第二部 第二十四章
教会から美しい歌声が聞こえてきた。今日は日曜。ミサだ。天気は良かった。美月は二階の部屋の隅に座ってその歌声を聞いていた。<何て綺麗な声をしてるのかしら・・・>幸せだった。心落ち着かせた。だが、それは震えにも変わるのだった。
ミシミシと階段をゆっくりと上ってくる音がする。二階の、美月の部屋に近づいてる。そして部屋の前で足音は止まった。トントン静かにノックされた。すると扉は開き、敬生が顔を出した。
「やあ、美月、おはよう」
敬生が笑顔で言った。
「おはよう」
美月が言った。
「昨日の帰りは遅かったね。何処行ってたんだ?」
「友達と……会ってたの」
「昨日玄関で出迎えたとき、何も言ってなかったじゃないか」
「ごめんなさい。久しぶりにあった友達で・・・興奮しすぎて疲れてたんだわ」
「じゃあ、興奮しすぎて掃除もしなかった訳だ」
「ごめんなさい」
「そんなに大事な友達なんだ」
「ごめんなさい」
「俺より大事な友達なんだ!知ってるだろ!俺は汚いのが嫌いだ。埃の一粒でも許さない!」
敬生は美月に迫り、美月は震えた。
「だいたいこの歌は何なんだ!頭が痛い!イライラするよ。だから教会の前は嫌だと言ったんだ!おまえが『教会の前がロマンチックだわ』何て言うからだ。この頭痛に、埃の塗した家で休めと言うのか!」
敬生は興奮に怒り、頂点に達していた。その興奮が収まらず、美月に近づいて顔を殴った。そして、部屋を出ていった。
美月は殴られて床に叩き付けられた。そっと体を起こし、殴られたこめかみを押さえて立ち上がり、窓の外を見た。白く、輝いていた。教会の入り口が開き、中から信者が出てきた。そして、その入り口の上には聖母マリア像があった。
ノックする音が聞こえた。家の前に静江が鍋を片手に立っていた。その鍋には煮物が入っており、蓋代わりに布巾が被せてあった。また、ノックをした。「おかしいわね、まだ寝てるのかしら」またノックした。「恵子ちゃん、恵子ちゃん、まだ寝てるのかい!煮物作ってきたよ。朝ご飯まだでしょ」そう言い、家のまわりを回って開いている窓を探した。静江は心配だった。また、無理して起きて、何処かで倒れているのではないかと思った。居間の窓、トイレの窓、そして、台所の窓を開けようとしたがどれも鍵が閉まっていた。その、台所の窓の下に冷たい体はあった。「恵子ちゃん、また来るね」そう言うと静江は家を遠ざかった。
「愁!愁!」健太郎が叫んでいた。「何!」愁が少し怒り口調で言った。
「何って、原稿!もうすぐで一回目の締め切りでしょ」
健太郎が言った。
「分かってるよ。で、何!」
愁が言った。
「何!じゃないでしょ。書いてよ」
「書けないんだよ」
「書けない?もうスランプか」
「スランプじゃないよ。書けないんだよ」
「それがスランプでしょ。ちょっと書いてよ。編集長に怒られるんだから」
「高山さんか。なら大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ。怒られるのは俺なんだから。すぐこめかみに血管浮かせて『こら〜松永!』って」
高山を真似て言った。
「ハハハ、似てるね」
「似てないよ!・・・で、愁、何してるの?」
愁は鏡に向かって、ワイシャツにネクタイをしていた。
「いや、何も」
「何もじゃないでしょ。何処か出かけるんでしょ」
「デートだよ」
「デート?」
「美月だよ」
「そりゃあ、デートって言わねえだろ」
「いけね、こんな時間だ」
愁はそう言うと、玄関に向かい
「帰ったら書くから!」
出ていった。
「シュウ!」
健太郎は叫んだ。
大きな公園、大きな噴水の前に愁は立っていた。もう、木々に葉はなく、地面は落ち葉で埋もれていた。ここに来てからはまだそんなに時間は経っていない。十五分だ。そこに美月が現れた。
「ごめん、待った?」
愁は振り向いて美月を見た。
「ううん、今来たところ」
美月は赤いセーターにジーパン。サングラスをしていた。
「サングラス・・・似合うね」
美月は慌ててサングラスを覆い隠すように弄った。サングラスの奥は、痣となっていた。
「でも、いいの?こんな天気のいい日曜。旦那さんは?」
「いいの。あの人は一人でのんびりしたいの。今日は愁と食事よ。行きましょ」
そう言うと、美月は愁の腕を組んで歩き始めた。
二人は公園を暫く歩いた。地面は落ち葉で埋もれている。その落ち葉を掃除している清掃人も数人見かけた。
「昔、よく二人で歩いた」
愁が言った。
「薔薇山?」
美月が言った。
「そう、薔薇山」
「全然変わってなかった」
「神霧村のいいところさ」
「でも、列車は走った」
「汽車だけどね」
「誰が通したの?」
「僕さ」
「愁?おじさんの意向を通したんだ」
「強引だけどね」
「この公園も、薔薇山に似ている」
「うん」
「静かなところ。たくさんの樹木があって、小鳥がいっぱいいるでしょ」
そう美月が言うと、愁は組んである腕を解きほぐし、側にある大きな樹木に近づき、耳をあてた。
「美月、こうやって樹木に耳をあてたことある?」
美月は首を振った。
「こうやって耳をあてると聞こえるんだ」
愁は樹木に耳をあてながら言った。
「何が?」
「いいから早く!」
愁が言うと美月は近づき、少し抵抗があったが
「こうやって、静かにあてるんだ」
愁が美月の頭に手をやって樹木に引き寄せ、美月は耳をあてた。すると、ドクン、ドクン液の音が聞こえた。
「ホントだ、聞こえる」
「これが樹木の心臓なんだ」
「生きてるんだ。ここにある樹木は生きてるんだ」
「うん」
そう、笑顔で愁は答えた。その二人の姿を見ている女がいる。花崎志帆だった。
花崎志帆は玄関の扉を開けた。すると、人の気配がした。目の前に誰かいる。志帆は見上げると、そこに永瀬敬生が立っていた。志帆は微笑み、敬生に抱きついた。「あなたを見ると、落ち着くわ」そう言うと志帆は、抱きつきながら自分のポケットを探り、ぶら下げるように鍵を取りだして敬生に見せた。敬生はその鍵を受け取り、何か言おうとしたが、志帆がそっと指を唇にあて、黙らせた。そして、敬生はその指を退け、志帆に激しいキスをした。志帆も柔らかく、激しくも敬生の体を探り抱いた。志帆はキスを止め、また、敬生の体に自分の体をうずくめるように抱きついたが、志帆の眼差しは柔らかい物ではなかった。冷たく、鋭い眼差しで何処かを見ていた。