〔秋人〕 自責
結局のところ、僕や友人たちにとって、どうすることが一番良かったのだろうか?
学校からの帰り道、僕はそんなことを考えていた。昨日から今日に掛けて起こった出来事についてだ。最良だと思って選択した事が、なんとも後味の悪い結果を残してしまった。八木と葵を巻き込んでしまったことは、本当に申し訳なく思う。
「なあ、そんな顔するなよ。あいつ等とは今日できっぱり縁を切った。もう終わったことなんだ。だから気にすることなんてないんだぜ」
傍らを歩いていた八木が僕を元気付けてくれた。八木は僕とは帰る道が違うのだが、心配性の葵からのたっての希望で、今日だけ僕を家まで送ってくれることとなった。
「でもお前が俺に嘘をついたのだけは、ちょっとだけ心外だな。俺って案外信用されてねーのな。なんて」
八木が小さく零す。あれも、八木を巻き込みたくなかったからこその所為なのだ。そう、自分の口から弁明したかったが、できるはずもなく、むなしく沈黙が流れる。
「……俺に迷惑掛けたくないとか考えたんだったら、そんなの余計な世話だ。俺は友達からの相談なら、どんな悩みだって喜んで引き受けるぜ。というか、迷惑掛けられるのが嫌なら、初めから友達なんてやってねーよ」
八木のその一言に、ハッとする。同時に、熱いものがこみ上げた。傍らを振り向くと、八木は照れくさそうに頭をかいていた。気がつけば、自宅はもうすぐそこだった。
「じゃあまた学校でな。あんま葵ちゃんに心配掛けんなよ」
八木が手を振り、去っていく。僕は手を振り、それを見送った。
僕は誰かに何かを相談するということが、その人に厄介事を持ちかけることだと考えていた。しかしどうやらその考えは、間違っていたのかもしれない。八木の優しさには、そう思わせるものがあった。もし僕が誰かにこの事を相談していたならば、あるいは結末は変わったものになっていたかもしれない。
幾分か晴れた心持で、家の鍵を開けた。そして思う。今日こそは高台に赴き、あの子に謝ろう。それで一連の出来事に区切りをつけるのだ。
僕は部屋に鞄を置くと、スケッチブック片手に走り出した。
神社に辿りついた時には、僕はぜいぜいと激しい呼吸を繰り返していた。あの急な坂道を一度も休まずに走ってきたからだ。それというのも、一刻も早くあの子に謝りたいという気持ちからの衝動だった。
呼吸が落ち着くのを待ってから、拝殿の裏にある開けた場所へと向った。背の高い草を書き分けながら進み、草むらを抜けると、いつ見ても惚れ惚れするほど美しい景色が出迎えてくれた。しかし、そこにあの子の姿はなかった。いつもなら私がここへ訪れたときにはいるはずなのに、今日に限っては、姿を見せていなかった。
まさか、昨日僕が来なかったことで、彼女の気持ちを損ねてしまったのだろうか。このまま二度と現れないということもあるだろうか。僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという、後悔の念に駆られた。せめて、謝罪の気持ちを伝えさせてほしい。彼女を欠いた景色は、先ほどと打って変わって、途端に色あせて見えた。結局あの子は訪れず、僕は日が暮れるまで、一人っきりで景色に向って筆を走らせた。
帰宅した僕は、悄然とした気持ちを引きずったまま、夕食に臨むこととなった。姉と席を並べる手前、僕は勤めて元気な素振りを示した。もう姉に余計なことで心配を掛けるようなことはしたくなかった。姉は僕の昨日とは違って元気そうな姿を見て、安心したようだった。食事は和やかに進み、その雰囲気が幸いしてか、先ほどの心痛い出来事が薄らいでいき、少しずつだが元気を取り戻していった。そんな折、姉がこんなことを呟いた。
「そういえば、すずちゃんがまだ帰ってこないの。いつもなら帰ってきてるはずなのに、おかしいわね。ご飯だってたべてないはずなのに」
その言葉で思い出す、昨夜の不可思議な出来事。何か物言いたげに投げられた、すずの視線。しかしあの出来事が、たった今すずの帰りが遅いということと関係するのだろうか。いや、多分僕の考えすぎだろう。無理に関連付ける必要はない。それよりも、今日はすずとたくさん遊んでやる予定だった。しかし、まだ帰ってきていないのでは、それもできない。一体こんな時間に、何処度で何をしているのだろうか。この時間になっても帰ってこないことはいままで一度もなかった。それ故、きちんと帰ってくるのかと不安になる。その時、なぜだか不意に、高台のあの子のことが頭に浮かび、頭の中ですずの虚像と重なった。しかしそれは直ぐに、姉の発言と共に掻き消えた。
「まあ猫はきまぐれだっていうしね。今日戻らなくても、明日の朝にはお腹が空いて帰ってくるでしょう」
僕は夕食を終えた後、直ぐに風呂へ入った。もしかしたら僕が入浴してる間に、すずが帰ってきているかもしれない。そんな淡い期待を抱きつつ、風呂から上り、髪を乾かし、居間へと向った。しかし、そこにすずの姿はなかった。明かりだけが存在し、音が吸い取られたようにしんとした居間。姉は自室へ戻ったのか、居間には誰もいなかった。二十センチばかり開かれた掃きだし窓から、冷ややかな空気が入り込んでいる。窓の前に立ち、隙間から外の景色を眺めた。窓の向うには見渡す限りの黒が広がり、あらゆる物を闇へと溶かしていた。やはり今日は帰ってこないのだろうか。僕はしばらく外を眺めた後、諦めて窓を閉めて居間の電気を消し、自室へと向った。
自室に入ってから、明日の予習をする為、机へと向った。勉強道具を机上に広げ、ペンを握る。しかし、すずのことや、最近起こった様々な出来事が頭をめぐり、思考を妨げた。とてもじゃないが勉強できるような状態ではない。十分ほど頑張ってみたが、どうにも続きそうにないので、僕は予習を諦めて、明日の準備をし、明かりを消して布団に潜り込んだ。
恐らく、最近色々な出来事が立て続けに起こってせいで、僕は疲れているのだ。今日はゆっくり休んで、明日からまた、リフレッシュした気持ちで頑張ればいい。すずだって、明日の朝になれば、何事もなかったかのように顔を出すだろう。朝になれば何もかもいい方向に動き出すはずだ……。
張り詰めていたものが緩んだせいか、布団に入ってからいくらも経たぬうちに、僕はまどろみへと沈んでいった。
何かの音で、僕は目を覚ました。頭上に手を伸ばし、時計のバックライトを点灯させる。見ると、夜中の十一時になろうとしていた。真っ暗な室内は静まり返り、音の気配は過ぎ去っていた。一体さっきの音は、何の音だったのだろう。気のせいではない。確かに、コツっという音がしたのだ。
音に心当たりがないか思い返していると、再び音が室内に響いた。僕は驚き、勢い良く音のした方を振り向いた。音は一度きりで、室内は再び静寂に包まれてた。音の聞こえた方向には、カーテンの閉められた窓あった。先ほどの音から察するに、どうやら、窓になにかがぶつかった音らしい。音を立てぬよう布団から脱け出し、恐る恐る窓へと近づく。すると、再び窓に何かがぶつかる音。続けて、ぶつかった何かが窓下の屋根をカラカラと転がって落ちる音がした。何者かが、小石か何かを窓にぶつけている? しかしこんな夜更けになんたってそんなことをするのだ? 私は俄かに恐怖を覚えたが、なにか自然的な理由で音が発生しているということも有り得ると考え、とりあえずは勇気を出して外を確かめてみることにした。そして、僕は部屋の明かりをつけて、カーテンを開けた。
一瞬、どきりとする。目の前に、人が立っているように見えたのだ。だが良く見れば、それは窓に反射した自分の姿だった。あたりまえだ。ここは二階なのだから、窓の外に人が立っていられるはずはない。気を取り直して、窓周辺を見渡してみたが、特に以上は見当たらない。自然的な理由ではないのだろうか。次に窓の向うを見る。正面の見下ろした所には狭い道路が通っていて、真っ暗闇の世界で、唯一道路わきに設置された電灯だけが、弱弱しい白光を点していた。そして、その明かりに照らせれて、電灯の元に誰かが居た。シルエットからすると、中学生くらいの女の子。よくよくみれば、烏羽色のワンピースを纏った、見覚えのある姿。窓を開けて、じっくりとその人物を確認する。まちがいない。電灯に浮かび上がった姿、それは、高台のあの子だった。
彼女は物言わず、唯じっと、こちらを見つめていた。突然のことに面くらい、僕はしばらく動けなかった。しばらくその状態が続き、やがて思い出した。そう、僕には彼女に伝えなければならないことがあるのだ。窓から離れ、棚ベット脇へと向う。引き出しを開け、中からスケッチブックを取り出す。そして真っ白なページに、謝罪の言葉を書き込む。描き終えると、窓まで歩み寄り、彼女に向ってスケッチブックを突き出した。
『昨日は高台に行けなくてごめんなさい。明日また、いつもの時間に待ってます』
それを見た彼女は、笑って首を振った。それは全然気にしていないといった素振りだった。そして、電灯に照らされた彼女の頬には、きらりと光るものがあった。そう、彼女はなぜか泣いていた。僕は、その涙の理由を図りかねた。やはり昨日のことを気にしているのか? 僕が考えあぐねていると、彼女は唐突に、「さようならと」一言だけ呟き、駆け出した。僕は暗闇に走り去る彼女の後姿を眺めることしかできなかった。そしてこの時ほど、言葉を話せないことがもどかしいと感じたことは無かった。