第二部 第三十二章
暗い廊下に響き渡る呼吸音が聞こえる。集中治療室の松永健太郎は目を閉じ、何事もないように呼吸を吸っていた。心拍モニターの波形は静かに波打っていた。その健太郎が寝ているベッドの横にしおりは静かに寄り添っていた。
廊下を歩く足がある。その足は集中治療室のドアの前で止まった。そしてドアを開ける。しおりがドアを見るとそこに高山が立っていた。「・・・やあ」高山はぎこちない返事をした。しおりは少し頭を下げた。「相変わらず雪は降っている。外を歩くのも嫌になるよ」高山はドアを閉め、肩に掛かった雪を払いながら入った。しおりは静かに健太郎を見ていた。「橘は顔を出した?」しおりの横に座った。「いえ・・・」高山の顔を見ていった。「彼奴何やってるんだ。何故顔をださん」少し苛立った口調で言った。「きっと・・・嫌なんですよ」しおりは健太郎を見、高山はしおりを見た。「こんなけんちゃん・・・見るの嫌ですよ」高山は静かに健太郎を見た。「高山さん、誰がけんちゃんをこんな目に遭わせたんですか?」しおりは健太郎を見つめながら言い、高山はしおりを見た。「しおりちゃん」呼んだ。しおりは虚ろに健太郎を見ていた。「しおりちゃん?」また呼んだ。しおりは静かに高山を見た。「今・・・調べている。だが証拠がない。足跡も血痕も全て雪で消されたんだ・・・」高山は俯いた。「悔しい・・・俺は、何も出来ないのか」健太郎を見た。健太郎は目を閉じ、ベッドに横たわって静かに呼吸をしていた。
雪はひらひらと降っていた。聖歌が聞こえる。教会の前には大きなクリスマスツリーが飾られ、建物も色とりどりの電球が飾られていた。暫くして聖歌が聞こえなくなり、教会のお昼の鐘の音がした。教会の扉は開き、人々が出てきた。スーツ姿の男、正装をしている婦人、笑い走りながら階段を駆け下りる男の子、その姿を見ていた。美月の家の屋根付きの駐車場に車はない。その駐車場と家の入口の門の狭間の壁に橘愁は寄りかかり、その姿を見ていた。目の前を人々は行き交う。
玄関のドアが開き、美月は出てきた。そして玄関から家の入口への門の間を歩いた。門を開け、横を見るとそこに橘愁が壁により掛かっていた。「・・・やあ」愁はぎこちない返事をした。「どうしたの?」美月は聞いた。「いや・・・旦那さんは?」聞いた。「いないわ」答えた。「そっか・・・」そう言うと、愁は黙って目の前を行き交う人々を見た。美月は黙って愁を見て言葉を待った。「ねえ・・・湖に行かない?」愁は言った。「湖?」美月は言った。「ああ、神霧村の・・・あの・・・湖だ」そう言うと、愁は美月を見て笑った。
雪は降っていない。田園や道を埋め尽くす雪の上を霧は渦巻いた。お昼の時間だというのに人の気配がしなかった。汽笛が鳴る。だが駅に下りる人はいず、その前の商店街にも人の気配はなかった。静かだ。霧は渦巻き、村役場の周りも同じく渦巻いた。暗く、人の姿はない。役場の廊下の奥の部屋から明かりが漏れていた。その部屋から油が跳ね上がる音がした。その部屋に、静江、ガン太、竹中、芳井、国利は疎らに座っていた。ただ、竹中だけは窓から外を眺めていた。台所から油が跳ね上がる音がする。「雪が止めば霧は渦巻く。人の気配はなく、まるで時間が止まったみたいだ・・・」竹中が呟いた。「みんな、ピラフが出来たよ!」唯がエプロン姿で台所から現れた。手にはお盆。その上にピラフを乗せ、静江、ガン太、国利の前に置いた。「たけちゃん、ここにおいとくね」唯はテーブルに置き、竹中は頷いた。「お腹空いたんだ〜昨日から何も食べてないもんね」芳井は言い、目の前のピラフを一口食べた。「うまい!やっぱりお前はピラフが一番美味いよ」芳井が言うとガン太と国利も一口食べ、頷いた。そして竹中も振り返り、テーブルにあるピラフを持って食べようとしたが、斑と静江を見るとピラフを口にしていない。「静江ちゃん」竹中は呼んだ。静江は何か考え事をしているようだ。竹中の言葉に気づかない。「静江ちゃん?」また呼んだ。その声に静江はやっと気づき、竹中を見た。「何を考えてた?」竹中は優しい口調で言った。少し微笑んで静江は顔を横に振った。「昨日のこと?」竹中が言うと、静江は愛想笑いで頷いた。「もう気にしない方がいいよ」芳井がピラフを口に含めながら言った。「結局何もなかったんだ。ただ、ノートが見つかって、奴があの家に住んでいたって事。だけど、奴は刑期を終えてあの家に帰ってきただけなんだ。だからって何もないよ。行くところがなくて奴は家に戻ってきただけ。俺達に見つからないように住んでいたのはあの事件で姿を見せられなかっただけなんだ。それより今は俺達の方が危ないんじゃないか?奴の家に侵入したんだ。不法侵入だよ。奴に見つかった。警察に連絡されたらおしまいだ・・・」また芳井は声を震わせながら言った。「ヨッシー!」ガン太が叫んだ。「もうだまっとけ!」ガン太は冷静に続けて言った。「恵子ちゃんは見たのね・・・あの光・・・窓から見えた・・・」静江は一点を見つめ、静かに呟いた。その静江を皆は驚いた表情で見た。「あれはタバコの火・・・一点の燈火は、明るくなったり暗くなったり・・・火をつけたとき、一瞬顔が焼けたように明るくなる・・・恵子ちゃん、見たのね・・・あの・・・鋭い目を・・・」その姿に口を半開きにしながらガン太は呼びかけた。「静江・・・」皆もガン太と同じ思いだった。こんな静江は初めてだ。何かに脅えた声、涙を浮かべて囁いた。「大丈夫。大丈夫だよ。ねっ、やっぱり警察に知らせよう。説明すれば僕たちが家に侵入した理由が分かってもらえるよ」唯はそう言うと、部屋の入口の近くにある電話台に向かった。「待って!」静江が叫ぶと、唯の受話器の持った手は止まった。「知らせないで・・・また同じ事が起こる・・・もう・・・同じ思いはしたくないわ・・・私たちで解決するのよ・・・」そう静江が言い、唯は受話器を置いた。そして竹中は目の前のテーブルの上に置いてあるノートを開いた。
「残されたのは、このノートと破られた紙切れ三枚・・・」竹中はページを捲り、丸まっていた紙三枚も広げた。紙切れ三枚は、何も書かれていなかった。「この紙切れは、何も書かれていない・・・」ガン太が言った。「何も書かれていないんじゃないわ。消えたのよ・・・」静江が言った。「消えた?」ガン太が言った。「ええ、長い間水に浸かり、文字は滲んで、やがて消えた・・・その証拠に、紙がインクで黒ずんでるわ」静江が言うと「そうか!そのノートと紙切れは残したんじゃない・・・隠したんだ。ノートを捨てる暇無く、時間がないのは分かっていた。だから見つかりにくいタンクの中に慌てて隠した・・・」国利が言った。「そうか!コクリンは倉岡直也のこと詳しいもんね」芳井が閃いたように目を輝かせていった。「詳しいと言っても、神霧村に倉岡直也が来る前のことだよ」国利が言った。「ねえ、奴はどんな人間だった?」エプロンをたたみながら唯が言った。みんな国利を見たが、静江だけ一点を見つめ、国利の言葉を待った。国利は唯を見て少し黙り、ゆっくりと口を開いた。「優しい男だったよ。評判も良かったしね。好青年って感じで、村のためにもよく働いてくれたよ。倉岡直也の奥さん、シャリーさんとも仲良かった。シャリーさんが昔振った男、亨君に再会するまではね・・・」一度口を噤った。みんなも黙って国利を見ていた。静江はただ、その話を聞いて何か考えている様子だった。「亨君は十七の時に倉岡直也と出会い、シャリーさんとも出会った。そして、恵子さんともね・・・亨君と倉岡直也は同じクラスだったんだ。二人はとても仲良く親友だった。ある日、アメリカ人の転校生が来たんだ。髪が長くて、綺麗で、青い目で、澄んだ瞳をしていた。美人だ。それがシャリーさんで、すぐに学校のアイドル的な存在となった。そして、亨君も好きになったんだ」国利は皆の顔を見渡した。「亨さんが!」唯が叫んだ。国利は頷き「ああ、だけどシャリーさんが好きだったのは倉岡直也だったんだ。倉岡直也もシャリーさんが好きだった。でも倉岡は黙っていた。亨君を思ってね。シャリーさんは常に愛を求め続けた。倉岡に愛をね。そして亨君はシャリーさんに愛を・・・その時亨君は、神霧村から美天村に通い続けて毎日シャリーさんの自宅の玄関に一輪のバラを持って行ったんだ。その姿をずっと影から見ていた人がいた。それが恵子ちゃんだ。恵子ちゃんは三人の姿を見ていた。シャリーさんが倉岡を好きで、倉岡もシャリーさんが好きで、亨君がシャリーさんのことを好きだって事。そして、自分自身が亨君の事を好きだって事。三人は自分の存在は知らない。でも恵子ちゃんは知っていたんだ。三人の関係をね」みんな国利の話を静かに聞いていた。「倉岡が亨君の為にシャリーさんを振って、亨君は倉岡の気持ちを知ってシャリーさんを諦めたこと。そして恵子ちゃんはその亨君に近づいて愛を注いたんだ」芳井は目を輝かせて国利を見ていた。「あの倉岡直也にそんな友情があったんだ。亨は何も言ってなかった・・・」だが国利に笑顔はなく、また続けて話した。「そして亨君は恵子ちゃんと神霧村で結婚した。倉岡直也は美天村に残り、シャリーさんは村を離れた。ここまでは俺は聞いた話だ」国利は一度黙った。静江は一点を見つめ、静かに口を開いた。「恵子ちゃんはいつも話してたわ〜女の話よ。亨ちゃんに恋をしたときの話。その話をしてるときの恵子ちゃんは目が輝いていた」国利は静江の話を聞いて、また話し始めた。「俺は村の商店街の外れの人通りの少ない路地で質屋を営んでいる。昔から美天村には住んでいた。美しい村だ。丘が波打ち、満月で雲のない夜、月明かりが丘に照らされると言葉に出来ないほどの美しい景色が見れる。月の明かりが丘に照らされると、いくつもの点となって月が映し出されるんだ。辺りは輝きだし、まるでその光の点が空高くゆらゆらと昇っていくようだ。神霧村のように霧は出ない。俺は美天村を良く知っているつもりだ。静かで、ゆっくりと時間が過ぎていく村。シャリーさんが村に戻ってくるまではね」竹中は振り返り、窓から外を見始めた。だが国利はその行動に気を求めずにまた話し始めた。「雲のない満月の夜、月明かりが丘に照らし出されていた。倉岡はその日、誰も出歩かない真夜中に丘の麓を歩いてたんだ。すると丘の上に光る影があった。人影だ。倉岡は丘を登り、その影に近づくとすらーとした髪の長い女性が月明かりに照らされて立っていた。『あの〜』倉岡は声をかけると、その女性は振り向いた。そして、倉岡は驚いたんだ。その女性は月明かりに照らされて輝き、よく顔は見えなかったが、長い髪、細い体、そして青い目をしていた。シャリーさんだった。シャリーさんが美天村に帰ってきたんだ」国利は皆の顔を見た。芳井と唯は国利の話を真剣に聞いていた。竹中はその話を聞きながら窓から外を見ている。静江は目を瞑り、話を聞きながら何かを考えているようだった。ガン太はその静江と、窓から外を見ている竹中を気にしながら話を聞いていた。「俺がシャリーさんを初めて見たのは、秋の終わりの肌寒くなった真昼の人混みの中だ。俺は店を閉め、買い物に出ていた。昼時で村の商店街も賑わっていた。俺は蕎麦を食べ、その店を出て夕食の買い物をしていたんだ。買う物はいっぱいある。八百屋に行けばキャベツに人参、ジャガイモやフルーツなんかも買った。肉屋で挽肉、魚屋で秋刀魚だ。他にも色々買い、両手に大きなビニール袋を持って歩いていたんだ。人々の狭間を行き交いながら歩いていると、ざわめきが聞こえた。俺は顔を上げてみると、一人の女性を皆が見ていたんだ。長かい髪、細い体、青い目、アメリカ人だ。この村に見ない顔だ。いや、アメリカ人は初めてだった。だから皆見た。それがシャリーさんだった。俺はそのあまりにも美貌な姿に見蕩れ、毎日歩き回ってシャリーさんを探した。いや、誰もがそうだ。あの美貌に見惚れた。もちろん倉岡直也と結婚しているのも知っている。だけど誰もがシャリーさんを求めたんだ。それが楽しみだった」竹中は窓から外を見ている。霧が徐々に濃くなり、やがて少し雨が降り始めた。「ある日、美天村に雨が降った客のいない午後三時だ。俺は店のレジカウンターに座ってテレビを見ていた。サッカー中継だ。決してサッカーが好きだった訳ではないが、雨の音をうち消す気晴らしの為に音を大きくして見ていた。タバコを銜え、火をつけると店のドアが開き、人の気配がして俺は入口を見た。そこに、シャリーさんが立っていたんだ。ずぶ濡れだった。俺はその姿に驚き、力無くシャリーさんを見て、タバコを落とした」芳井は口を開けて、力無く国利を見ていた。「シャリーさんは静かに俺に近づき手鏡を差し出した。かなり古く、年代物のようだ。その手鏡を手にとってシャリーさんを見た。シャリーさんの体は雨に打たれて濡れている。床に雨の雫で水たまりが出来ていた。『ああ、タオル!タオル!』席を慌てて立ち、タオルを取りに行こうとすると『この鏡・・・母親の形見です。・・・お金に変えて欲しい』俺は立ち止まり、カウンターに置かれた手鏡を手に取って見た。決して価値のある手鏡ではない。いや、その価値は俺には分からなかった。だが、シャリーさんは悲しい顔をしていた」ガン太は静江を見ていた。「・・・で、おまえはシャリーさんに金をかした」窓から外を見ている竹中が言った。皆、竹中を見た。「お前はあの頃よく言っていた」国利は頷いた。「シャリーさんは悩んでいたんだ。体に痣があった。だから俺は相談にのった。その時だけじゃない。それからシャリーさんは何度も俺の所に来て相談したんだ。その度に体の痣は増えて、あの事件が起こった」みんな黙って国利を見ていた。「シャリーさんが亡くなった後、倉岡直也は村を出ていき、美月ちゃんが俺の前に現れた。美月ちゃんと愁だ。俺は美月ちゃんの存在を知らなかった。シャリーさんと倉岡直也の娘だってことをね・・・美月ちゃんが自分の母親のことを調べに来て・・・再び事件は起こった」霧は薄れ、曇り空の中、雨だけがシトシトと降っていた。竹中は窓の外を眺めていた。遠くに、倉岡直也の家の影が見えた。「ガン太、何か気になったことは無かったか」竹中が言った。「気になったこと?」ガン太は竹中を見ていった。「昨日、倉岡は電話していた。あの電話で何か言ってなかったか?」竹中はガン太を真剣な眼差しで見ていた。「いや、何も・・・」ガン太は考え、思い出そうとしていた。昨日のことを。だが、あの状況だ。慌て、胸が高鳴るほどの緊迫したときのことは何も覚えていない。それでも考え、気持ちを整理してあの状況を思い出した。『愁君・・・ありがとう』声が過ぎった。<たしか、あの時自分は、倉岡の様子を見いた。たけちゃんが声をかけてきて、たけちゃんは玄関に向かっていったんだ。『愁君・・・ありがとう』聞こえた!>ガン太は顔を上げ、驚いた表情で竹中を見た。「聞こえた。たけちゃんと話した後、倉岡は電話の向こうに『愁君・・・ありがとう』って」静江は咄嗟にガン太を見た。「あんた!何でそれを黙ってたんだい!」静江は怒鳴った。「いや、黙ってたわけじゃなくて・・・思い出せなかったって言うか・・・」ガン太は静江の怒鳴りにビビリ、声が震え、徐々に小さく何を言ってるか分からなくなった。「私、紅髯町に行くわ。愁ちゃんに会いに・・・」静江は落ち着いた口調で竹中を見ていった。「ああ、じゃあ俺も行こう。俺の車に乗って行くといい」竹中は言った。「ありがとう・・・」静江はいい「俺も・・・」ガン太が震えた声で、震えた手を少し挙げていった。「僕も!」芳井が言った。「僕も!」唯が言った。「じゃあ、俺も・・・」国利が言った。だが、「四人は留守番よ。そんなに大人数で行っても大変だから・・・」静江が言うと、四人の挙げていた手は静かに下ろされた。「じゃあ、たけちゃん出発よ!」静江は竹中を見ていい、立ち上がった。
冷たい風は走った。樹木は建ち並び、霧はまた現れた。山の奥へ奥へ行くほど、霧は深まった。橘愁と永瀬美月は薔薇山を歩いていた。「もうすぐだ」愁は言った。更に歩き、暫く歩き、愁と美月は見上げた。その目の前にある樹木の枝に、ボロボロになった赤いリボンが結ばれていた。「さあ、ここから入ろう」愁は言い、草を掻き分けて入った。それに続いて美月も草を掻き分けて入った。
草を掻き分け、気の根っこを跨ぎ、草を掻き分け掻き分けて前に進んだ。美月も愁の後を追った。二人を包み込むように霧は静かに舞った。二人は更に前に前に進み、草の狭間から青い光が漏れてきた。愁は草を掻き分け前に出ると、そこに大きな湖があった。続き、美月も最後の草の束を掻き分けて前へ出ると、そこに愁は立っていて、目の前に大きな湖が青い光を放ってあった。左右からその湖を包み隠すように薄い霧が舞い込んだ。木々に葉はない。薄い霧もやがて濃くなり、目の前の湖が見えなくなった。愁は振り返り、美月を見てそっと美月の手を取り湖にゆっくりと近づいた。
二人は手を取り合いながら湖に近づいた。「美月・・・」愁は美月を見つめ、笑って握っている手を更に強く握ると、また湖を見た。美月は愁を見て、湖を見た。美月のかけているサングラスから少しだけ痣が見えた。
霧は湖の上を泳いだ。湖の青い光は霧に反射した。二人は湖の周りを歩き、一つの大きな岩の前に立って、その岩に腰掛けた。何も語らずに湖を見ていた。小さな影が霧の中を動く。薄い影だ。岩に近づいてくる。徐々にその影もハッキリと見えてきた。人影のようだ。愁と美月の座っている岩に近づいてくる。美月は斑と振り向きその影に気づいた。その影を暫く見ていると、霧の中から小さな妖精が現れた。美月は静かにサングラスを取り、妖精を見つめて言った。「私、嘘をついていたの」愁は美月を見た。「健太郎君と湖に来たとき、妖精なんか見たことないって言ったこと。あの時、本当は見えてた・・・」美月は愁を見て言った。愁は静かに口開いた。「きっと、健太郎も見えてた。彼奴も僕に嘘をついてたんだ。誰だって嘘はつく。問題は嘘をつく事じゃない。いつ自分に素直になるかってことなんだ」愁は美月を見て微笑み、また湖を見た。美月も微笑み、湖を見た。
部屋に電気はついていない。カーテンは閉まっていた。その暗い部屋で、倉岡直也はバーボンを開け、グラスに注いで水で薄めた。「やけにのんびりしてるじゃないか」声が聞こえ、振り向いた。そこに敬生が缶ビールを持って立っていた。「車で来たのか」直也が言うと、敬生は近づき直也の隣り、ソファに座った。「駅に置いてきた」敬生が言った。「目の前だと目立つ」直也はバーボンを飲んだ。敬生も缶ビールを飲んだ。「奴らに見られた・・・」敬生は直也を見た。「奴らがこの家に忍び込んだ・・・」直也が言った。「奴ら?」ビールを飲み、敬生は言った。「俺を追い込んだ奴らだ。俺がこの村にいるとは思わなかったんだろ」直也は言い、タバコを銜えた。「何故今頃?」敬生は言った。「さあな」タバコの火をつけた。「だが奴らは今脅えてる。俺の存在を知ってな」タバコを吹かした。「大丈夫なのか。また奴らが追い込むんじゃないのか?」敬生言った。「奴らは何も出来ない。何もするわけはないじゃないか。俺は刑期を終えたんだ」直也は言った。「だが奴らは恨んでる」敬生は言った。「だから復讐するんだよ。俺の愛を取り戻すんだ。・・・橘愁はどうした?」直也は言った。「生きている。まあ待て。慌てることはない。俺の考えがある」敬生は笑った。
直也の頭の中にうっすらと過ぎり、うっすらと声が聞こえてきた。辺りは暗く、雪が風で靡く。「早く!早く!」声が聞こえる。直也はゆっくりと廊下を歩き、そこから部屋に入った。ゆっくりとゆっくりと窓に近づく。そこに、芳井が雨樋の水溜の窪みにぶら下がってる。ガン太が雨樋の筒にしがみついていた。芳井を見上げる国利と唯がいた。ガン太を見上げる竹中と静江がいた。皆、真剣な顔して叫んでいる。直也は見ていた。
ギィーギィー音がする。芳井が上を見ると、雨樋の水溜の窪みに罅が入ってきた。芳井の額に汗が滲み出てきた。その姿を直也は冷静に部屋の窓から見ていた。芳井が首を横に振っている。雨樋の水溜の窪みが段々と沈んでいる。罅は広がっている。広がり広がり、そして水溜の窪みは割れ、芳井は勢いよく下へ落ちた。「ワァー!」芳井の声が聞こえ、国利と唯は走り、三人は屋根の影へと消えた。
芳井が落ちた瞬間、その反動が雨樋の筒にしがみついているガン太に伝わり大きく揺れた。ガン太は落ちないように力強く筒にしがみついていたが、その反動の大きさに耐えられなくて勢いよく滑り落ちていった。その瞬間に竹中は走り、二人は屋根の影へと隠れた。直也はその姿を見ている。静江はガン太に近づきながら、ゆっくりと屋根の上を見上げた。直也はタバコを吹かし、静江を見ていた。見上げ、直也の姿を見ている。直也は静江を見ていた。瞬きをせず、タバコを吹かし、ただ、静江だけを─────ずっと────
何か持っている。ノート───────
静江は直也を見ていた。直也はタバコを吹かし、静江をずっと見ていた。手に、ノートを持っている───────
直也の目が見開いた。ソファに座り、テーブルにはバーボンの入ったグラスがある。隣りにビールを飲んでいる敬生がいた。直也は立ち上がり、走った。その姿を敬生は見送った。
廊下を走り、階段を駆け上り、二階のトイレのドアを勢いよく開け、便器に繋がるタンクを開けた。中を覗いた。水が入っている。タンクの中にこびりついたカビで暗く、中は何も見えない。直也は腕を勢いよくタンクの中に入れ、探した。水の中で腕は激しく動く。探した。探した。ない!タンクの中から腕を取り出した。
ゆっくりと階段を上がり、敬生はトイレに近づいた。入口のドアは開いていた。そこからゆっくりとトイレの中を覗いた。直也がタンクの中から腕を勢いよく取り出していた。「奴ら〜」怒りに燃えていた。それは激しくではなく、体に染み込むように怒りに震えていた。その姿を冷静に敬生は見ていた。
霧は流れる。湖は青い光を放っていた。橘愁と永瀬美月は手を繋ぎ、湖の周りを歩いている。二人は静かに湖畔を歩いていた。「また、小説書こうと思うんだ・・・」愁が言うと、美月は愁を見た。
「詩人の物語?」
美月は言った。
「ああ」
愁は言った。
「いいと思う。私も愁の物語が読みたいわ」
美月は笑った。
「主役は健太郎だ」
「健太郎?」
「松永健太郎だ」
愁は笑った。そう言うと、二人は手を繋ぎながら黙って歩いた。子供の頃を思い出す。二人でよく湖畔を歩いた。霧が静かに流れる。湖からは青い光が放ち、周りにある樹木は青々と茂り、色鮮やかな花々も咲いていた。その中をまだ体の小さい愁と美月は歩いていた。二人はとても楽しそうに笑っている。体から青い光を放ったたくさんの妖精が、二人を取り囲むようにはしゃぎ回っていた。小さな美月は頭に一輪の花をさし、岩に座って湖を眺めていた。小さな愁は、色鮮やかな花々を摘んで花束を作っていた。そして愁は花束を持って美月に近づいていった。
霧は流れ、二人を包んで消した───────
高山はノックした。返事はない。またノックをして待ったが、返事が返ってくる気配はなかった。<またいないか・・・橘はどこにいるんだ?>そう思うと振り返ってアパートの廊下を歩き、階段を下りて外に出ると雪が降っている。高山は見上げて一つため息をつくと、肩を落として歩いていった。
高山がアパートから遠く過ぎ去った頃、辺りを見渡して歩く二人がいた。竹中直紀と古希静江だ。ビルが建ち並ぶ。「この辺よ。こんな所にアパートなんかあるのかしら」静江が言い、暫く歩いて竹中が立ち止まった。「あった!」静江は竹中を見ると指を指していて、その方を向くとビルとビルの間に小さなアパートがあった。
二人は近づき、アパートの目の前まで来ると玄関を潜り、階段を上って二階に上がった。廊下を歩き「ここだ!」竹中は言った。そして静江はドアをノックした。返事はない。もう一度ノックした。返事はなかった。「いないわ」静江が言った。「しずえちゃん。今日はもう遅いからまた明日愁を訪ねよう」竹中が言った。「大丈夫かしら」静江が言うと「大丈夫だよ」竹中が言って、二人はまた振り向いて廊下を歩いていった。
集中治療室の窓から雪景色だけが見えた。しおりは窓から景色を眺めている。しおりの背後からは、酸素を吸う呼吸音が聞こえた。窓から静かに景色を見、呼吸音が胸に突き刺さり、しおりは静かに涙を流した。
橘愁と永瀬美月は傘をさし、歩いていた。「じゃあ・・・」美月は立ち止まり言った。美月の家の前だ。教会の前に飾られているクリスマスツリーの色とりどりの電球が二人をあてた。「遅くなってゴメン・・・」愁が言った。「今日は大丈夫。あの人遅いの。車、止まってないでしょ」美月は笑って言うと、愁は美月の家の屋根付きの駐車場を見て、車がないのを確認するとホッとして笑った。そして美月は門を開けて中に入り、「気をつけて・・・」美月はニコリと笑って愁に言った。「うん」愁も笑った。「じゃあ」美月は小さく手を振った。「じゃあ」愁も言うと小さく手を振り、歩いていった。
美月は愁を見届け、振り向いて門から玄関へ歩いた。そして、玄関のドアノブに手をかけ動きは止まった。考えた。暫くその場に立ち竦み、ドアノブから手を離して振り向き歩き出した。門を潜り、愁が歩いていった方向に歩いていった。
美月は愁を追うように歩いた。誰も歩いていない道を、街灯だけが照らす道を、雪がひらひらと降る通りを傘をささずに歩いた。愁の姿は見えなかった。ずっとその道が続く。
暫く歩き、人も疎らに歩いていた。シャッターの閉まった商店街を通り、また静かな路地を歩いて人の姿もまた、見かけなくなった。愁の姿は見えず、美月はただ彷徨うように歩いた。そして、大きな公園の前を通り、入口を入ろうとしたとき美月は立ち止まった。
大きい公園。入口から繋がる道に一つの足跡がある。美月はその足跡を辿った。その足跡以外は一つも足跡はない。美月はゆっくりゆっくりと突き進む。周りに樹木は建ち並び、雪も疎らに散っていた。ゆっくりゆっくりと歩いていくと、大きな噴水のある広場に出た。
雪はひらひらと降り注いでいた。噴水は凍り付いている。周りは雪でうもっている。そこに一人、しゃがんで地面の雪を救っている愁の姿があった。松永健太郎が倒れた場所だ。美月は黙ってその姿を見ていた。「美月ちゃん?」後ろから声がした。美月は振り向くとそこに高山が立っていた。「何してるの?」高山は言った。美月は振り向き、愁を見た。美月の振り向いた方向を高山も覗き見た。「橘・・・」少し驚いた。「あいつ、今まで連絡もしてこないでいったい何やってんだ!」高山は怒り、愁に歩み寄ろうとしたが、「ちょっと待ってください!」美月は声を抑えて止めた。高山は美月を見た。「私と話しませんか」
二人は歩いている。街灯の照らす、誰も歩いていない路地を歩いていた。
「愁のこと・・・今はそっとしておいてください」
高山は美月を見ていた。
「お母さんが亡くなって・・・健太郎君が襲われて・・・自分でも整理できないことがあったんです」
高山は何かを言おうとしたが、止めて美月の話を聞くことにした。
「こんな愁は初めてです。悲しい顔をしていました。いつもは、笑っていて、私を慰めてくれた。私の心配をしてくれたんです」
美月は少し言葉が詰まった。
「・・・さっきまで愁と会っていました。愁・・・また小説を書き始めると言ってました」
高山は静かに美月を見ていた。
「きっと・・・高山さんのところにも行くと思います。それまで、待っていてください」
二人は立ち止まり、美月は高山を見た。
「分かった」
高山は微笑んで答えた。
「じゃあ、私はこれで・・・」
「色々とありがとう」
高山は言い、美月はまた歩き出した。その後ろ姿を高山は見ていた。
「美月ちゃん!」
呼び止め、美月は振り向いた。
「美月ちゃんは、橘を・・・橘愁を愛してるのか?」
美月は高山を見た。
「愛してるのか・・・」
美月は高山を見て、ひとつ間を置いて微笑み、また振り向いて歩いていった。その姿を高山はずっと見ていた。
人が慌ただしく歩く。辺りは明るくなっていた。皆傘をさしていて、その傘がぶつかり合うほどに歩道いっぱいに同じ方向を歩く。その方向に逆らうように傘と傘がぶつかり合いながら、歩きにくそうに歩いている竹中と静江の姿があった。
「今日は愁ちゃんいるかしら」
静江が傘と傘がぶつかりはじき合いながら、窮屈そうに言った。
「さあな」
竹中は誰ともぶつかることなく冷静に言った。
「きっといるわよね。だってこんなに朝早いんだもの」
静江が言うと、竹中は静江を見て微笑んだ。二人は歩道いっぱいとなる人々とぶつかりながら、皆と違う方向を歩いていった。
二人は人混みを切り抜け、ビルとビルの間の小さなアパート。橘愁の家に辿り着き、アパートの入口を入って、階段を上った。
玄関の前に立ち、静江がドアを叩いた。暫く待ったが応答はない。今度は竹中がドアを叩いた。だが、応答はなかった。部屋は暗く、静まりかえって愁の姿はなかった。静江がまたドアを叩いた。
「いないわ・・・」
竹中はドアを見つめ考えていた。
「何かあったのかしら・・・」
静江が言い、竹中を見ると、ドアに向かって何か考えているようだった。その姿を見て静江もドアに向かって考え始めた。
「おはようございます」女の声がした。「おはよう!」声が聞こえた。「おはようございます」男の声がした。「おはよう!」声がした。
エレベーターのドアが開き、高山が降り立ち、女性社員と男性社員が降りてきた。「おはようございます」通りすがる社員は声をかけた。「おはよう!」高山はその声に答えながら廊下を歩いた。
ここは恋酔出版社。九階のフロアーは朝から慌ただしく動き回っていた。「おはよう!」高山はフロアーに入ってきた。「おはようございます」気づいた者はあいさつし、その高山に気づかない者もいる。通り過ぎたところで気づいた者もいた。高山は恋愛大衆編集部のデスクに向かった。
編集員は皆パソコンや送られてきたハガキに目を通していたり、何か書き物をしていた。「おはようございます」一人の編集員が高山の存在に気づき、皆顔を上げて「おはようございます」言った。高山は編集員を見渡せる位置にあるデスクに鞄を置くと、時計の針は九時を示した。高山に遅刻はなかった。キッチリと鞄を置いた時刻が九時になる。高山は編集員のデスクを見渡した。一つ席が空いている。松永健太郎のデスクだ。そのデスクを確認してから席に座った。そして高山もデスクに積まれた書類に目を通し始めた。その時、ハガキを読んでいた編集員が気づき、ゆっくりと立ち上がり、「おはようございます」口が自然に開いて力無く言葉放った。その言葉に他の編集員も振り向き、その姿に驚いてゆっくり立ち上がり「おはようございます」それぞれが言葉を放った。その編集員の行動に高山も気づき、編集員を見て、その編集員の見ている方向に向いた。するとそこに橘愁が立っていた。「橘・・・」高山は立ち上がった。「来たか・・・」微笑んだ。「遅くなりまして、どうもすみません」愁が言うと、高山はゆっくりと微笑みながら顔を横に振った。「何処かで話、しないか」そう言うと、愁は微笑んで頷いた。
二人は恋酔出版社のビルの前にある広場に建っているガラス張りの喫茶店にいた。
「どうだ・・・」
高山はぎこちなく聞いた。
「色々考えてました。母のこと、健太郎のこと……美月のこと」
高山は愁を見てひとつおいた。
「・・・美月ちゃん?」
愁は高山を見た。その時ウエイトレスがお盆にコーヒーを二つのせて来て
「お待たせいたしました」
そう言うと、高山の前にコーヒーを置き、そして愁の前にもコーヒーを置いた。シュガーとミルクを置いて、一礼をして歩いていった。愁も一礼をしてまた話し始めた。
「小さい頃の事が、自分の頭の中を過ぎりました。僕は十二の時、父を亡くしました。土砂崩れで生き埋めになった・・・」
愁の目に過ぎった。大雨で、土砂が崩れる瞬間。亨が土砂に埋まる瞬間。少し、言葉を溜めてまた言った。
「ここから、始まったんだ・・・」
高山は愁が何を言っているのか分からなかった。分からなかったが、愁の言葉を黙って聞き入れた。
愁の目に映り行く景色は、白く濁っていた。その景色からガサガサと音がする。ガサガサ揺れていた。草が揺れ、その間から小さな手が草を掻き分けて、愁の姿が現れた。まだ幼き頃、山を駆けめぐっていた。エンジン音が聞こえる。荒れ狂うエンジン音。幼き愁は草むらから道へ出た。音のする方へ目を向けたが、深い霧でその物は見えなかった。愁は止めてあった自転車に寄りかかり、待った。
深い霧の中から徐々に物の影が見えてきた。影も色濃くなり、ハッキリと見えてくる。大きな荷物を載せた小さなトラック。愁は置いてある自転車に寄りかかり、トラックが近づくのを待った。
エンジン音も徐々に大きくなり、トラックが霧の中から現れてきた。愁はそのトラックを見つめていた。霧に包まれて、トラックは愁の前を通り過ぎようとしていた。
トラックの運転席には倉岡直也、助手席には美月が座っている。両サイドの窓は曇っていた。美月は外の景色を見たくて、少しだけ指で窓を拭いた。するとそこに少年、橘愁の姿があった。
愁はトラックを見つめていた。トラックは目の前を通り過ぎる。愁は見つめていた。トラックの窓ガラスは曇っていて、中の人物は分からなかった。愁がずっと見つめていると、窓ガラスは二本の指で拭き取られ、そこから見えた。少女が。青い目をした少女が見えたんだ。
「橘・・・どうした?」
高山は心配そうな顔をして愁に言うと、愁は少し笑って顔を横に振った。
「高山さん・・・」
「ん?」
愁は窓の外を見、コーヒーを一口飲んだ。
「雪が綺麗です・・・僕たちはこの季節に包まれているようだ」
愁は呟き、高山は辺りを見渡して
「ああ・・・」
言った。天井も横ガラスも、全てを透き通ったガラスで出来た喫茶店の周りには、ひらひらと雪が降っていた。そこに、人々は急ぎ足で歩いていた。
高山はガラスの外を見ながら、愁に話しかけた。
「橘は、今何を考えてる?」
外の風景から向き直り、愁を見た。
「美月と出会った時を思い出してました。十二の時です。父が亡くなって、美月は神霧村に来ました。とてもかわいらしく、澄んだ目をしていた。神霧村には僕以外子供がいなくて、すぐ仲良くなりました。毎日遊んでた。毎日・・・」
愁は少し言葉をつまらせた。
「美月は、父親から・・・倉岡直也から虐待されてました」
高山は愁を見ていた。
「ああ」
愁は続けて話した。
「あの日を思い出します。あの、満月の日を・・・」
あの頃を思い出す。月が綺麗だった。「逃げよう!」十二歳の愁は、美月の家の二階の窓から、一歩足を部屋の中に踏み入れて部屋の隅にいる美月に手を差し伸べた。「僕と一緒に逃げよう!僕が守るから・・・」月明かりの影から前屈みになった瞬間、愁と分かった。美月は部屋の隅の影からゆっくりと立ち上がり、愁に手を差し伸べた。
空き地にはススキがあった。愁は美月の手を握って、ススキの中をかけていった。「みつき〜、みつき〜」満月が、ススキを光らせた。声が木霊する。玄関のドアが勢いよく開かれた。「今日はいい天気だ。とても気持ちいい。雲もない、風もない、とても美しい満月だ。おまえが生まれた日を思い出すよ。とても美しい月だった。ハハハ、逃げても無駄だ。待ってろよ、今、パパが行くからな」直也は大声で叫び、ススキが光る原っぱに向かっていった。
「橘・・・?」
愁はずっと想いに更けていた。俯いていた愁は、顔を上げて高山を見た。
「僕たちは、美月が倉岡直也にされていたことを知りました。美月は苦しんでいた。一人で苦しんでいたんです。・・・僕たちは美月の家に押し入り、助けようとした。倉岡直也を押さえつけたんだ・・・」
警官が家の中に飛び込んできて、倒れている直也の両腕を掴んで、動かなくなった足を引きずりながら連れて行った。月は輝いている。風は吹き、月の光を遮るように雲も流れた。静江は倒れた愁を抱え、恵子、ガン太、唯、芳井、そして竹中が玄関に向かって立っていた。愁は起きあがり、ゆっくりと立ち上がった。静江もゆっくりと立ち上がって玄関の方へ向いた。皆の顔に月明かりが流れる。倉岡直也は警官に両腕を抱えられ足を引きずりながら玄関に向かっている。玄関を出る瞬間、直也は振り向いて笑いかけた。その姿を愁は見ていた。そして連れて行かれ、玄関は閉まった。
愁は顔を勢いよく上げ、睨みつけるように高山を見た。
「どうした・・・?」
高山は驚いた顔をして愁を見た。蘇る風景。愁の脳裏に記憶が過ぎった。恵子が台所で、冷蔵庫の横に凍り付いて倒れていた。愁は恵子に近づき、抱き抱えてゆっくり揺すりながら「かあさん・・・かあさん・・・」涙を流した。
愁の目に瞬きはなかった。ジッと記憶が蘇っている。目の中の記憶、雪が降っている。凍り付いた噴水。人はいない。そこに、松永健太郎が俯せに倒れていた。
高山は心配そうな顔をして愁を見ていた。だが、何も聞かない。<橘が求めたときに、言葉を放てばいい・・・>そう思っていた。無理は問わない。ゆっくりと言葉放ったときに、その言葉一つを噛み締めて聞こうと思っていた。その時、愁は話し始めた。
「高山さん・・・また、小説を書こうと思ってます」
高山は愁を見ていた。
「前に話した、詩人の話です。ローカル電車で旅をする詩人。旅館の若女将と恋。僕は、その詩人に自分の思いを託したいと思います。その詩人の名は、松永健太郎」
高山は少し微笑んだ。
「桜散る、暖かな春を舞台に二人の実らぬ恋を描いていきたいと思っています」
愁は高山を見た。
「そうか、松永か。いいと思う。楽しみに待ってるよ。お前の作品は最高だ」
愁は微笑み、立ち上がった。
「ありがとうございます」
高山は愁を見上げ
「どうした?」
「僕は大丈夫です。今、帰って物語を書きたくなりました」
愁はそう言うと、その場を去った。いつもだ。いつも物語に夢中になり、書きたくなると話の途中でもその場を去る。橘愁にとっては当たり前の行動だった。が、何か不安が過ぎる。高山に不安が過ぎり、愁の去る姿を見ていた。愁の足が微かに震えているように見える。
いくつもの電話のベルが鳴り響く。慌ただしく走り回る人々。「はい、恋愛大衆編集部」男性編集員が電話に出た。
高山春彦は走り回る人々の間を縫って、ゆっくりとデスクに近づいた。「編集長!」呼び声が聞こえた。「編集長!」受話器を持った男性編集員が手を挙げて高山を呼んでいる。高山はそれに気づいた。「電話です」男性編集員が言うと保留にし、受話器を置いた。「二番です」言った。高山は自分のデスクの受話器を上げ、二番を押して保留解除した。「はい、お電話替わりました。高山です」ひと置きし、顔色が変わった。
その姿を編集員は見ていた。「誰?」電話をとった男性編集員の隣のデスクの女性編集員が聞いた。「警察だよ」男性編集員は言った。「じゃあ、きっと荒れるわね」女性編集員は言った。「大荒れだよ。編集長は松永のことになるとすぐムキになる」男性編集員が言うと、二人は高山を見た。
「それでも警察か!」高山の受話器を持つ手は震え、怒鳴り散らした。「証拠がない?事件からいったい何日かかってると思ってるんだ!俺の可愛い部下だ!部下が苦しい思いをしてるのに犯人は野放しか!」高山は勢いよく受話器を叩き付けて電話を切った。「警察なんてあてにならん」苛立ち、吹き出すように独り言に素早く座った。直ぐさまデスクに積まれた書類を取り出してサインし始めた。苛立ちから一つ一つの動作が大きく、ペンも力強く握り締めて、サインも素早くしようとしていたが、その苛立ちから手が震えて、サインを思うように流れて書けないでいた。その時、また女性編集員が呼んだ。「編集長!」その声に過敏に反応して「なんだ!」荒い返事をした。「お客さんです」女性編集員は冷静な口調で言った。「キャク?」高山はそう言うと、女性編集員の見る方向を見た。すると、そこに竹中直紀と古希静江が立っていた。
高山は静かに立ち上がった。「どちら様で?」言った。「橘愁の知人です」静江が静かに答えた。「ああ、橘の・・・で、橘の知人の方がどのようなご用で?」また高山は言った。「実は、橘・・・愁が連絡できませんで、こちらなら連絡できると思いまして・・・」今度は竹中が言った。「ああ、今、家にいると思います」高山は言った。「家?今家は行って来ました」静江が言った。「ああ、それならきっとすれ違いになったのでしょう。先程まで私とお茶してましたから」高山は笑った。「そうですか。・・・よかった〜」静江は安心した。「今、きっと家で小説を書いてます」高山は言った。「分かりました。どうもありがとうございます。もう一度家に顔を出します」静江が言い、竹中と静江は一礼して振り向いて歩いていった。高山は静かに席についた。だが、不安が過ぎる。高山は席を立った。「あの!ちょ、ちょっと待ってください」竹中と静江を呼び止めた。二人は立ち止まり、振り返って高山を見た。「ちょっと聞きたいことがあります」二人に近づいた。「聞きたいこと?」竹中は言った。「倉岡直也・・・知ってますよね」高山の言葉を聞き、竹中と静江は息を飲んだ。「おい!誰か応接室にコーヒーを持ってきてくれ」高山は言うと歩き出し、二人はついていった。
高山と竹中、静江は向き合ってソファに座っていた。ノックがする。「失礼します」女性編集員がお盆にコーヒーを三つ乗せて部屋に入ってきた。三人は睨み合っているように座っている。女性編集員は三人の間に置かれるテーブルにコーヒーを置き、一礼して素早く部屋を出ていった。高山は女性編集員が出ていくのを見届けると、話し始めた。
「橘から話は伺っています」
「話?」
静江が言った。
「ええ、昔のことです。昔の事件です。あの日、あなた方もいましたよね」
二人は高山を見た。
「何があったんですか?倉岡直也が美月ちゃんに虐待していたのは知っています。だが、それ以上は語らない。あの日、何があったのか、多くを語らないんです」
静江はゆっくりと口を開いて何かを言おうとしたが、あの日の出来事が過ぎった。体は強張り、目には涙を浮かべ、言葉は出なかった。その姿を竹中は見ていて、ゆっくりと口開いた。
「レイプです」
「レイプ?」
「美月ちゃんは倉岡直也に虐待されていました。あの日・・・満月でした。雲はあって、風もあった。静かな夜だった。愁は、美月ちゃんの虐待を知っていました。美月ちゃんが心配で、家に行ったんだ。暗い家を、窓から覗いて・・・美月ちゃんの悲しい顔が見えた。美月ちゃんは服を脱がされ、倉岡直也も服は着ていなかった。美月ちゃんを抱いていたんです・・・」
静江は思わず口を押さえ、目を瞑った。
「何て事だ・・・」
高山は驚きのあまり、言葉が出てこなかった。
「私たちは倉岡直也を捕まえました。もう、あれから十八年立ちます。倉岡直也は戻ってきました。神霧村に戻ってきたんです・・・」
「知っています」
高山は言った。
「知ってる?」
「私や橘の前に現れました」
静江は目を開けた。
「愁ちゃんは・・・愁ちゃんは大丈夫なの?」
静江は震えた声で言った。
「愁ちゃんが心配で来たの」
高山は静江を見た。
「大丈夫です。ただ・・・今、橘は色々なことがありました。母親を亡くしたこと」
静江と竹中は俯いた。
「後・・・橘の担当編集員で、私の部下が何者かに襲われました」
「襲われた?」
高山が顔を上げていった。
「ええ、誰もいない公園で・・・頭から血を流して倒れていました」
竹中は高山を見ていた。静江も顔を上げ、高山を見た。
「名前は・・・」
静江が静かに口を開いた。
「松永・・・松永健太郎と言います」
竹中と静江は驚いた。
「健太郎君・・・」
静江が言い、その言葉に高山は驚いた。
「知ってるんですか?」
高山が言うと竹中が
「前、愁と神霧村に来ました」
言った。
「そうでしたか・・・」
高山はそう言うと俯き、静江は高山を見た。
「愁ちゃんは・・・愁ちゃんは・・・今、どうしてるかしら・・・」
高山は静江を見
「とても自分に苦しんでいます。自分でも整理できないことが起こったんだ。今、橘は自分と戦っています。気持ちを落ち着かせようと、小説もまた書き始めました。今、橘をそっとして置いて欲しいんです」
静かに言った。
「分かりました」
竹中は落ち着いた口調で言った。
「わざわざ神霧村から来たのに、どうもすみません」
竹中は頷いた。
「後は私に任せてください」
高山は言った。だが、静江はまだ納得いっていないようだった。体が落ち着かない。
「じゃあ、静江ちゃん帰るか」
竹中は席を立とうとしたが、静江はどうしても愁に会いたかった。
「ほら静江ちゃん。ガン太も待ってるし、帰ろう。今、高山さんの言うとおり愁をそっとして置いてあげようよ」
竹中がそう言うと、仕方なく頷いた。だが、納得はいっていなかった。静江は愁に会って自分の目で確かめたかったんだ。でも竹中の言うことも分かった。静江はゆっくりと立ち上がった。
二人が帰ろうとしたとき、高山は斑と思った。
「ちょっと待ってください」
二人は止まって高山を見た。
「倉岡直也と美月ちゃんに何があったのか知りたいです」
高山を見た。
「二人が、神霧村に来る前に何があったのか・・・」
竹中は高山をジッと見て
「美天村で何が合ったか・・・」
言った。
「ええ」
竹中は少し考えた。
「彼奴を呼ぶか・・・」
竹中は静江を見た。
「彼奴・・・?」
高山は言った。
「ええ、美天村に詳しい奴です」
笑った。
教会の十字架は光り輝いていた。雪はひらひらと降っている。暗い道を街灯が照らしていた。美月の家の車庫に車はなかった。
家の電気は消えている。静かな廊下、寝室にも誰もいない。どこからか、鼻歌が聞こえてきた。悲しい音色で歌っている。その歌は、リビングの方から聞こえてくる。
ここにも電気はついていない。カーテンは閉まっている。悲しい音色が聞こえる。美月はリビングのソファに座っていた。鼻歌を歌いながら、思い出していた。
部屋に月明かりが充満していた。悲しい音色の鼻歌が聞こえる。「美月〜」叫び声と、ドアを激しく音が聞こえる。鼻歌は聞こえる。「開けてくれ。美月、何故逃げるんだ。パパが悪かった、さっきはぶったりして。もう怒らないから、お願いだから開けてくれ」ドアは激しく叩かれる。まだ幼い美月は月明かりも届かない部屋の隅に腰を下ろしていた。悲しい顔。恐怖を抱きながら、涙を流して鼻歌を歌っていた。「開けてくれ〜美月。なあ、開けてくれよ」ドアが激しく叩かれる。
窓が開いた。窓に人物の影が見える。月明かりが眩しくて誰だか分からなかったが、手を差し伸べていた。「逃げよう!」
悲しい音色の鼻歌を歌っている。美月はリビングのソファに座って思い出していた。バタン!ドアが閉まる音がすると、廊下を駆ける足音が聞こえた。「敬生〜」女の切羽詰まった声が聞こえた。「敬生〜」その声が聞こえると、リビングに現れた。
美月は鼻歌を止め、咄嗟にリビングの入口を見た。そこに、花崎志帆が立っていた。美月に震えは起こった。志帆は美月を睨みつけ「あなた、まだいたの?」すると美月に近づいた。「敬生は何処?」美月は何も答えられず、ただ、志帆を見ていた。「敬生は何処!何処!何処に隠したのよ!」美月を思いっきりひっぱたいた。「いないの、敬生。私は敬生がいないとダメなのよ」志帆はリビングやキッチン。とにかく部屋を見渡して敬生を探した。探して探しまくった。そしてまた美月に近づいた。「あなたがいけないの。あなたがまだこの家にいるから・・・」志帆は美月を睨みつけ「何処にいるのよ!」胸倉を掴み迫り、美月の目を見た。が、美月は志帆から逃れようとして顔を背けた。志帆はまたその行動に怒りを感じ、更に胸ぐらを掴んでいる手を強く握って美月を近づけた。「あなたは、私から逃げられないわ」力強く言うと胸倉を掴んでいる手を離し、思いっきり美月の頬をひっぱたいた。その反動で美月はソファの上に倒れたが直ぐさま起きあがり、ソファから立ち上がって離れた。志帆を睨みつけた。「何よ!その目は」志帆の怒りは頂点に達し、美月に近づこうと歩き始めた瞬間、美月は走り出し志帆を突き飛ばして廊下に出た。志帆は蹌踉け、体勢を崩したがすぐに立て直し「あの女!」怒り、怒り狂って美月を追って廊下に出た。美月は階段を上り、二階の廊下を走り、部屋に入って鍵を閉め、ドアから離れた。志帆も勢いよく階段を駆け上がり、二階の廊下を走り、部屋のドアノブを何度も回した。が、開かない。何度も何度もドアノブを回し、ドアを激しく叩いた。
赤く光り輝いた十字架は、地面を覆っている雪に反射していた。人のいない道、雪はひらひらと舞っている。目の前には暗く、湿ったような美月の家があった。その家を見上げている。少し離れた街灯の下で橘愁は見上げていた。
花崎志帆の手にはバットが握られていた。握り締め、階段を上っている。その顔は、怒りに満ちていた。二階の廊下を歩き、部屋の前で立ち止まった。ドアを睨みつけて、笑った。そして、バットを掲げてドアノブに振りかざした。
愁は見上げていた。教会の十字架の光が微かに愁の顔にあたった。静かだ。何も聞こえない。美月が家にいるのかさえ分からなかった。その時、微かに聞こえた。悲しい音色。鼻歌だ。家から悲しい音色の鼻歌が聞こえた。愁はその歌声に気づき、家を見上げて歩み寄ろうとした。その時、愁の肩に誰かが手をかけた。「愁君」愁は振り向くと、そこに倉岡直也が立っていた。「どうした・・・」直也は言った。愁は直也を見、そしてまた美月の家を見上げた。「聞こえたんだ・・・」直也は愁を見ていた。「悲しい音色が・・・美月が歌ってる・・・」愁は家に歩み寄ろうとしたとき、また直也は愁の肩に手をかけた。「ちょっと待って!」直也は言い、愁を止めた。愁は振り返り「帰ってきた」直也は美月の家の方を見て言うと、愁もまた振り向いて家を見た。
二つのライトが、ひらひらと舞う雪を照らしながら走ってきた。黒のBMWが家の前に止まった。運転席のドアが開き、敬生が降り立った。車庫の門を開け、また車に乗り込んでドアを閉めた。バック音と共に車を車庫に入れ始めた。
橘愁と倉岡直也はその様子を見ていた。車庫に車が入る瞬間、遠くにいた愁と直也にもライトの光が微かにあたった。車は車庫に止まり、ライトは消え、運転席から敬生は降りて車庫の門を閉めて玄関に向かい、家の中に入っていった。その姿を二人は黙ってみていた。
志帆はバットを振りかざした。ドアノブは壊れかけていた。何度も、何度も振りかざした。ドアの向こうから悲しい音色が聞こえる。志帆はまた思いっきりバットを振りかざし、ドアノブは折れて床に落ちた。志帆はバットを握り締めてドアを蹴った。ドアは思いっきり開き、部屋に入った。美月は部屋の端の窓際に座っていた。ドアが開いた瞬間、歌うのを止めて部屋の入口に立っている志帆を見た。震えが起こった。志帆は笑い、バットを放り投げて美月に近づいた。美月は立ち上がり、震え、窓際にへばりついた。「何で逃げるの?」志帆はゆっくりと美月に近づいた。「何で・・・」ゆっくりと近づく。美月は震え、何度も首を横に振った。志帆の目から逃れられない。「何でなのよ!」志帆は素早く美月に近づき、美月の髪の毛を掴んで自分の顔に近づけた。志帆の怒りは顔の表情から分かる。それでも志帆はその怒りを押さえ込んで歯を食いしばりながら、美月の顔に近づいて「何でなのよ〜」そう言うと、掴んでいる髪の束を強く握り、美月を床に投げ飛ばした。「キャー!」美月の悲鳴が響き渡った。「何でなのよ!」志帆は倒れ込んだ美月に素早く近づき、また髪を掴んで振り回した。「何で!敬生は何処なのよ!」美月の髪を掴んだまま持ち上げ、思いっきりひっぱたいた。「何処なのよ!」美月を力一杯床に放り投げた。美月の悲鳴は響く───────
その声は外にも響き渡った。橘愁と倉岡直也はお互いを見た。そして愁は走り出した。直也も杖をつき、美月の家に向かい、二人は家の中に入っていった。
志帆は美月の髪の毛を掴み、部屋の中を引きずり回していた。美月は必死にもがき、志帆から逃れようとしていた。「やめて〜」苦しく、声を出すのも精一杯だった。
部屋の入口に影がある。志帆はその影に気がついた。永瀬敬生だ。志帆は美月の髪を離し「たかお〜」志帆はヨレヨレになって、ゆっくりと敬生に近づいていった。「たかお〜会いたかった。あなたが一番〜」そう言うと、敬生を抱き、激しくキスをした。
階段をかけた。愁は登り切り、直也は昇っていた。志帆はその足音に気づかない。敬生は気づいたようだった。志帆は激しく、激しく敬生にキスをした。志帆はキスをし、その気配を感じた。敬生の後ろにいる気配。「ちょっと、あんた誰よ」志帆はキスを止め、顔を上げた。敬生も振り向いた。そこに、愁が立っている。その後ろから直也もやってきた。愁は二人の横を通り、部屋に入っていった。「ちょっ、ちょっと!何なのよ!」志帆は敬生から離れ、行き交愁の腕を取ろうとしたとき、志帆は腕を取られた。志帆が振り向くと直也が志帆の腕を掴んでいる。「何なのよ!あんた達。人の家に勝手に入って」直也を睨みつけた。「美月の・・・父親だ」直也は言った。愁はゆっくりと美月に近づいた。美月は床に倒れ込み、動きはしない。敬生は黙ってその姿を見ていた。「たかお〜何で黙ってるの〜この人達、勝手に家に入ってるのよ〜」志帆は敬生に近づき、抱きつき見上げるように言った。だが、敬生は志帆を見ず、愁の姿を見ていた。
愁は美月に近づき、美月の体を起こして優しく抱いた。「もう、大丈夫だよ。僕がいるから・・・」愁は美月を抱き続けた。その姿を直也はジッと見ていた。敬生も黙って見ていた。志帆は敬生の体に抱きつきたまま、愁の姿を見ている敬生の顔を見ていた。愁は抱き続け、美月の顔も自分の体に寄せ付けて、優しく、優しく、頭を撫でていた。美月は放心に一点を見つめていた。
直也は美月の家から出てきた。その後ろから、愁は美月を抱え、出てきた。美月はゆっくりゆっくり歩き、俯いている。家の門をで出、三人は立ち止まった。「ありがとう・・・もう、この家にはいさせられない。暫く、僕の家で一緒に暮らす」愁は言った。直也をジッと見た。三人の顔を、十字架の光を赤くあてた。「でも、何で奴は黙っていたんだ。黙って、美月を手放した」愁はまた言った。「さあな」直也は言った。また考え「でもすぐに取り返しに来るぞ。奴は、何処までも美月を追う」直也は言った。「私が預かろう。私は父親だ。奴も下手に手は出せないだろう。美月に償うときが来たんだ。昔のように、仲良く暮らしたい。色々と、話したいこともある」愁は黙って直也を見ていた。直也はそう言うと、美月を抱え込んでいる愁の手を離し、自分の手を美月の腰に抱えた。そして、片手に美月、片手に杖を持ち、ゆっくりと歩いていった。その姿を黙って見ていた。。雪はひらひらと舞う。教会の十字架は赤く赤く光る。直也は美月を抱えて歩いていった。愁は、その後ろ姿を黙って見ていた。街灯にあたり、歩く二人の姿が消えかかるまでずっと見ていた。
月は光っていた。雲はない。丘は波打っている。三人の影が、丘の麓を歩いていた。「どこかしら」影から女の声が聞こえる。「もう少し先だ。ここを抜けて、もう一つ先の丘がある。そこで待っている」男の声がした。「事件の合った場所?」もう一人、違う男の声がした。「ああ」三人は歩いた。丘の影で、月明かりはあたらない。丘を登り、月明かりが三人を照らして顔が分かった。そこに立っているのは、竹中と静江と高山だった。そこから村が見渡せる。美天村だ。三人は丘を下り、更に歩いてもう一つの丘、昔事件があった丘を目指した。三人は歩き歩いて、遠くの丘が近づいてきた。その丘の麓に人の影が動いた。三人はその人物に近づくと、その人物は振り向いた。そこに、竹中国利が立っていた。「おう!」竹中直紀が国利に言った。すると国利は頷いて微笑んだ。「見てくれ、これが美天村だ」国利は振り向いて、目の前にある丘を見上げた。すると竹中、静江、高山も見上げた。
月は輝いていた。雲はない。その月は丘に光りあてた。丘は輝いて見えた。光と影が出来る。丘に月の光がいくつも映り、その光はゆらゆらと天へ上っていくようだった。
酸素を吸う音がする。ゆっくり、ゆっくりとその音は響き渡った。暗い廊下に響き渡る。その音と重なって、足音が響き渡っていた。
松永健太郎はベッドに寝ている。酸素吸入マスクをあてて、心拍モニターの波形もゆっくりと穏やかに波打っていた。誰もいなかった。呼吸音が響き渡る。
集中治療室のドアが開いた。そこに、橘愁が立っている。片手にワイングラスを持って、片手に赤ワインのボトル思っていた。愁はドアを閉め、健太郎に近づいていった。
「久しぶりだな・・・」
愁は健太郎を見ながらベッドの横に座った。
「今日は十二月十七日だ・・・お前の二十五回目の誕生日だな」
愁はずっと健太郎を見ていた。
「ワイン、持ってきたぞ」
グラスを鳴らした。横にある小さなテーブルにワインのボトルとグラスを置き、ワインの栓を抜いて二つのグラスに注いだ。
部屋は暗く、心拍モニターの青い光だけが小さくあたった。健太郎の顔、愁の顔、赤ワインが注がれたグラスにあたった。
「誕生日、おめでとう・・・」
愁は微笑んでグラスを持ち、健太郎の前に置かれたもう一つのグラスにグラスをあてて一口飲んだ。そしてまたグラスを置いた。愁はジッと健太郎を見ていた。健太郎は静かにベッドに横たわっている。酸素の吸収音が聞こえる。
「今、恋してんだ・・・」
健太郎を見、また話した。
「お前に話したかったんだ・・・」
唾を飲んだ。
「僕は、何でもお前に話す・・・楽しいことも、悲しいことも・・・だから、今日は恋の相談に来たんだ・・・」
愁は健太郎を見ている。
「前、話したよなぁ。僕、恋は二度しかしたことないんだ・・・初めて恋をしたのは、十二の時だ。倉岡美月という子で、目が青いんだ。澄んだ瞳をしていた・・・アメリカ人とのハーフなんだ・・・」
「み・・・つ・・・き・・・」掠れた声だった。雨が降っていた。小さな少女は雨に濡れていた。小さな愁は傘をさし、少女に近づいた。雨の音でよく声が聞こえなかった。「く・・・ら・・・お・・・か・・・み・・・つ・・・き・・・」少女は小さく名前を言った。それが、出会いだった。
「楽しかった。いつも一緒だった。湖にも行ったんだ・・・ずっと遊んでた・・・」
愁は健太郎を見ていた。あの時の記憶が蘇る。青い光。色とりどりの花。大きな樹木。大きな岩。二人は寄り添ってその岩に座って、目の前に広がる青い光を放った大きな湖を眺めていた。
「でも彼女・・・彼女は・・・」
とても言いにくそうだった。
「虐待されてたんだ・・・」
小さく、苦しい声で言った。
「性的虐待・・・父親に・・・倉岡直也に・・・レイプされたんだ・・・」
辛く、その思いに涙を浮かべた。
「体中に痣が・・・彼女は・・・美月は・・・自分の中に苦しさを押し込んでいた。僕は、守ろうとした。美月を守りたかった。だけど、美月の心の奥底にある苦しみを、守ることは出来なかったんだ・・・」
愁は俯き、目に溜まっている涙は、今にも流れ落ちそうだった。
「それから僕の記憶の中にずっと残った。もう恋なんか出来ないと思った。でも、また恋したんだ。永瀬美月と言う子。青い目をしている。とても綺麗なんだぁ。彼女といると安心する・・・でも彼女、結婚してるんだぁ・・・」
息が詰まる
「暴力振るわれてる・・・旦那に、暴力振るわれてるんだ。体中に痣があって・・・顔にも・・・」
愁は掌を力強く握った。視線を落とし、目から涙は流れた。
「守れなかった・・・守れなかった・・・僕は・・・」
悔やんだ。
「次・・・恋したときは守らなきゃなぁ・・・」
健太郎を見た。
「彼女を守らなきゃ・・・美月を、守らなきゃ・・・」
涙を流し、健太郎を見た。健太郎は静かに、ゆっくりと酸素を吸っていた。
「なあ、健太郎・・・」
愁は言った。
「健太郎・・・」
静かに目を瞑っている。
「僕は・・・どうしたらいい?」
健太郎を見ている。
「松永・・・」
健太郎の頬を軽く叩いた。
「松永・・・起きろよ・・・」
愁は健太郎の頬を軽く叩き続ける。目には涙を、胸を強く押さえつけられ、健太郎を見て苦く微笑んだ。酸素吸入音は響き渡った。