第二部 第三十四章
橘愁は永瀬美月の手をシッカリと握り、雪に打たれながら暗い路地を走っていた。
雪は静かに降る。教会に飾られた大きなクリスマスツリー。色とりどりの電球の光が地面に積もる雪に写った。十字架は光っていた。その地面の上を勢いよく走り、教会の前の家の門を開けて入っていった。
玄関のドアを開けた。敬生は息を切らし、リビングへと走っていった。リビングを出、カウンターを通ってキッチンへと行った。水道の蛇口をひねり、置いてあるコップに水を入れて勢いよく飲んだ。喉仏が大きく揺れる。飲み終わるとコップを叩きつけるように置き、リビングへと走る。テレビ横の棚を開け、救急箱を取り出した。その中の物を投げ取り出し、消毒液を取り出す。ピンセットで脱脂綿を摘んで消毒液を染み込ませ、ゆっくりと火傷した顔に塗った。「うわぁぁぁぁ!」激痛が走り、喚いて床に転げた。
「たかお〜」『バタン!』ドアの閉まる音がした。「たかお〜」玄関を飛び越え、廊下を浮かれたように彷徨った。「たかお〜」寝室を見たがいない。「たかお〜」家は暗く、廊下を歩き、リビングに出た。花崎志帆は入口に立ち止まり、見渡すと部屋の端に人影がある。その影は小さくなっていた。志帆はゆっくりと歩き出し、「出来たみたいなの・・・」近づいている。「私・・・」テーブルの脇を通り、その影に近づいている。「子供が出来たみたい・・・」志帆は言い、その影に辿り着いた。しゃがみ、背を向けている。志帆の言葉に反応はなかった。志帆はそこに立っている。「あなたの子供よ・・・」反応がない。「敬生」肩に手をかけて体を振り向かせた。その顔を見、脅え後退りした。焼き爛れ、もう敬生ではない。志帆は後退りし、部屋を出ていった。『バタン!』ドアの閉まる音がして、敬生はまた振り向いて包帯を顔に巻き付け始めた。
橘愁はシッカリと永瀬美月の手を握っていた。人のいない路地を走っている。雪はひらひらと二人に降り注いだ。家々の狭間を走り、交差点に来ると立ち止まって周りを見渡した。誰もいない。街灯の下で美月は不安に、愁は真剣な眼差しで見ている。愁の心の扉は開こうとしていた。何か、激しい鼓動が鳴り響く。<美月を守りたい!>その想いが変えていく。愁はまた繋がれた手を握り返した。<あいつから・・・>美月を見つめた。ずっと、ずっと─────── そしてまた走り出した。
雪は止み、霧が流れ始めた。炎は消え、焼け跡から煙が立っている。焼き焦げた柱だけが残っていた。消防車が三台、救急車が一台止まっている。消防隊員の一人はホースの元栓を回して勢いよく出る水を止め、三人の隊員はホースをおろした。救急隊員二人はタンカーを救急車に運んだ。タンカーには布がかかっている。運び終わると救急車の後ろの扉を閉めた。その光景を静江、竹中、国利、ガン太、芳井、唯は見ていた。「どこ行くの?」芳井は呆然として訪ねた。「一度病院の遺体安置所に預けられるわ」静江も救急車を見て言った。救急隊員は運転席と助手席にそれぞれ乗った。
消防隊員はゆっくりと焼き焦げた柱の枠へ入っていた。皆は救急車を見ている。だが、高山だけは燃え尽きた倉岡直也の家を見ていた。ゆっくりとその家へ近づく。
「終わった・・・」唯は言った。「ああ」ガン太が答えた。救急車は走り出した。「倉岡直也がこんな終わり方するとは・・・」国利は俯いた。竹中と静江はガン太、芳井、国利、唯の会話を聞きながらも、何か引っかかったような顔で走り去っていく救急車を見ていた。
高山はゆっくりと歩き、焼き焦げた柱の枠に入っていった。「あ〜!まだ危ないから入らないで!」焼き跡の中にいた消防隊員の一人は叫んだ。その声に皆は振り向いて焼き焦げた家を見る。高山は黙って消防隊員を見、その言葉を無視して焼き焦げた柱の枠に入っていった。消防隊員は高山に近づこうとしていた。高山はしゃがみ、焼き焦げた柱の破片、ガラス、熊のぬいぐるみを手に取った。「橘・・・」呟いた。焼き焦げた柱の破片を手に取り見つめる。「橘・・・」また呟いた。消防隊員が近づいてくる。「ほら、出ていって!まだ崩れる危険がある」言ったが、その言葉を無視して高山は破片を見つめていた。皆もゆっくりと近づいている。消防隊員がその高山を見ていると、柱の破片を持ちながらゆっくりと立ち上がった。消防隊員は高山の行動を目で追う。皆も立ち止まり、高山を見ていた。高山は破片を見つめながら「助けなきゃ・・・」呟いた。すると振り向き、焼き焦げた家を出て皆の前に歩いていった。「橘は彷徨っている・・・」言った。「奴から逃れているんだ・・・」歩き、皆の前で立ち止まった。唯、芳井、国利、ガン太、竹中、静江、それぞれの顔を見た。「守ってください・・・」皆は黙って高山を見た。「橘と美月ちゃんを、守ってください」高山を見てた。
静かだ。明かりはついていない。玄関から繋がる廊下。キッチンの水道の蛇口から水が滴る。リビングも暗い。カーテンも閉まっている。そのリビングの端に影がある。顔一面に包帯を巻き終え、顔を上げた。左目だけが見えるように、包帯が巻かれていた。永瀬敬生は立ち上がり「橘愁〜」憎しみに吠えるように言った。
花崎志帆は人通りのない路地を走っていた。雪はひらひらと降る。息詰まるような思いで、苦しく耐えられない思いで、ただただひたすら走っていた。息切れし、胸を抑えて走り続け、そしてその苦しさに耐えられなくなってゆっくり歩き、街灯の下で止まった。寄りかかり、胸を抑え、苦しく、苦しく、目からは涙が流れた。顔をクチャクチャして、泣き叫びたかったが胸が苦しくて声が出ない。そのまま胸を抑えて座り込んだ。
そして花崎志帆は突然顔色を変えて顔を上げた。<あの女の仕業よ>そしてゆっくりと立ち上がり「みつき〜」憎しみ、叫び上げた。
高山は路地を走っていた。雪は降る。蝶のようにひらひらと舞い降りて、建物に吸い付いていた。人気のない路地を走り、街灯の狭間を筒抜けて走った。隅々まで見て歩く。少しの隙間があれば覗き、人が通ればその人の顔を覗き込んだ。だが二人は見当たらない。<早く見つけなければ>高山は思った。高山には二人の気持ちが伝わるようだ。苦しく、寂しく、恐怖に脅えて彷徨っている。
また、竹中、静江、国利も走っていた。樹木の狭間を通り抜け三人は走り、立ち止まった。そこから丘の波打つ村が見渡せた。「愁ちゃん・・・」静江はその村を見渡して呟いた。その静江を竹中と国利は見る。そして三人は歩き出した。
山を越え、波打つ丘を下っていった。月は輝いている。満月だ。その月明かりは丘を照らして輝いていた。三人は丘を下り、暫く歩くと事件のあった丘に辿り着いた。立ち止まり、竹中はその丘の麓に近づいた。そして、しゃがんで地面の土を手に取った。「またここに戻って来た・・・何度来ても、何度ここの土を取っても思い出す・・・ここで亨とシャリーさんは死んだんだ・・・倉岡直也が死んでも事件は終わらない。何故・・・何故なんだ・・・」土を握った。その竹中に国利は近づき、竹中の肩に手を置いた。「俺達からあの記憶は消えない・・・愁と美月ちゃんも同じ事なんだ。俺達よりも苦しい思いをしてるだろう。二人はまだ彷徨っている。早く二人を保護してあげないと危険だ」その二人を見て静江は言った。「愁ちゃんと美月ちゃんは今、何処かで脅えてるの。何処にいるか分からない。でも、ここ美天村にいるかもしれないわ。二人が行き着くところはここなのよ・・・早く二人を見つけて抱いてあげましょ」静江は微笑み、竹中は立ち上がって三人はまた歩き始めた。月明かりが三人を照らしていた。
霧は彷徨う。懐中電灯の光が三つ、霧にぼやけて光っていた。ガン太、芳井、唯が畦道を歩いている。「またこの三人だ」芳井は言った。「『また』っていうな!今回は違うよ!俺達は留守番じゃない。愁と美月ちゃんの帰りを待つんだ。二人が行き場がなくなったらここ、神霧村に帰ってくる。その時に俺達が優しく迎えてやるんだ。・・・俺達が出迎えてやったら、ちょっと笑えるだろ」ガン太は微笑んで、芳井と唯に言った。「村を一周したら村役場へ戻ろう。連絡があるかも知れないし・・・」唯は言って、ガン太と芳井は頷いて三人は歩いた。
ジングルベルのメロディが流れる。人々は賑わい、微笑ましく歩いている。腕を組むカップル。手を繋いで歩いているカップル。男性が大量の荷物を持ち、女性がハンドバッグを持ってスタスタと歩くカップル。コートの襟首を立てながら歩いていく仕事帰りのサラリーマン。ある中年男性は玩具屋でプレゼントを選んでいる。ある老人男とまだ小さい女の子は玩具を一緒に選んでいた。商店街にサンタ姿でビラを配る若者。その人々が盛んに歩く道を橘愁と永瀬美月は手を繋ぎ歩いていた。人々の狭間を縫う。だが、二人には笑顔がなかった。まるで周りの人々が二人と行き交たびに、時間は過ぎていくようだった。二人は歩く。時間が過ぎていくようにゆっくりと歩いた。
美月が立ち止まった。それにつられて愁も立ち止まる。愁は美月を見た。美月はジッと見ていた。愁もその方向を見ると、ガラス張りのジュエリーショップの店内が覗かれる。そこに若いカップルがネックレスを選んでいる。美月はそれを見ている。その美月を愁は見ていた。ジッと美月を。美月の瞳を。青い瞳を。それは、悲しくも見え、輝いても見えた。「行こう・・・」美月はジュエリーショップの店内を見ながらそう言い、振り向いて愁の顔を見て微笑んだ。そして美月は歩き出した。それに継いで愁も歩き出した。
「どこだ!」永瀬敬生は彷徨い歩いている。人々の狭間を潜り抜ける。敬生とすれ違う人すれ違う人、皆その姿に驚き恐怖に震えて離れていった。顔は包帯が巻かれている。その包帯の間から左目だけが鋭く周りを見ている。ジングルベルのメロディが流れていた。賑わう歩道。手を繋ぎ微笑んでいるカップル。仕事帰りのサラリーマン。サンタクロースの服装をしてビラを配っている若者。親元を離れ、駆けずりまわる小さな男の子。その男の子の笑顔も消えた。立ち止まり、恐怖に後退った。「橘!」敬生はその男の子、たくさんの人々を掻き分けるように歩いていった。ジュエリーショップの前を通る。鋭い目で愁を追い、敬生の脳裏にあの記憶が蘇る。青いドアをノックする。「は〜い」その声と共にドアは開いた。そこに初老の女性が現れた。ドア前に立っていたのは若い男。もう夕刻で、真っ赤な太陽は村を暖かく照らした。「あの、わたし・・・倉岡直也と申します」言った。こんな施設には人は来ない。皆、子供だけを置いて去るんだ。見たこともないこの男に初老の女性は疑問が過ぎった。「私はここの園長、白鳥晴佳と言います。・・・で、何か用ですか?」白鳥は言った。
「子供を引き取りたいんです」
直也は言った。
「引き取りたい?」
白鳥は言った。
「ええ、養子として引き取りたい・・・」
白鳥は直也をジッと見た。
「ま、中に入って!」
白鳥は言った。こんな事は初めてだった。ここに、この施設に養子を求めてくる人はいない。白鳥の役目は迷える子供達を育て、巣立って社会に出すこと。この男、倉岡直也が何者なのかは知らないが、子供達には決して悪くない話だと思った。
白鳥は廊下を歩く。その後ろを直也が歩いた。騒がしい子供達の声が聞こえた。そして一つの部屋の前を通りすぎると直也は立ち止まった。その部屋で女の子が三人座ってトランプをしている。その周りを男の子が二人プロレスをしている。その一人の男の子が一際元気で明るく、プロレス技をかけていた。白鳥も立ち止まっていた。「ここにいる子達は親に捨てられたり、親を亡くしたりしたりしてこの施設に来たんです」白鳥は言った。「あの子は?」直也はプロレス技をかけている元気な男の子を見て言った。「あの子は永瀬敬生。ここに来て間もないわ。父親は女が出来て逃げた。母親が育てたの。でもね、母親も体が弱くて病気になって亡くなってしまったわ。父親も見つからなくてここに預けられることになったの。元気な子よ。明るくてとてもいい子。だけど、色々苦労してるわ。本当の愛を知らない・・・」白鳥は元気にプロレスをする敬生を見ながら言った。「そうですか・・・」直也はそう答えた。
橘愁と永瀬美月は商店街を抜け、また静かな住宅街の路地を歩いていた。雪はひらひらと舞い、街灯がその路地を照らしていた。「美月、大丈夫?」愁は美月の手をシッカリと握り、美月の顔を見て言った。美月は頷き「大丈夫・・・」言った。「寒くない?」愁がまた聞くと頷き「ねぇ・・・」立ち止まって俯いた。「ん?」愁も立ち止まって訪ねた。「パパはどうなった?」美月は俯いていた顔を上げて愁を見た。愁はその言葉に少し怯んだような表情になり「パパは?・・・それだけが知りたい」美月は言った。愁はその言葉に何も応えることは出来なかった。「知りたい・・・」美月は言い、愁は少し考えて上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、番号を押し始めた。
雪がひらひらと舞う人通りのない路地の街灯の下で佇んでいた。携帯電話の着信音が鳴る。突然の電話に驚いてしまった。携帯電話がポケットに入っていることなど忘れていた。高山はその音に気づき、ズボンの後ろポケットに入れてあった携帯電話を取り出して、受話ボタンを押してゆっくりと耳に受話器をあてた。誰から電話かは確信していた。「橘か・・・」相手は何も答えなかった。「どこにいる・・・」高山は平常心を保ちながらゆっくりと落ち着いた声で言った。すると、小さく声が聞こえた。「倉岡直也はどうなりましたか・・・」橘愁の声だ。その声に高山は平常心を保てなくなっていた。「死んだ・・・松永と同じ病院に運ばれて、今は遺体安置室で眠ってる・・・」少し考え「そこに行くのか・・・」高山はそう言うと、電話は切れた。「橘・・・」落ち着いた感情は何処かにいった。「橘!」叫び、高山は走り始めた。
ひらひらと雪は舞っている。教会の十字架は赤く、白い地面にその光を照らした。その地面を走る。門を開け、走り、玄関を開けて中へ駆け込んだ。「みつき〜!」靴は履いたまま彷徨った。「美月!」花崎志帆は家の中を駆けめぐる。寝室に入れば布団をまくしあげ、ベッド横にあるランプを投げ飛ばし、クローゼットにかかっている洋服は引き吊り降ろした。「何処〜何処〜」彷徨い引き吊り降ろした服を踏んで寝室を出た。暗い廊下を歩き、リビングに出た。「みつき〜」緩やかな声を放った。「みつき〜」彷徨うようにフラフラと歩き、テーブルの上にある物を全て床に落とし、棚の上や引き出しに入っている物を全て床に投げつけた。また、フラフラと歩いてキッチンに入り、食器棚に並べてある皿やコップを激しく床に投げつけた。「美月!」怒りの感情で激しく叫んだ。
愁と美月は彷徨う。二人は門を潜り、ロータリーの大きな樹木の前を通り、広大な庭の花壇や木々の立ち並ぶ歩道を走っていった。その先に夜間入口はある。愁は静かにその入口のドアを開けて二人は中に入っていった。
暗い廊下を歩く。非常口の緑色の表示ランプが光る。二人の影が大きく廊下に映し出された。階段を降り、一階、二階へと地下へ下った。そしてまた二人は廊下を歩き出す。湿ったように暗い廊下。ここでもまた非常口の緑色の表示ランプが光る。その光があたって大きな二人の影が壁に映っている。更に廊下を歩き、一つのドアの前で立ち止まった。そこは、遺体安置室。愁はドアを開けた。冷たい空気が流れる。五つのベッドがあった。愁と美月は遺体安置室の中に入り、ドアを閉めた。すると部屋は真っ暗となったが、ドアの下にある隙間から緑の光が部屋に少しだけ漏れてその物の形を写した。二人は手を固く握りしめた。そしてまず手前のベッドに近づく。ベッドには白いシーツが頭まで被らされていた。そのシーツを愁が捲り、そこにある物を象るように撫でると、綺麗な顔をしている若い男性の遺体があった。二人はその男性の顔に近づいて見てシーツを被せ、隣のベッドに移ってまたシーツを捲った。また愁はそこにある物を象るように撫でるとそこには皺がより、歯がない老人男性の遺体がある。また二人はシーツを静かに被せ、隣のベッドへ行った。そしてまた白いシーツを捲る。今度は美月がそこにある物を象るように撫でた。そこには小太りの中年女性の遺体がある。美月は更に撫で回し、一つのところでその撫でた手を止めた。何度もその場所を探るように触った。頭蓋骨が窪んでいる。美月は思わず手を離し、怯んで愁に抱きつくように寄り添った。愁も優しく受け止め、静かにシーツを被せた。そしてまた二人は隣のベッドに移った。愁はまたシーツを捲り、そこにいる人物を探ろうとすると、美月がその手を押さえて自分が探り始めた。ゆっくりと探り出す。優しく、物を象るように撫でた。髪の長さ、輪郭、鼻の形、顔は焼き爛れていた。美月はそこで手を動かすのを止めた。「パパ・・・」呟いた。「パパ・・・」愁は美月を見た。その顔に涙は流れている。暗闇でもそれが分かった。何て美月に声をかけていいか分からない。複雑な思いがした。愁は美月の肩を寄せ、美月も愁に寄りかかると白いシーツを静かに倉岡直也の遺体にかけ直した。「行こう・・・」美月は静かな声で言った。そう言いながらもその遺体をジッと見ている。その時、愁は何かを感じた。音がする。「誰か来る・・・」愁が呟き、美月は愁を見た。「隠れよう・・・」愁はそう言うと、美月の手を取り、倉岡直也の寝ているベッドを通り過ぎ、隣のベッドも通り過ぎて部屋の端の暗闇の中にしゃがんで身を潜めた。そこから部屋のドアの下にある隙間が見える。緑色の光が部屋の中に漏れている隙間だ。コツコツコツ廊下を響き渡る足音は聞こえてきた。愁と美月は身を寄り添いながらドアの下の隙間に目を食い入るように見ていた。コツコツコツ音は近づいてくる。そしてドアの下にある隙間から漏れる光は徐々に消え、黒い影に染まる。コツコツコツその音が聞こえ、そして止まった。ドアの隙間から、足元が見える。するとドアノブが回った。愁と美月はジッとドアを見ていると、ドアはゆっくりと開いた。廊下から非常口表示の緑色の光が部屋の中に漏れてくる。徐々に徐々にその光は部屋の中に漏れ、やがて一人の人物が部屋の中に入ってきた。愁は足元から流れるようにその人物を見上げ、目を見開いて震えが起こり始めた。その横にいた美月はもうすでに気づいていて、震え、俯いて愁の腕を掴んでいた。そこに立っているのは顔に包帯を巻いている敬生の姿だった。敬生は包帯の隙間から見える片目で鋭く見渡し、中に入った。すると目の前のベッドの白いシーツを素早く捲った。そこに若い男性の遺体がある。その顔を確認すると直ぐさま隣のベッドへ移り、また白いシーツを素早く捲った。そこには歯のない老人男性の遺体がある。その顔を確認するとまた隣のベッドに移る。愁は見ていた。しゃがみ、光の届かない部屋の影に二人で隠れ、敬生が一つ一つ目を食い入るように遺体を確認している姿を。美月はその恐怖に脅え、ずっと愁の腕を掴んで俯いてその場が過ぎるのを待った。徐々に愁と美月に近づいてくる。愁の胸の鼓動は高まった。敬生は白いシーツを捲った。そこに小太りの中年女性の遺体があった。頭蓋骨が窪んでいる。額には痣があった。敬生はその女性の顔も確認すると直ぐさま隣のベッドに移り、また白いシーツを捲った。すると敬生の動きは止まり、そこにある遺体を見つめた。焼き爛れた顔、裸体、倉岡直也の姿だった。その姿を愁は見ていた。もう目の前に敬生の姿がある。少しでも動いたなら気づかれてしまう。愁と美月は寄り添い、震えさえも止めようとし、息も飲み込んでその様子を窺った。敬生は直也の遺体をジッと見、優しく顔を撫で回した。「何故だ・・・何故なんだ・・・」少し遺体を見つめ、また話した。「何故お前は滅びた・・・」包帯の隙間から見える瞳から涙が流れたように感じた。「俺から崩れ去るんだ。俺を一人にして・・・俺をこんな顔にした・・・」敬生は直也の遺体を揺すった。「橘は何処にいる・・・二人は何処にいるんだ!」体を大きく揺すり、ベッドは大きく揺れて直也の遺体はシーツを引きずり床に落ちた。直也の裸体にシーツが被さる。敬生はその直也を見つめ、しゃがんだ。体を取り「何処にいる!二人は何処にいるんだ!」揺すり叫んだ。その姿を愁は見ていた。美月も顔を上げ、直也の遺体を揺すっている敬生を見て震え上がり、愁の腕を力強く握った。敬生は直也の遺体を揺すり起こし、睨みつけて考え、また床に叩き付けた。そして敬生は顔を上げて立ち上がった。遺体に背を向け、ドアに向かった。ドアノブに手をやると、敬生は振り向いた。その先に愁と美月はいる。二人は敬生のその姿に怯み、寄り添って肩を窄めた。まるで目が合い、気づいたようだ。だが、敬生は気づかずにまた振り向いて部屋を出た。廊下を歩き、遠ざかっていく足音が響く。愁と美月は肩を落とした。「大丈夫?」愁は美月に聞くと、美月は頷いた。二人は互いを支え合いながら立ち上がり、床に寝ている直也の遺体に近づいた。
二人が直也の遺体の前に立つと、しゃがんで二人で直也の遺体を持ち、ベッドに上げて寝かせ、シーツを顔まで被せた。
廊下を歩く。コツコツと音を響かせていた。敬生は夜間入口のドアに向かっていた。何か、音が聞こえるような気がする。呼吸音。敬生は立ち止まった。考え、振り返り笑ったかのように見えた。そしてまた病院内を戻り歩き始めた。
愁と美月は直也の遺体にシーツを被せると、お互いの目を見た。そして愁は美月の手を取り、その遺体安置室を出ようと部屋のドアに歩いていった。ドアの前で愁は立ち止まった。それにつられて美月も立ち止まり、愁を見た。何か音が聞こえるような気がする。呼吸音。愁は見上げるように天井を見た。
呼吸音が響き渡る廊下。コツコツ足音も響き渡る。影がその部屋に近づいている。
暗い部屋。心拍モニターの波形が安定した音で流れている。その表示画面の緑の光が薄く部屋に広がった。松永健太郎は静かに寝ている。酸素吸入マスクをつけ、呼吸する音が静かに響き渡る。その部屋には健太郎の姿しかなかった。コツコツ音が聞こえてきた。その音は部屋の前で止まり、静かにドアが開く。そこに永瀬敬生は立っていた。ゆっくりと部屋の中に入り、健太郎に近づいていった。「ここにいたのか・・・」健太郎の側に立つ。「可哀想な人間だ。俺達の話を聞かなければこんな事にはならなかった。橘愁を知らなければこんな事にはならなかった・・・」笑い、見つめた。健太郎はマスクから安定したリズムで酸素を吸い込んでいた。「苦しいか・・・」そう言うと、敬生は健太郎の口に被さっている酸素吸入マスクを静かに取り外し、顔の横に置いた。そして振り返り、部屋を出ていった。
健太郎は息が詰まったように咳き込み、体は痙攣し始め、心拍モニターの波形は早まってきた。そして、激しく咳き込み、体は激しく痙攣して激しく動く。心拍モニターの波形は激しく波打っていた。健太郎はもがき苦しんでいる。
廊下を激しく走る二人の足がある。その足は集中治療室の前で止まり、ドアが勢いよく開いた。そこには橘愁と永瀬美月の姿がある。もがき苦しんでいる健太郎の姿を見「健太郎!」愁は叫び走った。「健太郎君!」美月も叫び走り、健太郎に近づいた。愁は直ぐさま酸素吸入マスクを健太郎の口に戻し、美月は健太郎の体を押さえた。徐々に健太郎は落ち着きを取り戻し、心拍モニターの波形も安定したリズムで流れ出した。愁は健太郎を抱き「お前は死なせない・・・」苦しく、言葉を放った。その姿を美月は見ていた。「ここにいたのか・・・」声が聞こえ、愁と美月はその声がした方向、部屋の入口を見るとそこに顔に包帯が巻かれた永瀬敬生の姿がある。「探したぞ」そう言い、部屋の中へ歩き出した。愁は敬生の目を背けることなくゆっくりと立ち上がり、ベッドを挟んで立ってる美月の手を取って二人は後退り、そして寄り添った。「何しに来た」愁は言った。「何しに来た?夫が妻を迎えに来ただけだ。何がおかしい」敬生は歩み徐々に近づいている。「美月、さあ帰ろう」また言った。美月は固まり、愁の手をシッカリと握った。「美月は渡せない」愁は敬生を睨みつけるような目で言った。「渡せない?何故だ」敬生は言った。「美月は恐れている・・・」愁は言った。「恐れてる?」敬生は近寄り言った。「お前を恐れてるんだ・・・」愁は敬生の目を見て言った。「俺を?」少し笑い「何を恐れる。恐れる必要なんかないんだ」愁と敬生は対峙した。美月はそんな二人を見ながら愁に寄り添った。沈黙が、三人の狭間を通り抜けた。「そこを動かないで!」その空間に声がし、愁と美月はその声がした方を見た。敬生もゆっくりと振り返ってその声がした方を見た。そこに、敬生の後ろに、左手には切ってあるリンゴが乗っているお皿を持ち、そして右手には果物ナイフの刃が敬生に向けて持っているしおりの姿があった。敬生はその刃を避けようと体を動かそうとした。「動かないで!」しおりは言った。すると敬生は立ち止まり、しおりを見た。「そこから動かないで、もし動いたら私はあなたを刺すわ」敬生を睨みつけ、その奥にいる愁と美月を見た。「今私はリンゴを剥きに部屋を出てたの。そのお陰でナイフを持ってたわ。・・・けんちゃんが何かあったら許さない!」そのナイフの持っている手は震えているわけではなく、落ち着き、敬生に向けられていた。またしおりの表情も落ち着いていた。「愁君、美月さん、行って!」しおりは叫んだ。敬生の目を睨みつけたまま反らさない。愁と美月は互いの顔を見、敬生としおりの脇を通って部屋を出ていった。しおりは敬生を睨みつける。「さっき、警察の人が来たわ。けんちゃんをこんな目に合わせたのは倉岡直也だって。美月さんのお父さんだって聞いた。だからって美月さんを攻めることは出来ない。美月さんの事、色々と聞いたの。美月さんは何も知らないって事。辛い思いをしてるって事。その、倉岡直也も死んだって・・・」敬生の顔に巻かれた包帯の隙間から見える目は少し動いたように感じた。「家に火がついて焼け死んだって。何の恨みがあるか分からないけど、倉岡直也の遺体もこの病院に運ばれた。わかんないことはいっぱいあるわ。世の中分からないことだらけね。あなたが何故顔に包帯を巻いているのかも分からない」しおりはそう言いながら敬生に向けられたナイフをおろし、ゆっくりと健太郎に近づいた。「・・・ただ、今私が出来ることはけんちゃんを守ること。けんちゃんと一緒にいることだわ」そう言うと、ベッドの横に座り、松永健太郎の頬を撫でた。酸素吸入音は鳴り響き、心拍モニターの波形は安定した鼓動で波打っていた。『バタン!』その音でしおりは部屋の入口の方を見ると、そこには敬生はいなかった。
廊下を走る。その音は響き渡った。そして病院の夜間入口から出た。
雪はひらひらと降る。敬生は夜間入口から病院のロータリーに繋がる道を走りながら昔の記憶が蘇っていた。
「今日から俺がお前の父親だ」声が聞こえてきた。そこに、路地を歩く倉岡直也と学生帽に学生服の永瀬敬生の姿があった。
直也は立ち止まり、敬生を見た。
「敬生、お前の父親はどこ行った?」
その言葉に敬生は少し怯み、俯いて小さな声で答えた。
「逃げた・・・」
その言葉に直也は少し屈み
「お前の今の父親は何処にいる」
言った。その言葉に敬生は顔を上げ、目の前にいる直也を指さした。
「そうだ。お前の父親は目の前にいる。俺はお前から逃げない。何故逃げないか・・・それは、お前、敬生を愛してるからだ。俺は敬生を愛し続ける・・・」
雪がひらひらと舞い、敬生は走り続け、橘愁と美月を追い続ける。路地を見下ろす街灯と街灯の狭間を走り抜けていた。敬生の心に孤独さや怒り、それ以上に苦痛が襲った。あの記憶からは逃れられない───────
満月が村を照らし、雲が駆け抜ける。田園の狭間にも風は仄かに通り過ぎた。虫の声もざわめいて聞こえる。「敬生にまだ話していなかったが、俺には娘がいる」声が聞こえる。月はまた雲に隠れ、村は暗闇に襲われた。背の高いススキが茂ってる空き地の目の前に暗く、明かりのついていない家がある。その家の脇に二つの影があり、そこから声が聞こえてきた。「別に黙っていた訳ではない。もちろんお前も愛してる。その、話すタイミングを待っていただけだ」空に風が吹き、雲は動いてまた月は現れ、村を徐々に明るく照らした。その暗闇からやがて光は流れてその家まで届き、二人の影から顔が浮かび上がった。そこに屈んでいる直也とその話を聞いている学生帽に学生服の敬生の姿があった。
「美月だ」
直也は言った。
「美月?」
敬生は答えた。
「俺の娘だ。可愛い子だ。愛してる。今、お前を美月に会わせることは出来ないが、いずれ会うことだろう」
直也は敬生を見て言った。敬生はその言葉が理解できなかったが、直也の目を見て黙って聞いていた。
「今から美月に会う。お前は窓から家の中を覗き、俺の愛を知るがいい。・・・ただ、奴が来るかもしれん。ちょっと厄介なことがあってな。俺と同じ、美月を愛してる少年がいる。橘愁と言う奴だ」
直也は一瞬辺りを警戒した。敬生はその行動さえ分からず、直也を見続けた。
「お前もいずれ美月を愛す。いや、愛せ。橘愁から奪い取るんだ。そしたら俺はお前から離れることはない」
直也は微笑んだ。優しい顔。その笑顔を見て敬生は少し微笑んだ。その敬生を見、直也は何やらポケットから取り出した。
「香水だ。昔つけてた。美月はこの匂いが好きなんだ。美月と会うとき、この香水をつけるといい」そう言うと敬生の腕を握り、掌を広げさせて香水をその中に納めると、その手を閉じさせて香水を握らせた。そして直也は屈んだ姿勢から立ち上がり、敬生の頭を撫でると窓から家の中を見た。
「もう、美月と会わなければいけない。お前は、美月を愛し、俺を愛せ。俺はお前から逃げることはない」
直也はそう言った。敬生はその言葉に微笑んで頷いた。その顔を見ると、直也は歩き出し、家を回って玄関の扉を開いて中に入っていった。敬生は前に歩き出し、少し高い窓を背伸びするような感じで家の中を覗いた。
家の中は暗く、明かりはついていない。敬生が覗いていると、黒い影、直也が部屋の中に入ってきた。直也はそのまま歩き、部屋の奥に行く。何やら奥にもう一人の影が見えた。敬生はその人の顔は見えなかったが、それが美月だと思った。その影はソファか何かに、座ってるようだ。直也はその影に近づき、その横に座った。二人の様子は薄い影でしか見えない。敬生は空を見上げ、雲にかかった満月を見たが、風は吹きそうになく、雲も流れる様子はなかった。敬生は諦め、また目を丸くしてジッと暗い部屋の中を覗いた。
その時風が吹き、雲が動いて月明かりが家の中に舞い込んだ。その光は一瞬家の中にいる直也と美月を通り過ぎ、また雲に隠れて暗闇になると、また雲は流れて月は現れ辺りを照らした。敬生の上もその月明かりは通り過ぎていった。ジッと部屋の中を見ていた。その月明かりは流れ、部屋の中も照らしていた。敬生はその時見えたんだ。二人の姿を。二人がソファに寄り添って座っている姿を。直也の隣りにいる少女の姿を。青い目の少女の姿を。<美月?>敬生は更に食い入るように部屋の中を覗いた。すると、また辺りは暗闇に包まれ、風は止まった。敬生が空を見上げると、月に雲がかかっている。敬生はまた影となった二人を窓の外からジッと部屋の中を見た。
虫の鳴き声は響いた。風も微かに吹いた。敬生は少し背伸びして窓から部屋の中を覗いている。その時何やら近づく気配がした。敬生はふと思い、辺りをキョロキョロして覗いている窓から離れていった。気配がする方へ歩いた。家の壁に背をつけ、そっとその家の端から覗くと、家に近づく少年の影がある。<橘愁?>敬生は思い、一度顔を引っ込め、もう一度恐る恐る覗いた。敬生はドキドキしていた。暗闇の中、歩いているその姿を見ている。顔の輪郭が微かに見える。その顔を見て<あの時の少年・・・>思った。倉岡直也と永瀬敬生が美天村の路地を歩いている時にいた少年。美月といた少年。<橘愁・・・>見入った。愁は歩いてくる。こっちへ。敬生の方へ。<こっちへ来る・・・>敬生の鼓動が鳴り響き、咄嗟に顔を引っ込めた。どうしたらいいか分からない。壁に這い蹲り、辺りを見渡して走った。走り、角を曲がり、また壁に這い蹲って覗いた。橘愁は角を曲がり、歩いてくる。ふと立ち止まり、そこにある窓から家の中を覗いていた。何も見えない。遠く、黒い影が動いたように感じたが、それも気づかない。愁は空を見上げ、月を隠した雲を見た。雲は月明かりで明るく染まってる。愁はまた家の中を覗いた。そしてその窓から離れ、歩き出す。その姿を見、敬生は走った。家の角まで走り、曲がってまた走ってまた角を曲がった。そして玄関の前を通りすぎ、また角を曲がると家を一周して元の位置へ戻った。そこからまた愁の様子を窺うように覗いた。愁は角を曲がり、歩いてくる。敬生の方へ。だが敬生は逃げずにジッとその様子を窺う。愁は歩き、玄関の前を通り過ぎて立ち止まった。その様子を敬生も見ている。愁は玄関の横にある窓から目を食い入るように、家の中を覗いた。遠く、何かが動いて見える。
敬生も顔を引っ込め、後退って窓に近づいた。そこの窓から部屋の中を覗いた。遠く、何かが動いた。その‶何か″を敬生は直也と美月の存在だとは分かっていた。その瞬間、少しだけ風が吹いた。その風で雲は動き、一瞬だけ雲が途切れて月の光が漏れて部屋を明るくした。愁はその瞬間を見逃さなかった。敬生もその瞬間を見ていた。裸な体が激しく動いている。そしてソファから、美月の顔が、悲しい顔が、目から流れる涙が、月の光で輝いて見えた。そしてまた風は吹き、月は雲に隠れ、徐々に美月の顔に光が消えていった。その様子に敬生は目を丸くして見ていた。その一瞬が、美月の涙が目に焼き付いた。その時‶バタン!″と大きな音がして、敬生は驚いてその方を向いた。すると、そこに愁は立ってた。そして直也の方へ近づいていた。声は聞こえない。三人の行動が暗くてよく見えない。目を丸くして見、三人の行動ががさつに見えた。
敬生は空を見、雲の動きを気にした。ずっと空を見つめ、また風は出てきた。雲は流れて月明かりが途切れ途切れ現れる。コオロギや鈴虫。騒めく虫の声も、その瞬間は静かに聞こえる。その空き地になるススキも風で靡く。そこを月明かりは通り、家をあて、愁の顔にも直也の顔にも美月の顔にも当たった。途切れ途切れそれぞれの顔に月明かりはあたる。美月は抱えている服をギュッと掴んで涙した。その姿を敬生は見ている。美月を見ている。その時、美月は何か言葉を発したように見えた。
『逃げて・・・逃げて・・・』口許はそう言っている。愁は目を見開き、朦朧と、直也の気迫を感じていた。愁は床にお尻をつけ、直也を見上げている。直也を見上げながら、お尻の下にある柔らかいマットの手触りを感じていた。敬生は美月を見ている。美月の目には涙が流れている。そして激しく震えていた。美月の前に直也は立っており、その前に愁は床に尻餅をついて、直也を見上げてる。そして、愁はお尻が乗っていたマットから体を退けて、顔を頬摺り、抱き抱えていた。敬生の目線は美月にあり、その美月はずっと愁を見ていた。月明かりは三人を通り過ぎる。そして、敬生にも通り過ぎた。次第に、敬生は美月が見ている愁を睨みつけていた。
風で草は靡き、虫の声も騒めいて聞こえる。雲は流れ、月明かりは村を途切れ途切れにあてていた。
フラフラとなりながら雪の上を走っている。顔に包帯を巻き付けてあてもなく、敬生は愁と美月を捜し彷徨っていた。記憶に苦しめられながら───────
静まりかえる丘。満月は輝き、美天村に光を与えた。その光で丘に影が出来る。その影の上をまた二つの影が丘の麓に近づく。手を繋ぎ、愁と美月は歩き近づいていた。そして二人は麓まで来ると立ち止まり、美月は、愁が握り締めた手を離して更に近づいて、しゃがみ手に土を取った。胸が痛む。あの記憶。雨の音。暗闇を走った。シャリーの悲しい顔。美月は手に取った土をジッと見つめていた。愁は美月に近づいて肩にそっと手を置いた。
「やっぱりここに来たか」声が聞こえ、愁と美月は振り向くと、そこに竹中直紀と古希静江と竹中国利の姿があった。「ここに来ると思ってた」竹中が言った。「愁ちゃん、美月ちゃん、心配したのよ」今度は静江が優しい顔で言った。「さあ、帰ろう!もう誰も追いはしない。終わったんだ・・・」国利は冷静に、慎重に愁と美月の姿を見て言った。美月は静かに立ち上がり、愁の手を握った。「まだ帰れない・・・」愁は静かに言った。「帰れない?」竹中は言った。「まだ終わってないんだ・・・」また、愁は三人の顔を見て言った。「どうしてだ」国利は言った。「どうしてなの?」静江は優しい口調で言った。愁は黙っていた。美月も黙って、愁の言葉を待った。「まだ・・・追う者はいる・・・僕たちを・・・もう・・・探さないで・・・」愁はそう言うと、美月の手をギュッと握り締めた。そして走り出し、丘から離れていった。「シュウ!」国利は叫び、愁を追おうとした。が、竹中が国利の体を押さえて止めた。国利は竹中を見た。「追わない方がいい」竹中は言った。「何故!」国利は叫んだ。竹中のその言葉に納得いかなかった。「今追っても無駄だ。愁を傷つけるだけだよ。何の解決にもならない」竹中は言い、国利はまだ納得いってないようだ。「別の道で、愁ちゃんと美月ちゃんを守ってあげるのよ。私もたけちゃんの言うこと分かるわ」静江が言うと、竹中は振り向いて、愁と美月を思い考えて丘を後に歩いていった。国利はその事に悔しくて丘の土を睨みつけていたが、静江が肩を叩いて「帰るよ!」そう言うと、静江は振り向いて丘を後にし、その姿を見て国利も振り向いて丘を後にした。
三人は丘の上を歩いていた。満月の光があたる。その影は細長く伸びている。暫く歩くと前方に一人の男が立っていた。スーツ姿で紳士のように立っていた。四十半ばぐらいの男だ。その男は振り向き、三人は立ち止まった。そして、その男は三人に近づいてきた。「竹中、直紀さん。古希、静江さん。竹中、国利さん・・・ですね」そう言った。三人は訳が分からずに頷いた。「警察の、者です」その男はジャケットの内ポケットから警察手帳を三人に見せた。「私は、高畑、秀太と、申します。あなた方を、待ってました」その言葉に三人は声を詰まらせてそれぞれの顔を見合わせた。「少し、時間、よろしいでしょうか」そう言うと「ええ、でも何か?」静江は言った。「橘、愁さん、知ってますね」静江を見ると、静江は静かに頷いた。「永瀬、美月さん、知ってますね」国利の顔を見ると、国利は静かに、少し脅えたように頷いた。「後、この男を、知ってますか?」そう言うと、またジャケットの内ポケットから一枚の写真を取り出し、竹中の目の前に突き出した。「永瀬、敬生と、言います。永瀬、美月さんの、旦那です」竹中はその写真をジッと見「少し、お話を、聞かせてください」高畑は三人を睨みつけるように言った。
高山は走っていた。暗く静かな廊下に足音を響かせながら、走り階段を降りていった。そしてまた廊下を走って部屋の前に立ち、ドアを開ける。電気をつけた。冷たい空気が流れる。五つのベッドがあった。高山はゆっくりと部屋の中に入り「どれだ〜」呟き、まず近くにあったベッドに近づき白いシーツを捲った。若い男の遺体があった。その顔を確認するとそのベッドから離れ、隣のベッドへと移った。そこに歯のない老人男性の遺体がある。それを見るとすぐに隣のベッドに移り、また白いシーツを捲った。そこには小太りの中年女性の遺体がある。またその遺体から離れ高山は、隣のベッドに移った。そしてシーツを捲る。その遺体を見、高山の動きは止まった。ジッとその顔を見る。倉岡直也だ。高山は詰まるように胸が苦しんだ。そこに、あの倉岡直也がいる。橘愁。永瀬美月。松永健太郎。三人の顔が浮かぶ。高山はゆっくりと直也にシーツを被せ、振り向き歩いて部屋を出ていった。
廊下を歩き、階段を上り、また廊下を歩く。そして立ち止まり、目の前にあるドアを開けた。そこは、ほんのりと青い光に包まれ、酸素吸入音が安定して聞こえる。「しおりちゃん、いたのか」高山は言った。そして部屋の中に入っていった。しおりは高山を見ずに、ジッとベッドの横に座ってそこに寝ている健太郎を見ていた。「けんちゃんを見ていると落ち着くんです・・・」しおりはそう呟き、高山はしおりの隣りに座った。「さっき、警察の人が来ました」また言った。
「警察?」
高山は言った。
「ええ」
しおりが答えた。
「奴ら、やっと動き出したか。で、何て言ってきたの?」
「倉岡直也のことが聞きたいって、言ってました」
「倉岡直也?今更そんなこと聞いてどうする。もう死んでるんだ。事件は終わってる」
「事件は終わってる?じゃあ何故愁君と美月ちゃんは脅えるの?」
高山は咄嗟にしおりの顔を見た。
「橘は来たのか」
「ええ・・・」
「美月ちゃんと一緒に?」
「ええ・・・」
「やはり来たか。倉岡直也の死を確認しに来たんだ」
「脅えてた。とても・・・」
少し沈黙があって
「もう一人、いたの」
しおりは言った。
「もう一人・・・?」
「顔に包帯を巻いてました。包帯の隙間から鋭い目が見えた。私はナイフを向けました。愁君、美月ちゃん、そしてけんちゃんを守る為に・・・」
「二人は?二人はどこ行った?」
しおりは首を振った。
「その隙に部屋を出ていきました」
しおりは言った。
「男は?」
「さあ?」
「誰だ!」
高山は考え、ふと思い
「・・・永瀬、敬生?」
呟いた。その言葉にしおりは高山を見た。
「美月ちゃんの旦那だ。奴が倉岡直也の家に火をつけた。 倉岡直也から美月ちゃんを奪うために・・・」
健太郎の姿を見た。
「早く探さないと危険だぞ・・・」
そして高山は立ち上がった。
「連絡、来ないね」
唯は窓から外を眺めて言った。
「まだ、見つからないんだろ」
テーブルに座っている芳井が言った。
「雪・・・止んだ」
唯は呟いた。ガン太は芳井の前に座って何か考えている様子だったが、ふと何かを思ったように立ち上がった。
「俺・・・また村を回ってくる」
そう言うと、唯は振り向き
「僕も行く!」
言った。芳井もその時ガン太を見て、何かを言おうとしたが
「いや、一人で行くよ・・・何か連絡あるかも知れないから、二人はここにいてくれ」
そのガン太の言葉に芳井は頷いた。唯はガン太を見ているだけだった。そしてガン太はテーブルの上に置いてあった懐中電灯を持って部屋を出ていった。
ガン太は村役場を出て、暗闇に埋もる村を懐中電灯をあてながら歩いていく。暗い道。辺りは積もった雪に覆われている。懐中電灯の光だけが辺りを照らした。誰も歩いていない。雪を踏みつける音だけが聞こえる。ガン太は懐中電灯を左右に振りながら、その光があたる道を辿って歩いた。家を一軒過ぎ、また歩いて家を一軒通り過ぎた。ゆっくりと確実に歩く。そして、焼き焦げた柱が残る倉岡直也の家に向かった。
霧が流れ始めた。ガン太は焼き焦げた家に近づいている。静まりかえる家。霧がその家を覆い隠す。ガン太は辺りに懐中電灯の光をあてる。「誰だ!」その光の先に何かの気配があった。ガン太は恐る恐る懐中電灯の光の芯を、そこにいる人物にあてた。そこに女が座っている。ガン太を見ていた。「ここ、焼けちゃったんだ〜」立ち上がった。「誰?」ガン太の声は少し震えていた。「誰が焼いたの〜?」女はガン太の言葉に答えずに言った。「君は・・・誰なんだ」ガン太の懐中電灯を持つ手は震えていた。「私?私ね、花崎志帆」そう言葉を放ちながらガン太に近づいてきた。
草を掻き分け、橘愁と永瀬美月は現れた。二人の狭間を霧が流れる。歩き、目の前に広がる青々とした湖に近づいた。手を繋ぎ、二人は大きな岩に向かっている。そして、二人は岩の前に着くと腰掛けた。暫く湖を見つめ「静かだね」美月が言った。「うん」愁は頷いた。
「小さい頃にね、親父がここを教えてくれたんだ」
愁は湖を見ながら言った。美月は愁を見て
「お父さん?」
言った。
「うん、十二の時、寝ている僕を叩き起こして『釣りに行こう!』って言うんだ」
「釣り?」
「そう、釣りなんかやったこともないし、親父がそんなことを言うのも初めてだった。僕は何で釣りなんかに行かなきゃいけないんだって思ったの」
美月は少し微笑んで
「釣り、嫌い?」
言った。愁は美月を見て
「嫌いかどうかなんて分からないよ。だってやったことがなかったんだから。それよりも朝早く起きて『何で釣りなんかに』って思った。次の日だって学校があるし、おまけに親父は湖を見つけたって言うんだ。湖?この村で湖なんて見たことない。何でそんな嘘をつくのか分からなかった。でも僕は強引に起こされて連れて行かれたの」
美月は愁を見ている。その目は輝いて見えた。
「日が昇って、霜が降りて、まるであちこちで天使が微笑んでるみたいだった。僕はすっかり早く起こされて嫌々連れて行かれたことを忘れてたんだ。山を登れば霧は濃くなる。その霧に隠れて親父は待っていたんだ。そこが、湖の入口だった。気の根っこや草が僕に襲いかかるように生えていて、まるでジャングルの中にいるようだったよ。僕に見えたのは親父の背中だけ。その背中だけを頼りに進んでいった」
「素敵だわ。朝の山の風景が見られたの?」
「親父が止まり、僕は親父の横に立って草を掻き分け、覗いた。すると、そこには青々とした湖があったんだ」
「今、ここにある湖と変わらない?」
「ああ、変わらない。何一つ変わらないよ。僕はその光景に見とれながら歩き、今座っているこの岩にそのときも座った」
「この岩に?」
「そう!この岩だよ・・・そして、僕は出会ったんだ」
美月は少し首を傾げた。
「妖精に・・・」
それが分かり、少し微笑んだ。
「見えた・・・妖精が・・・僕には見えたんだ」
「私も見たわ」
愁は一瞬言葉が胸に詰まった。
「僕はそれが何なのか分からなかった。親父は言ったんだ。『妖精が見えたのか』って。だから僕は頷いた。それが妖精なのか何なのか分からなかったが、多分、<妖精だろう>って思ったんだ。親父は言った。『どんなんだ』って。だから僕はまた答えた。『髪は背中まで。目は細くて吊り目。顔は青』」
美月は愁を見ていた。
「親父は僕に聞いたんだ。『妖精が見えたのか』って。何故聞く?『子供の頃に見た妖精だ』と答えた。何故答える?」
愁と美月の前に髪は背中まで。目は吊り目。顔、体は青色の一人の妖精が近づいてきた。
「・・・見えなかったんだ。親父には、妖精が見えなかった。子供の頃に見えた妖精が見えなかったんだ」
愁の体は震え始めた。亨への思いが胸に詰まり、涙が込み上げてきた。美月は愁を真剣に見続けた。
「確認したんだ」
言葉が詰まり、吐き出すように言った。
「僕と湖に行って確認した。妖精が見えるのか・・・確認しに、一緒に行ったんだ」
愁は目の前にいる妖精を見た。それにつられ、美月も見た。
「僕には妖精が見えた・・・」
声は震え、力無くいい、愁は震えた掌を妖精の前に差し出した。すると妖精は愁の掌に乗り、愁はその妖精を見ながら掬い上げるように、自分と美月が見えるように、二人の顔に近づけた。
「今でも見える・・・」
美月は愁の肩に寄り添うように顔を乗せて、目の前にいる妖精を見つめた。
湖の上を緩やかに流れていた霧も静かに消えると、青々とした光を湖から放ち、周りにある草々、樹木にぶら下がり、無数の妖精達が駆けずりはしゃぎ回っていた。
「誰なんだ?」
窓際にいる芳井は、隣のガン太に訪ねた。
「さあ?」
ガン太は首を傾げた。
「さあって、お前が連れてきたんだろ」
「そうなんだけど・・・」
二人の奥にあるテーブルに花崎志帆が座っている。
「何か倉岡直也の事、知ってるみたいなんだよ」
ガン太が言うと、二人は奥の志帆を見た。そこに唯が台所からお茶を二つお盆に乗せて来た。「はい」そう言って、志帆の前と自分の前にお茶を置いた。そして唯はお茶を啜り、ジッと志帆を見て
「どこから来たの?」
聞いた。
「紅髯町・・・」
誰を見るわけでもなく、真っ直ぐと何かに想い更けたように答えた。
「紅髯町?愁と一緒じゃない」
「シュウ?」
その言葉に直ぐさま反応し、唯を見た。
「ねぇ、紅髯町から来たんだって!」
だが唯はその言葉を聞かず、窓際にいるガン太と芳井に叫んだ。
「紅髯町?」
唯の言葉にガン太と芳井は振り向き、テーブルに近づいて空いている席に座った。
「紅髯町から来たの?」
芳井は落ち着いた口調で言った。三人はジッと志帆を見ている。そして志帆は確実に頷いた。
「こんな夜遅く、何しにこの村に来たの?」
ガン太も訪ねたが、志帆は三人を見たまま何も答えない。
「何故、倉岡直也を知ってるの?」
またガン太は訪ねたが、志帆は三人を見たまま何も答えなかった。その姿にガン太は溜息をつき、芳井は俯き、唯はお茶を啜った。その時、志帆は口を開いた。
「誰?」
三人は志帆をジッと見ている。
「倉岡直也だ」
芳井が言った。
「倉岡直也?」
「知らないの?」
唯が言い、志帆は首を傾げた。すると三人はお互いの顔を見合わせた。
「知らないみたいだよ」
唯がガン太と芳井に小声で言った。
「知らないの?」
芳井は言い、唯と芳井はガン太を見た。ガン太は場が悪くなり
「でも紅髯町から来たんでしょ」
慌てて言った。志帆は静かに頷いた。
「何故、紅髯町から来たの?」
芳井は訪ね、志帆は黙った。
「何であの家を知ってるんだ?」
ガン太は言った。
「あの家はね、さっき燃えたの。倉岡直也って人の家だったんだよ。放火されたんだ。昔美月ちゃんって子がいてね・・・」
唯の口からその名前が出たとき、志帆は咄嗟に顔を上げて三人を睨んだ。
「永瀬美月・・・」
睨んだ顔も和らぎ、そして呆然と答えた。その言葉に
「知ってるのか!」
三人は声を揃えて前のめりになって言った。
「だから来たの・・・」
志帆は少し笑っていた。その顔に三人はそれぞれの顔を見合わせて、落ち着いて座った。
「私って、バカね・・・」
志帆は笑っていたかと思うと、突然顔をクチャクチャにして泣き始めた。
「好きな人がいるの」
言った。
「好きな人?」
芳井は言った。
「ええ、格好良くて、知的で、何より一緒にいると、とても安らぐの」
三人は志帆を見ていた。
「でも結婚してるわ〜」
敬生を思いながら言っている。
「彼女から、奪おうとした」
「彼女って、奥さん?」
ガン太が言った。
「ええ、そうよ」
志帆は答えた。
「彼女の全てを奪いたかった。あの人と、彼女の触れる物全てね」
三人は言葉が出なかった。
「私はあの人に、全ての愛を捧げたわ。愛して、愛して、もうあの人なしではいられなくなった・・・でも、あの人は愛すれば愛するほど、私から離れていったの」
三人は静かに志帆の話を聞き、唯は落ち着いた口調で志帆に尋ねた。
「その人は、今何処にいるの?」
その言葉に志帆はジッと三人をみて
「彷徨ってるわ・・・」
静かに答えた。
雪は静かに降り続いた。人通りはない。ザクッザクッザクッ雪を踏みつける音がしていた。足はフラフラになり、その道を歩く。顔には包帯が巻かれてあり、雪はその上を静かに降り注いだ。美月を思う。美月だけを思ってフラフラになって歩き続け、そして立ち止まって雪の降り続く空を見上げた。
「私はね、彼女からあの人を奪うためにここに来たの」
その言葉に、ガン太は考え
「美月ちゃん?」
答えた。そして志帆はガン太を見
「・・・そうよ」
少し笑って答えた。
「あの女は故郷に帰る。そう思ったの」
「何故そこまで美月ちゃんを追いつめるの?」
唯は聞いた。
「別に美月を追いつめてるわけじゃないわ!私は敬生の愛を追いつめたいの!」
突然怒鳴り、突然テーブルを力強く叩いた。
「でも、もうそれもおしまいね。すれ違いばかりだわ」
怒鳴ったかと思うと、志帆はすぐに落ち着きを取り戻して静かに言った。その姿を三人は落ち着いて見ていた。そして芳井が口を開いた。
「何があった?」
志帆は芳井を睨みつけるように見
「何?敬生をあんな顔にした!」
言った。
「あんな?」
唯が言った。
「焼き爛れていたわ。敬生の美しい顔が壊れていたの」
三人は志帆を見ていた。
「永瀬敬生・・・」
ガン太は呟いた。
「永瀬敬生が家を燃やしたんだ!」
叫んだ。その言葉に芳井も唯も咄嗟にガン太を見、志帆はゆっくりとガン太を見た。
「あの女がいけないの・・・」
志帆は呟き、その姿を芳井が見た。何かおかしい。
「あの女がいけないの・・・」
志帆の体は震えてきた。
「どうした?」
芳井はその志帆の様子に気づき、訪ねた。
「あの女がいけないの!あの女がいけないの!あの女のせいだわ!」
テーブルを思いっきり叩き、素早く立ち上がった。
「永瀬敬生が燃やしたんだ。奴は倉岡直也を恨んでた。今までは偽りの愛だったんだ。それが、初めて知った。美月ちゃんを愛してることを知ったんだ!」
ガン太は勢いよく立ち上がった。芳井と唯は志帆を見上げ、ガン太も見上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「あの女を追うのよ。あの女に、愛はないわ・・・」
そう呟くと、突然走りだして部屋を出ていった。
「おい!待て!」
芳井も志帆を追いかけて走り出ていった。その姿を唯は見ていて、どうすることも出来ず、隣りに立っているガン太の姿を見た。ガン太は目を見開いて呆然と一点を見つめ、体は微かに震えていた。
「愁が危険だ・・・」
「みつき〜」声が震えている。「みつき〜」足はフラフラになっていた。敬生は狭い路地をフラフラになりながら歩いていた。「美月はどこだ〜」
急ぎ足で歩く。大きな公園の樹木の狭間を歩き、所々を見渡して捜す。「たちばな!」高山は懸命に捜していた。
公園を出、住宅街の狭間の路地に出た。そこでも所々を見渡して愁と美月を捜した。「どこにいるんだ・・・」高山は暫く歩き、そして立ち止まって雪の降り続く空を見上げた。
誰もいない路地を、橘愁と永瀬美月は手を繋いで歩いていた。地面の雪に足跡はなく、二人が歩くと二人の足跡がクッキリと残る。会話はなく、サイドには家々が立ち並ぶ。二人が歩いていくと、やがて見慣れた建物が目の前に現れた。二人は立ち止まった。その目の前にある建物は、美月の家だった。暫く二人は家を見上げた。暗く、誰もいない。敬生が戻った様子もなかった。美月はもう戻れないと思った。そして二人はゆっくりと振り向き、また建物を見上げた。そこに教会が建っている。十字架の赤い光が地面に映し出される。マリア像が光り輝いて見える。大きなクリスマスツリーの飾りが煌びやかに光っていた。まだ、教会も明かりがついている。二人は無意識に教会に近づいていた。
教会の前に立ち、門を潜り、二人は建物の周りを歩き始めた。美しい歌声が微かに聞こえる。建物の中から聞こえるんだ。美しい歌声もバラバラになり、曲の途中で歌声は止まり、女性の注意する声が聞こえる。明日のクリスマスイブに歌う曲を練習しているようだった。二人はその声を聞き、少し微笑んだ。更に歩き、また立ち止まった。目の前に広がるステンドグラス。建物の中からの淡い光が、ステンドグラスを通して二人の顔にあたった。愁は美月の手をギュッと握り締め、また歩き出した。
ゆっくりと歩き、二人は光の届かない教会の裏へ辿り着いた。そこで二人は壁に寄り添い静かにしゃがんだ。雪は二人の上から静かに降り注いだ。美月は体を小さくさせ、自分の手をさすっていた。
「寒い?」
愁は白い息を吐きながら、美月に小さな声で言った。すると美月は顔を横に振ったが
「着てな」
愁は上着を脱ぎ、美月の肩に掛けてトレーナー姿となった。
「ありがとう・・・」
美月は小さな声で白い息を吐きながら、凍る顔を引きつって笑顔を振りまいて言った。そして、愁は美月のさする手を取って握り締め、寄り添った。
そこでまた美月は少し笑い始めた。
「どうしたの?」
愁は聞いた。
「ううん、何でもないの。ちょっと、昔のこと思い出しただけ」
「昔のこと?」
「うん。初めて湖に行ったときのことを思い出した」
「僕が『行こう』って突然誘ったんだ」
「そう。私、なんのことかと思った」
「『行きたいところがあるんだ』って」
「私はその言葉で何かが変わったの。自分の中にとどまっていた物が突然開きだして、冒険心が沸き上がってきた」
「冒険心?」
「ドキドキした。人に誘われたの初めてだったから・・・」
愁は美月を見て微笑んだ。
「僕だって人を誘ったの初めてだったよ」
「愁、私を負ぶって草むらをかけたのよ」
「美月を?」
その事を愁は忘れてた。
「『目を瞑って!』って。愁に負ぶさって目を瞑って、体は激しく揺れたの。怖かったわ〜」
美月はその情景を思い出した。愁の背中に負ぶさり、力一杯目を閉じた。愁は美月を負ぶって草むらに飛び込み、走り走って草花をさけ、木の根っこを飛び越え、そしてまた、草花を掻き分けて辿り着いた。
「ゆっくりと愁の体から降ろされた。私はまだ目を瞑っていて、『目を開けていいよ』愁が言ったの」
美月はゆっくりと、閉じていた瞳を開いた。徐々に自分の目の前に見えてくる青々とした湖。色とりどりの花々。巨大な樹木に巨大な岩。
「この世の物とは思えない風景だった。あんな大きな湖、初めてだったから・・・」
愁は微笑んで、美月の話を聞いていた。
「それに・・・見えたし・・・」
愁は美月の瞳を見て
「妖精?」
美月は頷いた。
「見たことなかったから・・・いること、知らなかったから・・・」
「あの湖は親父と僕の秘密だったんだ。あの湖のことは誰も知らない。かあさんでさえ知らないんだ。でも僕は教えたかった。だってあんな素敵な所見たことなかったから・・・」
美月は愁を見ていた。
「もちろん、誰にだって教えたかった訳じゃないんだ。大事な人に教えたかったから・・・」
愁はゆっくりと美月の瞳を見、美月は仄かに微笑んだ。
「健太郎君も・・・」
美月は言い、愁は微笑んで頷いた。
「あの湖と出会ってママのことを思った。優しかったの。パパも優しかった。いつも三人でいたの。私はパパもママも好きで、食事の時にいっぱい話をした。学校での出来事。友達の話。毎日毎日その日のことを話した。・・・でも、突然パパとママに笑顔がなくなった。気づくと、毎日学校から帰って一人で食事をするようになったの。・・・そして、ママは殺された」
息を飲んだ。
「ママは恋をし、パパは嫉妬に狂った。私は分からなかった。何故二人に笑顔がなくなったのか。ママが殺され、神霧村に来て・・・分かったの」
瞳に涙を浮かべた。
「ごめん・・・」
愁は言った。すると美月は首を横に振り
「何で謝るの?」
言った。
「僕は親父が好きだったんだ。いつも一緒にいた。親父といると気持ちが楽になった。僕の一番の友達だったんだ。・・・でも、殺されて初めて事実を知った」
「愁のお父さんが好きだったの。その事を知って憎んだりした。パパも憎んだ。愁は・・・」
言葉詰まった。愁はそんな美月を見ていた。
「愁は・・・」
愁は美月の肩を寄せた。
「・・・分からない」
美月は愁の肩に顔を置いた。
「美月・・・」
美月を見て呟いた。
「でもいつも一人でいるとき、愁の事を考えた。妖精の事も・・・」
愁を見た。
「楽になるの。凄く。考えると楽しくなる。もうパパもママも憎んだりしてないわ。愁はどうだったの?」
「僕は親父を憎んでいた。かあさんを裏切った親父をね。でも、かあさんから話を聞いて今は憎んでない。美月と別れて、事実を知っても僕はずっと美月のことを考えていた。ずっと会いたかった。ずっと一緒にいたかったんだ」
少し黙り
「私も会いたかった・・・」
美月は言った。そして教会の中から聞こえていた歌声も止まった。すると、カチャっとドアが開く音がし、小声で話す人々の声が聞こえた。
「終わったみたいだね」
愁が言うと美月は頷いた。そして、人々の声も遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「静かね」
美月は言った。暗闇に、雪はひらひらと二人の上を降り続ける。
「明日はクリスマスイブよ」
美月が言った。
「そうだね」
愁は言った。
「ねえ、覚えてる?」
愁は美月を見た。
「今日が誕生日だって事」
「僕の誕生日だ」
美月は頷いた。
「三十歳の誕生日だ」
また美月は頷いた。
「とても冷たい誕生日だけど・・・」
愁は微笑んで、顔を横に振った。
「光もない誕生日だけど・・・」
愁はまた微笑んで、顔を横に振った。
「プレゼント、用意出来なかったけど・・・」
愁はまたまた微笑んで、二度顔を横に振った。
「おめでとう・・・」
美月は言った。愁は微笑んだ。美月を見た。美月だけを見た。寄り添い、暗闇に雪は降り続ける。
「美月は幸せ?」
愁は美月を見て、優しく聞いた。すると、美月は愁を見て、愁の瞳だけを見て微笑みながら肩を窄めて答えた。
「幸せだよ」
その言葉を聞いて愁は美月の肩に手を置いて、そっと抱き寄せた。
それから二人は黙った。言葉を交わさずに寄り添い、もう何処へも行こうとは思わなかった。冷たい雪が降り注ぎ、冷たい風が静かに流れた。少し時間は流れ、二人はお互いを暖めあいながら、目を瞑り、眠りにつこうとしていた。
ザクッザクッザクッ─────────
二人が寄り添う愁の胸倉に手。勢いよく持ち上げられ、雪の中に投げ飛ばされた。何が起こったか分からない───────
愁は雪の中に倒れた状態から、体を起こした。暗くて何も見えない。白い雪が反射して、少し遠くに影が見えた。
「たかお・・・」
美月の声だった。美月は座った状態から見上げると、そこに顔に包帯を巻いた敬生が立っていた。
「戻ってきたか・・・」
敬生は美月を見て言った。
「美月に近づくな!」
愁は近づいて言った。
「おう!橘愁か。まだいるのか」
敬生は愁を見て言った。
「何故美月を追いかける」
「何故?妻を迎えに来ただけだ」
「じゃあ何故、美月はこんなに苦しむんだ」
「苦しむ?」
その言葉を言うと、敬生は勢いよく顔に巻いてあった包帯を解き、愁の顔に見せつけた。
「この女は俺の顔をこんなにした!苦しむ?俺の顔をこんな風にしたこの女が苦しめられてるのか!」
敬生はしゃがんでいる美月の顔の前に、焼き爛れた自分の顔を見せつけた。
「お前がこの女を苦しめてるんだ!」
敬生は勢いよく愁に言うと、愁を殴った。愁はまた雪の中に殴り飛ばされた。倒れたが、愁はすぐに起きあがり敬生を睨みつけた。
「流石だ。父親と同じ事をする。人の女を取ることが父親の教えか?」
そして美月を見た。
「美月、お前も同じだ。母親と同じ事をしている。旦那を裏切って他の男に行くのか!」
愁は敬生に近づいていた。美月は敬生を見上げて震えている。
「美月に近づくな!」
愁は言った。
「何故?」
敬生は勢いよく振り返り、愁を睨みつけた。その気迫さに一瞬怯み言葉を失い
「震えてる・・・」
愁は答えた。その答えに美月は驚きの顔で愁を見、自分の脳裏に焼き付いていた記憶が蘇った。
あの夜。緩やかに風は吹き、ススキは靡き、コオロギや鈴虫の鳴き声が響く。光り輝く満月が神霧村に照らされた夜。あの事件の夜───────
倉岡直也は美月を抱いた。ソファの上で。激しく激しく。未熟な胸にキスをし、体中をキスして激しく口にキスをした。美月は一生懸命顔を背け、直也に抵抗した。「パパ・・・パパ・・・」力無く、震えた声で言ったがもう抵抗することは出来なかった。直也はそっと美月の体をさすりながら、下着に手を入れてそのまま脱がした。そして自分のズボンのベルトも緩めて脱ぎ、下着も脱いだ。直也は息遣いを荒くして、もっと激しく美月を抱き寄せた。
愁は窓から家の中を覗いている。月は雲に隠れ、辺りは暗く、家の中の物は見えない。
直也は激しく美月を抱いていた。美月の目から涙が流れた。股間から血が、大量の血がソファの上に滲んだ。
愁は目を食い入るように部屋の中を覗いている。遠く、何かが動いている。その瞬間、少しだけ風が吹いた。その風で雲は動き、一瞬だけ雲が途切れて月の光が漏れ、部屋を明るくした。愁はその瞬間を見逃さなかった。裸な体が激しく動いている。そして、ソファから、美月の顔が、悲しい顔が、目から流れる涙が、月の光で輝いて見えた。そしてまた風が吹き、月は雲に隠れ、徐々に美月の顔に光が消えていった。「み・・・つ・・・き・・・」声は出なかった。だが、確かに愁の口許はそう言っていた。その驚きとその光景に信じられなく、愁は顔を横に振りながら後退りした。そして玄関に近づき、ドアノブを睨みつけ、そっとドアノブを握ると愁の感情が一気に高上がり、勢いよくドアノブを回してドアを開けた。
その激しい音に直也は動きを止めて玄関を見た。そこに橘愁が立っている。その愁を見、直也はニヤホヤした。「おう!橘愁か」そう叫ぶと体を起こしてズボンをはいた。美月は近くに落ちていた服で慌てて体を隠した。愁の感情はますます高まり「そこから離れろ」そう言うと、直也は眉を顰めかした。「どうした。失礼だな。人の家に上がるときはその住人の許可が必要だ。俺が許可したか?」直也は冷静に言った。「何してる・・・」愁は直也を睨みつけて言った。
「何?さあ、何でしょう」
美月は二人の光景に震えて見ていた。
「美月から離れろ」
「何故離れる必要が?」
「震えてる・・・」
「震えてる?興奮してるんだ。楽しくてな」
直也はケラケラ笑い始めた。愁は拳に力を入れた。その愁の姿と直也の嘲笑う姿を美月は見ていた。「愁・・・逃げて!」美月は叫んだ。息を飲み、苦し紛れだった。だが愁はその言葉を聞いていない。暗い部屋の中、橘愁と倉岡直也は対峙していた。
<私はママと同じ事をしている・・・>
橘愁と永瀬敬生は対峙している。美月はその姿を震えた瞳で見ていた。「愁・・・逃げて・・・」寒さと恐怖で言葉にならなかった。「シュウ・・・」
「美月は渡さない!」
愁は言った。
「渡さない?」
敬生は言った。
「僕はどんなことをしても美月を守り通す」
愁の言葉に、敬生はニヤホヤと笑い始めた。
「どんなことをして守り通すんだ?」
愁はその言葉に怒り、拳に力を入れて敬生に近づいていった。
「お前にどんな愛が?美月に対してどんな愛があるんだ!」
愁は敬生に近づき、顔を思いっきり殴った。敬生は少し怯む。
「美月を守る愛だ!」
愁は叫んだ。敬生は愁を見てニヤホヤした。愁はもう一発敬生を殴った。敬生は怯む。だが敬生は何もしてこなかった。もう一度敬生を殴った。敬生はニヤホヤしていた。
「それがお前の愛か」
愁を睨みつけた。
「俺は美月に対して、どんな愛をもってる?」
愁は敬生を見、敬生はニヤホヤと笑いながら、愁に近づて思いっきり殴った。愁は雪の中に殴り飛ばされた。
「怒り苦しみ、愛を知った」
愁は立ち上がり、敬生を睨みつけた。
「何をしてる?お前に怒りはないのか・・・俺を殴りたいんじゃないのか?」
愁はジッと敬生を睨み続けた。体が震え、拳に力が込み上げた。
「おまえは許さない!」
こんな感情は初めてだった。怒り、悲しみ、苦しみ、そして恨み。一瞬にして今までの出来事が怒りになり、そして恨みに変わっていった。
「そうだ!おまえは怒ってる。誰にだ?倉岡直也か?奴は死んだ。お前の怒りは何処へ行く?」
愁を見、笑った。愁は更に拳に力がはいった。その怒りで言葉が出ず、敬生を睨んだ。
雪はひらひらと降っている。美月は二人の姿を、恐怖に震えながら見ていた。
<私はママと同じ事をしている・・・>
愁の怒りは極限に達していた。今までの出来事が脳裏に蘇る。飼い犬だったリュウのこと。父親の亨のこと。母親の恵子のこと。親友の健太郎のこと。そして、美月のこと。
愁は拳を力強く握り走り、敬生を殴りかかった。その姿に敬生は笑い、殴りかかろうとした愁を避けた。そして敬生は愁の顔を殴り、腹に二発蹴り上げ、また顔を殴って愁は雪の中に倒れた。
「俺はずっと美月を見ていた。声をかけることも出来ずに・・・」
雪の中に倒れた愁の腹を蹴った。
「美月の夫と偽り、美月を見続けていた」
愁は腹を抱え、苦しく動けないでいた。敬生は愁を見て少し笑った。
「・・・気づいたんだ。偽りの愛が、本物の愛に変わったこと」
愁の腹を蹴った。
「お前には渡せない・・・」
敬生はジッと愁を見た。
「何故何も言わない・・・」
愁は身動きが出来ない。腹に力が入らなくて言葉が出なかった。だが、敬生をしっかりと見て睨んでいた。
「何故何も言わない!」
愁の腹を思いっきり蹴り上げた。そして敬生は倒れた愁の胸倉を掴んで、体を起こして愁の目をジッと見
「それがお前の愛なのか!何も言わないのがお前の愛なのか!」
愁の顔を殴った。雪に叩き付けられ、敬生は愁の腹を何度も蹴った。その姿を美月は見ている。<ママと同じ事をしている・・・>美月の震えはなくなっていた。敬生は愁を蹴り続ける。美月はその姿をシッカリと見続ける。
「帰ろう・・・」
美月はゆっくりと二人の姿を見ながら立ち上がった。
「敬生、帰ろう・・・」
その姿に敬生は愁を蹴るのを止め、美月を見た。
「敬生・・・」
敬生が見ると、美月は引きつるように笑っていた。
「やっとわかったのか」
敬生は美月に近づいてきた。
「俺は、お前を愛している」
そう言うと、敬生は美月の手を取り、美月はニコッと笑った。そして二人は歩いていった。その姿を愁は目で追っている。「み・・・つ・・・き・・・」言葉には出なかった。だが精一杯腹の中から声を出そうとした。
「美月!」
嗄れたような声が出た。敬生と美月は徐々に暗闇に消えようとしている。二人は振り向いて愁を見ることはなかった。
「美月!」
愁の脳裏に刻まれた記憶が静かに蘇る。満月の秋の夜。たくさんのススキが生える空き地を倉岡直也から逃げていた。「僕に乗って!」愁は美月に背を向けてしゃがんで言った。美月は愁を見て少し笑った。その時、ガサッガサッとゆっくりと草を踏み歩く音がしてきた。愁は恐る恐る後ろを振り返ると、その音は近づいてくる。落ち着いた音だが、確実に近づいていた。美月に震えが起こった。愁は静かに美月の名を呼んだ。「美月・・・美月、早く。早く!」美月は動けず、その音は止まった。愁はジッとその場に耐えた。草と草の間から二つの手が出てきて、その手が草の束を掻き分けると、倉岡直也の姿が二人の前に現れた。愁は体をしゃがめたまま、直也の顔を見た。直也は腰を低くして、座り込んでいる美月の手を黙って握った。その時愁は直也の顔が自分近づいて睨みつけたように見えて、体中の筋肉が強張って、瞼さえ動かない。美月の手を取ってそのまま歩いていった。愁の目の前からまるで何処かの暗闇に消えるように、美月は草むらに入り込んで消えていった。
満月は美しく、ススキのたくさん生えている原っぱを写し出していた。一人草に埋もれる愁と、家に向かって美月の手を引っ張り歩く直也。それに抵抗もせずに、引きずられる美月の姿があった。
「美月!」
力一杯声に出した。敬生と美月は徐々に暗闇に消えていく。倒れている愁の上を、真っ白な雪はひらひらと暗闇の中を静かに降り続いた。
「美月!」