・」
高山は言った。高山と中西は路地を歩いていた。雪は二人を覆うように降り続ける。
「いや、俺だけじゃない。みんな美月ちゃんの事は分からない・・・」
中西は高山の横で、静かに聞いている。
「美月ちゃんは何も語らない。いや、語れないんだ」
「僕達も美月さんの事を調べました。あの事件。その後の生活。今の環境。全て調べても美月さんの私情は分からなかった。美月さんは何も語っていないのです。誰にも、自分を語らなかった」
高山は、一呼吸置いて言った。
「君は、何故美月ちゃんが何も語らずに、今までを過ごしていたと思う?」
「はい、美月さんは多分、あの事件を忘れたかったのだと思います。あの事件の記憶を消したかった。当たり前のことです。小さな頃の記憶は、消そうと思ってもなかなか消える物ではありません。いつも心に傷を負いながら生きていくんです。だから、その記憶を自分の中に留めて処理しながら、普通に生活しようと努力していたんだと思います。美月さんは自分を守ろうとしていたのだと思います。それで、同じ境遇にいた永瀬敬生と結婚した」
「でもそれは倉岡直也の計算通りだったんだ。美月ちゃんを自分の手から放れないようにね。美月ちゃんは、その過去を逃れる為に幸せを求めた。あの恐怖、あの記憶を消すには幸せを求めるしかなかった。自分を守り、生きていた。でも美月ちゃんの中からあの記憶は消えない」
「ええ、多分結婚してからの永瀬敬生の変化が、記憶を呼び戻したんだと思います。あの恐怖と同じ境遇に陥れた。だからこそ、余計に自分を守り続けて、誰にもその事実を語ろうとはしなかったんじゃないでしょうか」
「そうかも知れない。だけど、違うかも知れない。俺はずっと考えていたけど、分からないんだ。美月ちゃんは何を思い、生きてきたのか分からない。でも、俺は思うんだ。美月ちゃんが守っていたのは、自分ではないような気がする。そう、思い止まないんだ」
中西は高山を見ていた。二人は路地から門を潜って敷地に入った。すると目の前に大きな樹木が聳え立ち、その奥に大きなエントランスがある建物がある。
「お前の髪は美しい。艶があり、透き通るような長い髪。お前の目も、鼻も、口も、全て美しいんだ・・・」
長く暗い廊下。誰もいない寝室。どこからか囁くような声が聞こえてくる。
「お前は、誰よりも美しい・・・」
キッチンの水道の蛇口から、滴る水の音が聞こえる。
「もっと、そばにおいで・・・」
敬生と美月はリビングにあるソファに、密着して座っている。その美月の体を敬生は更に抱き寄せた。そして美月の顎を指で掴み、自分に近づけ見つめる。
「何て綺麗な目をしているんだ・・・美しい・・・まるで、吸い込まれるようだ」
美月の青い目を見つめ続け、静かに吸い込まれるようにキスをした。
「お前の唇が、こんなにも甘く、官能する物だとは知らなかった」
そしてまた濃厚なキスをする。
「美月・・・」
敬生の唇は美月の唇を濃厚に交差し続けた。敬生は目を瞑っている。美月は目を開けていた。そして、ゆっくりと美月は自分の体から敬生を離すと、敬生は目を開け、美月を見た。美月は敬生を見続け、一瞬笑いかけたかのようだったが、その顔もすぐになくなり、ゆっくりと吸い込まれるように、美月から敬生に目を閉じながらキスを交わした。
暗く、青い光が辺りを覆う。心拍モニターの波形が波打ち、呼吸音が鳴り響く。松永健太郎は静かに寝ていた。その健太郎の上を黒い影が通る。
しおりはベッドの脇に座っていた椅子から立ち上がった。ジッと健太郎を見ている。そして、足元に置いてあったバッグを手に取り、ドアに向かおうとした。その時、ドアは開いた。そこに立ってるのは高山と中西だ。
「しおりちゃん、帰るのか?」
高山はしおりの姿を見て言った。しおりは黙って頷いた。
「そうか、今日か・・・」
高山は少し言葉を詰まらせた。その高山を見て、しおりは答えた。
「ええ、もう戻らないと・・・仕事も随分と休んでしまいました。親も心配しています。それに、けんちゃんを見ていることが、とても辛いんです。いつまで待っても、何も変わりません。生きているのに、まるで死んだようです。私はけんちゃんを見るたびに、自分の後悔を考えてしまうんです」
しおりは少し黙った。その姿を高山は見て
「後悔?」
声を細めて言った。
「ええ、あの日のことを考えてしまうんです。あの日、もっと私が早く行けばよかった。もっと早く行けば、けんちゃんはこんなことにならなかった・・・」
俯いた。そのしおりを高山は見て
「しおりちゃん、電車の時間まで少しある?」
言った。
「ええ」
小さく答えた。
「ここで、少し話さないか?」
高山が言うと、しおりは小さく頷いた。
「中西君も・・・」
高山がそう言うと、しおりは座り、高山と中西も座った。
「刑事の、中西君だ」
高山はしおりに紹介した。するとしおりは会釈し
「前、ここに来ました・・・」
言った。高山は中西を見た。
「前にここで、しおりさんに事件の事、色々と伺いました」
中西は言った。
「そうか、君もいたのか」
「はい・・・」
酸素吸入音が静かに響いている。高山は健太郎を見ていた。暫く健太郎を見続け、それに継いでしおりも中西も健太郎を見た。暫く沈黙は続いた。そして、また高山は話し始めた。
「此奴は、俺の友達なんだ・・・部下だが、友達だ。俺は今、此奴に会う事が楽しい・・・とても安らぐんだ」
少し黙って、また話し始めた。
「今日はクリスマスイブだよ。誰もが幸せを感じている・・・」
「高山さん、ご家族は?」
中西が聞いた。
「生憎独り身でね。この仕事をしていると、なかなか結婚も出来ない。中西君は?」
「ええ、彼女がいます」
「そうか、今日彼女は何をしているの?」
「仕事を終えたら、僕の家で会う予定です」
「そうか、今日は早く帰った方がいい」
二人の会話を、しおりは健太郎を見ながら聞いていた。そのしおりを高山は見、そして健太郎を見た。
「俺はね、ずっと自分の幸せのことだけを考えて生きてきたんだ。自分の思うようになりたいとだけを思って生きてきた。誰だってそう思いながら生きているんだと思う。だから偉くなって、自分の思う本を作りたいと思った。周りを傷つけてもね。男ならそう思っても普通だろ。みんな密かに思う事だ。でもみんな、どこか虚しくなり、寂しくて恋人にすがったりして幸せになるんだ。俺にはそれが出来なかった。自分の虚しさに気づきながらも、人を傷つけながら生きてきたんだ。」
高山はその思いを胸に、健太郎を見続けた。
「中西君は、どんな自分になりたいの?」
健太郎を見ながら訪ねた。
「僕は、事件を指揮したいんです。様々な犯罪の真相を追い求めて解決し、次の捜査に役立てていきたい。この世の中から犯罪を無くすように努力していきたいんです。みんなが安心して暮らせるようにしたいんです。みんなが幸せになれるように」
中西は言った。酸素吸入音が鳴り響く。心拍モニターの波形は緩やかに波打つ。
「みんなの幸せ?それは綺麗事よ。誰かを幸せにしようとすると、誰かが傷つくの」
しおりは静かな声で健太郎を見ながら言った。
「みんな、自分の幸せを求めて生きているんだ。仕事に励み、結婚して、子供が出来て、普通に生活していたとしても、誰もが一度は立ち止まって自分を見直す。幸せを見直すんだ。自分が何のために生きているのかを、見直すんだ・・・」
高山が言った。
「僕には、まだよく分かりません・・・」
中山は俯いて言った。
「私は・・・考えもしなかった。ただ、今、自分が楽しければいいと思ってました」
しおりは言った。
「俺は、誰も必要なかった。自分さえよければいいと思っていた。だけど、そうじゃないと知ったんだ。松永や橘と出会って、そう思った。自分の幸せを、自分一人では求められない。誰かに教えられて、初めて気づくんだ・・・俺は、気づくのが遅かったのか。二人を、苦しめ続けている・・・」
健太郎は静かに寝ている。
「しおりちゃん、今日はクリスマスイブなんだ。もう少し、松永の側にいることは出来ないのか?」
静かに訪ねた。しおりは、少し黙り、小さな声で答えた。
「・・・ごめんなさい。それは、出来ません」
高山はしおりを見て
「どうして?」
聞いた。
「イブだからです。皆、幸せを感じます。私には、それが耐えられません。自分の事を考えてしまうんです。まだ、自分が整理出来ないんです・・・」
しおりは苦しく言い、高山は少し間を置いてからまた聞いた。
「一緒にいられる、幸せは?」
その高山の言葉にしおりは俯き、苦しく
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
謝り続けた。高山にそれ以上の言葉はなかった。それ以上は聞かなかった。三人の間を、心拍モニターの波形の音、酸素吸入音、そして、沈黙が流れてた。
ドアは閉まった。橘愁は入ってくる。肩や頭に雪は乗っている。やがて、その雪も溶けた。愁はジャンパーを脱ぎ、服を脱いで上半身裸となった。タンスからタオルを出して、頭を擦るように拭いた。そして愁はタオルを肩にかけ、座り込む。タバコを取り出し、口に銜えて火をつける。一点を見つめ、何かを考える。タバコは吹かされた。呆然と考えてた。ジッと考え、タバコを吹かす。静かに時は流れたようだった。
そして一瞬、時は止まったようだ。長くなっていたタバコの灰は床に落ちた。すると愁は、何かに導かれたように顔を上げ、静かに立ち上がった。そして落ち着いた様子でタバコを灰皿に擦り消すと、何か込み上げた思いがする。怒り。悲しみ。憎しみ。愁に今まで感じたことのない感情が込み上げ、床の上に山積みされた洗濯物を壁に投げつけた。ゴミ箱を蹴り、部屋に貼ってあるポスターを破った。そしてパソコンを持って床に叩き付けた。心臓の鼓動が高鳴る。怒り憎しみ敬生を思い、痛み悲しみ美月を思い、悔しくて拳を壁に叩き付けた。そして愁は散らばった洗濯物の中から服を取り出して着、カーテンレールにかけてある皮のジャンパーを着た。ミニキッチンへ行き、引き出しを開けると、そこに刃渡り十センチのナイフがある。そのナイフを見つめる愁の目には、表情が無かった。
高山と中西としおりは、夜間出入り口からエントランスのロータリーに繋がる道を歩いていた。
三人は、エントランス前の巨大な樹木の前に立った。「しおりちゃん、元気でね」高山は声をかけた。「はい・・・すみません。私ごとで・・・」しおりには苦しい思いがする。辛いんだ。「いいんだ。いいんだよ。みんな、辛いんだ。無理をする事はないよ」高山は優しい声で言った。「また、自分の中で色々な物が整理出来たときに来ます」しおりは言った。「そうか、待ってるよ。それまでに、松永の意識が戻ることを願ってね」高山は微笑んだ。「じゃあ、失礼します」しおりは高山と中西に会釈した。「気をつけてね」高山も言うと会釈し、中西も会釈した。そして病院の門を出て、しおりは駅に向かい、高山と中西は暫くしおりを見送ると、しおりとは別の方向を歩き出した。
高山と中西は歩く。雪はひらひらと降り続け、家々の明かりも乏しくついている。門前に、雪だるまが置いてある家もある。街灯は地面をあて続け、二人はその下を歩いていた。「君は、もう戻った方がいい」高山は言った。「はい・・・でも、僕には分からないことがまだあります」高山は中西を見た。「自分が、どうしたらいいのか分からないんです」中西は言った。その言葉に高山は、少し考えて答えた。「君は、自分を信じて進めばいいんだ。自分が思った行動をとればいい。自分のことを、大事に思ってくれる人を思いながらね」高山は微笑んで、中西を見た。「有り難うございます」中西も少し安心して微笑み「・・・高山さんは、この後どうするんですか?」また聞いた。「俺は、橘を探しに行くよ。未だ、連絡が取れない。何処にいるかも、何を考えているかも、分からないんだ。美月ちゃんは戻った。何かあったのかも知れない。彼奴を、救いたいんだ・・・」高山は言った。二人の中で、静かに時は流れた。ゆっくりと歩いていた。雪はひらひらと舞う。どこからか、声が聞こえてきた。美しい声。数人が、歌を歌っている。すると、家々の明かりは消えた。街灯だけが二人を照らす。高山と中西は顔を上げて、遠くを見た。そこに、暗く、いくつもの影が浮かび上がり、いくつもの小さな灯火が見えた。
汽車は着いた。扉が開く。乗客は次々と降りた。その中に、古希静江、古希ガン太、竹中直紀、竹中国利、芳井秀夫、浅倉唯の姿もあった。六人は駅を見上げた。「ここが紅髯町か〜」芳井は呟いた。そこに、『紅髯町』と書かれた駅の看板がある。静江と竹中は愁を探しに紅髯町に来たことはあったが、他の人は初めてだった。芳井と唯は物珍しい顔でキョロキョロと辺りを見渡した。「いい!私たちは、愁ちゃんと美月ちゃんを捜しに来たのよ。何としても二人を捜し出すの!もう、寂しい思いはさせないわ」力強く言い「ここは都会よ!田舎から来た団体客と思われないように!目立つような行動はしないようにね!」静江が言うと、ガン太、竹中、国利は頷き、キョロキョロしていた芳井と唯はお互い顔を見合わせて、力強く頷いた。そして六人は纏まってぞろぞろと歩いていった。その六人を駅に来た客は、避けながら歩いていた。
雪の中を彷徨う。ふらふらになりながらも懸命に歩いてた。花崎志帆は赤ん坊のいるお腹を支え、ふらふらに歩いては家の塀にあたり、ふらふらと道を横切って歩いてはまた、反対側の家の塀にぶつかった。「たかお〜」
「あなたを愛している事が、分かったの。あなたの目も、口も、体も・・・」美月は敬生の顔をなぞる。顔は焼き爛れている。その顔にキスを何度もした。「そうか・・・」敬生は言い、美月を抱きながらゆっくりとソファの上に倒れた。「お前を愛してる・・・お前を、愛してる・・・美月・・・美月・・・」濃厚なキスをし、首筋にキスをし、敬生は上着を脱ぎ、美月の上着を脱がした。そしてゆっくりとブラジャーを外し、美月の胸にキスをする。そこからなぞるようにキスをしながら顔に近づいて、敬生は美月の顔を見る。そしてまた美月の唇にキスをした。
家を見上げる三人の男がいる。高畑、宮原、杉本だ。杉本はコートに手を入れて、タバコを吹かしていた。宮原は肩を窄めて、美月の家を遠くから見上げていた。高畑は、タバコを吹かしながら静かに考え、家を見上げている。「静かだ・・・」高畑は呟いた。「本当に、いるのか?」宮原は杉本に訪ねた。「ええ、確かです。二人は家の中で潜んでいます」杉本は言った。美月の家の前の教会は相変わらずに人の出入りはなく静かで、建物の周りに飾られた電球や、大きなクリスマスツリーの飾りが煌びやかに光る。屋根上に立つ十字架は赤く光り輝いていた。雪はひらひらと降り続け、三人は暗く静かな家から目を離さなかった。「奴らは、何をしてる・・・」高畑が言った。「分かりません・・・」高畑を見「タイミングを見て入りますか?」杉本は吹かしていたタバコを地面に落とし、踏み消した。「ああ、タイミングを、見てな」高畑は言った。
雪は降る。花崎志帆はふらふらに彷徨い、地面の雪が体を滑らせて幾度も転び、それでも立ち上がり歩いた。そして、公園に入る。
巨大な樹木の狭間を彷徨い歩く。誰もいない暗い道を、ふらふらと歩いていた。そして大きい広場に出、側にあるベンチに腰をかけた。目の前には噴水がある。志帆はお腹を見つめ、静かに撫でていた。
「お前は美しい・・・」敬生は撫でるように美月の体に触れ、胸にキスをしていた。敬生の息遣いが高鳴る。次第に体を下げ、足を撫でながら、美月のスカートの中へ手を入れた。そして、スカートの中から下着を下ろす。「美月・・・」敬生はズボンのベルトを外し、脱いで下着姿になる。そして抱いた。美月は敬生の手を握り、また自分の顔に敬生を近づけた。「あなたの顔を見ていたい・・・」敬生の顔を優しく触り、キスをする。二人の体は肌で触れ合い、互いに感じ合った。
携帯の着信音が鳴った。敬生は美月を抱いている。その音は遠く聞こえた。敬生は濃厚なキスを続ける。着信音は一度切れ、またすぐに鳴った。キッチンの方から聞こえる。敬生はその音に気づいていたが、気にせずに美月を抱き続けた。美月の体中をキスする。着信音は鳴る続ける。「電話・・・」美月は言い、敬生はキスを止め、美月を見た。「電話だわ」また言った。「ああ」敬生は頷き、また体中にキスをした。着信音は止まる。そしてまたすぐに鳴った。美月はその電話がとても気になったが、敬生は気にせずに美月を抱き続けた。美月は敬生の体にキスをする顔を取って上げた。敬生は美月を見る。「電話に、出てあげて」美月がそう言うと、敬生はその場に立ち上がり、キッチンに向かった。
キッチンのカウンターの上に置かれていた。着信音は鳴り続ける。敬生はカウンターに近づいて携帯を手に取って着信ボタンを押し、耳に近づけた。
ドアの曇り窓に影が写り込むと、ドアは開いた。そこに橘愁は立っている。ゆっくりと部屋に入る。暗く、心拍モニターの音、酸素吸入音が重なり響く。部屋に心拍モニターの画面から出る、青い光が薄く籠もる。
橘愁はゆっくりと歩き、ベッドに近づいた。そしてそこに眠る松永健太郎をジッと見る。静かに座った。愁は何も語りかけずに、ずっと健太郎を見ていた。健太郎は酸素吸入マスクをし、安定した呼吸で息を吸っている。胸に詰まるような思いがし、様々な出来事が愁の頭の中を過ぎった。懐かしいこと。楽しい日々。あの、十二才の出来事。
美月と出会ったことを思った。しっとりとした雨が降ってる日。美月は傘をささずに立っていた。愁は近づき、美月に声をかけると振り向く。何故か脅えていた。そして愁の顔を見る。青い目だった。澄んだ目だ。その瞳はとても美しく、いつまでも愁の目に焼き付いた。それからずっと美月を思った。ずっと、ずっと美月を思った。学校の行き帰り。家にいるとき。りゅうの散歩をしているとき。初めてキスをした、あの日を忘れない。湖で美月と一緒にいる時も、笑顔がとても素敵で、とても楽しかった。手を繋ぎ、かけ回る。湖の上でボートに乗っている。美月が笑ってる。美月が、笑っている。
橘愁は、松永健太郎の側に座って静かに見つめ、思いを胸に留める。
「美月が、帰った」
静かに話した。
「家に帰ったんだ。僕から離れて、彼奴の元へ行った・・・」
健太郎は安定したリズムで息を吸っている。そのマスクから漏れる音は、部屋に響いた。愁は、健太郎を見つめ続ける。
「僕は・・・動けなくて、二人が遠ざかるのを見ているだけだった」
胸に押し込まれる思い。苦しく、悲しい記憶。教会の脇で倒れ、暗闇に残される愁。敬生と美月の姿は消えていく。
「悔しかった・・・悔しかった・・・怒りを感じたんだ・・・美月は何故彼奴と行った。何故・・・」
愁は一呼吸置いた。
「健太郎。僕は・・・美月を取り戻したい。どんなことをしても・・・」
愁は布団の中にある健太郎の手を取り、しっかりと握って額に付けて祈った。
「健太郎・・・」
その手は震えていた。その、声も震えていた。涙が零れ落ちる。愁は、その思いを松永健太郎に語った。
しおりは商店街を歩き、駅に向かっている。人々は賑わい、誰もがイブの夜を楽しく過ごしてるように見える。しおりにとっては苦しく感じていた。みんな幸せに見える。楽しい音楽。笑い声。店頭で品を売る店員の叫び声。どの声も、しおりにとっては胸に突き刺さる。とても苦しく、耐えられないぐらいの寂しさが押し寄せた。
声が聞こえる。笑い声でも、叫び声でも、人々のざわめきでもない。美しい声。遠く聞こえる。誰かが歌ってるんだ。しおりはその声に気づき、立ち止まって声の聞こえる方向を捜した。すると、突然商店街にある全ての店の明かりは消え、人々は立ち止まった。街灯だけが人々をあてる。皆、声の聞こえる方へ向いた。しおりも皆と同じ方向を見る。歌声が聞こえる。美しい歌声だ。すると、遠くに小さな灯火がいくつも見えてきた。それと同時にいくつもの人影も浮かびあがってきた。
敬生は携帯を取った。
「たかお〜?」
花崎志帆の声だった。
「やっと出た。ずっと連絡してたの。ずっと、捜してたの。敬生を捜してたの・・・」
敬生はその声を聞いていたが、答えはしない。
「たかお〜聞こえる〜」
志帆は訪ねたが、敬生は返事をしない。悲しく、震えた声だった。
「たかお〜」
志帆は言った。
「ああ」
敬生は一つ置いて返事をした。
「あなたの声が聞きたかった。あなたと一緒にいたいの。お腹を触ってもらいたい。あなたの子がいるのよ。・・・会いたい。あなたと会いたい」
志帆は寂しい声で言った。敬生はその声を聞き、少し黙って答えた。
「・・・分かった。すぐ、会おう」
敬生は言った。
「本当〜?私、噴水のある公園にいるの〜ここで、待ってるわ」
志帆が言うと、敬生は携帯を切った。
志帆は携帯を切る。暗く、静かな公園。凍り付いた噴水。雪は寂しく、ひらひらと志帆の体に降り注いだ。ベンチに座り、静かな声で「もうすぐ、あなたのパパが来るわ〜あなたのパパよ〜ママの愛する人。パパに、沢山お腹をさすってもらいましょう」お腹をさすりながら言った。
高山はドアをノックした。だが、応答はない。もう一度ノックした。応答はなく、ドアノブに手をかけた。そしてゆっくりと回す。カチャ音が聞こえ、ドアが少し開いた。不審に思い「橘?」声をかけながらドアを開けた。「橘?」高山は玄関に立ち、動きは止まった。部屋が荒れている。洗濯物は散らばり、ポスターは破り剥がされ、パソコンは壊れて床の上にあった。ミニキッチンの引き出しも開いている。辺りを見渡す。部屋には誰もいない。高山の心臓の鼓動は高鳴り始めた。そして血相を変え、勢いよく振り向いて部屋を出ていった。
敬生はまたカウンターの上に携帯を置くと、美月の座っているソファに向かった。美月は起きあがって敬生を見ていた。「誰?」美月は言った。「ちょっと出てくる」敬生は言った。「何処に行くの?」美月は聞いた。敬生は服を着始めた。「ちょっと、問題があってな」敬生は言い、美月の頬を押さえてキスをした。「楽しみは、帰ってからだ」そう言うと窓際へいき、カーテン越しから外を覗いた。遠く、三人の人影が見える。高畑達だ。「警察か・・・」呟いた。「すぐ帰る。家からは出るな危険だ。もし、橘愁が来ても、家には入れるな。何か言ってきたとしても、その話を聞くな。俺からは逃げるな。橘愁と、逃げるな。俺は、何処までも追いかけるからな」敬生は振り向き、美月を見た。美月は敬生を見ている。そして、ニコッと笑った。「私は逃げないわ」そう言うと、敬生も微笑み「そうか・・・じゃあ俺は、ケリをつけに行く」そう言い、キッチンへ向かう。キッチンから家の裏に出るドアを開けて、外へ出ていった。
美月はソファに座っている。上着を着る。ただ一人、暗く静かな空間に美月は座っていた。
橘愁は歩く。早足ではなく、ゆっくりでもない。家々の狭間を歩く。街灯は愁をあて、雪はひらひらと愁に降り注いだ。
人通りのない路地を歩く静江、ガン太、竹中、国利、芳井、唯の姿がある。「愁ちゃんは何処にいるの?」静江が聞いた。「さあ?」ガン太は答えた。「静江ちゃん、何で紅髯町なの?俺達は二人と会ったのは美天村だよ」国利は言った。「彷徨ってる二人が、いつまでも同じ所にいるとは思えないわ」静江は答えた。「ああ、何処にいるかは分からない。だから可能性を追求して、捜すことが大事なんだ。二人は彷徨って、また戻ってくる」竹中が言った。「可能性?」国利は聞く。「二人がこの町にいる可能性だよ。この町には大きな公園がある。その公園にいるかも知れない。もしくは愁は家に戻ったかも知れない。美月ちゃんは、彼奴に連れられて戻ったかも・・・」竹中が言うと「最後のは、避けたいわ」静江は言った。「とにかく町中を捜して二人を見つけようよ。もう、時間がないんだ」国利が言った。ガン太は三人会話を聞いて頷いていた。
芳井は三人の会話は聞いてなく、辺りをキョロキョロしている。唯は立ち止まり、何処か遠くを見ていた。その唯の姿に芳井は気づいた。芳井も立ち止まり「どうした?」聞いた。「うた・・・」唯は徐に答えた。「歌?」芳井は唯の向いている方を見る。「歌声が聞こえる・・・」呟いた。唯も芳井も遠くを見ていたが、何も見えない。何も聞こえない。その時、周りにある家々の明かりは消えた。「何?」静江は咄嗟に答え、立ち止まった。六人を街灯だけが照らしている。竹中、国利、ガン太も立ち止まった。「どうした?」竹中は言った。国利は唯と芳井に気づき、二人の向いている方を向く。それに連なって静江と竹中も向いた。みんなに遅れてガン太も向く。遠く、小さな灯火がいくつも見えてくる。そして、いくつもの黒い影が見えてきた。「何だ〜あれは?」国利が呟いた。黒い影はやがて人影となる。数人が列となり、小さな灯火と共に六人に近づいてきている。六人はその姿を見ていた。徐々に徐々に近づいている。人々は列となり、胸にキャンドルを抱えて、美しく、綺麗な歌声でゆっくりと歩いていた。「あんた!何だいあれは?」静江は隣りにいたガン太に訪ねた。するとガン太は少し震えた声で「さあ?」首を傾げた。「さあ?って、あんた知らないのかい!」静江は少し怒り口調で言うと「・・・俺に聞くなよ」震えた声でガン太は言った。その人々は一列に並び、キャンドルを胸に抱えて美しい歌を歌いながら、六人の前をゆっくりと通りすぎる。
暗く、静かな部屋。キッチンの蛇口から水の滴る音が響く。美月は一人、ソファに座っている。
中西は歩いている。何か、胸に迫る思いがする。こんな気持ちは初めてだった。色々と考えた。今まで考えたことの無いことだ。橘愁さんは今、どんな気持ちだろうか。何を、考えているのだろうか。何故、ここまで美月さんを愛していられたのだろうか。その美月さんが危険に晒されている。中西に降り注ぐ冷たい雪は、胸に染み込み、とても痛く感じた。永瀬美月を思う。言葉に表せない気持ち。痛い気持ち。自分は、何をしているのかも分からなくなっていた。自分を考える。自分を───────
<早く助けなければ>そう思った。
中西は歩く。雪はひらひらと降っている。人通りのない路地を歩いていた。ゆっくり歩き、考え、その思いは胸に迫った。前方に人影が見えた。それは高畑、宮原、杉本の姿だ。宮原は中西の姿に気づいた。「何処行ってたんだ!」宮原は中西に近づき、声を潜めて怒り迫った。中西はふと宮原の顔を見たが、その言葉に返事をする事はなく、前へ進んで高畑に近づいていった。その事に苛立ちながら、宮原も後を追った。「どうした?何か、分かったことが、あったか?」高畑は言った。中西は高畑を見たが、何も返事はしなかった。「おい!お前聞いてんのか!」宮原は怒鳴った。高畑は中西を見てニヤリと笑った。「まあ、いい。お前は、何処に行って、何を調べたのか、俺は知らない。誰から、何を言われたかも、俺は知らない。どんな知識を、人に与えられようが、ここにある物が、現実だ。お前の前にある物が、現実なんだ」高畑は言い、中西の肩に手をかけ「あれが、永瀬、敬生と、永瀬、美月の、家だ」言った。その言葉に中西は、少し反応した。「あそこに、二人はいる」高畑は家を指した。宮原と杉本も見た。中西も見る。「二人はあそこにいるんだ・・・」杉本が中西の耳に囁いた。中西は何も考えられず、だけど、胸迫る痛さ。無意識に歩いていた。美月の家へ───────
宮原はその中西の姿に追い「何処行くんだ!」止めた。すると中西は宮原を睨み「僕は刑事です。だから、助けに行くんです」言うと、また歩き始めた。それを咄嗟に宮原は止め、高畑を見た。すると高畑は中西に近づいた。「誰も、助けないとは、言っていない。ただ、タイミングではないと、言うことだ」高畑は言い、宮原は中西を掴んで、元の場所へ移動した。「タイミング?何処にタイミングがあるんですか?」高畑を睨んだ。その目に笑い「ほう、いい目をしてる。その目は、大事だ。だが、その目を向ける、相手が違う」落ち着いた口調で高畑は言った。すると、急に高畑の目つきは変わり、中西に近づいて思いっきり殴った。中西は地面に倒れ、驚き、高畑を見た。「俺にそんな目をするな!」先程までの落ち着いた口調が嘘のように、突然早口に怒鳴った。「俺にそんな目をするな!」地面にある雪を拾い、地面に倒れている中西に投げる。中西は手でそれを避けていたが、高畑は地面から雪を拾い投げ、また、雪を拾っては投げながら中西に近づいていた。「お前が、どんな行動をしようが、俺は知らない。何を、聞いたか、俺は知らない」高畑は、落ち着いた口調を取り戻した。「だが・・・」言葉が途絶える。怒り震え「俺にそんな目を向けるな!」頂点に達した。その怒りから、高畑は中西の腹を何度も蹴り、顔を何度も殴り、中西は体が地面に倒れたまま起きあがらなかった。その様子を表情もなく見ている宮原がいる。杉本はタバコを吹かしながら、美月の家を見上げていた。高畑は蹴るのを止め、中西を見て呟いた。「事件は続いてる・・・まだ、続いてるんだ」高畑は振り向き杉本に近づく。「何か、変化は、あったか?」聞いた。「いえ・・・」杉本は、美月の家を見ながら答えた。「俺の、している事は、間違ってるか?」高畑も、美月の家を見ながら呟く。「いえ・・・間違ってないと思います」杉本は言った。「俺達は、松永、健太郎の、事件から、追っている。追えば追うほど、事件は、広がるんだ・・・」高畑は言う。宮原は頷いた。「今日は、クリスマス、イブだ。俺達にとって、最高の、舞台と、なるだろう。それを、崩すわけには、いかない・・・」高畑はニヤリと笑った。杉本はその話を聞きながら、タバコを吹かして美月の家を見上げていた。宮原は頷き、美月の家を見上げた。地面に積もる雪の上に中西はいる。雪はひらひらとその上を降り注いだ。意識は薄く失っていた。高畑の声は聞こえたが、体は起きあがれない。
美月は暗く、静かな部屋にいる。ソファに、ジッと座ってた。
愁は、人通りのない路地を歩いていた。
高山は走り、携帯電話を握っている。<たちばな!>心の中で叫び、走りながら番号を押して耳に付けた。呼び出し音は鳴り「はい、もしもし」声が聞こえた。
「竹中さんですか?」高山の声が電話から漏れた。竹中は携帯を耳に付けて立ち止まる。その姿に静江は立ち止まり「誰?」竹中に近づいた。竹中は携帯を耳から少し離し「高山君だ」言い、また携帯を耳に付けた。その姿に国利もガン太も芳井も唯も気づいて、皆竹中に近づいて囲った。「今、何処にいますか?」高山の声は聞こえる。「実は、俺達も紅髯町に来てるんだ」答えた。「えっ?」高山は周りの雑音が煩く、声が聞き取れなかった。「今、俺達も紅髯町に来てる!紅髯町の商店街だ!」怒鳴るように答えた。六人は人混みの渦の中にいる。周りからは声、声、声が聞こえる。人々の賑わう声。店頭販売している店員の叫び声。歩道を走る自転車がベルを鳴らしている。六人はその歩道の真ん中に囲っていた。「商店街ですか?」高山は叫んだ。「そうだ!」答えた。「近くにいます!すぐ行きますから、会いましょう」
高山は携帯を切った。そして走る。人通りの少ない住宅街を走った。
歌が聞こえる。遠くから微かに聞こえてきた。美しい歌声が、透き通るように聞こえてきた。高山はその歌声に気づいた。その歌声で、走っていた高山は次第に歩き始めて、止まった。そして歌声の聞こえる方を見る。遠く、小さな灯火がいくつも現れた。そして、数人の影が見える。高山はジッと見ていた。その時、それぞれの家の電気は消えた。街灯だけが高山をあてる。その者達は近づいてくる。高山はその者を待っているかのようにジッと見ている。その者は、歌を歌いながら列を作り、胸にキャンドルを掲げて歩く。高山は静かにその者を見続け、胸元で手を合わせて祈った。その者達は、透明感溢れる歌声で、高山の前を通りすぎた。
『チャラン』鈴が鳴る音がし、ドアは開いた。愁は三段下る階段を降り、店内に入る。店の奥の窓際の席に座った。テーブルの上で手を合わせ、何か、思いに更けているようだ。道路より少し低い店内からふと外を見ている。そこに近づく気配があり「愁君、久しぶりだね」声が聞こえた。愁は振り向くと、そこにこの店、紅涙のマスターが立っている。「ええ」愁は返事をし、また窓の外を見た。マスターはテーブルに水を置き「いつものコーヒーでいいかい?」言ったが、愁から返事は返って来なかった。マスターはそんな愁を見ながら、店の奥に姿を消した。愁は窓の外を見ている。窓の外は溢れるぐらいの人が歩いている足が見える。店内には愁しかいなかった。店の奥から、コーヒー豆を引く音が聞こえる。
暫くして、マスターは店の奥から現れた。お盆にはコーヒーとミルクと砂糖が乗っている。愁に近づき「待たせたね」言い、テーブルの上にそれぞれ置いた。愁は窓の外を見ている。沢山の人が、店の前を通ってる。マスターも窓の外を覗いた。「外は、賑やかかね?賑やかなんだろね。今日はイブだもんね」マスターは少し笑った。「でもこの店は客が居ない。とても静かだ。だけどね、私はその静かな店から外の風景を見ることが、好きなんだよ。みんな、幸せそうに歩いている。その人々の顔を見ることが好きなんだよ。自分まで幸せな気分になれるんだ」そう言い愁を見たが、愁は窓の外を見ているだけだった。マスターは、愁の顔を気にした。どんな表情をしているのか見たかったんだ。「愁君」呼んだ。それでも愁は窓の外を見ていて、マスターの声が聞こえているかどうかも分からない。その愁をマスターは見ながら、優しい口調でまた話し始めた。「どうして雪は降り続けるんだろね〜ただ、みんなの体を冷たくするだけなのにね〜」マスターは言葉を止め、少し体を前に倒し、窓の外を見上げるように見た。人々は歩いている。「きっと、体が冷たくなるからみんな、心を温め合うんだろうね〜」マスターは微笑んだ。
その時、人々は立ち止まった。そして周りの家々の明かりも消える。街灯だけが人々をあてた。マスターは体を起こした。「うた・・・」静かな店内から耳を澄ますと、透き通るように歌声が聞こえる。「今年も来たか・・・」そう言うと、マスターはその場から立ち去り、店の奥へと消えた。そして店の明かりは消える。
店内は暗くなり、奥から小さな灯火が現れた。マスターは灯したキャンドルを胸に掲げながら、愁の席へと近づいた。そして愁の席の前に立つと、キャンドルをテーブルに立てた。愁は振り返り、キャンドルを見た。そのキャンドルの明かりで愁の顔が見える。寂しく、悲しい顔をしていた。マスターは愁の顔を見る。そして静かに話し始めた。「信者は歌を歌い、教会へ向かうんだ。キャンドルを胸に掲げ、祈り歌いながら雪の上を歩き、列を作って教会へ向かう。・・・美しい歌を歌う。心の奥まで染み込むような歌だ。皆、明かりを消して、その歌に酔いしれながら祈るんだ。それは誰かが言い出したわけでは無く、皆自然に、願い、祈り、そうなった」歌声は近づいてくる。「近づいてきたよ」マスターは声を小さくして言い、手を胸の辺りで組んで目を瞑り、祈り始めた。愁は祈ることはなく、キャンドルを見つめている。信者は近づいてくる。路地に立ち止まる人々は、皆手を組み、目を瞑って祈っている。信者は近づき、キャンドルを胸に掲げ、歌い、ゆっくりと人々の間を通り過ぎていった。「通り過ぎた」マスターは小さな声でいい、目を開けて手を解いた。そして体を少し倒し、キャンドルの灯火を吹き消した。その瞬間愁の顔は消え、店内はまた暗くなった。
マスターはスイッチを押し、また店内は明るくなった。そして店内にマスターが戻ると、愁の姿は無かった。
一人寂しくベンチに座っていた。雪は花崎志帆の体に降り注ぎ、その寒さと冷たさで体は痛く、震えた。志帆はその寒さから赤ん坊を庇うように、その寒さを和らげるように、震えた手でお腹をさすった。
ザクッザクッザクッ────────
静かに雪を踏みつける音がする。
ザクッザクッザクッ────────
暗く、静かな公園に音は聞こえた。樹木の狭間に黒い影は見える。近づき、近づいていく。その前方には、遠く、雪に降り注がれる花崎志帆が、ベンチに座っている後ろ姿が見えた。
人々は、愁の目の前を通り過ぎる。紅涙の店の前に立っていた。雪は愁の上から冷たく降り注ぐ。愁は皮のジャンパーのポケットから携帯を取り出し、番号を押して耳にあてた。
ソファに座っている美月。携帯の着信メロディがどこからか鳴った。美月はそれに気づいたのか気づかなかったのか、それに反応することなく、一点を見つめたまま携帯を取ろうとはしなかった。携帯の着信メロディは鳴る。鳴り続けた。
通り過ぎる人々。愁は寒さの中、立ち竦んで携帯をかけている。
携帯の着信メロディは鳴っていた。美月はソファに座っている。
暫くして美月は、一点を見つめたままではいたが、手は動き、上着のポケットの中に入れて携帯を取り出した。そして着信ボタンを押し、耳にあてる。
「もしもし、美月か?」
愁の声だった。
「もしもし」
美月の声は聞こえなかった。橘愁は寒さで肩を窄め、携帯を耳に押しあててもう一度言った。「もしもし」
美月の言葉は返ってこなかった。愁はもう一度訪ねることはなく、話始めた。「美月、大丈夫か?」
「・・・ええ」美月は一つ言葉を置き、無情に答えた。「美月、今、奴が近くにいるならば、話さなくていい。僕の話を聞いて、返事をしてくれればいいんだ」愁は言った。美月は表情一つ変えずに愁の話を聞いている。「奴が、近くにいるのか?」愁は言った。「・・・いいえ、いないわ」一つ言葉を置いて答えた。「奴は、何処に行ったんだ」
「分からないけど、家を出た・・・」美月の声が、小さく漏れる。「みつき・・・みつき・・・」言葉が詰まった。「奴に、何をされたんだ・・・」呟いた。雪は、愁の体に冷たく降り注ぎ、人々は通り過ぎる。立ち竦んでいるのは、愁だけだった。
愁の言葉は小さく聞こえた。美月は表情を変えずに、愁の言葉を待った。
愁は冷たい雪が降り注ぐ中肩を窄め、立ち竦んでいた。愁の目に通り過ぎる人々の姿は写る。雪はひらひらと降り注ぐ。傘を差す者。差さずに歩く者。コートを羽織り、肩を窄めて歩く者。一つの傘を差し歩くカップル。賑やかな路地でも、愁の中にそのざわめきは聞こえず、静かに目に写り込む姿だけが心に染み込む。「逃げよう・・・」
愁の言葉に力はなく、落ち着き、シッカリとした口調だった。「僕と一緒に、逃げよう・・・」美月の瞼は少し動いたようだった。それでも美月は一点を見つめ、表情を変えることは無かった。その美月の脳裏に瞬時現れる記憶。「僕と一緒に逃げよう!」言葉が過ぎる。「僕が守るから・・・」幼い声が響いた。月明かりが光り、黒い人影がある。その人影が前へ屈み動くと、そこにまだ幼い愁の姿がある。窓から部屋に一歩足を踏み入れて手を差し伸べていた。
美月の目から涙が流れた。「今から迎えに行く。そこから出て、町を離れるんだ」
愁はそう言葉を放つと、すぐさまその場を離れようとした。すると「いえ、私が行くわ・・・」美月の言葉が聞こえ、立ち止まった。「何で・・・?」
美月は落ち着いて声を潜め「ここは危険よ・・・」シッカリと言った。すると「何でだ?」愁の言葉が返ってきた。「外に、警察がいるわ。あの人も、すぐ戻る・・・」美月が言った。「分かった。でもどうやって・・・」愁の声は聞こえた。「大丈夫。私はうまく抜けるわ」美月は声を殺しそうになり「愁は・・・愁は何処にいるの?」愁に気づかれないように、胸を撫で下ろしながら言った。「紅涙の店の前にいる」愁は言った。「分かった。すぐ行くわ」そう言うと、美月は携帯を切った。
愁も携帯を切った。冷たい風が過ぎる。
美月は携帯を置き、立ち上がる。そこに表情は変わらずに無かった。
高山は走った。路地を走り、通る人も徐々に増えていくと道は広がり、商店街となった。そして人々を避けながら走った。
高山は迫り来る人々を避けながら走ると、前方に人々が避け歩く固まりがある。人々はその固まりを避け、まるで台風の目のように、周りに渦が出来てその中心にいる。高山はその台風の目に向かって走っている。それは、竹中や静江達だった。静江は振り向く。前方から人々の合間を縫って走って来る姿がある。「来たわ」静江が言い、みんな振り向くと高山が近づいて来る姿が見えた。
ザクッザクッザクッ────────
音は聞こえた。「たかお?」暗い、静かな公園で雪に打たれ、一人座っている花崎志帆の姿がある。「敬生?敬生なのね!」叫び、満面の笑みを浮かべて振り向いた。
そこに、永瀬敬生は立っていた。
愁は雪に打たれ、体を縮めてポケットに手を入れて立ち、目の前を通り過ぎる人々を見ながら美月を待っていた。
美月はキッチンにあるリンゴを持った。棚から皿を出し、引き出しから果物ナイフを取り出した。
中西の目は開いた。体中に染み込む痛み。動こうと思うが動けない。振り向こうと思うが振り向けない。
中西の少し離れた後ろで、美月の家を見上げる高畑、宮原、杉本の姿がある。
<美月さんを助けなければ・・・>その思いだけが頭を過ぎる。思い、思い続けた。その思いから、体を動かそうとする。手をゆっくり振るわせながら動かそうとしていた。
「敬生・・・」満面の笑みを浮かべている。「あなたを待っていたの」志帆は言い、その笑顔から嬉しさで涙が流れ、敬生に抱きついた。敬生は無情に立っている。「やっぱり私を愛してたのね。ずっと、待ってた。お腹の子と一緒に待ってたの」志帆は更に強く抱きしめた。敬生の温もりが感じる。すると敬生は優しく志帆の肩に手を置いて志帆を離し、ジッと志帆の目を見た。「どうしたの?」志帆は幼顔で訪ねた。
敬生は志帆の目をジッと見、突然濃厚なキスをした。それに志帆は吸い込まれていった。
六人の元に高山は着いた。「どうした?顔色が悪い」竹中は高山を見て言った。高山は息切れしている。「愁ちゃんと美月ちゃんは、見つかったのかい?」静江は訪ねた。高山は顔を上げ、唾を飲み静江を見て顔を横に振った。「美月ちゃんは、家に戻りました」言った。「戻った?愁、愁ちゃんは?」静江が慌てて訪ねた。すると、高山はまた顔を横に振り「分かりません。まだ、連絡取れないし、見つからないんです」言った。「じゃあ、愁ちゃんを捜そう!」唯が叫び、芳井は頷き「そうだ!愁を見つけて、美月ちゃんを助けよう!」ガン太が叫んだ。「あの時と同じだよ!あの事件のように、美月ちゃんを助けるんだ!」芳井も興奮して、三人は直ぐさまその場を去ろうとした。「待って下さい」高山は言ったが、その言葉も聞かずに三人は歩き出した。「待って下さい!」高山は叫んだ。三人は止まり、振り向いた。「どうした?」国利が聞き「どうしたんだ?高山君」竹中は言った。「私は、この町を隈無く捜しました。橘を思い、美月ちゃんを思いながら捜しました。でも二人は見つからずに、私は一度オフィスに戻ったんです。そこで、刑事から美月ちゃんは家に戻ったと聞きました」皆、高山の話を聞いていた。「私は不安で堪りませんでした。何か起こるのではないかと・・・」高山は言った。「でも、もう安心だね」唯が言い、みんな見た。「刑事がちゃんと動いてるんだ。事件は解決するよ」その言葉を噛むように「私は疑念を感じます!」高山は強く言った。皆その言葉に驚き「すみません」高山は謝り、落ち着いた口調でまた話し始めた。「・・・自分で、この事件を解決したいんです」少し黙り「今まで私は、二人を我武者羅に捜してました。何が合ったのか・・・二人に、何が合ったのか・・・橘と美月ちゃんに・・・」六人は黙っていた。「不安で、この場から消えたいと思いました。どんなに助けようと動いても、行き違いです。だからオフィスのデスクで考えてました。考えれば考えるほど、不安に陥ります。だけど、冷静に考えました」
愁は肩を窄め、雪に打たれて立っている。
「橘は何を思い、どう行動するのか・・・」
美月はりんごとお皿と果物ナイフを持ち、暗い部屋をゆっくりと歩いてソファに戻った。
座り、手に持ってる物を目の前のテーブルに置いた。
「美月ちゃんは何を思い、今、どうしているのか・・・」
心拍モニターの波形がゆっくりと流れ、安定した音がする。健太郎はベッドに寝ていた。
「それでも不安で、私は病床にいる友に助けを求め、勇気をもらいに行きました・・・」黙った。「健太郎君?」静江は静かに言った。その言葉に高山は顔を上げ、静江を見て「ええ」答えた。「それで、高山君はどうしたんだ?」竹中は聞いた。「もう一度、橘の家へ行きました」高山は言った。「愁の?」芳井が言った。「ええ」答えた。「でも愁は居なかったんだろ?」ガン太が言った。「ええ」答え、記憶は目の前に広がった。橘愁のアパートに着く。ドアの前に立つ自分。ドアを開けた。「人間は、一人では何も出来ません。いつも、誰かに助け求めて生きています。でもその事に、気づかずに生きる人が殆どです。気づかなければいけないんだと思います。気づいてあげる事が大事なんだと・・・」高山は悔しく、俯いた。「どうした?」竹中は言った。「その現実を見るまでは、誰も気づかないんです」高山は更に強く言った。「何を、見たの?」静江は落ち着いて言った。「橘の部屋は、荒れてました」答えた。「荒れてた?」唯は呟いた。「誰が・・・?」ガン太も呟いた。「ポスターは破られ、服は散らばり、パソコンは床で破損してました」高山は、自分の目の前に広がる記憶を見ている。その目の前に広がる荒れた部屋。その光景を見、ミニキッチンの引き出しは剥き出すように開いていた。「橘が、自分でやったことです」高山は言った。「愁が・・・?」ガン太が言った。「愁ちゃんは何処!愁ちゃんを捜さないと!」静江は叫び、ガン太、芳井、唯は大きく頷いた。竹中と国利は高山を見ている。「でも、もう捜さなくても大丈夫です」高山は言い「どういうこと?」静江は聞いた。
愁は雪に打たれ、立っている。風は、冷たく靡く。周りのざわめきも、もう聞こえない。人々は歩く。愁の目に写る光景。それは、異空間のようだった。<美月・・・>
ソファに座り、目の前にあるテーブルに、手に持っていたりんごとお皿と果物ナイフを一度置いた。そしてりんごとナイフを持つ。美月は左手にりんごを、右手にナイフを持ち、りんごを剥き始めた。
濃厚なキスをしている。志帆はとても幸せだった。敬生を力強く抱き、敬生の唇に吸い寄せられて、舌を絡ませていた。
そして、目を瞑っていた敬生が、突然目を開いた。キスを止め、志帆から顔を離した。志帆はその行動に目を開け、幼顔で敬生を見た。「どうしたの?」問う。敬生は黙って志帆を見ていた。志帆はその敬生見、言葉を待った。すると、敬生はゆっくりと口を開き「俺は、お前を、愛してない・・・」無情に言った。志帆の動きは止まったようだった。何を言っているのか理解できないでいた。「お前を、愛してない・・・」敬生はそう言うと、振り返り、歩いていった。志帆は動けないでいる。胸に突き刺さる思い。何も考えられない。何も考えられないが、見開いた目から、涙が出た。<嘘よ・・・>頭に過ぎった。「嘘よ・・・」呟いた。「嘘!」叫び、敬生を追った。「嘘!嘘!嘘!」歩く敬生の腕を取り、振り向かせた。「何で!」志帆は叫んだ。その追い迫る志帆を敬生は振り切り、また歩こうとする。「あなたが愛してるのは私。私なのよ!」また敬生を振り向かせた。そして敬生の目を見た。「行かないで・・・私は、あなたを愛してるの・・・」敬生は、何も言わずに志帆を見ている。「私の、全てなの・・・」静かに言い、敬生の胸に顔を留めるように、優しく抱いた。少しの間、敬生の胸に埋もれる。そして、敬生は優しく志帆の肩に手を乗せ、離した。志帆は目に涙を溜めて、敬生を見る。敬生に表情は無かった。敬生はジッと志帆を見ている。微動に顔を横に振ったようにも見える。志帆の中の時間が一瞬止まったようだ。志帆は敬生を見、敬生は鋭い目で志帆を見ていた。そして、敬生はまた振り返り歩き出した。志帆はその場を動けず、敬生の後ろ姿を見ている。涙が流れ出た。そして崩れるように雪の上に座り込む。「何で・・・何で・・・」地面に手をつき、雪を握った。遠く、薄くなる敬生。「私の全て・・・」
愁の時は止まっていた。まるで、自分以外の人の時が動き回るようだ。その中、愁に写り込む風景だけが、無情な心に入り込む。
<美月・・・>その名だけが木霊する。
柔らかい顔でりんごを剥いている。「ママはよく、りんごを剥いてくれたわ。私が泣いて止まない時、慰めてりんごを剥いた。パパとママと私でハイキングに行った時のデザートも、りんごだったわ」美月は思いだし、りんごの皮をゆっくり丁寧に剥いてる。「楽しかった・・・」微笑んだ。
「何で愁ちゃんを捜さないの?」静江は言った。「橘の事が分かったんです」高山は言った。「分かった?何が?」ガン太が言った。
メリークリスマス!鐘を鳴らし、ビラを撒きながらサンタクロースの格好をした者が走り通り過ぎた。七人は、人々が行き交歩道の真ん中で、立ち止まって話してる。
「美月ちゃんの家に行く」高山が言うと「えっ?」国利が言った。「橘は、美月ちゃんの家に向かいます」高山の目には力が入っていた。「何で?」唯は高山を見て言った。「美月ちゃんを取り戻すつもりです。どんなことをしても・・・」高山は顔を上げ、六人を見た。
<美月〜>声が過ぎる。<美月〜>人々は愁の前を過ぎる。<美月〜>胸に突き刺さる。美月の名が木霊する。自分の心の叫び声しか聞こえない。人々は目まぐるしく歩く。雪はひらひらと降り注ぐ。愁に冷たい風が走った。
その時、愁に何か鋭い感覚が襲う。それは、何かの糸が張り詰めた感覚。愁は何かに捕らわれたかのように、片足を一歩前に歩かせ、もう片足も動き、徐々に徐々に歩き出し「美月・・・」呟き、<美月!>心の中で叫んで走り出した。
「私の全て・・・」志帆は雪の上に座り込んでいる。「奪った・・・」暗闇に、そう呟いた。ゆっくりと顔を上げる。鋭い目。「私の大事な人を、奪った・・・」地面についてる指に力が入った。「あの女・・・」怒り「あの女・・・」憎しみ「あの女・・・」体中が怒り震える。志帆は力強く地面の雪を握り締め、腕を振るわせながら、上着のポケットに手を入れた。そこから、強く握り締めたナイフを出す。「あの女のせいだわ・・・」ナイフを持った手は、その怒りから大きく震えてた。そして、ナイフを握りながらゆっくりと立ち上がる。「美月!」そう叫ぶと、怒り狂い走り始めた。
中西は、雪の上に倒れていた。目を開け、体を動かそうとする。<美月さんを助けなければ・・・>そう思い、力を入れ、振るわせながら手を地面に付けた。
高畑、宮原、杉本は美月の家を見上げている。「静かですね」宮原は言った。「ええ」杉本は答えた。高畑は美月の家を見上げ、うっすらと笑ってるようにも見える。「雪が、綺麗だ・・・ここは、白蝶街・・・雪は、蝶のように、舞い、白鳥のように、美しく、降り立つ・・・」高畑は笑い、宮原と杉本を見た。「何て、素晴らしい、日なんだ。これから、今までに、経験無い、事件が、起こるんだ。俺達の、目の前で・・・」高畑は興奮していた。宮原や杉本は、高畑を見ながら自分達の心情も高まり、うっすら笑った。「宮原」高山は呼び「はい」返事した。「杉本」呼び「はい」返事した。「今、ここに自分が、いることをよく、覚えておくんだ・・・」高畑が宮原と杉本の顔を見ると、軽く頷いた。「橘、愁は、永瀬、美月を、取り戻しに、必ず、来る。奴が、家に、入り込んだ時に、俺達も、家へ向かう」高畑は、唾を飲んだ。「永瀬、美月に、何か起こる前に、家に、入るんだ。美月が、何か起っては、俺達が、不利になる」高畑は言い「それは、何故ですか?」宮原は聞いた。「世間や、マスコミが、やたら、騒ぎ立てる」言い「じゃあ、奴らが何か起こす直前に入り込み、事件を阻止すれば・・・」杉本は高畑の目を見て言った。「俺達の、利益となる。今日は、クリスマス、イブだ。イブに起きる事件は、大きく取り上げられ、俺達の、株も上がる・・・」高畑はそう言い、ニヤッと笑った。
中西は震え、フラフラになりながら、立ち上がった。<これは、捜査じゃない・・・>怒りが込み上げた。だが、体は痛み、震えている。
高畑、宮原、杉本は美月の家を見上げている。三人は、まだ中西の姿に気づいていない。
中西は前方に見える、三人の背中に向けて、ゆっくり、ゆっくりと近づいていた。
「パパは、とても優しかった。ママにも、私にも優しかったわ。でも、ある日から変わったの。お酒を飲むようになった。ママや、私に、暴力を振るうようになった。そして、あの事件が起こった・・・」美月は皮を剥きながら目を閉じた。「パパを恨んだ。ずっと恨み続けたの。でも、今は分かるわ。パパは、ママや、私を失いたくなかった。私たちの、愛を失うことを、恐れていたんだわ。どんなパパでも、私のパパなの。私の愛するパパなの・・・」美月は静かに語り、りんごの皮を剥いている。
「どんなことをしても?」竹中が言った。「ええ」高山は答えた。「愁ちゃんは、どうしたっていうんだい」静江は言った。「これは私の思い過ごしかも知れませんが、橘は、自分を見失ってしまったような気がするんです」高山が言い「見失った?」静江が言った。「ええ、橘は未だに昔の事件を悔やんでいる。美月ちゃんを助けられなかったことです」高山は言った。「助けられなかったって、助けたじゃないか!俺達だっていたんだ!」ガン太が怒鳴った。「私は、美月ちゃんの心の傷を癒せなかったことに悔やんでるって、言ってるんです!皆、あの事件で傷つきました。みなさんも、橘だって傷ついてるんです。でも、一番傷ついてるのは美月ちゃんです。橘は、愛する人の心の傷を癒せなかったことに、とても悔やんできました」皆、高山の話を聞いている。「年が経てば立つほど、その思いの入った袋は大きくなります。人間、とても柔なものです。その袋が大きくなればやがて、中身は怒りに変わるんです。橘は、その怒りに惑わされている。自分でも、気づいていないんだ・・・」高山は言い、黙った。それを聞いた六人に沈黙が流れた。それは、それぞれの異なる思いが交差する。静江は不安だった。また、あの事件と同じようなことが起こってしまうような、考えたくなくとも、考えずにはいられない。ガン太はその静江を心配して横顔ばかり見ていた。そして少し寄り添い、静江の腰にそっと手を置いた。竹中はあの事件の日を思い出していた。あの満月の日。自分は、皆の先頭を伐って美月の家に入り込み、愁と美月を助けた。今回、あの時と違う状況に戸惑いは隠せない。唯は、まるで胸に太い杭が突き刺さったように、高山の言葉が重く伸し掛かった。芳井は今にも逃げ出したい心境だった。怖く、不安で、そのまま地面にへばりつきそうな感じだ。国利は、その先の状況に不安を感じている。ただならぬ状況に陥る予感がしてならないのだ。それは、誰もが愁の今までに見たことのない、思いもよらない行動に不安を抱いてのことだ。六人は時間が止まったように静かになり、その周りを人々は行き交。
街のざわめきが響く。人々は七人を避けて歩く。会社帰りのサラリーマン。手を繋ぎ歩くの親子。学生服を着たカップル。店の看板を掲げ歩くサンタクロース。様々な店でセール中の品など、大声で叫び競うように客寄せをしている。その騒がしい声も、六人には聞こえない。その六人を、高山は何も言わずに見ている。高山の胸も、詰まるように痛い思いがした。「行かなきゃ・・・」静江が呟いた。「美月ちゃんの家?」国利が言い、静江は頷いた。「愁を、助けなきゃいけない・・・」竹中が言った。「俺達は、行くんだ。あの事件のように、二人は俺達が守るんだ」ガン太が言い、走り出した。「ええ、そうね」静江が言い、走り出した。竹中も国利も走り出し、唯も走り出した。そして戸惑いながらも芳井も走り出し、最後に高山が走った。
「敬生には、迷惑かけてしまったわ。夜を、共に出来なかった。ずっと怖かったの。子供の頃の記憶が、私の頭を過ぎったわ。頭では整理出来てた。でも、体が、あの日を思い出す。あの満月の夜の出来事を・・・」美月は一度りんごの皮を剥くのを止め、目を閉じた。美月の脳裏に、まるで一眼レフカメラのシャッターが切れるように、素早く記憶は流れた。
満月は風に流されている雲で、見え隠れしている。
空き地のススキが光り輝く。その上を、流れる雲の影が通る。
<美月・・・>声が聞こえたような気がした。
光と影が交差する暗闇に二人の影。
直也とまだ幼い美月。
直也は美月を激しく抱き、濃厚にキスをする。
ソファに滲む、真っ赤な血。
<美月・・・>声が聞こえるような気がする。
美月の目から涙が流れた。
「私は、敬生を愛することは出来なかった。ただ、私は愛を求めていただけなの。もう一度、あの頃のように・・・あの優しい愛を・・・」美月はりんごを見つめた。「私が悪いから・・・私が、いけないから・・・」
廊下に足音は響いた。暗く、人の気配はない。足音に交じって、酸素吸収音が響く。
松永健太郎は、落ち着いた表情で寝ていた。心拍モニターの波形も、安定した動きをしている。酸素も、安定したリズムで吸っていた。その音に交じって、廊下から足音が聞こえる。徐々に近づいている。そして、部屋の前でその音は止まった。
扉は開く。そこに、しおりが立っていた。ゆっくりと、健太郎に近づく。そして、健太郎の側に行くと椅子に座り、布団の中の手をシッカリと握った。健太郎を見つめる。
「戻って来ちゃった・・・」少し微笑んだ。「私、気づいたの。けんちゃんと一緒にいる事が、幸せなんだって。けんちゃんの側に、ずっといたいって・・・」しおりが握っている健太郎の手をそっと引き寄せ、しおりの額に祈るようにあてた。二人の背後にある窓ガラスから、ひらひらと降る雪が見えた。
中西は、一歩一歩歩く。周りに降り注ぐ雪で、三人の姿が霞む。それでもゆっくりゆっくり近づいた。<助けるんだ・・・>信念を貫こうとしていた。
高畑、宮原、杉本は鋭い目をして美月の家を見上げている。その時が来ることを待っているんだ。
そこに、気配がある。高畑は振り向いた。「おう!気がついたか」高畑の声で、宮原も杉本も振り向いた。中西は近づいてくる。三人を睨みつける目つきだ。「どうだ?少しは、目が覚めたか?」高畑は言った。だが、中西は返事をしない。一歩一歩近づき、三人の合間をぬって突き進もうとした。「どうした?」高畑は訪ねた。その言葉にも応えようとはしなかった。「おい!何とか言ったらどうだ!」宮原は怒鳴り、中西に近づいて胸倉を掴んだ。中西は宮原を睨みつけ、胸倉を掴んだ手をそっと離した。「お前は、まだ俺達にそんな目をするのか」杉本は冷静な口調で言った。「僕は、今から、美月さんを助けに行きます」中西は言った。「何故、助ける?」高畑は言った。「それが、信念だからです」中西は答え、歩こうとする。「それが、お前の、信念なのか?」高畑は言い、中西は振り向いた。「お前は、永瀬、美月を、助けようと、している。だが、どうやって、助けるんだ?お前が、乗り込んだことで、美月は、どうなる?助かるか?」中西を睨みつけた。「永瀬、敬生の、感情を、高まらせる、だけだ。奴は、何をするか、わからん。美月も、危険だ。それに、そこに、事件の、解決はない」高畑は、ニヤッと笑った。「・・・でも、あなた達のしていることは、捜査じゃない!」中西は鋭い目で高畑を見て言った。「捜査じゃない?」高畑は言った。「あなた達は、自分の利益で事件を解決しようとしている」中西は言った。「それが、どうした」中西は高畑を睨みつけている。「事件は、解決すればいいんだ。被害者も助かれば、それでいいんだ」宮原が脇から言った。「それじゃあ、被害者の気持ちはどうなるんですか?」中西は言った。「気持ち?それは、俺達の、関与する、問題じゃない」高畑は言い「お前、もう少し現実を見た方がいいぞ。被害者の気持ちは、個人的なことだ。俺達には関係ない」杉本も脇から入って言った。「でも、僕は刑事です。事件を解決し、人を助け、被害者の気持ちをわかり得るように努力していかないと、前に進まないような気がするんです」中西は言った。「・・・お前に、何が、分かると言うのだ。俺達は、刑事と、言う前に、一人の、人間だ。転べば、痛みを感じ、人に因って、心に傷を負うこともある。その痛みを悔やみ、気がつけば、皆、自分の事だけを、考えるんだ。自分の、利益をな!」高畑は、瞼を下ろすことなく、中西を見ている。少し感情が高まったが、すぐに落ち着かせて、冷静に、また口を開いた。「・・・お前も、何れ、そうなる」静かに口を閉じた。「僕はなりません!」中西は、直ぐさま反論するように言った。「誰でもなるんだ!」高畑は叫び、中西を睨みつける。それを冷静に、中西は見ている。「・・・とにかく、僕は美月さんを助けます」そう言うと、また歩き出した。「待て!」宮原は中西の肩に手をかけ、振り向かせた。そして、高畑は、一歩近づく。「俺達は、チームだ。そして、この現場を、仕切るのは、俺だ。お前が、単独行動を、するならば、俺は、お前を、見捨てる」高畑はそう言い、ニヤッと笑った。「・・・お前に、美月を、助けることが、出来るかな?」中西は真剣な眼差しで、高畑を見ている。高畑も、その眼差しを逃さないように、睨みつけていた。「お前に、それ程までの、自信が?」中西の目を逃さない。
微かに歌が聞こえる。暗く、影も見えない。雪は、街灯の明かりに照らされて、ひらひらと静かに降り続けている。そして、家々の明かりは、徐々に消えていった。
中西と高畑は睨み続けた。そして、四人の周りの家の明かりも消える。それに高畑は気づき、見上げて辺りを見た。それに継いで宮原と杉本も見た。中西は、高畑を睨み続ける。「うた・・・」宮原が呟いた。「歌が聞こえる・・・」杉本が言った。その言葉に、中西の眉が少し反応したようだった。そして高畑は、その言葉で急に声を張り上げ笑い出す。「ハハハ!歌だ!信者が帰って来たぞ!」先程までの冷静さが嘘のように豹変し、声高らかに笑い、興奮して声を張り上げた。「宮原!」宮原を見た。「杉本!」杉本を見た。「信者だ!教会に信者が戻って来たぞ!ハハハ、今日はイブだ。信者は教会に集まり、神に祈りを捧げるんだ。俺達の目の前でだ」ニヤッと笑い、宮原と杉本を見た。「俺達のイブだ。信者は、俺達の為に神に祈るんだ。俺達の、サイコーの結末を迎えるためにな!」興奮してそう放ったと思うと、また、冷静さを取り戻し「美しい、歌は、俺達の、感情を、高める。・・・雪は、静かに、降り、人通りのない、路地。美しい、歌。そして、この、事件だ。何て、素晴らしいんだ。俺達にとって、此程、素晴らしい、日はない」言うと、少し前に出て中西に近づき、高畑は中西をもの凄い形相で睨み、片手で中西の顔を挟むように握り、自分の顔へと近づけた。「この素晴らしい日に、ミスは、許されない。お前の行動が、俺達の痣となるんだ・・・」睨みつけ「俺達の邪魔はさせない!」中西を殴った。中西は、地面に叩き付けられ「ハハハ、来たぞ!」高畑は笑い、叫んだ。
敬生は路地をゆっくりと歩く。
静江、竹中、国利、ガン太、高山、唯、芳井は人混みの商店街を、人を掻き分け走る。
愁は、走った。
志帆は左手にナイフを握り締め、美月を憎しみ思いながら樹木の間を走った。
高畑は不敵な笑みで地面に倒れた中西を見、振り向いて美月の家を見上げた。
しおりは、病床の健太郎を優しい笑みで見ている。
美月は、リンゴの皮を剥きながら、愁の事を思った。
愁は走った。
愁は、走る。
「美月!」走り、美月を思い、声露わに叫んだ。
志帆は公園に立ち並ぶ樹木の間から、走り出た。
静江、竹中、高山、国利、ガン太、唯、芳井は商店街を抜け、住宅街を走る。
街灯が敬生をあて、雪が静かに降り注ぐ住宅路を歩く。歌が、微かに聞こえる。
遠く影が見え、歌が聞こえる。高畑はその影を見ている。
愁は走る。走り走った。
「あの湖を、今でもよく覚えてるわ。子供の頃、愁と一緒に見たの。とても綺麗だった。妖精もいた。でも初め、見えなかったわ。私は目を閉じて、愁は囁いた。『僕を信じる?』って訪ねた。『自分を信じて!』って力強く言ったの。そして目を開けると、沢山の妖精が、目の前に見えたの」
あの日を思い出し、感情が込み上げ、涙が瞳を覆う。
「こんな事は、初めてだったわ。妖精が見えるなんて・・・今思っても、あの時のように、とても興奮してしまう。あれが、私の幸せなの。愁と一緒にいれたことが、私の一番の幸せ」
美月はリンゴの皮を剥き終わる。目からは、涙が流れた。
「私は、幸せだった」
愁を思い、リンゴを小さく囓った。
「おいしい・・・」
小さく笑った。
小さな灯火は見え始め、人々はまだ影と見える。高畑は不敵な笑みで、その者達を待つ。歌声だけが透き通るように、響き聞こえている。
高畑は振り向き、中西を見る。「どうだ、美しいだろう。こんな、素晴らしい、ことはないんだ・・・」高畑は目を瞑り、信者が歌う透き通った歌声を、心に染み込ませるように聞いている。宮原も杉本も目を瞑り、その美声に慕っていた。中西は地面に倒れ、上半身を起こしながらも立ち上がることはなく、三人の姿を見ている。四人に雪は、ひらひら降り注ぐ。
そして歌声は被さった。高畑達の後方からも歌声は聞こえてくる。また、別の方向からも歌声が聞こえてきた。三方向から美声は聞こえ、皆教会へ向かっている。徐々に徐々に近づいている。「美しい・・・こんなにも、美しい事件は、あったのか・・・」目を瞑りながら、心に美声を染み込ませながら高畑は言った。「宮原・・・」呼んだ。「杉本・・・」呼んだ。二人は高畑の声は聞こえていたが返事はせず、次の言葉を待った。「近づいてくる・・・近づいてくるぞ・・・始まるんだ・・・」息を飲み、高畑はゆっくりと目を開けた。すると、信者達はキャンドルを胸に抱え、美しい歌声を放ち近づいている。もう、目の前に来ている。宮原も杉本もゆっくり目を開け、目の前の光景を目にした。あまりにも美しい光景に、瞳を輝かせた。
高畑はその光景に興奮し、その者を見、振り向いて別の信者の列を見、また別方向を見てそこから来る信者の列を見た。その姿に驚き、中西は三人を見ている。上半身を起こしたまま見ている。その光景に、動けないでいた。
三方向から来る信者は近付いている。その一つ。高畑が見る方。前方の永瀬美月の家、教会のある方。その向こうから来る信者の列の脇に、キャンドルを持たず、歩く速度の違う影が動く。高畑は、その影に気づいていない。その、周りの美しい光景に慕っている。杉本も慕り、宮原は信者の列を見る。美しい光景に歩く影。宮原はその影に気づき見た。「高畑さん」呼んだ。「何だ・・・」高畑は答えたが、その美声に慕り目を瞑り聞いている。「見てください。何か、近付いてきます」宮原が言うと目を開け、その方を見る。その言葉に杉本も見た。信者の列。キャンドルを胸に掲げ、歌い近付いている。その脇を少し速い速度で歩く影。「永瀬敬生・・・」杉本が言った。信者の列の脇を歩く敬生の姿がある。「何故、永瀬、敬生が、いるんだ・・・」徐々に高畑に怒りが込み上げる。「杉本、お前は、永瀬、敬生が、家にいると言った・・・」杉本を睨みつける。「ええ・・・」杉本は、その気迫に震え始める。「じゃあ、何故、あそこに、いるんだ・・・」ゆっくり、一つ一つの言葉を噛み締めて、怒り言った。「確かにいました。家にいたんです」杉本は震え言った。高畑は杉本に近づき、胸ぐらを掴んでもの凄い気迫で、杉本を睨んだ。
信者の列は、高畑、杉本、宮本、そして地面に倒れ、上半身を起こしている中山の脇を歌い通る。高畑はゆっくり杉本の胸倉を掴んだ手を離し、通る信者を見た。杉本、宮原も見る。中西も見る。信者はゆっくりと通る。中西の脇を通る。そして、一人の信者は列を離れ、キャンドルを掲げながら中西に近付き、笑顔で少し屈んで地面についてる中西の手を取って引っ張り、立たせてお尻についた雪を払い、顔を見てニコッと笑って列の最後について教会に向かう。中西は、その信者達の後ろ姿を見る。
信者の列は次々と、イルミネーションが煌びやかに飾られる教会へ入った。そして、敬生はその信者の列から外れ、少し歩いて家の門に着く。家を見上げて門を開け、玄関へと向かう。その様子を高畑、宮原、杉本は見ていた。「どうしますか?」宮原は高畑を見た。高畑は考えた。「行きますか?」また宮原は訪ねた。高畑は答えず、考えていた。宮原は、高畑の言葉を待っている。杉本は力無く高畑を見ていた。「聞こえる・・・」高畑が呟く。「聞こえるぞ・・・」また呟いた。「何がですか?」宮原は訪ねた。「耳を澄ませ・・・」高畑は言い、宮原、杉本は耳を澄ませて聞いた。信者の歌声が透き通るように聞こえる。
ザクッザクッザクッ────────
聞こえる。雪の上を走る音。信者の歌声の狭間に迷い込む音。「奴が来た・・・」高畑が言った。「奴?」宮原は言う。「橘愁だ!橘愁だ!橘愁だ!」狂い叫んだ。
敬生は玄関のドアを閉めた。振り向き、暗く、長い廊下が目の前にある。靴を脱ぎ、家に上がった。
「どうだ、俺の、計算通りだ。奴は来た・・・」高畑は少し興奮して言った。「ええ、高畑さんの考え通りです」宮原が追って言う。「これで、俺達の、地位は上がる・・・俺達の、思い通りだ・・・」高畑は言った。
暗く、静かな廊下を歩く。キッチンの蛇口から、水が滴る音が自棄に大きく聞こえた。「みつき〜」敬生は名前を呼び、リビングに近付いた。
橘愁は走る。雪に打たれ、美月を思い、懸命に走った。信者は、煌びやかに輝くイルミネーションが飾られる教会に、歌い入っていく。高畑、宮原、杉本は遠く、その様子を見ている。その空間がとても静かで、不気味にさえ見えた。
ザクッザクッザクッ────────
橘愁は、高畑達の目の前を、遠く走り抜ける。そして暗く、イルミネーション、クリスマスツリーもなく、湿った空間に立つ永瀬敬生、美月の家の前に着くと、背中を向けて門の横の塀に寄りかかった。
その様子を、高畑達は息を潜め見ている。
「帰ったぞ〜」廊下から、リビングに入っていった。
水の滴る音は響く。
愁は塀に寄りかかり、震えていた。自分の中で意識があるのか、ないのか、感覚が鈍り始める。その中でふと、顔を上げて教会を見る。すると、信者の列は皆教会に入り、ドアは閉まった。建物の中に明かりはなく、暗く、周りに飾られたイルミネーションと、門の前にある大きなクリスマスツリーだけが輝いていた教会も、信者達のキャンドルが集まり、ステンドグラスからほんのりと明かりが漏れる。
愁は一瞬微笑んだ。微笑んだと思うと、顔は沈み、皮のジャンパーの内ポケットに手を入れる。そして、刃渡り十センチのナイフを取り出した。
敬生はリビングに入った。「みつき〜」呼んだ。「みつき〜?」また呼び、前に進む。すると影が見える。ソファに寝ている影。「みつき〜」微笑み、近付いていった。
教会の中から歌が聞こえてくる。美しい歌。透き通った歌。聖なる歌。これは、きよしこの夜。ナイフを両手で握り、震えている。瞬きはしない。雪が周りを取り囲むように降っている。歌が、体に染み込むように聞こえてくる。<みつき・・・>
高畑はその姿を見て、ニヤッと笑った。
家の中にも透き通るような歌声は聞こえた。きよしこの夜。「美月」敬生は立ち止まった。美月はソファの上で寝ている。とても、気持ちよさそうだ。安らかな顔をしている。敬生はその顔に微笑んだ。愛しく感じた。「美月」笑い、近付いた。そして顔を見ながら一歩前に踏み込み、ソファの前に立つ。「みつき〜」微笑む。「みつき?」その顔も、消えていった。「美月?」敬生は、ゆっくりと美月の顔から撫でるように体を見る。ソファの上から右腕が落ちていた。敬生はその腕も辿ると、血が、手首から血が床に垂れてた。<みつき・・・>ガクッと膝が落ちた。
教会から聞こえる歌声は、更に大きく体に染み込む。息を飲むことも出来ないぐらいに胸に詰まる。愁はナイフを両手に持ち、震えている。その様子を高畑、宮原は冷静な顔をして見ている。杉本は自分の失敗から落ち込み、自信をなくして二人の影から愁の様子を見ていた。中西は少し離れた所から、三人の様子を見ている。胸に詰まる思い。苦しい。動きたくとも、体は動かない。三人の後ろ姿から、遠くに見える愁の姿を見た。目に涙を浮かべ、動けない自分に悔やんだ。
「飛び込め・・・飛び込め・・・」高畑は遠い家の塀の影から愁を見、まるで呪文のように唱えた。「おまえが、飛び込めば、事件は終わる・・・」愁の姿を見続ける。
テーブルの皿の上にあるリンゴは一口囓られていた。果物ナイフは、床に落ちている。敬生は床に膝をつけ、目に涙を浮かべた。美月のソファから垂れ下がる手。その手首から垂れる血を、掌で受け取る。美月の顔を見る。愛おしく見た。美月の垂れ下がる手を、優しくソファの上へ上げた。そしてゆっくり手を広げ、そっと美月の体を起こして、自分の体に引き寄せてシッカリと抱き、頭を撫でながら顔を頬ずった。
教会に飾られたイルミネーションは煌びやかに光る。門前に立つ大きなクリスマスツリーも光る。屋根の上の十字架も光る。ドア上にあるマリア像はまるで愁の姿を見下ろしているようだ。ステンドグラスから、彷彿な光が漏れる。そこから透き通るような声で、きよしこの夜を歌い続ける声は聞こえた。
愁は意識無く顔を上げた。ナイフを両手で握り締めている。正気無く教会を見た。教会から聞こえる歌声は、愁の体に染み込み込む。怒り、震える。<みつき・・・>教会のイルミネーションが幻想的に、愁の目の前に広がった。美しい湖。そこに、まだ幼い愁の姿と父親の亨の姿がある。大きな樹木の下の、大きな岩に座って湖を見ている。愁は、見ている。その姿を見ている。やがて消え、また現れる。松永健太郎の姿。愁は、自分の部屋で健太郎と会話をしている。何を話しているのか。夢か。女か。二人は笑い、楽しそうに話していた。またそれも消え、また現れる。雪がうもる公園の噴水前で倒れている健太郎の姿。誰も気づかない。健太郎の上に降り注ぐ雪。そして静かに消えていった。また、ほんのりと現れる。美月は一人歩いている。雪に打たれ、商店街を悲しい顔で歩いていた。また現れる。サングラスをした美月と愁は、公園の狭間を歩いている。また現れる。まだ幼い美月と愁は、手を繋ぎ歩いていた。色とりどりの花。大きな湖。霧は舞い込む。笑い、楽しそうに歩いた。その周りには、無数の妖精の姿がある。
愁の中に教会から聞こえる歌声は、染み込んでいった。涙が一粒流れた。震え、心臓の鼓動が鳴り響く。愁はナイフを強く握り締め、立ち上がろうとしていた。
その姿が高畑の目に写る。「そうだ・・・怒るんだ・・・お前の思いが、事件に繋がる・・・」真剣に、愁をジッと見て言った。その時、バタン!と大きな音がし、高畑は咄嗟に顔を上げた。それは美月の家のドアが勢いよく開き、永瀬敬生が立っている。美月を抱えていた。「永瀬、敬生・・・」高畑は呟いた。
敬生は美月を抱えたまま、駐車場に止めてある車に向かう。
「美月か?」高畑は敬生が美月を抱える姿を見て言う。二人の行方を追う。「何処へ行く・・・何処へ行くんだ!」叫んだ。
敬生は車の後部座席のドアを開け、美月を車の中へ入れた。
「行くぞ・・・」高畑は怒り言葉を押し込め呟いて、振り向き走り出した。それに継いで宮原と杉本も走った。中西は敬生に抱えられる美月を見、塀に寄りかかり怒り震えてる愁の姿を呆然と見ていた。高畑、宮原、杉本はその中西の脇を走り抜け、遠く止めてある車に向かった。
敬生は美月を後部座席に乗せるとドアを閉め、自分も運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
走りながら杉本はポケットから車のキーを出し、リモコンスイッチを押した。車のドアは開く。杉本は運転席のドアを開け、乗り込んだ。宮原は助手席に乗った。高畑は後部座席ドアを開け、乗り込む。そして杉本はエンジンをかけた。高畑は前方を見る。杉本が車を走り出そうとした瞬間、高畑はドアを開け、車から一歩出て前方にいる中西を見た。「中西!」叫んだ。中西は振り向く。「行くぞ!」高畑は迫力ある声で叫んだ。中西は高畑を見た。「来い!」叫んだ。中西は高畑をジッと見、ゆっくりと首を横に振った。それを見ると高畑はまた車に乗り込み、杉本は車を走らせながら窓を開け、車上に赤色灯を取り付けサイレンを鳴らす。車は中西の横を通り過ぎた。中西はその車を追って見た。
敬生は車を走らせた。車庫を勢いよく出る。その瞬間を愁は意識無く見る。車は、愁の横から飛び出した。その瞬間、見たんだ。美月が、後部座席でドアに寄りかかってるところを───────
愁の息は途絶えた。苦しく、胸に押し迫る。「あ・・・あ・・・」叫びたくとも声にならない。愁は塀に自分の背中を押しつけ、ナイフを握り、ゆっくりと力無くしゃがんでいく。「あ・・・あ・・・あ・・・」涙が流れ出た。愁の目の前を高畑達が乗った車は、サイレンを鳴らしながら敬生の車を追い、通り過ぎる。中西は愁の姿を見た。雪は、愁の体に冷たく降り注ぐ。愁の意識の中で、教会から聞こえる歌声はまるで、雪に交じった天使が透き通った声で歌っているようだ。
「橘!」声が聞こえ、高山が走り近付いてくる。「愁ちゃん!」静江も走り近付く。「愁!」叫び、竹中、国利、ガン太、唯も走り近付く。高山は愁に近づき「橘!」愁の肩を揺すった。「愁ちゃん!」静江は抱き寄せた。「愁!」竹中も国利もガン太も唯も叫んだが、愁の意識は遠退いている。誰の声も聞こえない。そして、みんなより少し遅れて、芳井が息切れしながら愁の元へ辿り着いた。
花崎志帆は雪の中を走っていた。果物ナイフを手に握り締めている。人の通りもない。車の通りもない住宅街に、遠く、前方から車のヘッドライトの光が見える。近づき、近付いてくる。志帆は速度を落とし、歩き、そして止まった。車は近付いてくる。志帆は近付くヘッドライトに惑わされるように見る。何処かで見た車。そのヘッドライトが背き、車が志帆の横を通り過ぎる瞬間、見たんだ。運転している敬生の姿。後部座席のドアに寄りかかる美月の姿を───────
「何で!」志帆は叫び、その場で跪いて、手に握っていたナイフを地面に落とした。車は志帆から離れていく。暫くして、高畑達の乗った車は、サイレンを鳴らして通り過ぎた。志帆は力無く、地面に手を付け、目からは涙が流れた。
信者達が歌う。きよしこの夜の歌声が体に染み込むぐらいに美しく、透き通るように聞こえる。静江達は愁を囲み、叫び続ける。雪は、それぞれの体に降り注ぐ。中西は、みんなに囲まれている愁の姿を見て、少しずつ近付いていた。胸に迫る。その苦しみから体が動かない。何故、こんな事が起こるのか、理解できない。中西は、目に焼き付けるようにその現実を見、愁の姿を見入った。涙の浮かぶ瞳を見開きながら、その苦しみから動かない重い足をゆっくりと動かし、救うように愁に近付こうとした。
「愁!」竹中は叫ぶ。「橘!」高山も愁を揺すり叫ぶ。「愁ちゃん!」静江は抱き叫んだ。国利もガン太も唯も芳井も叫び続けたが、愁には聞こえなかった。その存在も見えない。目は見開き、遠くを見ているようだった。そこに意識は存在せず、誰の声も、誰の姿も見えないでいた。静江達は、愁の名前を叫び続けた。
教会の十字架は、愁に光をあてる。信者の歌声は、美しく、透き通るように流れ聞こえ、魂を与える。雪は、ひらひらと静かに降り続けた。