第二部 第二十三章
「かあさん!」橘愁はドアを突き破るように家の中に入った。永瀬美月は少し落ち着いた表情で探りながら家の中に入った。「かあさん!」愁はまた大きな声で叫んだ。すると何処からか「なあに?」と声が聞こえてきた。「かあさん?」愁が居間で立ち往生していると、恵子が台所から茶碗を片手に布巾で水を拭き取りながら出てきた。「なあにじゃないよ」愁は近づいた。
「熱は?」
愁が聞いた。
「そんなのとっくに下がったわ」
「でも寝てなきゃダメでしょ」
「あら、大丈夫よ・・・誰?」
恵子は玄関に立っている、美月の存在に気づいた。すると愁は美月に近づいて、にこやかに恵子に言った。
「誰だと思う?」
恵子は首を傾げた。
「・・・美月だよ」
恵子に戸惑いが走った。
「みつき・・・ちゃん?」
あの悪夢が過ぎった。昔、隣の空き家で起こった出来事が、恵子の目には浮かんだ。恵子はその一瞬の戸惑いを隠して、美月に笑顔で話し始めた。
「大きくなったわね・・・愁?美月ちゃんと何処で再会したの?」
「偶然同じ町に住んでたんだ。そして町でバッタリ・・・」
「そうなの、綺麗になったわ・・・」
「おばさん、お久し振りです」
美月は言った。
「こんにちは!」
その時、玄関の方から男の声がした。
「健太郎君?」
恵子が言った。そこに、松永健太郎は立っていた。
「おう!上がれよ」
愁が言った。
「健太郎君、どうしたの?」
恵子は驚いて言った。
「僕が呼んだの。かあさんが病気だから来てくれって」
愁が言った。
「大したこと無いのよ。ごめんね、何か心配させちゃって」
「いいんですよ。よかった、元気そうで・・・あ、お邪魔します」
健太郎はそう言うと、家の中に入った。
「みんな座って、お茶でも出すから」
恵子がそう言って台所に向かおうとすると、すぐに愁は恵子を止めた。
「かあさんダメだよ。まだ調子悪いんだから、僕がやるから美月と健太郎と座ってて」
「あら、大丈夫よ」
「いいから」
「分かったわ、じゃあ宜しくね」
愁は台所に入り、三人はテーブルに座った。愁は冷蔵庫を開けた。そこには全て缶ビールで埋め尽くされ、他の物は全く入っていない。不振に思ったが、扉を閉めた。仕方なく、食器棚からお茶の葉を取り出して、湯飲みを取り出し、かごの中のリンゴを取りだして引き出しから果物ナイフを取った。
愁はリンゴを剥き、お茶を入れると台所から戻った。その、皿に乗ったリンゴと熱いお茶が乗ったおぼんを持ってくる愁の姿を、恵子は思わず見入った。愁は大きなリンゴがたくさん乗ったお皿をテーブルに置いた。「わぁ〜おいしそう。リンゴはよくママが剥いてくれたわ」美月が言った。「ああそうだ、二人をまだ紹介してなかった」愁は健太郎を見た。「美月、松永健太郎。僕の小説の担当している編集者の人なんだ。そして僕の大事な友達だ」美月は健太郎を見た。「よろしくね」健太郎は軽く会釈した。「そして健太郎、永瀬美月さんだ。昔僕の隣の家に住んでいたの」健太郎は美月を見た。「いろいろ噂は聞いています」すると美月は愁を見て言った。「あら、どんな噂かしら?」愁は思わず引きつった笑顔を浮かべた。「ほら、いいから早くリンゴ食べて!ほら、かあさんも」愁が恵子を見ると、恵子はまだ愁を見ていた。「かあさん?」その声で恵子は気づいた。「まだ具合悪いんじゃないの?」愁は言った。「そっくりだわ。目や口、歩き方、仕草や話し方まで、何もかも・・・」恵子は一点を見つめてそう放った。
「かあさん?何言ってるの?」
「パパにそっくりだわ・・・」
愁の顔色が変わった。
「親父の話はしないで!」
愁は思わず大声を放ってしまった。
「愁、聞いて!あなたに話さなければならないことがあるの」
「聞きたくない!」
「聞いて!あなたはパパを憎んでいるの?」
「あいつは僕たちを裏切ったんだ。裏切って殺された。自業自得だ!」
「美月ちゃん、健太郎君、ちょっと外してくれるかしら」
「外す必要はない!あいつの話はしない!今日はここでリンゴ食って、テレビを見て、みんなで一緒に寝るだけだ」
「愁!落ち着いて!」
恵子は言った。
「落ち着く?かあさんがあいつの話を持ちかけて、落ち着けると思ってるの?僕らはあいつに騙されてたんだ!」
「騙された?」
「そうだ!奴は優しい親父を演じて、他の女に恋してたんだ・・・」
愁は美月を見た。美月は愁を反らすことなくジッと見ていた。
「・・・ゴメン」
愁は俯いて考え、暫くすると静かに冷静な口調で口を開いた。
「美月、健太郎、ちょっと外してくれないか」
愁は言った。すると美月は首を振り
「ううん、私も聞きたい。ねぇ、おばさんいいでしょ」
美月は言った。
「でもね、美月ちゃん・・・」
恵子の言葉を妨げて、また美月は話した。
「聞きたいんです!・・・誰もママのことを話してくれなかった」
美月は恵子を見ていた。
「美月ちゃん?」
恵子は息を潜めて言った。
「分かったわ・・・」
恵子はジッと三人の顔を見て、ゆっくりとまた口開いた。
「愁は、この話をパパから聞いたことはあるかしら?ピンクの薔薇の話」
愁は恵子の言葉に反応することなく、話を聞こうとした。
「この薔薇の花言葉は、『愛の誓い』パパの初恋の話なの・・・」
愁は少し考えて、思い出した。
「思い出した。昔、話してくれた」
美月と健太郎は愁を見た。
「親父は同じクラスに転校してきた子に、一目惚れしたんだ。でも告白出来なくて、親友に相談すると、その親友は『魔法の薔薇だ』と言って、親父にピンクの薔薇を差し出すんだ。親父はその薔薇を持って彼女の家に行った。だけど、親父は彼女の部屋を見上げるだけで、毎晩彼女の部屋の明かりが消えるとその場から立ち去った。そして、薔薇の花も枯れ果ていったんだ。親父はその薔薇を、彼女の玄関に置いて立ち去った」
愁は一つ、唾を飲み込んだ。
「・・・で?」
健太郎は、そんな愁の行動にも待てきれずに言った。
「親父は諦めた。でも、その一週間後に奇跡は起こったんだ。雨が降っていた日、親父の家の玄関に、まだ枯れてない鮮やかに咲くピンクの薔薇があった。親父がその薔薇を手に取ると、背後に人影がある。振り向くとそこに傘もささないで、笑っている彼女が立っていた。それは・・・」
愁はゆっくりと恵子を見た。
「かあさんだった」
その言葉を放つと、美月も健太郎も恵子を見た。
「いい話じゃないか」
健太郎が言った。恵子は愁だけを見て、ゆっくりと言葉を放った。
「・・・それは、あの人がついたたった一度だけ嘘」
「うそ?」
健太郎は思わず、唾を吐き出すような勢いで言ったが、愁と美月は冷静に恵子を見て言葉を待った。
「私じゃないわ。亨の初恋の人はシャリーさんよ」
美月の瞼が微かに動いた。
「私は亨の隣のクラスで、ずっと、見ていた。亨は、片思いだった。シャリーさんは、亨の親友を好きだったの。その人は、学校ではもてたわ。一番だった。その親友は、亨の気持ちを察して薔薇の花を差し出した。ピンクの薔薇よ」
三人は恵子の話を聞いていた。
「ずっと、シャリーさんの家の前で薔薇の花を持って待っていたの。雨の日も、風の日も、雪の日もね。でも亨は告白も出来ないまま諦めた。そして奇跡は起こった。亨の家の玄関に薔薇が置いてあったの、ピンクの薔薇よ。その薔薇を手に持つと、後ろに人影があった。シャリーさんが立っていた。・・・でも、おかしい話なの」
「何でおかしな話なんですか?いい話じゃない」
健太郎が言った。愁と美月は静かに恵子の言葉を待った。
「何故、突然シャリーさんは立ってたの?」
「なぜ?」
健太郎が言った。
「シャリーさんは亨に告白したわ。『愛してます』って。でも、亨は断った」
「断った?」
愁が言った。
「そう、断ったのよ。亨が、シャリーさんの玄関から立ち去ったのは諦めたからじゃないの。シャリーさんが、亨の親友のことを好きだということに気づいたの。そして、シャリーさんが亨に告白する前の晩、シャリーさんは亨の親友に振られたことも知っていた。シャリーさんは、振られて亨の元にいったの。・・・私は亨を宥めた。出来る限り、私は亨を愛したわ。亨は私と友達になってくれて、ちょっと時間がかかったけど、私を愛して、結婚した」
恵子は美月が気になり、ちらつき見た。だが、美月は瞬きする余裕がないくらいに目を見開き、涙は流れていなかったが目が潤んで見えた。少しその先を話そうか迷ったが、また口開いた。
「幸せだったわ。愁も生まれた。愁が十二歳の頃、亨は村に鉄道を通したいと思ったの。鉄道は、隣の隣の隣の村まで走っていた。だから、隣の村とその隣の美天村に協力をお願いしようと話に行った。隣の村は快く協力してくれた。でも、美天村の人たちは反対したわ。美天村は綺麗な丘が波打つ村なの。鉄道を通すことによってその波も崩れると、村の人は反対した。でも、協力してくれる人もいた。そこに、昔親友だった人がいたの。その親友は、倉岡直也だった。彼はシャリーさんと結婚していたわ。あの時、確かに直也はシャリーさんを振ったのに、どう関係を取り戻したかは分からないけど、二人は幸せそうだった。その幸せは、直也とあの人、亨には計算違いだった」
「計算違い?」
愁が言った。
「そう、美天村で三人は再会し、そしてシャリーさんは亨に恋をした。偽りではなく、本当の恋よ。幸せだった女が、今頃、昔告白された男に恋を?何で?」
「なんで?」
健太郎が言った。恵子は美月をちらつき見ると、震え、硬直して瞬きさえなかった。
「・・・止めましょう」
恵子は言った。するとすぐその言葉に反応して、美月は顔を上げて言った。
「止めないで!続けて!・・・つづけて」
震えていた。
「分かったわ。・・・シャリーさんには、いくつかの悩みがあったの。直也は優しかったけど、とても嫉妬深かったわ。そして、酒癖も悪かった。お酒を飲んだときの暴力が耐えなかったの。だから、亨に相談したの。それが恋に変わった。・・・でも、亨は私に何でも話してくれたわ。私たちを見捨てなかった。昔のようにはならなかった。……正直、私は昔のように、シャリーさんを好きになってしまうのではないかと思ったけど、亨は私たちを愛してくれた。・・・でも、シャリーさんは逃げるように亨を求めた。その二人に直也は嫉妬したのよ。そして、大雨のあの日、直也は小高い丘の下に亨を呼んだ」
美月から涙が零れた。恵子はその姿を見、その後の言葉はなかった。
美月には幻に、悲鳴が響き渡った。あの日の出来事、大雨だった。美月は雨に打たれて走っていた。道行く土は水と共に跳ね上がって足元は泥だらけになり、シャツは体にへばりついた。シャリーを追った。転び滑りながら慌てて追ったんだ。「ママ!」その叫びが、雨の音に混じって響き渡り、そして、シャリーの姿が見え、心を落ち着かせてゆっくり歩いて近づいていた。その瞬間、土砂は崩れ落ちた。
赤く染まった木々があった。ここはまだ落ち葉はない。三人の目の前に、青く澄んだ湖がある。それは、懐かしい湖だった。黙って湖を見つめた。
「やっとママが分かったような気がする」
美月は静かに口を開いた。その言葉に、愁と健太郎は美月を見た。
「僕は、何も知らなかった。親父のこと、美月のおばさんのこと、そしてかあさんのこと。もう、あれから随分経ってるのに・・・」
「私も知らなかった。みんながその事について沈黙したの」
「ねえ、二人とも気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど・・・」
健太郎は二人の会話に割り込んで言った。
「何?」
二人は口を合わせて答えた。
「・・・その後の出来事を、教えてくれないか」
健太郎が言った。
「その後?」
美月が言った。
「愁のおばさんが話した・・・その、後」
「いいよ」
美月がそう言うと、そっと話し始めた。
「あの日、ママとパパは激しく喧嘩してたの。私は小さくて、何で喧嘩していたのか覚えてないけど、ママは悲しい顔をしていた。大雨の中、家を飛び出したの。私も追った。そして、ママは丘の下へ辿り着いた。わたしもすぐ追いついたわ。私はママの姿が見えてホッとした。安心したの。だから走るのを止めて、ゆっくり近づいた。ママは私には気づかなくて、誰かと話していた。男の人。その瞬間、土砂は崩れ落ちたの。その男の人は、愁のパパだった」
健太郎は美月の顔を見て静かに聞いた。愁はジッと湖を見ながら聞いていた。
「私はすぐに駆け寄ったわ。土を掘り返した。掘り返しても、掘り返してもママの姿はなかった。・・・助けを呼びに言ったの。でも、土を掘り起こせたのは次の日だった。土にうもれたママを見つけたとき、もう、動かなかったわ。冷たく、堅くなっていた。でも、愁のパパは・・・土砂が崩れたとき・・・まだ、生きてたの。土砂の中から這い上がってきた。助けを求めようと、フラフラになりながら歩いたの。・・・そこに、私のパパが現れた。殴り殺したのよ。信じられる?助けを求めた愁のパパを、殴り殺したのよ・・・」
美月は徐に湖を見、一粒の涙を流した。その姿を健太郎は見ていた。
「・・・ごめん。何か思い出させちゃったみたいで」
健太郎が言った。
「ううん、いいの」
カコーン湖がうねりを上げた。
「なあ、妖精は見たことあるか?」
愁は湖を見て、徐に言った。
「妖精?いいや」
健太郎が言った。
「私もないわ」
美月も直ぐさま答えた。愁はその瞬間美月の顔を見
「・・・そう」
悲しげに答えると、また湖を見た。するとそこには複数の妖精が、湖の上を歩いて三人の方に向かっていた。更に、愁が回りを見ると赤や黄色と色鮮やかな木々の葉が、爽やかな青色へと変わっていき、風が靡き、また、揺れ動く葉は落ち葉となり、その葉にゆらゆらと妖精もぶら下がって落ちていった。
「そんな物が見えるの?妖精・・・」
健太郎が言った。
「ああ」
愁は暫く黙って、また静かに口を開いた。
「美月は覚えてる?この湖に、昔、二人でよく来たよね」
「ええ、覚えてるわ。悲しいときによく来た。ここに来ると、何だか落ち着くの。でも、それだけよ」
「・・・そうか」
美月は忘れているようだった。ここで、昔、愁と二人で妖精を見たことを──────
愁は、その後何を問いただせようともしなかった。昔の記憶を漂わせる中、また亨の話を語り始めた。
「親父には、夢があった。僕が知っている限りの夢は、鉄道を村に通すこと。庭を、色鮮やかな花で埋もれるぐらいの花壇を作ること。薔薇山の麓にある花壇のことだよ。その花壇に小さな風車を作ることだったんだ。僕は、親父にいろんな事を教えて貰った。この、薔薇山のこと、この湖のことも・・・親父は、僕たちを愛してたんだ」
「ねえ、鉄道は通したでしょ。花壇は麓にあるでしょ。じゃあ、風車は?」
健太郎が言った。
「実現できなかったよ」
愁が言った。
「じゃあ、実現しよぜ!」
健太郎が言った。
「実現?」
愁が言った。
「俺達で作ろうって事だよ」
「そうよ!私たちで作りましょうよ」
美月が言った。
「でも、どうやって?」
愁が言った。
「どうやって?」
健太郎が言った。
「どうやって?」
美月が言った。
「でも、もしかして・・・」
愁が何かを考えながら言った。
「もしかして?」
健太郎が言った。
「もしかして?」
美月が言った。
「物置小屋にあるかも知れない。親父は、昔から夢を実現するために、考えついたその日に設計図や作り方を書いた紙を残すんだ。そして材料も買い集めて、いつでも自分が動けるようにして物置小屋に閉まって置くんだよ」
「じゃあ、物置小屋にあるかも知れないって事?」
健太郎が言うと、愁は頷いた。
「ねえ、作ろうよ!私たちで風車」
愁と健太郎は頷いた。すると三人は立ち上がり、湖を後にした。
三人が立ち去った途端、湖の周りにある木々の葉は、爽やかな青色から赤や黄色に染め上がり、しがみついていた木々の葉はチリチリと落ち始めて、やがて、全ての葉は落ち葉となった。そして青く澄んだ湖も、赤く、赤く染まっていった。
「愁、まだ!」健太郎は言った。「ちょっと待ってよ」愁は、物置小屋のガラクタを一つ一つ掘り出していて、その後ろで健太郎と美月は待っていた。「ちょっと、手伝ってよ!」愁はガラクタを掘り出しながら言った。「えっ!いいの?だって、あんま人の物弄んない方がいいと思って・・・ねえ、美月ちゃん」健太郎が言うと美月は頷いた。「いいよ!どうせガラクタだし、もう何年も弄ってないんだから」そう言うと、また埃が染みついた物を退かし始め、健太郎も美月もその辺の物を掘り出し始めた。
三人で随分と探した。日は徐々に傾き始め、夕方に差し掛かった。三人は埃にまみれながら、天窓から入る仄かな光で探した。「あった!」健太郎が言った。「あった?」愁が言うと、美月も動きを止めて振り向き、二人は健太郎に近づいた。「これでしょ」埃にまみれたノートを健太郎は見せた。その周りには数段にも高いガラクタが積み上げられていた。ガラクタのガラクタのそのまた下のガラクタから掘り出した。愁は健太郎からそのノートを受け取り、一ページ目を開いた。そこにはこう記されていた。
花壇は完成した。
これから作る風車は完璧とは言えないが
自分自身や家族の象徴である。小さな家庭用風車。
家族の幸せを願い、ここに作り方を記する。
<イメージ>
小さいが、家族を守るような感じに
土台はシッカリとする。
家族三人が、鳥のように羽ばたく
イメージ。
薔薇山に向けて、花壇の真ん中に置く。
その絵は、まるでオランダ風車のように立派な物だった。
次々とページを捲ると、細かく作り方が汚い字と下手な絵で、何ページにも書かれていた。愁は、そのノートに描かれている絵を見た。それは、愁が想像していた物より、遥かに大きい──────
「やっぱり、ダメか……」
愁は言った。
「え?」
美月は言い、愁を見た。
「親父の、この絵のとおりには出来ないよ……」
愁は、諦めた。
「材料は?」
美月が言った。
「材料?」
愁は聞き返した。
「まだ見つかってないよ」
健太郎が言った。
「もっと探せばあるかも!」
美月が言った。
「例えあったとしても、今からじゃ作れないよ」
愁は美月と健太郎を見て言った。
「でもあるかも!」
美月はどうしても作りたかった。
「ねえ、この絵のとおりに作らなくてもいいんじゃない?」
健太郎は言い
「どういうこと?」
愁は聞いた。
「俺たちは、愁のお父さんの意向を立てながら、俺たちなりの風車を作ればいいじゃん」
健太郎が言い、その意見に賛同して、美月が興奮し
「それ、いい!」
言った。
「つまり、どうすればいいんだ?」
愁は聞いた。
「愁のお父さんが言っていた、家族の象徴。それに俺たちの友情の象徴として、花壇に三つの風車を、薔薇山に向けて立てるんだ」
健太郎は愁と美月を見ながら、笑顔で言った。
「三つ?」
愁は少し驚いた。
「ああ」
健太郎は言い、愁は何か言おうとしたとき
「うん!じゃあ、材料探すわ!」
美月は元気よく返事をし、また物置小屋を探り始めた。その姿に、愁も少しため息をつきながらも、一緒に探し始めた。健太郎はその二人を見ていた。
「ねえ!俺、風車の絵、描くよ」
美月と愁は探すの手を止めて、健太郎を見た。
「俺、今から作れるような、風車のイメージを絵に描くよ。あまりうまくないかも知れないけど……」
健太郎は言い、美月は笑顔で頷き、愁は少し不安だったが、健太郎に笑顔で頷いた。そして、美月と愁はまた材料を探し始めた。健太郎は、近くにあるダンボールの空箱を机代わりにして、亨の残したノートの空きページに、風車の絵を描くことにした。
そして暫くして「あった!」美月は声を張り上げて、その姿を愁が見ると「出来た!」健太郎も笑顔で声を張り上げた。そして美月と愁は、健太郎に近づき、健太郎は二人にノートを見せた。
その絵を見て、三人は笑った。
木材やブレード、針金などが物置小屋から見つかる。一人が一台を作ることにした。三人は、健太郎の描いた絵の通りに作り始めた。日は暮れていき、赤く染め上がった太陽は、薔薇山に沈んでいく。三人は影となった。
木材を切り、形に組み立て、ブレードを取り付け、慣れない作業に戸惑いながら、三人は亨の夢、また自分たちの夢を作り上げようとした。そして、その夢に一人一人の思いもあった。健太郎は、愁との出逢い、美月との出逢い、そして意中の人、しおりを思った。愁と出逢い、自分自身は変わってきた。美月と出会い、何処か悲しげに見える青い瞳に思いを寄せた。二人の出逢いから、自分の幸せを噛み締め、そして、しおりを思った。だけど、その後の出来事を考えてもみなかった───────
美月は、心嬉しかった。思い出したくない過去は過ぎった。実の父親の直也の暴力、今の夫敬生の暴力、その現実の繰り返しが美月に震えと恐怖を呼び戻した。愁との再会。これが、美月にとって救いとなり、健太郎との出逢いが何かの期待感を感じた。この風車を作ることによって、自分自身の安らぎが保てるんだ。愁と健太郎への友情の証だった。
だが、その後の出来事は予想だにしなかった───────
愁は昔と変わらない。亨を恨んだことはあるが、今はない。今はただ、亨の夢を完成すること。風車だ。そんな愁も思いはあった。過去は忘れない。愛犬リュウへの思い。昔、好きだった女の子を守れなかった過去、あの満月の日の出来事。あの日の、あの夜の出来事は忘れない。健太郎との出逢いに、心を落ちつかせた。美月との再会に、心を酔わせた。だが、愁は気づきはしない。この後の悲しい出来事から逃れられないことを──────
辺りはもうすっかり暗くなっていた。だが運は良かった。今日は雲がない。おまけに月が輝いている。その光で、愁達は作業が出来た。「出来た!」そして三人は一斉に声を張り上げた。均等に、薔薇山に向けて三つの風車を立たせて並べた。すると三人の周りに風はふき、それぞれの風車についている三枚のプロペラは回り始めた。また、それが月明かりに照らされて光り満ちていた。
恵子がお盆にワイングラス四つ、それに赤ワインを入れて運んできた。月の光でワインも透き通って見えた。恵子は静かに三人の元へ行き、差し出し、三人は何の言葉もなくお盆からワインを取りだして、薔薇山に掲げた。「かあさん、僕は幸せだよ。こんなに安心できる友達がいて、こんなに素敵な女性がいて、こんなに素晴らしい母親の元に生まれて・・・ありがとう」そう愁が言うと、ワイングラスをまた薔薇山に向けて掲げた。そして、恵子も美月も健太郎も薔薇山に向けて掲げた。月の明かりは、神霧村を優しく包み込んだ。
「じゃあ、俺達は帰ります」健太郎が言った。そこは、愁の家の玄関だ。愁と美月と健太郎の前に恵子と静江がいた。「あら、帰るの?そうね、もう遅いし。まだ電車はあるわ」恵子が心配して言うと「俺、車で来てるんで」そう健太郎が言うと遠い目で、家の横を見た。そこには赤い軽自動車が止まっていた。「愁ちゃんはどうするんだい?」静江が言った。「愁は泊まっていきなさいよ。二人で話すことだってあるでしょ」美月が言うと、愁は頷いた。「帰りなさい!あなたは忙しいんだから。そんな人が家にいたら、気になって休めなくなるわ」恵子が言うと、愁は頷いて「分かった。今日は帰るよ。静江おばさん、かあさんの看病よろしくね」そう言った。「任しときな!愁ちゃん、今度恵子ちゃんが元気なとき、ゆっくりしてきな!気をつけて帰るんだよ」静江が言った。「うん!」そう言うと、三人は車の方へ歩いていった。恵子と静江は三人を見送り、車のエンジンはかかって走り去った。
「本当にいいのかい?」
静江は車を見送りながら言った。
「いいのよ」
「寂しいんじゃないのかい?」
「ううん、大丈夫よ。静江ちゃん・・・頭が痛いわ、とても・・・」
恵子は、静江の肩により掛かった。
「恵子ちゃん、大丈夫かい?また熱が出てきたのかも知れないね、ちょっと横になろうか」 静江は恵子の体を支え、家の中に入っていった。
恵子はベッドに横たわっていた。枕元には恵子、亨、愁が笑いながら写っている写真が写真立てに入って飾られている。静江は恵子の側にいて、額には濡れタオルがあてられていた。
「ちょっと落ち着いたかい?」
静江がゆっくりとした口調で言った。
「ええ、大分よくなったわ」
「よかった・・・」
「静江ちゃん、今日はありがとうね。愁を呼んでくれて、いっぱい話したわ」
「よかったじゃないかい」
「ええ、亨のことも話したわ」
「亨ちゃん?」
「あの子は亨のことを恨んでたのよ」
「何で?」
「美月ちゃんのお母さんの恋に、納得いかなかったの。愁は、亨が家族を捨てたと思っていた」
「愁ちゃんは納得した?」
「納得したわ。自分の父親がどんなに私たちを愛してくれたか話した。やっと、その話が出来たのよ」
「よかったじゃない」
「ええ、よかったわ・・・ありがとね」
「何言ってるの。友達じゃないかい」
恵子の言葉に、静江は胸を詰まらせた。
「静江ちゃん、今日はみんなと集まるんじゃないの?」
「いいのよ、そんなのは。男の集まりよ。碌な男はいないけど……」
「ううん、行ってあげて。その方が私も嬉しいわ」
「そうかい?」
「私はもう大丈夫だから」
「分かったわ。ゆっくり休むのよ。明日、また来るからね。暖かくするのよ。汗もいっぱい出して・・・」
「分かったわ。心配しないで。早く行ってあげて」
「そうかい?じゅあ、行って来るね・・・電気、消しとくね」
そう言うと、スイッチを切り静江は部屋を出た。月の明かりが窓から入り込んだ。その明かりが恵子と枕元にある写真にあたった。美しく、黄色の光は恵子を落ち着かせた。目を開けて、天井を見ていた。ただ、何もなく、目を開けて、ジッと天井を見ていた。黄色い光に包まれて、恵子はそっと体を起こして窓の外を見た。
遠く離れた家がある。月明かりの影に隠れ、ひっそりと佇む家だ。もう、誰も住んでいない。その場所に、あの日と同じ場所に暗く、静かに佇んだ。恵子は窓の隅に隠れて、遠く離れた家を見た。ずっと、ずっと、見ていた。まるで、その家は近づいてくるようだ。
そこに、何かぼやけた光が見えた。暗闇の中に、ぼやけた光はつき、消えた。また、暫くすると、ぼやけた光はつき、消えた。それは、その暗闇の、家の窓から乏しく見えた光だ。またぼやけてつき、また消える。恵子はその光に見入った。目を見開き、体に力が入った。そして、震えが起こった。
扉は開いた。「静江、どうだった?」ガン太が言った。そこに、静江は立っていた。「恵子ちゃんは大丈夫よ。今、恵子ちゃんの家からこの役場まで来るのが怖かったわ」そう静江が言うと、ガン太の隣の席に座った。ここに、竹中と芳井が座っていた。唯は相変わらず台所で皿を洗っていた。竹中と芳井と唯はポーカーゲームをしていた。「静江ちゃんでも怖いことがあるの?」芳井が言った。「あら失礼ね。私も女よ。素敵な男性に守られながら歩きたかったわ・・・ま、ここにはいないですけどね」そう言うと、唯が台所からエプロン姿で顔を出した。「あ、静江さん来たんだ。ごめんなさい、今片しちゃった。お腹空いたんじゃない?」唯は言った。「いいんだよ唯ちゃん、そんな気を遣わなくても」静江は言った。「・・・で、何が怖かったんだ」竹中がタバコを吹かしながら言った。「え?何?どうしたの?」唯は興味深く聞き、四人の元へとエプロンを畳んで座った。
「恵子ちゃんの家からこの役場の途中、あの家を通ったのよ」
静江が言った。
「あの家って?」
唯が言った。
「倉岡直也の家だよ」
芳井が言った。
「こんなに月が綺麗に光ってるのに、あの家だけは影になっていて・・・私、見たの」
「見た?何を?」
唯が聞いた。芳井は目を丸くして、生唾を飲んで聞いた。
「あの家の前を通ったとき、暗く、もちろん電気はついてなかったわ。でも、ぼやけた明かりが一瞬ついたの。すぐ消えた。そしてまた暫くしてついて、また消えたわ」
唯と芳井は唾を飲んだ。竹中はタバコを吹かした。そしてガン太は真剣な顔をして口を開いた。
「ブラックだ・・・」
皆、ガン太を見た。
「ブラック?」
静江が言った。
「あの家の噂を聞いたことはないか?昔、倉岡直也が越してくる前の話、彰という青年の話なんだ。この村が暗闇に包まれた日、彰と言う青年はライトを片手に酔ってあの家の前を通ろうとしたとき、二つの光が家の中から見えたんだ。彰は目を疑った。その家が空き家だとは知っていた。だから誰もいるはずはない、光なんか見えはしない。自分が酔いすぎたのかと思った。だから家へ近づいて、確かめた。そして、見たんだ・・・ブラックを」
唯と芳井は目を丸くした。静江は唾を飲み、竹中は落ち着いてタバコを吹かしていた。
「彰は家の壁に近づいて、窓から中を覗いた。すると影が見えたんだ。黒く、凍り付いた人影が……彰の心臓は爆発的に鳴り響いた。『ドックン、ドックン、ドックン』ってね」
その音は、遠くまで鳴り響いた。
ドックン、ドックン、ドックン───────
愁は部屋のパソコンに向かっていた。部屋は暗く、電気はついていなかった。一人、次回作に向けて考えていた。タバコを一つ吹かしては、パソコンを睨み、また一つタバコを吹かして、窓の外を見ると街のネオンが部屋の中に籠もってきた。
ドックン、ドックン、ドックン───────
その音は、まだ響き渡った。
美月は暗い夜道を歩いていた。そこに、月の光で白く染まった教会があった。高々と掲げられた十字架の下に、聖母マリア像はある。月の明かりがマリア像を輝かせて見せた。美月はマリア像を暫く見つめて、教会の目の前にある自宅の玄関をくぐり抜けた。そして、ドアを開け、家の中に入ると、そこに永瀬敬生が立っていた。
ドックン、ドックン、ドックン───────
健太郎はネオンが輝く繁華街を歩いていた。片手にコンビニエンスストアーのビニール袋を持ち、片手は携帯で電話していた。
「あ、しおりちゃん?今何してるの?えっ?テレビ見てるの?俺はね、コンビニの帰り。今年は会えるのかなぁって、仕事が忙しいから無理だよねぇ。そっちは寒いの?えっ?雪?今日、初雪が降ったんだ」
ドックン、ドックン、ドックン───────
蒸気の音が山を駆けめぐった。黒い煙を靡かせて、神霧村の駅に最終列車が入ってきた。ゆっくりと蒸気の音は鳴り、静かに静かに汽車は止まっていった。
‶プシュー″ドアは開いた。そこに、一人の男が降り立った。
ドックン、ドックン、ドックン───────
光り輝く月明かりを頼りに、恵子はあの家に向かっていた。今は誰もいない、あの、倉岡直也の家だ。あの、浮き彫りになった家は近づいてくる。窓から見えたぼやけた光を確かめに近づいた。あの光は止んではない。まだ、ついては消えていた。恵子は静かに近づき、壁に張り付いて、そっと窓から家の中を覗き見た。そして、言葉を失った。暗闇の中を見入った。一つの場所に何やら人影のような物の影が見え、一点の光があり、煙が舞い上がった。そこで、恵子は動きを止めた。その瞬間、乏しい光があらわれ、その人物の顔が浮き彫りに現れた。
恵子は心臓が止まるほどの衝撃が走り、動きは止まった。だが、直ぐさま窓から身を隠し、その場にしゃがみこみ、腰を抜かすほどの衝撃はあったが、地べたに這い蹲って体を動かし、一生懸命体を立たせて自宅へと走った。長い距離に感じた。もの凄い勢いで走り、顔に表情はない。玄関に飛び込んで家の中に入り、直ぐさま鍵を閉めた。そして台所へ行き、食器棚を勢いよく開け、いくつかの食器は床に落ちて割れ、それでもかき混ぜてある物を探した。食器は次々と床に落ちて割れた。恵子の鼓動は高まった。胸が引きつった。息が出来ない。額から汗が滲み出た。胸が引きつり引きつって、苦しい。小瓶を見つけた。そこには‶精神安定剤″と書かれていた。恵子は勢いよくその小瓶の蓋を開け、物狂に薬を手に乗せて口に含ませ、冷蔵庫の扉を勢いよく開けてビールを取りだして口に含ませて薬と共に飲んだ。激しく胸を叩き付けた。床にしゃがみこみ、手を胸に押さえて落ち着かせようとしたが、次第に激しさを増し、恵子はたくさんのビールを飲み干し、息を引きつり続け、そのまま、目は見開き、動きは止まり、胸の鼓動は無くなって、手に持っていた缶ビールは床に落ちて、そのまま中に入っていたビールも零れ、恵子は、力無く、体がなだれ落ちるように、床に叩き付けられるように倒れていった。
「『ドックン、ドックン、ドックン』ってね。壁に張り付いて、震えは止まらなくて、目をパチクリさせた。そして、勇気を出してもう一度窓から覗いた。彰は避けることなく部屋の中を覗いたんだ。黒い影が部屋の中を彷徨っていた。何かを引きずりながら……彰は思わず唾を飲んだ。そして、引きずってる物が見えたんだ。ほんの少しの光が部屋の中に漏れたとき・・・人間が・・・女の人の髪を持って引きずっているブラックが・・・」
その時勢いよくドアは開いた。「ヒィー!」唯と芳井は思わず引きつり叫んでしまった。「誰?」
静江は言った。そこには男が立っていた。
「国利じゃないか」
竹中が言った。
「誰?」
唯と芳井はお互い抱きつきながら怖々と聞いた。
「俺の従兄弟だ」
竹中はタバコを吹かして国利を見た。
「久しぶりじゃないか。どうした、こんな時間に。お前が出向くなんて珍しいじゃないか」
「ああ、久しぶりだな。ちょっといらん噂を聞いてな」
「いらん噂?」
「倉岡直也はどうしてる」
皆の目が強ばった。
「奴はまだ服役中のはずだが・・・」
竹中は落ち着いた表情で、タバコを吹かして言った。
「やはり、いらん噂だ・・・」
竹中は落ち着いてタバコを吹かし、国利の言葉を待った。
「倉岡直也が出所した」