第二部 第三十一章
橘愁は走った。ひらひらと舞い落ちる雪を掻き分けるように懸命に走っていた。ビルとビルの狭間を通り抜け、商店街の人々の狭間も通り抜け、町のはずれにある総合病院に向かった。まだ、何があったのか把握できていない──────
総合病院の夜間入口を入り、廊下を走り、階段を上ってまた廊下を走った。暗い病院に響き渡る足音だけが聞こえる───────
高山春彦はロビーの椅子に座って、手を組んで俯いていた。廊下を駆ける足音が響き渡るのが聞こえ、高山は振り向いてゆっくり立ち上がった。「橘・・・」愁はゆっくり高山に近づいた。「健太郎は?いったい・・・何があったんです」高山は振り向き、顔で奥の方向を指した。愁はその高山を見、奥の方向を向いた。手術中の赤いランプのついた部屋がある。その赤いランプの下のドアに寄りかかって俯いているショートカットの女性がいた。「彼女は?」愁が聞いた。「しおりさんだそうだ。松永の彼女だ」愁はしおりを見た。しおりの俯いていた顔に涙は流れていた。「・・・なあ、橘。松永は公園で何者かに襲われたらしい・・・ただ、それしか分からないんだ。何故松永は公園にいたんだ?」高山は愁を見て言った。「僕が家に帰って携帯電話を見ると、健太郎から着信がありました。何度も何度も・・・きっと何かあったんだ。・・・助けを求めていたのかも知れない」愁は奥の手術中のランプを見た。「僕は・・・その日・・・たまたま携帯を家に忘れて・・・何で携帯を忘れたんだろう・・・もし・・・その時電話に出れれば・・・」俯いた。悔しい。「高山さん、すみません。一人になってもいいですか」言った。「ああ」高山は愁を見て言うと、愁は俯いて暗い廊下を静かに歩いていった。
階段を降り、夜間出入り口のドアから外へ出た。雪はひらひらと降る。目の前は広大の病院の庭となっていたが、芝、花壇、木々、ベンチ、夜間入口から繋がる歩道、全てが雪に埋まっていた。愁はその歩道を歩いた。病院の正面のエントランス前にあるロータリの真ん中に大きな樹木が立っている。愁はその樹木の周りの囲いに腰掛けた。ただ、祈った。健太郎のことを思い、手を合わせ、俯いて、<健太郎・・・健太郎・・・>何度も名前を呟いた。「愁君?」声が聞こえた。愁がゆっくりと顔を上げると、そこに倉岡直也が立っていた。「どうしたの?」直也が言った。「どうしてここに?」愁は驚き言った。「私はこの病院に入っている友人に会ってきた。愁君はどうしたの?」言い、愁の隣に座った。「僕は・・・僕は・・・」息を詰まらせた。「大切な友達が・・・襲われて・・・今・・・戦っている・・・」愁は俯き、直也は愁を見ていた。「胸が苦しくて・・・何も出来なくて・・・何を考えたら・・・」涙が出た。直也は優しく愁の肩を寄せた。「愁君、大丈夫だよ。大丈夫。きっと無事に終わる・・・」愁は俯いたままだ。直也はそんな愁を優しく肩を寄せたが、どこか顔が笑ってるようにも見えた。
駅の屋根に雪は積もっていた。その前のロータリーも商店の屋根も、雪は積もっている。その駅から遠く離れ家々も少なくなり、その周りに何もない田園が広がっていた。そこにも雪は積もっている。もちろん村役場の屋根にも雪は積もっていた。
煙が漂う管理人室。タバコをぷかぷか吸いながらそこに、竹中、ガン太、芳井、国利はポーカーゲームをしていた。唯はエプロンをつけ、台所で食器を洗っていた。静江は窓をから外を眺め、そして部屋の掛け時計の時間を気にしていた。今の時間は十一時五十五分。「後五分で出発ね・・・」静江は呟いた。四人は何一つ会話無く黙々とポーカーゲームを進めていた。唯は全ての食器を拭いて食器棚にしまい終わった。布巾をたたみ、エプロンを取ってたたんだ。静江は窓の外を静かに見ている。部屋の中から光は漏れ、その奥は暗闇となって先は見えない。そこに白い雪は静かに降っていた。「もう時間?」唯が台所から顔を出した。静江は部屋の掛け時計を見た。「そうね」言った。「よっしゃー、フルハウス!」芳井が叫び、皆カードをテーブルの上に投げた。「またヨッシーか」ガン太が言った。竹中は静かにタバコを吹かした。「もう時間?」国利が言った。「ええ、時間よ」静江は静かに言った。「どうした?元気ないな」竹中はタバコを吹かし、静江の様子に心配して言った。「何でもないわ。ただ・・・不安なの」窓から外を眺めていった。「何言ってんの」芳井が言った。「どうした?」竹中は優しい口調でまた聞いた。「何か・・・嫌な予感がするの。行ってはいけないような気がして・・・」窓の外の雪を見ていた。「お前が言い出したんじゃないか」ガン太が少し怒ったように言った。「大丈夫でしょ」国利が言うと「大丈夫、静江ちゃん」芳井が言った。「そうだよ、大丈夫」唯も言った。「そうね、行こうか」静江がそう言うと「よし!行こう」竹中が言った。「はい、ヨッシー」唯が芳井の足元に置かれていた芳井の携帯を拾い上げて渡した。「おう!」芳井が言った。「唯ちゃんも携帯持った?」静江が言った。「うん、持った」唯が言った。「じゃあ、行くわよ」静江が言うと、みんな一斉に立ち上がった。
静かなロビー。しおりは手術室のドアにもたれ掛かったままだった。高山はロビーにある長椅子に座って、ただ手術が終わるのを待っていた。
座ったまま高山はしおりを見た。もたれ掛かったまま、涙を流していた。その涙は止まることはない。高山は立ち上がり、しおりに近づいた。「しおりちゃん、ちょっと座らないか」言った。しおりは頷いて高山と二人、長椅子まで歩いて座った。暫く沈黙して高山は口を開いた。「しおりちゃんは松永と知り合って、もうどのぐらい立つの?」高山は静かに聞いた。しおりは暫く黙って間をおいて、静かに口を開いた。
「知り合ってからは三年です。でも一度飲んだぐらいで・・・大学の友達に誘われて飲みに行って、その時にけんちゃんもいて・・・それから私は遠くに就職したけど、電話でのやり取りはあって・・・ある日突然けんちゃんが私の町に来て、『付き合おう!』って・・・」
「それで?」
「私はちょっと吃驚して・・・『まだお互い分かってないから、もっとけんちゃんのこと尊敬できるようになったら』って・・・それから、二人はお互いの町を行き来するようになった」
「松永は優秀な男だ。まだ入社して一年も経ってないが、俺は見ていた。少し、不器用で、少し、一つの物に一生懸命になって周りが見えないところがあるが、必ずその物事をこなす。大丈夫だよ、しおりちゃん。今、あいつは一つの物事に一生懸命になっている。必ずその物事をこなすよ」
しおりは俯いた。そのしおりの肩に手をかけ、そっと自分に寄せた。それから暫く二人は黙っていると、廊下に響き渡る足音がして、高山は顔を上げた。
「遅れて・・・ごめんなさい」
美月だった。
「美月・・・ちゃん?」
高山は言った。
「健太郎君は・・・」
美月は少し息切れしていたようだ。
「まだ・・・」
高山は手術中のランプを見た。そして、美月もランプを見た。そして、美月は高山の隣に座った。三人は暫く沈黙した。暗いロビー、明かりはほとんどない。非常口表示のランプと手術中の赤いランプが眩しく感じた。ただ三人は待って、頑なに健太郎の無事を祈った。そして、手術中の赤いランプは消え、三人は手術室を見た。
橘愁と倉岡直也はエントランス前の樹木の囲いに座っていた。ザクッザクッザクッ音がして、愁は顔を上げるとそこに高山と美月が立っていた。愁は高山を見てゆっくり立ち上がった。直也は座ったままジッと高山を見て、その横にいる美月を見た。
美月は膝が笑い、目が強張り直也を見ていた。直也は美月を見ていた。美月には全身に染み込むほどの震えが起こった。高山は愁を見て口をゆっくり開けて何か話そうとした。愁は高山を見て、ゆっくりと目線を美月に移すと、美月は全身の震えが止まらない。脅えていた。愁はその美月に驚き、直ぐさま隣にいる直也を見た。直也は美月を見ていた。美月は直也の目線から逃れられない。「美月・・・」愁は言った。すると直也はゆっくり立ち上がった。「愁君、私はここにいるべきではなかった」悲しげな目で愁を見ていった。「そちらは?」高山はこの状況を飲み込めずに、ゆっくりとした口調で愁に聞いた。「倉岡直也・・・です」高山の眉が少し動き、美月を見た。美月は直也の目線から逃れられない。「私は帰るとしよう。・・・すまん」直也はそう言い、振り向いて歩き出してまた立ち止まった。「一つだけ・・・聞いていいですか?」高山はその言葉に、直也を見ていた。「その・・・友達は、どうでしたか?」振り向いて高山に言うと、高山は言葉を飲み込むように答えた。「命に別状はないが、ただ・・・意識は戻らない」高山は俯き「そうですか・・・」また直也は振り向き、静かにその場を去って歩いていった。その時愁は膝が落ち、無気力に目は見開いてそのショックは隠しきれない。高山は苦しく、目には涙を浮かべて愁に何か言葉をかけたかったが、その言葉さえ出てこなかった。美月は震えながら苦しみ、涙を流して静かに静かに、ゆっくりと愁に近づいてしゃがみ、自分の体に抱き寄せた。
暗い廊下。補助ランプ、非常口表示ランプが緑色に光る。そのフロアーの奥に、集中治療室はあった。酸素を吸う呼吸音が聞こえた。
薄暗い部屋に、酸素吸入マスクをつけて松永健太郎はベッドに寝ていた。心拍モニターの波形はゆっくりと流れている。その横にしおりはいた。静かに健太郎を見て、目に涙を浮かべていた。
「まだ?」静江は言った。「もうちょい」芳井は鍵穴に針金をさして玄関の鍵を開けようとしていた。雪はひらひらと降っている。誰一人と傘はさしてなく、芳井を取り囲むように鍵穴に目線を集中していた。唯は木綿のシャツにTシャツ。トレーナー、カーディガン、ダウンジャンパー。パンツを二枚重ね、木綿のパンツ、ジーンズ、カッパのズボンをはいていた。靴下は二枚重ね。長靴に毛糸の手袋と防水加工の手袋の二枚重ね。マフラーをして寒さを凌げる服をしていた。カチャその音と共にドアノブを少し回すと、扉は開いた。芳井はみんなの顔を見た。みんな芳井の顔を見て笑顔になり、頷いて芳井の肩を叩き「中に入るか」竹中の一言に頷いて扉を開けて、中に入っていった。静江は振り向き「唯ちゃんは寒いけど、ここで誰か来ないか見張っていて!何かあったらヨッシーに連絡よ」静江がそう言うと唯は頷き、静江も中に入った。扉は閉まり、唯は玄関の前に立って周りを見渡した。
ザクッザクッザクッ───────
静江、ガン太、竹中、国利、芳井は家の中に入った。暗く、物の影は見えた。芳井は玄関横にあったスイッチをつけ、家の明かりがついた。その行動に竹中は慌ててスイッチを切り、家の明かりも消えた。「バカ!明るくしてどうするんだ」竹中が言った。「ふ〜吃驚したわ」静江も言った。「だって明るくしないと何も見えないじゃない」芳井は平然と言った。すると皆それぞれのポケットから懐中電灯を出してスイッチを押した。四つの光の線が家の所々を照らした。「あれ?みんないつの間に」芳井だけが懐中電灯を持っていなく、不思議をそうに言った。「この村には街灯がないんだぞ。そのぐらい持ち歩いてるの常識だろ」ガン太は芳井の肩を叩いていった。「俺、夜行性だから」芳井が言った。「アホ!」皆が同時に言った。「じゃあみんな始めるわよ。今私たちがいるこの廊下の右が居間、その奥が台所よ。そしてこの廊下を奥まで行くと階段がある。二階に行くと三つ部屋があるわ。じゃあ一階はたけちゃんとヨッシー宜しくね」静江が言った。「分かった」竹中が言った。「任しといて!」芳井が言った。「じゃあ、私たちは二階に行きましょ」静江がそう言うとガン太と国利は頷き、三人は廊下を歩き、階段を上がって二階に行った。
ザクッザクッザクッ───────
酸素を吸う吸収音が聞こえる。松永健太郎は静かにベッドに寝ていた。その横にしおりはいた。部屋のドアが開き、しおりはドアを見た。そこに、高山は立っている。
「静かだ。呼吸音がやたら響いて聞こえる」
しおりは高山を見ていた。高山はしおりの隣に座った。
「こういうときにはどう声をかける?・・・ハハハ・・・分からない・・・情けないなぁ・・・声のひとつもかけられないんだ・・・」
しおりは健太郎を見た。
「先程いた人・・・」
「ん?美月ちゃんか?」
「いえ・・・」
しおりは高山を見た。
「橘か?」
「橘・・・」
「ああ、橘愁だ」
「あの人が・・・愁君」
しおりは健太郎を見た。酸素マスクをつけて、静かに寝ている。高山はしおりを見ていた。
「橘がどうした」
「いつもけんちゃんが話していました」
「橘の話を?」
「ええ、楽しそうに・・・」
「そうか・・・」
「愁君のことが好きだったんですね。・・・私は、けんちゃんのことが好きなのか、分かりませんでした。少し、けんちゃんを敬遠していたのかも知れません。お互いの町を行き来して、互いに理解しようとした。けんちゃんは一生懸命私に、自分自身のことを話してくれました。愁君のことも、美月さんのことも、高山さんのことも、今日何をやって何を思ったか・・・この町のことも・・・神霧村に行ったことも・・・なのに・・・私は何も話さなかった。いつも笑ってけんちゃんの話を聞いてました」
しおりは健太郎を見ていた。その話を高山は静かに聞いていた。
「・・・悲しいですね。今になって好きだったんだと分かりました。胸が苦しくて・・・けんちゃんを思うと言葉詰まって・・・どうしたらいいか分からなくなるんです。・・・もっと・・・自分のことを話しとけば良かった」
しおりは健太郎を見ながら俯き、涙を流した。
「松永はいつもしおりちゃんのことを思っていた。しおりちゃんが好きだったんだ。好きで好きでたまらなかった」
しおりは高山を見た。高山は少しおいて、また話した。
「・・・しおりちゃんは、いつまでこっちにいれるの?」
「明日帰る予定でした。でも、イブまでいれることになりました」
「よかった。松永が寂しがらなくてすむ。ずっと・・・松永の側にいてくれ」
「はい」
しおりは答え、健太郎を見た。
雪はひらひらと降っていた。暗闇の中、白い雪だけが見える。唯は倉岡直也の家の玄関に体を丸くして座っていた。
一つの光の線が部屋中を回った。少し、物の影が見える。「ソファの下、棚や棚の後ろ、いろいろと見ろよ!」竹中は四つん這いになって懐中電灯をあてながら見ていた。少し離れた同じ格好をしている芳井に言った。「分かってるっけど、暗くて何も・・・ねえたけちゃん、懐中電灯かしてよ」芳井が辺りを探りながら言った。「やだよ!自分が忘れたんじゃないか」竹中は立ち上がり、棚の引き出しを開け始めた。「ケチ!」芳井は言った。
「いい、まずは寝室よ」静江が言った。三つの光の線が動く。暗闇の中、静江、ガン太、国利は階段を上りきり、階段から一番近い部屋、寝室に入っていった。部屋にはいると、ダブルベッドが真ん中にあり、小物が入る小さな棚、そしてクローゼットがある。三人は部屋にはいると静江はベッドの周り、ガン太は棚、国利はクローゼットの中を調べ始めた。
ザクッザクッザクッ───────
雪を踏みつける音が聞こえる。
芳井は床に溜まった埃を指で掬い取り、吹いた。すると埃は宙を舞い、自分の鼻に入り、大きく嚔をした。「どうした?」その嚔に吃驚して竹中は聞いた。「いえ・・・何でもありません」ちょっと、畏まったように答えた。
「何か見つかった?」静江が言った。「いや、何もないね」ガン太が棚の一番下の引き出しにライトをあて、確認して締めた。「こっちもない」国利は部屋の端に積まれているボックスを開けて見ていて、そのボックスにも何も入っていなかった。「ここにはないわ。隣の部屋に行きましょ」静江が言うと三人は懐中電灯をドアにあて、部屋を出た。
ザクッザックザクッ───────
雪を踏みつける足がある。その横に、杖をついていた。樹木の狭間をゆっくりと歩いた。
雪はひらひらと降り続いた。暗闇に降り続ける白い雪だけが見える。唯は玄関の前に体を丸めて座っていた。「寒い・・・寒い・・・」手を擦り、声も震えていた。「どうして僕だけなんだ。いつもこういうのは僕なんだ。僕は村長だぞ。決定権だってあるんだ。嫌なもんだけ押しつけて・・・」唯は周りを見た。だが、暗闇に浮かぶ降り続ける雪しか見えなかった。「あらためてみると怖いな〜何も見えない。突然なんかが襲ってきたらどうしよう・・・」思い出した。「そうだ!MDウォークマン持ってきたんだ。音楽聞けば気も紛れるだろう」ダウンジャンパーのポケットを探った。「あった!」唯はニヤッと笑い、ポケットからMDウォークマンを取り出した。ヘッドホンをつけ、再生ボタンを押した。するとロック調の音楽が鳴り始め、唯は音楽に乗って体を少し動かした。
「ヨッシー、何かあったか?」竹中は辺りを探り言った。「無いよ、何も」芳井はあまりやる気がなく、棚の上に溜まった埃を救いながら適当に答えた。「お前、やる気あんの?」竹中は立ち上がって聞いた。「でもさ〜、何もないかも知れないんでしょ。警察だって調べたんだよ。何も見つからないよ。・・・寒いし、体の心まで冷えてきたよ。もう帰ろうよ」芳井は棚に手をかけて言った。「ダメだよ。静江ちゃんもみんなも一生懸命なんだ。何もなくたっていいじゃないか。あの事件の事が少しでもみんなの心から消えていくなら・・・」竹中が言った。芳井は少し俯いた。「居間はない!ヨッシー台所に行くぞ」竹中はまた言い、芳井は頷いた。二人は居間を出た。歩きながら芳井は思った。<唯はどうしてんだろう。サボってないか?>ポケットから携帯電話を取り出してダイヤルした。
着信メロディが聞こえた。だが、唯は音楽に体をのせ、その着信メロディに気づかなかった。唯は音楽にのりながら上を見上げると、三つの光の線がそれぞれの方向に窓から漏れていた。<やってる。やってる>思った。
「あいつ何やってんだ?」芳井は呟いた。「たけちゃん、唯が電話に出ない」竹中はすでに台所の食器棚を調べ始めていた。「電話に出損ねたんだろう。あいつは大丈夫だよ。しっかりしてんだから。ほら、ヨッシー調べるぞ」竹中は言い、芳井は頷いて辺りを探り歩いた。
三つの光は天井にあてられた。すると天窓から三つの光の線が外に漏れて降り続く雪にあたった。「ここが美月ちゃんの部屋よ」静江は言った。殺風景な部屋。タンスだけが壁に張り付いて置かれている。「この部屋で美月ちゃんは直也の暴力から逃れていたらしいわ。いつも部屋の隅に座り込んで鼻歌を歌ってたのよ」静江はその時の情景を思い浮かべた。窓と、天窓から夕日が射し込んでくる。その光さえ当たらない部屋の片隅に、幼い美月は震え縮こまって座っていた。悲しい音色の鼻歌が、美月から聞こえた。「・・・まだあの時の後遺症が、美月ちゃんにはあるのよ。あの時の恐怖は、決して消えない。私たちが何とかしなきゃいけないわ」静江がそう言うと、三人は部屋の隅々まで懐中電灯の光をあてて部屋を探し始めた。
ザクッザクッザクッ───────
その足音は確実に近づいていた。
チャランその音でドアが開き、三段の階段を降りて店内に入り、しおりは店の端の窓側の席に座った。客はいない。するとカウンターの奥から髭を生やした円熟味ある初老の男が出てきた。この店のマスターだ。マスターはしおりの前に立ってテーブルに水とおしぼりを置いた。しおりは俯いていたが、マスターが来て顔を上げて小さな声で言った。「コーヒーください。粗挽きで・・・」言うと、マスターは歩いてカウンターに向かった。途中、一度振り向いてしおりを見た。しおりは俯き悲しそうにしている。そのしおりを見てまた振り向いて、カウンターに戻った。
暫くして、マスターは銀のお盆にコーヒーを乗せて、しおりの前に来てテーブルに置いた。しおりは俯きながらお辞儀した。そのしおりをマスターは見て、小さく低い声で話し始めた。「お嬢さん、悲しい顔してどうしたんだい?」すると、しおりはゆっくりと顔を上げて、マスターの顔を見た。「いえ・・・何でもありません」また俯いた。「この店の名前を知ってるかい?」マスターはゆっくり話し始めた。しおりはまた顔を上げてマスターを見た。この店の名前は知っていたが、答えずにマスターを見続けた。「・・・この店の名前はね、紅涙と言うんだよ。女性の涙だ」しおりはマスターの話を聞き続けた。「・・・昔、私がこの店を開いたとき、まだ店に名前はなかったんだ。名無しの店として開店した。丁度今頃の季節で・・・雪は降り続いてたんだ。私が店を片づけて閉めようとしたとき、ドアの外に髪の長いアメリカ人の女性が、寒さに震えて立っていたんだ。青い目をしていた。私は言葉が通じるか分からないその女性に、声をかけたんだよ。『お嬢さん、どうしたんだい』って。悲しい目をしていた。ずっと、私を見ていたんだ。『そこは寒いですよ。さ、中に入って暖まった方がいい』そう言うと、その女性は私をジッと見て、静かにお辞儀して店の中に入った。『席はいっぱいある。どこでも好きなところに座るといい』私が言うと、その女性は一番奥の、窓側の席に座ったんだ。そう、お嬢さんが今座ってる席だ。その女性はずっと、座って低い窓から外を眺めていた。『すぐ・・・熱いコーヒー持ってきますから・・・それで暖まるといい』私は言って、カウンターに戻った」しおりはマスターの話を黙って聞いていた。「暫くして・・・私がお盆にコーヒーを乗せ、カウンターから出て女性を見ると、窓から外を眺めて・・・目からは涙が流れていた。その涙で・・・青い目は輝いていたんだ。私は近づこうかどうか迷ったけど、ゆっくり歩いてコーヒーを運んだ。『お嬢さん・・・どうしたんだい?』私は静かに聞いた。するとその女性は・・・静かに涙を拭って・・・私を見た。『この町は・・・いつまで雪が降るんですか?』透き通った声だ。日本語で、話しかけてきた。『ずっとです』私は言った。『ずっと?』女性は私を見て言った。『ええ、この町は・・・冬の間、雪は止むことはありません。でも・・・決して多く積もらないんです……不思議です』言った。女性はずっと私を見ていた。『お嬢さんは・・・どこから来たんですか?』訪ねた。『美天村です』女性は静かに答えた。『美天村?』名前は知っていたが、どこにあるのか、どんなところなのか知らなかった。『丘が、波打つ村です・・・この町ほど、雪は降りません・・・すごく、素敵な村です』私はちょっと微笑みました」しおりは、マスターの話を静かに聞いていた。マスターの語り口調は不思議に安心する。優しい声で話していた。「そのアメリカ人の女性もちょっと笑ったように、私は見えました。きっと安心したんでしょう。すると、突然その笑顔も消えて、私を見て目に涙を溜めたんです。『娘が・・・夫に暴力を振るわれてるんです』女性は小さな声で言いました。『どうしてだい?』私は、ゆっくりと女性に良く聞こえるように言いました。『私がいけないんです。私が・・・夫を裏切ったから・・・娘まで苦しい思いを・・・』女性は俯いて、目から涙を流しました。私はその女性を暫く見続けて、静かに口を開きました。『お嬢さん・・・お嬢さんは、名前、何て言うんだい?』するとその女性は顔を上げて私を見て、小さな声で答えました。『倉岡・・・倉岡・・・シャリーです』私はその女性、シャリーさんの目を見て静かに言いました。『いい名ですね・・・』するとシャリーさんは、私を見てたくさんの涙を流しました」マスターは静かにしおりに話していた。その最後の言葉が終わると暫く黙った。
そして、しおりを見てまた話した。「きっと、シャリーさんは名前を聞かれて、安心したんでしょう。それからシャリーさんは毎晩閉店間際に、来るようになりました。私は・・・シャリーさんを癒したくて・・・この店に『紅涙』と名付けました」しおりはマスターを見ていた。「・・・でも、シャリーさんはある日突然来なくなりました。・・・噂によると、シャリーさんは土砂崩れに遭い、生き埋めになったとか・・・」マスターはしおりを見ていたが、そこから外に目を向けた。「この店は、夜遅くに来る悲しい女性を癒す為にある店なんです。・・・お嬢さん、外を見てご覧なさい」しおりは低い店内から窓の外を見た。するとそこには雪を踏みつけながら行き交う人々の足元が見えた。「涙さえ流せずに毎日過ごす人もいる。・・・悲しいです。涙は人間にとって最大の感情なんです。・・・お嬢さん、たくさん泣いた方がいい。自分の気持ちが落ち着くまで泣きなさい」しおりは目に涙を浮かべ、俯いた。「もう店は閉めました。コーヒーを飲んで、落ち着くといい」マスターが言い、暫く沈黙したが、またマスターは口を開いた。「お嬢さん・・・お嬢さんは、名前なんていうんだい?」その言葉にしおりはマスターを見た。「しおりと・・・いいます」するとマスターは少し笑って「いい名だ・・・」しおりを見た。しおりは目に浮かんでいた涙が、たくさん流れ落ちた。そしてしおりはコーヒーを一口飲んで「おいしい・・・」涙を流して微笑んだ。
「この部屋もないわ。後一つ、直也の部屋よ」静江が言った。「でもさ、直也の部屋は何もないんだろ」国利が言った。「たぶんよ。警察はあの部屋に何も残してないと思うわ。でも見落としてるかも知れない」静江が言った。「ウ〜冷えるな〜ションベンしたくなってきた」ガン太が呟いた。「何か言った?」国利が聞いた。「いや、何も・・・」ガン太が答えた。「直也の部屋よ」静江が言い、三人は立ち上がった。
暗い台所を一つの光が彷徨った。「何か見つかったか?」竹中は食器棚の引き出しを開けながら言った。「何も・・・っていうか、何も見えないもん」芳井は言いながら冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中から光が漏れ、芳井の顔にあたった。「そんなとこ何もないだろ」竹中が言うと「だって冷蔵庫の中しか何があるか分からないし・・・」芳井が言うと、竹中はため息をついてまた探し始めた。
「この部屋で最後よ」静江が言った。直也の部屋を三つの光が交差した。その部屋は何もない。クローゼットだけがあった。「何もないけど・・・一応調べるわ」静江が言うと、三人は部屋の中に入った。部屋に一歩踏み込むとガン太は身震いした。「ションベンがしたくなってきた」股間を押さえた。「えっ?」国利がガン太を見た。「ちょっと・・・ションベン」ガン太が言うと「仕様がないわね、ここは二人で大丈夫だから行ってきな!階段の横にトイレはあるわ」静江がそう言うと、ガン太は股間を押さえながら部屋を出た。部屋を出、暗い廊下を股間押さえながら走り、階段横にあるトイレに突進した。
トイレのドアを開け、チャックを降ろして「フ〜」気持ちいい表情をした。
雪は降り続く。耳にヘッドホンをあて、唯は音楽にのっていた。
ザクッザクッザクッ───────
その足は近づいていた。
ガン太はチャックを上げ、タンクについているレバーを回すと、水は勢いよく便器の中を回り回って大きな音と共に流れ出た。ガン太はドアを開け、トイレを出ようとした。だが、便器の中を流れる水は、一瞬大きな音と共に勢いよく流れたかと思うと、すぐにその流れは止まった。ガン太はドアノブに手をかけたときに、それに気づいた。振り向いて便器を見ると水は流れていない。レバーを回した。だが、レバーには重みが無く、何度回しても水は流れ出ない。ガン太は首を傾げ、便器と繋がっているタンクを開けようとした。
「何かあったか?」竹中が辺りに光をあてながら探していた。「え?ないよ〜」芳井はやる気がなさそうに、だらけた声で冷蔵庫横にあるポリバケツの蓋を開けながら言った。「おまえ、やる気アンのか!」竹中はその芳井の態度に苛立ち、立ち上がって芳井を見て言った。「大体そんなゴミ箱の中なんて何もないだろ!」そう言うと、またしゃがんで辺りを探し始めた。芳井はゴミ箱の中を見「そうだよね、吸い殻しかないもん」言った。その言葉に竹中の動きは止まり「吸い殻?」言って立ち上がり、芳井に歩み寄ろうとしていた。
ザクッザクッザクッ───────
雪はひらひらと舞う。つもり積もった雪で、辺りはほんのりと明るく見えた。雪を踏みつける足がある。
遠く、暗く、家の影が見えた。その人物は杖をつき、近づいていった。
その姿にまだ、浅倉唯は気づいていない。
直也が使っていた部屋には何もなかった。国利がクローゼットを開けると、そこには三着のスーツが掛けられてる。「スーツが三着・・・」国利が言うと、静江は近づいた。「何故これだけ残ってるのかしら」
ガン太は便器に繋がってるタンクを開けた。暗く、カビ臭い匂いがする。中を覗くとタンクの中の水は半分に減っていたが、それ以上は流れてなかった。暗い、タンクの中を更に見ると、奥に、注ぎ口を塞いでる物がある。注ぎ口の蓋ではない。暗く、濁った水でその物はよく見えなかったが、小さなノートが注ぎ口を塞いでいた。その横に丸まった紙が三つ、水に浸かっている。ガン太は腕を捲り、タンクの濁った水の中に手を入れてその物を取ろうとした。
竹中は懐中電灯の光を芳井にあてながら近づいた。そして、近づくと懐中電灯の光を、目の前にあるポリバケツの中にあてた。ポリバケツの奥に、数本のタバコの吸い殻があった。竹中は、芳井の顔を見ながらポリバケツの中に手を入れて、吸い殻を一本取り出した。その吸い殻を摘み触り、そしてまたポリバケツの中に戻し、また違う吸い殻を取り出して摘み触って芳井を見た。芳井は首を傾げた。竹中が何をやってるのか理解できなかった。竹中は芳井を見て、低い声で静かに言った。「やばいぞ・・・」
雪はひらひらと舞い降りている。浅倉唯はヘッドホンを耳に当て、音楽にのっていた。
ザクッザクッザクッ───────
辺りを埋め尽くす雪に、人影が写る。雪はなだらかに降り続ける。遠くぼやけて見える家の影に近づいていた。
唯は音楽にのりながら、一瞬遠くに目をやったが何も気づかない。また、暫く音楽にのり、また音楽にのりながら遠くを見た。雪はなだらかに降り続ける。暗く、何もなく思った。何もなく思ったが、斑と音楽にのりながら辺りを見渡した。唯の目が留まった。雪がひらひらと降り続ける。辺りは暗く、何も無く思えたが、唯の目には何かぼんやりとした影が写ったように思った。音楽にのるのを止め、その物をよく見た。何やらぼやけた物、何かぼやけて人影が近づいてきていた。唯は目を見開き、口を開け、体中震えがとばしった。
「本当にいいの?」美月は言った。「ああ、今会っても何て声をかけたらいいか分からない」愁が言った。二人は橘愁の部屋にいた。電気をつけ、二人は寄り添って話していた。「でも健太郎君、寂しがってるよ。愁に会いたがってるよ」
美月が言った。
「顔、見れないよ。まだ、理解できないんだ」
美月は愁を見た。二人は暫く沈黙して
「・・・今日はゴメン。お父さんのこと・・・」
美月はゆっくり首を横に振った。
「偶然なんだ。偶然あの病院にいた。美月に辛い思いさせた」
「ううん、いいの」
美月は言った。
「実は・・・定期的にお父さんが僕の前に現れて・・・僕と話していた」
美月は少し驚いた。
「美月に償いたくて現れた。もう・・・あの時のお父さんじゃない。更生されて・・・今は美月を思っている。それだけ、信じて欲しい・・・」
美月は自分自身の勇気を胸の中に押し込んだ。自分自身の更生を望み、このままではいけないことは分かっている。
その時、『ピンポ〜ン』家のチャイムが鳴った。二人は玄関のドアを見た。愁は部屋にある置き時計を見ると、時計の針は一時。
「美月、壁の影に隠れて。そこなら玄関から見えない。こんな時間に人が来るなんておかしい」
美月は玄関から見えない、壁の影に隠れて玄関に向かおうとする愁に言った。
「私・・・会うわ」
愁は振り向いて美月を見た。
「パパに・・・会うわ」
『ピンポ〜ン』またチャイムは鳴った。美月は愁の目を見て言い、愁は美月を見て少し頷いたようだった。『ピンポ〜ン』またチャイムはなった。愁は玄関を見て
「隠れて」
小声で美月に言うと玄関に向かった。美月は壁により掛かり、玄関から見えない位置に隠れた。
愁は玄関のドアノブを握り、ゆっくりとドアを開けるとそこに、永瀬敬生が立っていた。
「ヨッシーに電話しなきゃ」唯は震えながら言った。震える手を一生懸命押さえつけ、ポケットに手を入れて、その中に入っている携帯電話を取り出した。雪はひらひらと降る。唯は先に見える人影を気にしながら携帯電話のボタンを急いで押したが、震えた手と手袋の厚さで二つのボタンを押したり、番号を間違えたり上手く押せない。
更に人影は近づいていた。唯は懸命にボタンを押そうとした。そして、右手の手袋を取ろうとしたが慌て震えた手でなかなか取れない。唯は遠く、人影を確認した。先程よりハッキリ見える。<ダメだ・・・>唯は思い、その場から去り、家の横の壁の影へと隠れた。
影は近づいてくる。唯は口で手袋を取った。そしてもう一枚手袋は現れる。体中の震えは止まることはない。二枚重ねになっていた手袋のもう一枚も口に銜えて手から取った。そして震えた手で慌てて携帯電話のボタンを押そうとした時、手を滑らせて落としてしまった。携帯電話は家の影から外れ出て雪に埋まった。唯は慌てふためいて一歩出て取ろうとし、人影を確認して顔を上げてみるとその人影の姿がハッキリと見えた。杖をつき、確実に近づいていた。
倉岡直也だ───────
唯は直ぐさま体を引き込め、壁にへばりつき、体の震えが激しくなった。「ダメだダメだダメだ」呟き、手を合わせて祈った。
「何かしら」静江は言った。静江、国利、ガン太は直也の部屋で囲み、目の前には濡れた小さなノートと丸まった紙が三つ置かれている。「開けるわよ」静江が言うと、国利とガン太は息を飲んで頷いた。静江は二人の顔を見て、ノートを開こうとした。かなり古いノートようだ。静江はノートを開け始め、国利、ガン太も注目した。
それは、直也が残したメモのようだ。あの時のことが鮮明に書かれていた。
十二月二十日
今日は雪だ。美天村も寒い。凍えるような寒さだ。
シャリーが最近おかしい。何か俺に隠してるようだ。
十二月二十四日
クリスマスイブだ。美月が可愛い。プレゼントを買った。
熊の縫いぐるみだ。喜ぶだろうか。美月が寝付くのが
楽しみだ。
シャリーを調べた。どうやら彼奴が関わりあるようだ。
明日、会うようにしよう。
静江はまた違うページを見た。
一月七日
列車を通す話に縺れがある。昔の友、神霧村から
やってきた奴と美天村の住人が対立している。
俺は奴の肩を持つようにしよう。そうすれば
シャリーが分かるはずだ。
一月十六日
最近美月がシャリーの肩を持つようになった。
何故だ!
さらに静江はページを開いた。
五月四日
俺は何て運がいいんだ。今夜大雨が降る。奴を落とし
込むチャンスだ。
五月五日
終わった・・・
三人はメモを見続け、静江は更にページを捲った。
九月十五日
可愛い美月。愛してる。今日は満月だ。美しい。
まるでお前のようだ。誰にも渡さない。誰にも・・・
九月十六日
奴が邪魔だ。あの少年、橘愁だ。父親と同じだ。
だが、俺も時間の問題だ。だから仲間をつくった。
いつか・・・復讐してやる
三人は瞬きをする暇もなくノートを見ていた。その時廊下から足音が聞こえ、止まった。三人は咄嗟に部屋の入口を見ると、そこに竹中と芳井が立っていた。二人は三人を見、三人は二人を見てまるで睨み合うかのようだ。そして竹中は静かに口を開いた。「やばいぞ。ここには奴がまだ住んでる」三人は竹中を見た。すると竹中は指に摘んだタバコの吸い殻を見せた。「まだ新しい」竹中と芳井は三人に近づいて言った。
唯は体中の震えを一生懸命抑えようとした。だが、おさまるどころか激しさが増すばかりだ。恐る恐る壁の影から覗いた。すると、もう目の前まで倉岡直也は来ていた。唯は咄嗟に体を引き込め、壁に張り付き、唯の息は緊張と興奮で激しく吐き出した。
愁がドアを開けると、そこに永瀬敬生がいた。
「あ、あの〜夜分遅くすみません。わたくし永瀬美月の夫、永瀬敬生と申します」
敬生は心配そうな顔で言った。
「すみません。あの〜橘愁さんでいらっしゃいますか?」
愁は暫く敬生を見て素っ気ない返事をした。
「はい・・・」
敬生は少し笑顔になった。
「いつも美月からお話は聞いております。お会いできて良かった。美月がいつもお世話になっております。あの〜」
敬生は愁の後ろの部屋の中を舐め回すように見た。
「美月はこちらにはいらっしゃいませんか?」
言った。
「いえ・・・」
愁は敬生を見ていった。
「ああ、そうですか。いえ、美月の帰りが遅いもんで、もしかしたらこちらにお邪魔してるんじゃないかと思いまして」
「いえ、来てませんね」
愁が言うと、敬生は愁にも分からないほどの一瞬の鋭い目つきをした。二人の会話を美月は壁の影から静かに聞いていた。
「そうですか。夜分遅くにどうもすみません。もしかして、私がこうしてる間に家に戻ってるかも知れないですね。こんな夜中に人の家を訪ねるなんて非常識ですよね。本当に申し訳ありませんでした。これからも美月を宜しくお願いします。・・・では、私はこれで失礼します」
そう言うと敬生はお辞儀をして、愁は会釈してドアを閉めた。鍵を閉め、チェーンキーを閉めた。
「行ったよ」
愁が言うと、壁の影から美月が顔を出した。
「美月の旦那・・・」
美月は愁を見ていた。
「今日は泊まっていきなよ。帰らない方がいい・・・」
愁は美月を見て笑った。美月は愁を見て立ち上がった。
「・・・帰るわ」
愁は驚いた顔で美月を見た。
「私は、ここにいてはいけない」
そう言うと、玄関へ歩き出した。
「美月・・・」
愁は腕を掴んで美月を止めた。美月は振り向いた。
「行かない方がいい」
愁は美月を見て、真剣な顔をした。
「私は・・・あの人に愁の話をしたことがない」
美月は愁の目を見、愁は思わず美月の腕を放してしまった。すると美月は玄関に歩いていった。
「美月・・・」
美月は玄関を出ていった。愁はただ突っ立って、美月を見ているだけ。美月を止めることが出来なかった。それが、愁は悔しかった───────
美月は階段を降り、アパートを出た。
「ほぉ〜いい子だ」
美月が横を向くと、敬生がアパートの入口の壁により掛かっていた。
「お前は帰るところを知っている」
美月は黙って敬生を見ていた。すると敬生は美月に近づいて肩に腕を組んだ。
「それでこそ俺の妻だ。奴に罪はない。お前の行動次第で、奴の運命が変わるんだ」
美月は敬生を見続けた。
「分かってるな」
敬生は美月の耳元で囁き、そして二人は雪の中ゆっくりと歩いていった。
直也は玄関の前に立った。そしてポケットを探り、鍵を取り出して鍵穴に鍵をさした。直也は斑と足元を見た。足跡がある。少し不振に思いドアノブを握り、鍵を回さずに少しドアノブを回した。するとドアは開いた。そして、少し笑った。
「こんなのが見つかったわ」静江はノートを手にとって、竹中と芳井に言った。竹中は静江からノートを受け取った。そしてノートを捲り「これは?」竹中は静江を見て言った。
その時バタンドアが閉まる音がした。五人はその音に緊迫した表情で部屋の入口に目を向け、竹中はその入口に向けた目から振り向いて静江を見た。「帰ってきたわ」静江は竹中を見て言った。「ヨッシー、唯ちゃんから電話は?」静江が言うと「あ!」芳井は思いだしたようにポケットを探り、電話を取り出して表示画面を見た。「い、いや、来てない」緊張して、声はどもり、手は震えていた。そして静江は部屋の入口を見て、立ち上がり部屋を出ていった。その静江に続いて竹中、ガン太、国利も立ち上がって部屋を出た。芳井は皆の行動を見、取り残された自分に慌てて立ち上がり皆の後に継いで部屋を出た。五人は階段上から下の様子を窺った。
直也は居間に入り、電気のスイッチを押した。
雪が降る中、唯は家の壁に張り付いていた。そぉっと壁の影から顔を出して直也が家の中に入ったことを確認すると、目の前に落ちている携帯電話に目をやり、一歩前に出て雪に埋まっている携帯電話を拾おうとした時、家の居間の電気はつき、その明かりが窓から漏れて唯の体に少しあたった。唯は颯爽と携帯電話を拾い、また壁の影に隠れてダイヤルし始めた。
静江、竹中、ガン太、国利、芳井の五人は階段上から下の様子を窺っていた。五人は音を立てずに一階にいる倉岡直也の行動を感じ取ろうとした。その時、芳井のポケットから着信メロディが鳴った。皆、吃驚し、慌てて一階の直也を気にしながら芳井を直也の部屋まで連れて行った。芳井も慌て、皆に連れて行かれながらポケットを探って携帯電話を取り出してすぐに受話ボタンを押した。「ヨッシー?」息切れした声が電話の向こうから聞こえた。唯だった。静江と竹中はまた部屋を出て、直也が電話の音に気づいていないか確認しに階段上から下を覗きに行った。
直也は居間でジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めていた。
ガン太と国利は芳井の側にいた。「何!何!」芳井は小声で言った。「直也が帰ってきた」唯は言った。「分かってるよ!こっちは大変なんだ。後でまた電話する!」切った。静江が部屋に戻ってきた。「気がついてないわ」言った。「バイブレータにしとけ」竹中が言い、芳井は携帯電話をバイブレータにした。「みんな座って」静江が言い、皆輪になって座った。「いい、これからが問題よ。私たち、どうこの家から逃げるかよ」静江は皆の目を見てそれぞれの考えを求めた。「出口は一つ。玄関ね。そこに辿り着くには廊下を歩いて、居間の入口を横切らなければならない。直也がいるのは居間よ。入口に背を向けてればいいけど、そうでなければすぐにバレルわ。ただ、まだ居間に居続ければいいけど、二階に上がってきたりしたら私たち・・・逃げ場がないわ」みんなの目を見て深刻に迫った。「ねえ、窓からは?」国利が言った。「窓?」静江が言い、竹中もガン太も芳井も国利を見た。「ほら、それぞれの部屋に窓あるでしょ。窓を開けると屋根になっていて、そこに乗って、そこから繋がってる雨樋を通って下に降りればいいじゃない?丁度美月ちゃんの部屋から雨樋は近いしそこから辿れば」国利が言うと竹中がすぐに答えた。「危険だな」みんな一斉に竹中を見た。「屋根に乗ればその振動が下まで伝わる。しかも、屋根は雪で埋まり危ない。雨樋も凍り付いて危険だろう。建物も古い。五人が順番に雨樋を通っても、果たして折れずに持つだろうか・・・」言い、またみんなは俯いて考え始めた。「じゃあ、どうしたらいいの?」芳井が言った。皆、その言葉に黙って考え、ガン太が低い声で独り言のように言った。「賭けるしかないか」皆顔を上げてガン太を見た。「賭ける?」竹中は聞いた。「ああ、玄関から一人ずつ音を立てずに出ていくんだ」
ミシッミシッミシッ─────── 静かに音がする。
静江は考えていた。「まだ何かアイディアない?」みんなを見た。竹中の目が合い、竹中は静江の顔を見ると、しっくりこない顔で首を横に振った。「そう、やっぱり危険な賭けに出るしかないのかしら」静江は静かに言った。「ねえ、もっと考えよ。何かあるよ。そうだ!唯を使おう」みんな芳井に注目した。「あいつに導いて貰えばいいんだよ」
ミシッミシッミシッ───────床をゆっくりと踏みつける音がした。
「そうか、そうだよ。彼奴に電話しよう」芳井は自分に納得してまた言い、ポケットから携帯電話を取り出してボタンを押してかけようとした。「ちょっと待って!」静江は小声で芳井に電話をかけさせるのを止めさせた。「何か音が聞こえない?」そう言い、皆は耳を澄ませた。ミシッミシッミシッ───────確かに聞こえる。床を踏みつける音だ。みんな顔を見合わせた。ガン太が立ち上がり、部屋の入口まで行って廊下の様子を窺おうとした。「あんた!見ないで」静江は小声で力強くいい、少し体が震えた。みんな静江を見た。「奴が・・・二階に上がってきている・・・」
ミシッミシッミシッ─────── 暗い廊下を歩いている。床をゆっくり踏みつけている。廊下に写る倉岡直也の影が徐々に階段を上り、二階の廊下に写し出された。
みんな、部屋のクローゼットに目を向け、一斉に立ち上がってクローゼットの中に駆け込んだ。国利がクローゼットを閉め、その隙間から部屋の中を覗いた。
影は部屋に近づく。ゆっくりとゆっくりと近づいた。そして、倉岡直也が部屋の入口に姿を現した。ワイシャツのボタンを外している。
国利一人が部屋を覗いていた。「何してる?」ガン太が国利の耳元で囁いた。「今、部屋に入ってきた。ワイシャツのボタンを外してる」国利は言った。「ワイシャツ?」竹中が言うと、クローゼットの中にかけられているスーツ三着を見た。そしてみんな、スーツ三着を見た。
倉岡直也はワイシャツのボタンを外しながらクローゼットに近づいている。ゆっくりゆっくりと、暗い部屋を歩いてクローゼットに近づいていた。
クローゼットの中の竹中、静江、ガン太、芳井は国利の言葉を聞いて、ゆっくりと扉から離れて壁に張り付いた。国利も皆に遅れ、覗くのを止めてゆっくりと皆と同じように壁に張り付いた。近づく足音が聞こえる。皆の顔は引きつった。
倉岡直也がクローゼットの扉に手をかけて少し開こうとしたとき、電話のベルが鳴った。家の電話だ。倉岡直也は振り向いて、電話のベルを聞いた。そして一息置いて、扉から手を離して部屋を出ていった。
皆の冷ややかな顔は消えた。倉岡直也が階段を降りる音が聞こえる。電話の音は鳴り響いた。皆その場にしゃがみ、それぞれの顔を見合わせた。「今が、チャンスかもしれない」静江は言った。「奴は電話をしてるわ。電話は居間にあるの。奴が電話で話してるすきに玄関から出るわ」皆は静江の言葉に頷いた。
雪はひらひらと降る。家の影に隠れ、携帯電話を握って唯は落ち着かなく彷徨っていた。五人を心配そうに家を見上げた。
静江、竹中、ガン太、国利、芳井の五人は音をたてないように階段を降り、階段下の物置場に隠れた。廊下の先、居間から明かりが漏れている。そこから微かに直也の声が聞こえた。「唯ちゃんに電話して」静江が芳井に言った。芳井は大きく頷き、ポケットから携帯電話を取り出してダイヤルしようとすると、携帯に大きく振動が起こった。芳井は吃驚して思わず床に落としてしまった。バイブレータの振動だ。その振動が廊下に響いた。皆は慌て、国利が咄嗟に床に落ちた携帯電話を拾った。「もしもし」国利は受信ボタンを押し、息を飲むような小声で答えた。「唯だけど・・・」電話の声はそう言った。国利は静江を見た。「唯か。今、俺達は逃げられなくなってるんだ。助けて欲しい」言った。すると静江が横から割り込んで、国利から電話を奪い取り唯に言った。「唯ちゃん」そう言うと「静江さん?」電話の向こうで唯は答えた。「玄関の前に来て!私たちは一人一人順番に玄関から出るわ。今、奴は居間にいるの。電話してるわ。今がチャンス。居間を横切って逃げるわ」静江は言った。「僕はどうしたらいいの?」唯は言った。「唯ちゃんはそっと玄関の扉を開けてくれればいいわ。私たちは奴にバレないように何とか玄関から出ていくから・・・」静江が言うと「分かった」唯は言い、電話を切った。皆が居間の入口に注目した。
直也は窓から外を眺め、電話している。窓から雪が降っているのが見える。雪は流れるように降っていた。
風が出てきた。雪もその風に流されて降っている。唯は風の影から出て、玄関に向かった。唯に冷たい風が当たり「風・・・」そう思うと空を見上げた。
「私が入口に立って廊下から奴の行動を探るわ。私が合図したら一人一人玄関から出て」静江は言った。「いや、その役目は俺がやる」ガン太が言った。「あんたは無理よ。私がやるわ」静江が言った。「お前は十分役目を果たしたよ。ここまで甘えたら俺が報われないよ。危険な目には遭わせられない。妻として、女として、レディーファーストだ。少しぐらいカッコつけさせてくれ」ガン太は静江に言い、少し笑った。「よし!ここはガンちゃんに任せた」竹中が言った。「俺も任せた」国利が言った。「僕も・・・」芳井も声を震わせて言った。それを見た静江は少し笑い「分かったわ」言った。するとガン太は物置場から出て、居間の入口に向かった。
冷たい風が唯にあたった。唯は玄関の前に立ち、深呼吸した。
居間から廊下に明かりが漏れる。ガン太はその明かりに近づいていた。一歩一歩静かに近づき、入口の前に立つとそぉっと居間に顔を覗き込んだ。すると窓の側に置かれた電話の受話器を持ち、窓から外を眺めながら話している直也の姿があった。ガン太がその様子を窺っていると、玄関のドアが音を立てず、静かに開いた。そこから冷たい風と、少しの雪が家の中に入り込んだ。その中、ドアの隙間から唯が顔を出した。ガン太が見ると、唯は少し笑い、隙間から手を出してOKサインを出した。ガン太が頷くと、唯はドアの隙間から顔を引っ込めた。ドアは開いている。冷たい風がガン太の顔に少しあたった。ガン太はまた直也の様子を見ると、直也はまだ電話をしている。ガン太は廊下の奥の階段下の物置場に隠れている静江、竹中、国利、芳井を見て頷き、手でサインをした。皆もガン太を見て頷いた。「ほら、静江ちゃんからだよ」竹中は言った。「私は最後でいいわ」静江が言うと「レディーファーストだ」竹中が言った。すると静江は国利と芳井を見た。二人は頷き、静江も頷いて決心した。「分かったわ」静江が言うと、玄関に顔を向けた。そして歩き出した。
ガン太は居間の様子を見ている。静江は暗い廊下を歩き、居間から漏れる光を目指した。直也は誰かとまだ電話で話していた。ガン太が直也の様子を窺っている。その横から静江が顔を出し「まだ大丈夫ね」言った。ガン太が静江の顔を見て頷いた。「ああ、今だ」静江はガン太の顔を見ると、一歩前に出て部屋の入口から漏れる明かりにあたり、直也を見て玄関に歩み寄って音を立てずに出ていった。
静江が外に出ると、そこに待ちかまえて唯が立っていた。「良かった〜無事に出てこれた。もう心配で心配で心細かったんだから」直ぐさま泣き崩れたような顔をして、静江に近づいた。だが、静江は険しい顔をして「まだよ。みんな無事に出れるといいんだけど・・・」言い、玄関に目を向けると、唯も険しい顔をして玄関を見た。
「次はヨッシーだ」竹中が言った。すると芳井は「僕はまだいいよ。国利君先に・・・」震えた声で言った。「ヨッシーから先に」国利は芳井を見ていった。「いや・・・国利君が先に」また芳井は言った。遠く、居間の入口から漏れている明かりの切れ間に立っているガン太が手招きして合図していた。「時間がない。国利、先に行け」竹中が言うと、国利は頷き歩き出した。ガン太は直也の様子を見ている。「そうか・・・こんなに嬉しいことはない」直也の声が聞こえた。それを見ているガン太が肩を叩かれて振り向いた。そこに国利が立っている。お互いが見合うと頷き、国利は玄関に歩んだ。
国利はドアの隙間を潜り、外に出た。そこに、唯と静江が立っている。風が雪を靡かせている。唯と静江も冷たい風にあたり、国利が出てくると近づいた。
「ヨッシー、行け!」竹中が言った。「たけちゃん先に」芳井が言うと「何言ってるんだよ。お前一人じゃ心配なんだよ」竹中が言った。「僕は大丈夫だよ。まだガンちゃんもいるし。僕だって男だよ。ちょっとぐらい格好いい所見させてよ。いつもたけちゃんに助けてもらってるからさ」竹中を見て芳井は言った。「本当に大丈夫か?」竹中は芳井の目を見ると、芳井は唾を飲んで大きく頷いた。「分かった」竹中はそう言うと、暗い廊下を玄関に向かって歩いていった。その姿を芳井は見ていた。本当は怖くて体が動かなかっただけなんだ。腰が引けていた。声を出すのもやっとだった。芳井は物置場から辺りを見渡した。その暗闇の中にただ一人いる。<どうしよう・・・>その一人でいる不安を予想していなかった。その恐怖に耐えられず、芳井はその場にしゃがみこんだ。
竹中はガン太に近づき、ガン太の肩を叩くと振り向いて竹中を見た。「ガン太、頼むな」ガン太は頷き「ああ」言った。そして二人は直也を見た。直也は窓から外を見ている。真っ暗な外の景色に真っ白な雪は風に靡かれて降っている。風が窓を叩いた。「何て話そうか・・・言葉が詰まる」直也は話している。ガン太は静かにその会話を聞いていた。竹中は玄関に向かうために入口から漏れる明かりにあたった。直也は窓から外を見ていた。その窓には部屋の明かりが反射して、部屋の隅々まで映し出されていた。直也が少し体を動かしたとき、その窓に映された部屋の奥の廊下から覗くガン太の姿と、玄関に向かう竹中の姿があった。直也は少し笑って「愁君・・・ありがとう」言った。「シュウ?」ガン太はその言葉を聞いていた。そして竹中は玄関を出た。また、ガン太は居間に目を向けながら芳井を手招きした。芳井はしゃがみ、耳に手を当て、震えて動けないでいた。ガン太は手招きを激しくした。「何やってるんだ。あいつ」ガン太は焦り、廊下の奥の物置場を見た。だが、暗くて物の影さえも見えない。芳井はしゃがみ、耳を手で塞いで呪文のように独り言を呟いていた。「ありがとう・・・本当にありがとう」直也は言い、窓を見ていた。窓には部屋に顔を出すガン太の姿がある。直也は笑った。「じゃあ、明日・・・」直也が言った。「電話が終わる・・・」ガン太は直ぐさま芳井の方を見て手招きをし、素早く振り返り玄関を見た。玄関の扉は数センチ開いていた。風が吹く。その風で玄関から冷たい風と雪が舞い込み、また数センチ扉が開いたと思うと、吸い込まれるようにドアが閉まった。『バタン』大きな音がした。ガン太は居間を覗いていた顔を素早く引っ込め壁に張り付いた。額からは汗が滲み出て呼吸も荒くなった。胸に手を当て、呼吸を落ち着かせて深呼吸して、最後に多く息を吸い込むと、素早く廊下を音を立てずに走った。
雪に佇む唯と静江と竹中はその音に注目した。「ヤバイぞ」竹中は言った。直也は静かに電話を切った。するとゆっくり振り返り、居間の入口を見た。ガン太は物置場に向かうと、そこに芳井はしゃがんで耳に手をあてて呟いていた。直ぐさま芳井の手を取った。だが、芳井は首を横に振りなかなか立ち上がろうとはしなかった。だがガン太は勢いよく芳井の手を引っ張り立たせ、急いで階段を上った。
直也は部屋の入口を出、玄関に立った。ドアは閉まっている。だが雪が解け、床は濡れていた。ミシミシと音が聞こえた。直也は見上げ、廊下を歩きだした。
ガン太と芳井は階段を上りきった。そして美月の部屋に入り窓を開けた。すると冷たい風と共に雪が入り込んできた。「ヨッシー、良く聞いて」ガン太が言うと、芳井は二度頷いた。「ここから屋根に乗って、先にある雨樋を辿って下に降りるんだ。雪が積もって危ないし、雨樋も凍り付いて滑るだろう。だけど、もうここしか逃げ場はない」ガン太は言い、芳井は唾を飲んだ。するとガン太は芳井の手を引き、窓から外に出た。
ミシッミシッミシッ─────── 音がする。
ガン太、芳井は手を取り合い、ゆっくりと慎重に雨樋に近づいていた。
廊下を歩く影。ミシッミシッミシッ─────── ゆっくりと階段を上がっていく足がある。
雪は風に靡かれていた。唯、静江、竹中は何も出来ずに佇んでいた。「静かだ・・・どうなってる。奴は気づいたのか?」竹中が言い「祈るのよ。あの人は大丈夫よ」静江が言った。唯はソワソワしていた。「僕たちに何か出来ること無いの?」竹中と静江を見て唯が言った。「残念だが、今俺達が動くと奴に気づかれてしまう。ガン太とヨッシーを信じよう」竹中は言った。ガサガサガサと音が聞こえる。唯だけがその音に気づいた。竹中と静江と国利は佇み、玄関を睨んで立っていた。唯はその三人から離れ、上を見上げた。屋根の上をガン太と芳井が腰を低く手を取り合って歩いていた。「たけちゃん、しずえさん、コクリさん」唯は手招きして三人を呼んだ。三人は唯を見て、近づいた。唯は上を見上げた。すると近づいた三人も見上げ、口は力無く開き「あんた!ヨッシー!」静江が声を抑えて言った
屋根の上を歩くガン太は下にいる三人に気づき、余裕無く手を上げた。その時、芳井がバランスを崩し転び、そのまま滑り落ちていった。ガン太も手を引っ張られ、転び、滑り落ちそうになったとき芳井から手が放れ、雨樋の筒に飛び掴んだ。「あんた!」静江が叫んだ。「ヨッシー!」唯が叫んだ。芳井は雪と共に屋根を滑り、落ちるギリギリに雨樋の水溜の窪みにしがみついた。雪はバサバサバサと音を立てて落ちていった。静江と竹中はガン太が掴んでいる雨樋の筒の下にいた。唯と国利は走り、家の横へ回った。「ヨッシー!」唯は叫んだ。芳井はぶら下がり、どうにも動けないでいた。「あんた!しっかり!」静江は言った。「俺は大丈夫だ」ガン太は余裕のない表情で言った。「ヨッシー、飛び降りろ」国利が言った。すると芳井は余裕無く両手で掴んで、顔だけ下に向けた。「早く!俺達が支える。下は雪だ。怪我はない」国利が言い、腕を広げて支え込む体制を取った。するとその隣にいた唯も同じ体制を取った。芳井は力強く顔を横に振った。
「あんた、気をつけて」静江が言った。「ガン太、落ち着いて下りろ。俺が下で受け止めるから心配するな」竹中が言うとガン太はゆっくりと頷き、少しずつ、少しずつ慎重に手を滑らせて下りていった。
ミシッミッシミシッ─────── その音と共に直也は美月の部屋に入り込んだ。ゆっくりと窓に近づく。
「早く!」国利が叫んだ。「早く!早く!」唯も叫んだ。それでも芳井は抵抗して顔を横に振り続けた。ギィーギィーと音がする。芳井は上を見た。水溜の窪みに罅が入ってきた。芳井の額に汗が滲み出てきた。何度も何度も顔を横に振った。芳井の重さに耐えられず、徐々に徐々に罅は広がり、そして水溜の窪みは割れ、芳井は勢いよく下へ落ちていった。「ワァー!」思わす声を張り上げてしまった。その瞬間、国利と唯は走り、芳井を体で受け止めて三人は地面に倒れ込んだ。その反動が伝わり、雨樋の筒にしがみついているガン太も大きく揺れ、その揺れに耐えられずに筒を通って勢いよく下まで滑り落ちた。その瞬間竹中は走り、ガン太を支えた。
窓辺に立ち、見ている。静かに倉岡直也は見ていた。
静江はガン太にゆっくり近づきながら、屋根の上を見上げた。国利と唯は芳井を支えてヨレヨレに戻ってきた。竹中もガン太に肩をかした。静江は屋根の上を見ている。美月の部屋を見ていた。何も見えなかったが、物の影が見えた。
倉岡直也は静かにその様子を見、ズボンのポケットからタバコを出し、口に銜えて火をつけた。
静江は見ていた。美月の部屋から一点の光が見えた。唯と国利は芳井を抱え静江に近づいた。竹中もガン太を抱えて近づいた。「逃げよう!」竹中は静江に言った。そして唯と国利は芳井を抱えて村役場へ向かった。竹中もガン太を抱えて村役場に向かおうとしたが、静江は屋根の上を見ていた。竹中も屋根の上を見上げた。だが、何も見えなかった。「静江ちゃん、行こう!」竹中は静江の手を取り、静江も村役場へと歩き出した。
その光景を、倉岡直也は見ていた───────
静江、竹中、ガン太、国利、芳井、唯の六人はヨレヨレになって村役場に入り、廊下を歩いて管理室のドアを開けた。まず部屋に入ったのは唯。すぐに電気のスイッチをつけた。そして芳井に国利、竹中が入り、皆疎らに散らばり、息絶えたかのようにしゃがんだり壁により掛かったりした。そしてガン太が部屋に入り、ヨロヨロと部屋を歩いてしゃがんだ。最後、静江が入って管理室のドアは閉まり、鍵も閉めた。鍵を閉めると静江はその場にしゃがみ、ドアにより掛かって硬直した声で言った。「奴に・・・バレたわ」
辺りは明るくなっていた。雪はひらひらと舞った。人々は慌ただしく行き交う。愁と美月は長い樹木の狭間を歩くと、大きな噴水の前に出た。愁は笑顔で美月を見、手でその方向を示した。美月が愁の示した方向を見ると、噴水に向いて杖をついて立っている者がいる。その者が振り向いた。その者は倉岡直也だ。美月はゆっくりと直也に近づいた。直也も杖をつきながらゆっくりと近づき、二人は静かに抱き合った。愁はその光景を微笑んで見ていた。




