第二部 第二十五章
スパゲッティーを啜り上げた。また、愁は口に含んだスパゲッティーも飲み込んでいないのに、水も飲まず次を啜り上げた。
「小説の二作目を書いてるんだ。もうそろそろ第一稿の締め切り、月刊誌の連載だから結末はまだだけど、全て終われば単行本になる。第一作目はもうすぐ単行本で発売なんだ。そしたら第一作目、二作目の一稿を見てもらいたい」
愁は大量なスパゲッティーを口の中に含ませたまま、何を話してるのかよく聞き取れないまま、美月に真剣な顔で話した。美月はその姿に微笑んだ。
「何がおかしいの?」
愁は言った。
「ううん、ほら、顔にトマトソース」
愁は手で顔を探り、トマトソースを取ると舐めた。
「取れた?」
美月は頷いた。
「・・・で、どんな物語を書いてるの?」
「詩人の物語だ」
「詩人?」
「うん。一人の詩人がいる。ローカル列車で旅をしているんだ。列車の中で知り合った女性と旅を続ける。あてのない旅だ。詩人は美しい風景と美しい人間に出会い、詞を書き続けるんだ。その知り合った女性は、ちょっとドジで明るくて、詩人の心を癒してくれる。詩人は、見たこともない美しい風景の町に出会った。そこの駅のホームで今までに見たこともない美しい女性を見かけたんだ。詩人はその駅で降りて、その女性を追った。その女性は小さな旅館の若女将で、結婚していたけど次第に詩人がその若女将に引かれていく。列車で知り合った女性が自分に恋してるとも知らずにね。この物語は美しくて哀しいラブストーリーなんだ。詩人はその心情を詞で綴っていく」
「面白そうね」
愁は黙って頷き、美月を見た。
家に埃はなかった。全ての床は磨き上がり、玄関にある下駄箱の靴もキチンと並べられて、キッチンの食器棚もキチンと整理されて並べられ、ゴミもなく、リビングの棚の上にある酒瓶や人形も序列に並んでいた。
家の全ての窓にはカーテンが引かれていて、外は明るいが、家の中はその光を妨げられて薄暗い。誰もいないリビングに静けさが漂った。そんな静けさの中にもどこからか男の激しい息遣いと女の激しい喘ぎ声が聞こえてきた。
その声は寝室から聞こえる。ベッドが揺れ動くほどに激しく抱き合っていた。激しく、激しく、永瀬敬生と花崎志帆は快楽を得ていた。
「美月は今楽しいことある?」
愁はスパゲッティーを啜りながら聞いた。
「楽しいこと?」
美月はスパゲッティーを啜り、テーブルにある布巾で口を拭いた。
「うん、僕はたくさん出来た」
「どんなこと?」
「小説を書けたこと。いっぱいの夢を持てるんだ。医者や教師、詩人にだってなれる。宇宙飛行士だって、世界を救うヒーローにだってなれるんだ」
「私は・・・ないわ」
「僕はまだあるよ。信頼できる友達が出来たこと」
「健太郎君?」
「うん、安心できるんだ・・・まだあるよ」
「どんなこと?」
「美月と再会できた」
愁は美月を見て笑った。すると美月も答えた。
「私だってあるわ」
「さっき無いって言ったのに?」
「あるわ!愁に再会できて、健太郎君に出会えたこと。最高の友情よ。誰かがきっと私たちを引きつけたの」
「そうかも知れない!」
「そうよ!神様は私たちに幸せをくれたんだわ。最高の友情を得るために引きつけたのよ」
そう言うと二人、微笑んだ。
扉は開いた。静江が入ってきた。目の前にはガン太、竹中、芳井がいつものようにポーカーゲームをしており、唯が芳井の横で三人のゲームを見ていた。国利も竹中の隣に座っている。ここは村役場だ。
「静江、どうだった?」
ガン太が言った。
「いないのよ」
「いない?」
ガン太がカードを引きながら言った。
「何処かに行ったんじゃないの?」
芳井がクッキーを片手に、カードを片手に持って言った。
「・・・だといいんだけど」
そう言うと、静江はガン太の横に座った。
「大人なんだから大丈夫だろ」
竹中が銜えタバコでカードを引きながら言った。
「まあ、大丈夫だよ」
ガン太が言った。
「でも熱があるのよ」
静江が言った。
「下がったかも知れないじゃない。そうだよ!下がったから元気になって買い物にでも行ったんだよ」
唯が顔に力を入れて言った。
「そうかい?そうだといいんだけど。恵子ちゃん・・・心配だわ」
永瀬敬生と花崎志帆はベッドにいた。敬生は上半身を起こし、タバコを吹かしていた。志帆は布団から片方の胸を突きだして敬生の体に抱きついていた。
「まだやり足りないか・・・」
敬生が言った。
「こうしてると落ち着くの」
志帆は敬生の体を顔で頬摺り、体にキスをしながら上半身を起こした。そして、敬生の銜えてあるタバコをそっと指でつまんで取り、そのタバコを志帆も銜えて吹かし、そして消した。
「あなたを・・・愛してるわ」
志帆はそう言うと、敬生にキスをした。激しく────激しく────そして、敬生は志帆の体を離し、目を見て言った。
「俺も愛してる・・・セックスの愛だ」
そう言うと敬生はまたタバコを取りだして、口に銜えてライターで火を付けた。志帆は敬生の目を見ていた。志帆の目に表情は無かったが、次第にその表情がうっすらとした笑いに変わった。
「今日、美月を見かけたわ」
志帆が言った。敬生はタバコを吹かし、冷静に答えた。
「どこで?」
「公園よ」
「何をやっていた」
「男と会ってたわ」
敬生は冷静な顔をして、タバコを吹かした。志帆はその表情を見て、にやほやと笑った。
チャランと音がした。ドアが開き、愁と美月は三段ある階段をおりて店の中へと入った。店内に客はいなかった。喫茶紅涙だ。
「ここのコーヒーは旨いんだ」愁はそう言うと、窓側の席に座った。この席は外が見える。外の景色と言っても人々の足元しか見えない。店が低くなっているからだ。もう夕刻だ。低い店内にも日はなだれ込んできた。「マスター!マスター!」愁は叫んだが、誰も出てこない。愁はふと思い立ち上がり、カウンターへと入った。そしてコップに水二つ、おしぼり二つを持ち、カウンターを出て、美月の座っている席の上に置いた。「セルフサービスだ」愁はそう言うと「お客様、何になさいますか?」聞いた。すると美月も気品高く振る舞って「何がお薦めかしら?」聞いた。「ここはコーヒーがお薦めです」愁は言うと「じゃあコーヒーを」美月は答えた。「お客様、少々お待ちください」そう言うとその場から離れ、カウンターの裏へと姿を消した。美月はそんな愁を見送った。そして暫くするとカウンターの裏から愁はウエイタースーツを着て、手にはお盆、その上にはドリッパー、フィルターにコーヒー豆、カップ、コーヒーポットを乗せ、もう片方の手にはコーヒーミルを持っていた。席の前に立ち、愁はコーヒーミル、お盆の上にある物を置いた。「当店は、お客様の要望に応えて、豆を挽くようになっております。豆は先程届いたばかりのコロンビア産、モカでございます。挽き方はどうなさいますか?粗挽き、中挽き、細挽きと様々です」愁は丁寧な口調で美月を見て、笑顔で言った。「何がお薦めかしら?」美月は気品高く言った。「粗挽きがお薦めでございます」そう愁が言うと「粗挽きでお願いするわ」美月は気品高く言った。
愁はコーヒーミルを自分の前に持ってきて、コロンビア産のコーヒー豆をミルの中に入れて、ハンドルを回し始めた。
「昨日……夢を見たんだ」
愁はハンドルを回しながら俯いていった。
「夢?」
美月は答えた。
「うん。夢の中もこうやって豆を挽いていた。目の前にとても綺麗な女の人がいて、僕はその人のために豆を挽いていた」
美月は黙って、愁の顔を見て聞いていた。
「そしたらどこからか突然ドイツ人の男がやってきて、僕の隣に立って、彼女に言うんだ。『イッヒ リーベ ディッヒ』そう言うと一輪の薔薇の花を渡す。そしたらまた今度はフランス人の男がやってきて『ジュデーム』そう言うんだ。そう言うとまた一輪の薔薇を彼女に差し出す。今度はイタリア人だ。『ティアーモ!』そう言う」
「ティアモ?」
美月が答えた。
「ティアーモ」
愁が言った。
「ティアモ?」
「ううん、もっと舌を絡めて言うんだ。ティアーモ!」
「ティアーモ!」
「そう!もっと陽気に、ティアーモ!」
「ティアーモ!」
「そう、それでいい。そしてまた彼女に一輪の薔薇を差し出す」
美月はまた、愁の顔を見て聞いた。
「そしたら今度はイギリスから紳士がやって来る。とても気品溢れいて・・・いい男が彼女の前に四人も?僕は分からなかった。そして、イギリス人の紳士は彼女にこう言うんだ。『I LOVE YOU』と・・・そしてまた、一輪の薔薇を差し出した。みんな彼女の前に立ち、イギリス人が差し出した一輪の薔薇の先を追うと、そこにいる綺麗な女性は君で・・・美月で・・・僕は焦って・・・みんな同じ言葉を君に伝えていて・・・僕は君に・・・美月にどんな言葉を?分からないけど・・・迷わずに、僕は僕の言葉で君に・・・美月に、伝えたんだ。『僕は・・・橘愁は、永瀬美月を愛しています』と・・・」
美月は黙って愁を見ていた。愁はドリッパーにフィルターをセットして、その中にミルで挽いた豆を入れてカップの上に置き、コーヒーポットの中にあるお湯を注いだ。そしてドリッパーを退けて、美月にコーヒーを差し出した。
「出来た・・・」
ちょっと照れくさかった。美月はカップを持ち、口を付けた。
「ちょっと挽き過ぎちゃったけど・・・」
愁は言った。
「おいしい・・・」
美月は笑顔で言った。そしてもう一口飲んだ。
「ありがとう・・・」
美月は柔らかな顔で、愁は安心した。そのとき、チャランと扉が開く音がして、美月はカップを口につけながら目を入り口に向けた。そして、持っているカップに震えが起こった。カップからコーヒーが零れる。愁は驚いて美月の顔を見た。そこに笑顔はなく、目は見開き、何かに脅えて震えている。愁は美月の目線の先を確かめる為、ゆっくりと顔を扉の方へ向けた。
そこには、ステンレス製の杖を持った男が立っていた。