DOUBLE
初めは、まったく気にも留めないくらいだった。
名前は有名だから知っていた。それに付いて回る噂話も知っていた。ただそんなものは、よくある都市伝説の一つ程度にしか考えてなかった。
俺が一番最初にあいつを見つけたのは大学からの帰り道。夕暮れの電車に揺られ、家の近くの商店街の中を駅から家まで歩いていた時だった。
いくつかの店が閉店の準備を始めようという時刻、すでにシャッターが半分下りている店もあった。
帰宅中の人の波に揺られていると、何故だか急に言葉では言い表せない何かを感じ取った。それは悪寒や恐怖といった物ではなく、どちらかと言うと第六感や共鳴というやつに近いのかもしれない。その何かに導かれるように後ろを振り返り、今通ってきたばかりの商店街の入り口を見た。
そこにあいつは立っていた。
今だからこそそうだとはっきり断言できるが、まだこの時は、ただそんな風に見えたというだけだった。
その日を境に、少しずつ、あいつを見かける様になった。
いや、あいつが俺の周りによく出没する様になったという方が正しいかもしれない。どこから来たのか、どうやって生きているのか、どうやって俺を見つけるのか、何もかもが謎だらけだ。
こちらがあいつの存在をはっきりと認識した時には、むこうも俺の存在にもう気付いていた。大学のキャンパス、商店街、行き着けの本屋、電車の中、バイト先、時には家の中にまで、容赦なくあいつは、知らない間に勝手に張り込んできた。そして、俺がそこに近づくといつの間にか消えているのだ。
あいつを見かける度に走って後を追いかけるのだが、すぐに消えてどこに行ったか分からなくなってしまう。あいつは決して俺と直接会おうとはしない。あいつが俺を追いかけてくる事もない。
常に俺が鬼と決まっている、二人きりの鬼ごっこだ。
それなのにここまであいつに執着している自分に腹が立つ。それがまたあいつの掌の上で弄ばれている感じがして、余計に腹が立つ。
だが、俺は決して追う事をやめはしない。
俺には、あいつが何かを知る必要がある。
今夜も俺は、例の第六感を部屋で感じていた。あいつが家の外まで来ているのだ。そしてまた鬼ごっこをさせたいらしい。
あいつは、俺がかならず自分を追ってくる事を知っている。悔しいが、その通りだ。俺はまた、負けの決まった鬼ごっこをしに部屋を出た。
コンビニに行くと母親に言い玄関を出る。「さっきもそんな事言って出てったじゃない」と、特に心配してなさそうな声を後ろ手に聞いた。また、あいつの仕業か。
家の前の道路、二つ曲がり角を越した先に、電灯の光に照らし出されているあいつを見つける。
このやり取りにも慣れたもので、上下のジャージとランニングシューズを装備している。正体不明のあいつに、ここまで真剣になれる自分が不思議だった。
深呼吸を一つし、気合いを入れ、全速力であいつ目掛けて走り出す。あいつは角を曲がって、いつもの様に無表情で逃げていく。
いつもすぐには消えない。俺にもう追いつくと思わせておいて消えるのだ。
角を曲がり、住宅街を抜け、大通りを通り、商店街へと入っていく。もう深夜近いせいか、両脇に立ち並ぶ店には、ほとんどシャッターが下りている。終電にはまだ時間があるせいか、人通りは少ない。
商店街を駆け抜けていくあいつの背中を見ながら、今回は何かいつもと違う事に気付いた。
いつもはもっと行き当たりばったりで逃げ道を考えるくせに、今日はその素振りが無い。
どこか最終的な目的地があって走り回ってるようだ。もしそうなら、こちらとしては好都合。捕まえられるかは別として、その目的地に辿り着くまでは消える事はない、という事だ。
それが分かった途端、俺の肉体は今までにないくらいに加速した。
商店街を抜けたあいつは、どんどんと人気の無い方へと向かっていく。俺も気にせずただあいつの背中だけを追いかける。
ふと気が付くと、右手に建設途中の建物が見えてきた。そして前を行くあいつは、平然とその中へと入っていく。追う事だけに集中していて他の事をまったく考えられなくなっている俺も、その中へと躊躇無く入っていく。
外壁がまだできていなく、吹きさらし状態になっているビルに、階段を駆け上がる音だけが響く。中が暗くて見えないあいつの存在を、その音だけが教えてくれる。
三階ほど上ったところで、先を行くあいつの足音が一つ上の階で止んだ。
どうやらこのビルの四階が、鬼ごっこの終着駅らしい。俺は、意を決してそこへ足を踏み入れた。
他の階同様に吹きさらしで何もない。ただ隣のビルにある看板のネオンのお陰で、たまに光が差し込む。
周りを見渡すがあいつの姿はない。だが、確実にいる。あいつがそばにいる時の、あの独特の感じがずっとしている。
異様な静けさと暗闇の中、俺は端まで行ってみる。そこからは駅や商店街が向こうの方に小さく見えた。
突然、背後で足音がした。
それの正体を知っているから、十分に落ち着いてそちらを振り向ける。
ネオンの光で、俺の背後に立つ俺の顔が照らし出される。珍しく、その表情は笑顔だ。
「お前、何だ?」
こちらの問いには答えず、何かを投げてよこす。金属の擦れる音がして、足元にナイフが転がってくる。向こうの手にも、同じナイフが握られている。
なるほどと思い、俺はナイフを拾い上げながら考える。
二本のナイフ、二人の人間、二つの選択、一つの結果。考えるまでも無い。俺はナイフを強く握り、あいつを睨んだ。
残るのは、どちらか一人の俺だけだ。