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第一部 第一章

                  第一章




 それはまだ(たちばな)(しゅう)が十二歳の春、輝く日曜日の朝だった。足の踏み場もないぐらいに物を広げ、部屋の整理をしていた。何からの整理していいのか考えていた。壊れかけの目覚まし時計、五歳のとき、母親が買ってくれたウサギの縫いぐるみ、埃だらけのオルゴール。愁にとって、何を捨てていいのか分からなかった。すべて大切なものだった。すべてが思い出詰まったものだ。

 階段を上がる足音が聞こえてきた。母親の恵子だ。橘恵子が部屋に顔をのぞかせると愁に優しく言った。

「愁、パパが裏山で呼んでるわよ」

「なに?」

「分からないわ、朝から何かやってるから手伝ってあげたら」

 いつも愁は父親の手伝いをしていた。だが部屋を整理しなければならない。∧駄目だ∨愁は辺りを見ながら思った。部屋全てに物を広げてしまったため、引き返すことはできなかった。愁は恵子に言った。

「今日は部屋の整理があるから、手伝わなくていい?」

 恵子は、部屋をよく見渡して言った。

「そうね、いいわ。でもパパのところへ顔だけ出してあげて、今日は、なんだかとっても機嫌よく裏山に行っていたから」

「うん、わかった」

 愁は立ち上がり、部屋を後にした。



 勝手口を出た。家の裏は広大な山となっていた。その山がこの村と隣の町を行き交う、たった一つの道になっていた。ここは山と霧に囲まれた小さな村。(しん)()(むら)と言う名の村だ。その山の麓に愁の家があり、愁の家の裏庭が一面に畑となっていた。薔薇畑だ。

 そこに橘亨(とおる)はいた。愁は亨のいる方へ歩み寄っていた。色とりどりの薔薇が咲いている。それぞれの花の匂いを噛み締めて、亨は立っていた。

 その花の色と香りが辺りを覆った。愁は鼻から大きく息をした。亨はピンク色の薔薇に鼻をつけて匂いを嗅いでいた。愁は亨に近づいて呼んだ。

「パパ」

 亨は薔薇の匂いを嗅いだまま愁に話しかけた。

「やっと、完成した」

「うん」

「レンガをまわりに積み立てて、花壇を造ったんだ」

「うん」

∧そうだ、部屋を片づけるんだ∨愁は思った。だから亨を呼び止め話さなければならない。

「パパ?」

 愁は亨を呼んだ。だが、亨は聞く耳をもたなかった。

「レンガ囲って、畑に道を造る。みんながここに集まるんだ」

「パパ?」

「あともう一つ、この畑の真ん中に風車(ふうしゃ)を立てる。風車といってもそんな大きいものじゃないけどな。その風車をパパが造るんだ」

 愁は亨の話を何度も止めようとしたが、亨はそんな愁に気づかないほど話に夢中になっていた。愁は諦めて亨の話を聞くことにした。それは決して珍しいことではなかった。亨は夢中になったら全く周りを見ないのだ。でもそれが亨の教えでもあった。いつも亨は愁に言っていた言葉がある。『ひとつのことをやりだしたら、最後まで夢中でやれ』だ。

「あと山に名前を付けよう。この薔薇畑は山の麓にある。そうだ!薔薇山(いばらやま)なんかどうだ?」

「いばらやま?」

「ああ。この神霧村に相応しい名だ。いい名だ」

「いい名だ」

 愁はちょっと気分がよくなり、続けていった。

「なあ愁、このピンク色の薔薇の花言葉知ってるか」

「花言葉?」

「ああ、花言葉だ。薔薇の花言葉は愛だ」

「愛?」

「パパは、全ては愛に通ずると思うんだ」

 亨はまた、薔薇の匂いを嗅いだ。ピンクの薔薇だ。

「赤、白、フルブラウン、黄色……そしてピンク。さまざまな色が薔薇にはあるが、その中でもパパはピンクが好きなんだ」

「ピンク?」

「ピンクの薔薇……この薔薇の花言葉を知ってるか?」

「ううん?」

 愁は首を横に振った。

「愛の誓いだ」

「愛の……誓い?」

「そして美しい……」

「パパは、なんでピンクなの?」

「昔の話だよ」

「昔の話?」

「ああ、初恋の話だよ」

「初めて。パパの恋の話」

 愁はにこやかな顔で亨を見た。亨は少し照れ臭そうに髪の毛を掻いていた。愁は、まだ経験した事ない話に耳を傾けた。亨の恋の話に、とても興味があった。

「愁とちょうど同い年。パパが十二歳の時だ。パパのクラスに転校して来た女の子がいてな、学校一の美人だったんだ。もちろんすぐに学校の人気者になったよ。この手の届かないような美人の彼女にパパな、一目惚れしてしまったんだ」

「一目惚れ?」

「敵も多かったよ。性格も良かったしな。だけど彼女はパパのことなんて気にも止めなかった」

「パパは、その子に告白したの?」

「努力はしたよ。努力はしたんだがな」

「諦めたの?」

「彼女には好きな子がいたんだよ」

「でも……」

「学校一の美男だ。その美男はパパの親友でもあった。パパな、そいつに『彼女が好きなんだ』って言えなかったんだよ」

「何で?言えばいいのに」

「負けると思ったからだよ。でもそいつパパのこと察して協力して来た。『俺は大丈夫だからお前、がんばれ』って。そして一輪の薔薇を渡された」

「バラ?」

「ピンクの薔薇だ。そいつは『魔法の薔薇だ』って言ってたけど。『この薔薇にかかった呪文は、一生解けない』って、その薔薇の花言葉は愛の誓い、愛を誓い合った天使は一生離れることはない」

「じゃあうまくいったんだ」

「パパな、その薔薇とその親友の勇気をもって彼女の家に行ったんだがな、やっぱりなかなか踏み出せなくて、パパの勇気がなくて……」

「何で?だってせっかく友達も……」

「ああ、毎晩彼女の部屋を見上げるだけだった。雨が降っていても、風が吹いていても、彼女の部屋を見上げた。彼女の部屋明かりが消えると、パパは暗闇の中にいて、その場を去ったよ。そんな日が毎日続き、そしてパパは諦めた」

「諦めた?彼女に告白もしなくて?」

「薔薇もすっかり枯れ果てて、最後に枯れ果てたピンクの薔薇を、彼女の家の玄関にそっと置いてパパは去ったんだ」

「恋の終わりだ……」

 愁は亨の話に聞き惚れて言った。

「ああ」

「でも、彼女と学校では会ったんでしょ」

「ああ、顔は合わせたが話をすることがなかった」

「そうなんだ……」

 愁は俯いた。

「それから一週間たった時だ。愁、奇跡は起こったんだよ」

「奇跡?」

「それは、雨が降っていた寒い夜だ。パパが家に帰ると、家の玄関に薔薇が置いてあった。枯れていない、鮮やかに咲き誇ったピンクの薔薇だ。パパはそれが返事だと思った。彼女が薔薇を返した、本当の恋の終わりかと……パパがその薔薇を手で掴んだとき、パパの背後に人影があった。振り向くと、傘もささずに笑っている彼女がいたんだ」

「パパ!」

 愁にはその彼女が誰なのか分かった。だが、その後の言葉を亨の口から聞きたくて、黙って亨を見た。

「その彼女の名は、金井 恵子という」

「ママだ!」

 愁は思わず叫んだ。愁の思った通りだった。亨と恵子の甘い恋の話に取り付かれていた。甘い香りに抱かれながら、その目の前にあるピンクの薔薇を眺めていた。<パパにとって、ピンクの薔薇は甘い恋を抱く花。僕にとっては……>いったい何だろう。愁は考えた。

 「二人とも、夕食の時間よ!」遠くから叫ぶ声がする。恵子だ。亨は見上げ叫んだ。「おう、すぐ行く!」そして、亨は愁の顔を見て言った。「この話は、ママには内緒だぞ」愁は大きく(うなず)き、亨は愁の頭を()でた。そして二人は家へ戻った。

 日が暮れて、すっかり部屋の整理が途中だということを忘れていた。

<まぁいいか、今度やろう>



 村は電気が通りにくく、村全体が暗かった。道には街灯はなく、空には星が透き通って見えた。家の中も薄明かりの中で生活していた。だから夜は怖く、まるで魔物が襲ってくるような静けさが、愁の中で一番の恐怖だった。

 亨と恵子と愁は食事をしていた。四人掛けのテーブルに三人が座り、中央に亨、亨の左隣りに愁、亨の右隣りに恵子、つまり愁と向かい合って座るのは恵子だ。いつも席が決まっていた。椅子が少し高く床に足はつかなかったが、まずまずの座り心地のいい椅子だ。食卓にはいつもフレンチな料理が並んでいた。それは恵子がフレンチ専門の料理教室に通っていたことが理由でもあった。愁は恵子の料理がとても好きだった。だが、ただ一つ問題がある。華やかな食卓と裏腹に家の明かりは暗かった。これが原因か、いつも食卓は静かな雰囲気の中に包まれる。三人は食器の音をたてて、ただ黙々と食事をしているだけだった。愁はその静けさが嫌いだった。<きっとこんな雰囲気を作るのは、明かりが暗いからだ>愁は思った。愁はその静けさを消すため、いつも何か話すようにしていた。

「ママ」

「うん?なあに」

 愁は躊躇(ためら)った。恵子を呼んでおきながら、何も考えていない。何を話そうか考えた。空き家のことを思い立った。隣の家のことだ。

「隣り、まだ引っ越してこないのかなぁ」

「さあ、どうかしら」

 亨が話しに入ってきた。

「ああ、そういえば昨日誰か来てたぞ」

「昨日?」

 愁が言った。

「あら」

 恵子はスープを一口飲んだ。

「昨日の夜、明かりがついてた」

 亨が言った。

「昨日の夜?」

 愁が驚いた表情で、フォークとナイフをテーブルに置き言った。

「じゃあ誰か、引っ越して来るのかしら」

 恵子が言った。

「どうかな。何しろ古い家だからな、なかなか買い手がないんだろうな」

「そうね……」

「ブラックだ……」

 愁は一点を見つめ、驚いた形相で言った。

「ブラック?」

 亨が言った。愁は隣の空き家のことを、話題にしたことに失敗したと思った。この家には噂があった。

「うん、夜、村の明かりが全部消えると、闇に包まれるでしょ。月の明かりも物の影もない、そんな闇に包まれた日、昔、どこからかライト片手に酔った彰と言う名の青年が、空き家の前を通った時の話。彰は空き家から何やら光る物が見えたんだ。二つの光が、家の中から……彰は自分の目を疑った。自分は酔いすぎたのかと……彰はその家が空き家だと知っていた。誰もいないことは知っていたんだ。だから家に近づいて確かめた。そして、見たんだ……ブラックを」

 亨は唾を飲んだ。恵子は愁の顔を見て、話半分に聞いていた。愁は話を続けた。

「彰はそっと家の壁に近づいて、窓から中を覗いた。すると影が見えたんだ。黒く、凍り付いた人影が……彰の心臓は爆発的に鳴り響いた。『ドックン、ドックン、ドックン、ドックン』ってね。壁に張り付いて、体中震えが止まらなくて、目をパチクリさせた。そして勇気を出してもう一度窓から覗いた。今度は彰は避けることなくジッと部屋の中を覗いたんだ。黒い影が部屋の中を彷徨っていた。何かを引きずりながら……彰は思わず唾を飲み、そして引きずっている物が見えたんだ。ほんの少しの光が部屋の中に漏れたとき……人間が……女の人の髪を持って引きずっているブラックが……彰は一目散にその場を去った。次の日、彰が警察に通報して家を調べると女の人の死体が床底から見つかった。だけど、ブラックは見つからなかった。まだ、この村の何処かに潜んでいるかも……」

 亨が目を見開き唾を飲んだ。愁はまだ興奮していた。

「くだらない話だわ。ただの噂よ」

 恵子が冷静な口調で言った。

「いや、俺も聞いたことがある。この話ではないがね。けど、いろんな噂があの家にはあるんだ」

 亨が言った。

「愁、そんな話は信じないで。一体誰に聞いたの」

 恵子が言った。

「がんちゃん」

 愁が言った。

「がんちゃん?」

 恵子は少し呆れて言った。がんちゃんとは古希がん太という名の男で亨と幼なじみでもあり、同級生でもある。がん太は村一番のギャンブル好きで調子者でもあった。恵子はガン太の話を信じなかった。

「ガンちゃんなら嘘だわ」

 恵子が続けて言った。

「そんな言い方ないだろう」

 亨が言った。

「でも嘘よ。男はみんな空想の檻に入った獣ね」

「じゃあ女は何だ」

「女はロマンチストよ」

「ロマンを追ったお姫様って訳か」

「そんな言い方しないで」

 そう言い捨てると恵子は席を立ち、台所に向かい、勝手口を出た。

 また、勝手口から恵子が戻って来ると手には小さな器を持っていた。その器にドッグフードを入れ、愁を呼んだ。

「これ、リュウにあげて」

 恵子が言った。

「うん」

 愁は頷いて行こうとすると亨が呼び止めた。

「愁、リュウに飯をやったら鎖外してやれ。あいつ、飯の後は家の中に入りたがるから」

「分かった」

 勝手口を出た。するとリュウは尾っぽを振って愁の方へ向いていた。リュウとは愁が飼っている柴犬だ。まだ子犬だが頭がよく、愁にものすごくなついていた。愁はリュウのもとに器を置くと、リュウが美味しくご飯に噛り付いた。リュウの鎖を外し、しゃがんで食事をしているリュウの頭を撫でた。さわやかな風が流れた。愁はふと顔を上げ、立ち上がって村を見た。(ほの)かな香りがした。雑草の生えきった空き地と田園がこの香りを漂わせた。

 一点に目が置かれた。五十メートル、いや、六十メートルは離れているだろうか。隣の家が見えた。先程話ていた噂の空き家だ。今日は月も隠れて影さえできない。

<ブラックだ!>愁は思った。<あの時と同じだ。影が……ない>愁は唾を飲んだ。あの話を思い出し、また遠くにある家を見た。その時、空き家から二つの光がピカッと光った。愁の身体が一瞬にして固まり、足元から震えが上昇してきた。そして一目散に勝手口へ走って、思いっきりドアを閉めて家の中に逃げ込んだ。だがまた、恐る恐る勝手口へ戻り、数センチドアを開けた。


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