〔少女〕 決意
朝の匂いがした。私は起き上がると、そろそろと窓辺に歩み寄った。窓は開け放たれていて、そこから流れ込む冷ややかな空気と陽光の温かさが心地よい。部屋を見渡すが、居るのは私だけのようだった。彼は一階だろうか? 私は大きく伸びをすると、部屋を出て階下に下った。
台所では彼が一人で朝食を食べていた。トーストから漂う香ばしい香りが私の鼻をくすぐり、食欲を駆り立てた。彼は私の出現に気づくと、いつものように戸棚から皿を取り出し、私の分の食事を用意してくれた。彼が自分の席へ着くのを認めると、私は用意された食事にてくとてくと歩み寄り、食べだした。味は申し分ない。いや、食事が出してもらえるだけで、満足だった。この家に来るまでの私の生活を思えば、こうして毎日きちんとした食事にありつけるということだけで既に好待遇なのだ。それに加え、彼と同室で食事をするなど、もはや至福といえる。幸福に満たされた室内で、私は今を噛み締めるようにして食事を口に運んだ。
――私がこの家に住まってから、はや一月が過ぎ去った。それはあっという間で、それでいて充実した月日だった。
この家の事情についても、凡そ認識できたつもりだ。それは見たり感じたりしたことからの推察だったり、あるいは日々を通して徐々に表面に現れてきたりものだ。
まずこの家には、私を除くと、只今中学生の彼と、恐らく大学生でいくらか年の離れた姉の二人だけしかいなかった。では両親は何処へ行ったという話になるが、何らかの事情があってか、あるいは死去してしまったのか、どちらにしてもこの家に両親という者は存在していなかった。かといって金銭的に逼迫している様子でもなく、姉の方も今だ学生の身であるところを見ると、学校を辞めてまで働きに出なくても姉弟二人食べていけるだけの余裕はありそうだった。そもそも家庭が貧しい状況なら、私なんかを自ら招きいれて――自虐のようだが――食い扶持を増やすようなことはしないはずだ。おそらく親の残した財産か何かがあるのだろう。
特殊といえる事情はもう一つある。厳密には、これは彼についてなのだが、どうやら彼は今現在言葉を話せない状況にあるという事だ。何故そうだと分かるかというと、まず第一に、ここに来てから今に至るまで、私は一度として彼が言葉を発している姿を目撃していないのだ。家の電話が鳴った時なども、彼は決して自分から出ようとせず、姉にそれを伝えるだけなのである。姉が不在の時はというと、留守番電話に切り替わるまで放置するという次第だ。そして第二に、彼は姉やその他の者と意思疎通する際、一切言葉を使わずに、筆談やジェスチャーのみを用いるのだ。基本的には首振りで肯定否定を表現し、委細な事柄を伝える場合は雑記長に書くといった具合だ。以上のことを踏まえると、彼は生まれつき、あるいは何らかの理由で言葉が話せなくなっているようだ。
大きな所だと、この二つが私が把握しているこの家の事情だ。事情とはいうものの、両親の不在のせいでふさぎこんでしまっているわけでもなく、彼の言葉の件にしても、別段生活に支障をきたしている様子はない。彼らは彼らなりに今の境遇を受け入れ、前に進もうとしているようだ。少なくとも、私から見た彼らは幸福そうに見えた。そしてその無垢な笑顔を見る度に、私もまた幸福を感じるのだった――
彼は食事を終えると食器を流しに運び、台所を後にした。一人残された私は、誰も居なくなった台所で黙々と食事を続けた。
少しすると階段をドタドタと下りてくる音がして、それから間も無く、わずかに開かれた扉の隙間からテレビの音声が台所まで届いてきた。彼が居間に来ているのだろう。それで私は食べる速度をいささか速めた。彼が居間に控えているということは、おそらくもう間も無くすると、〝あの女が〟来るだろうと思ったのだ。
意にあたって、数分後には玄関のチャイムが鳴らせれた。玄関へ向う足音に次いで扉が開かれる音がした。そして「おはよう」といういつもの声。やはり「あの女」だった。私は一気に残りの食事を食べ終えると、玄関へ走った。丁度彼らも玄関を出るところだったので、私たちは一緒に家を出る形となった。
――私がこの家に来た時から、「あの女」は彼の周囲に存在していた。女は隣人という間柄を利用し、事あるごとに彼に馴れ馴れしく纏わりついた。あの女は巧みな手管で彼を誘惑しようする、極悪の妖女なのだと思った。そして私は彼が女に唆されぬ様、二人の間の縁を断ち切ろうと思い様々な悪戯を女に仕向けた。例えば、女の家の前に鳥や鼠の屍骸を放置したり、郵便受けに彼から離れろという旨の呪詛を綴った手紙を入れておいたりだ。私は近くに隠れ、女がそれらを見てどういう反応を示すのか見守った。しかし女の反応は私の予想に反したものだった。鳥や鼠の屍骸を前にした時、そのおぞましい光景に驚倒し逃げ出すと思いきや、なんとその女は家からスコップを持ち出してきて、おもむろに庭の隅に穴を掘り始めたのである。そして穴を掘り終えると、家の前に放置された屍骸を穴へと運び、土をかぶせ、手を合わせたのだった。また呪詛の手紙の時などは、例によって私が隠れて見張っていると、女が家から出てきて郵便受けの前まで歩み寄り、がさごそと郵便受けの中身を検め始めた。やがて女は郵便物に混ざった呪詛の手紙に気づいたのだが、一読するとそれを持って家の中に走っていってしまった。そのまま様子を窺っていると、女は少ししてまた郵便受けの前に戻ってきた。そして郵便受けに何物かを入れたかと思うと、直ぐに家の中へ引き返してしまった。私は気取られぬよう郵便受けに忍び寄り、女が入れたものを確認した。なんと女が郵便受けに入れたものは、私が書いた呪詛の手紙だった。そして驚くべきは、その手紙の裏に彼女のものらしき文章が綴ってあったのだ。その内容を要約すると、自分が彼に対して、決して不純な考えで近づいている訳ではないという弁明と、自分の行為で私がひどく不快な思いをしたことに対する謝罪だった。私はそれを読んだ時、狐につままれたような気持ちに陥ってしまった。まるで女に対する憎悪を全て失ったかのように、ただただ呆然とした。それらの出来事から私は、女は私の考えているような人間ではないのかもしれないと思い始めた。そして今までの行為が、単なる私の一人相撲だったのかもしれないと思った。そうして私は女に対しての悪戯をこれで最後にしようと決めた。
女は一連の出来事を、彼は勿論親などにも相談したりしていない様子だった。普通そういう話を相談されたら、親なら家の周囲を警戒したり、事が深刻だと判断した場合は警察に届け出るなりするはずだ。しかし女の両親の普段と変わらぬ振る舞いや、警官らしい人物が現場の視察に訪れないところから見て、周囲に打ち明けていないことは明白だった。おそらく女は一連の出来事を他言せずに自分の胸の内にしまっておくことしたのだ。その行動にはおそらく、事を大事にして被害が私に及ぶの防ぎたいという意が含まれていたのだろう。それで私は、とりあえずは女を信用することにした。これまでの言動や行動などから、女は信用するに値すると判断したのだ。無論女が彼をたぶらかそうものなら、今度こそ容赦はしないつもりだ。だがよくよく考えれば、彼があの女にたぶらかされるなどという心配など不要ではないか。なぜならあの女は、ドジで、おっちょこちょいで、泣き虫という、悪い要素が三拍子揃っているのだ。そんな女に彼が惹かれるなどとは到底思えない。初めから誘惑などというのは、無理な話だったのだ。そういうことで、私の監視のもとではあるが、女に彼との接触を許すことにした――
家を飛び出して向った先は近所にある公園だった。彼の家から歩いて十分ほどの距離にあるその公園は、私がこの町に来た当初から愛用している馴染みの公園だ。朝の公園は人気もまばらで、見受けられるのはジャングルジムではしゃぐ登校途中らしき小学生の集団ぐらいだった。そんな彼らも一人が駆け出したのを合皮切りにばたばたと騒がしい足音を残して去っていった。そしてその足音の残滓のようなものが消え去っていくにつれ、静寂が園内をみたしていく。それが私の周囲にまで及ぶと、まるで時間の流れが緩まるような、不思議な感覚に見舞われた。
私はこのしんと静まり返った朝の公園の雰囲気が好きだった。人によって掻き回される前の瑞々しい空気は私に平静を与えてくれたし、この場所に来れば、例え一時だとしても様々な嫌な事柄から逃避することができた。それは私にとって、一日をリセットする為の大切な儀式の様なものになっていた。私は目を閉じまだ穢れていない澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むと、古くなった自分を追い出すようにゆっくりと時間をかけてそれを吐き出した。
しばらく園内を歩いた後、私は公園を後にして次の場所へと向った。目指す所は最近見つけたお気に入りの場所だった。
住宅地から少しはずれたところに、山中へと向う私道の往来がある。鬱蒼とした森に挟まれたその道は、用あって山に入る者が使用する他は使われていない道だった。その往来沿いをしばらく進むと、車一台分程の幅しかない未舗装の山道への入り口が道脇に現れる。その辺りまで来ると既に人気というものがほとんど感じられず、辺りには森特有の黴びたような匂いが充満していた。私は山道に踏み入ると臆せずに山道をどんどん奥へと進んでいった。耳に届くのは木が軋む音と鳥の囀りだけだった。やがて山道は終わりをむかえ、三十坪程の開けた場所にたどり着く。視界に入るのは積み上げられた丸太の山。そこは切り倒された木材の集積所だった。
周囲を取り囲む木々の中にぽつんと存在するその集積場は、まるでそこだけ切り取られた特殊な空間のようだった。切り開かれた土地を囲むように丸太の山が何箇所か点在している。最寄の丸太の山に歩み寄ると、まだ切り倒して間もないのか、濃厚な木の匂いが鼻をくすぐった。私は丸太に寄りかかるようしてその場に座り込んだ。森の中で切り開かれたその空間だけは、陽光を遮るものもなく温かな光がきらきらと降り注いでいた。こうしているとこの広い世界に唯一私だけが存在しているような錯覚に襲われる。その私も少しずつ大自然と一体化し、細かな粒子となって消えていくようだった。私が消えてしまったら彼はどう思うだろう? 悲しんでくれるだろうか? ふとそんなことを考えたが、麗らかな陽気と新木の心地よい香りに思惟する気力を失い、私はしらずしらず眠ってしまった。
――一体どのくらいの間私は眠り込んでいたのだろうか。辺りはまだ明るかったが太陽は中天をとくに過ぎていたのでもう午後だとわかる。日が翳る前に森から抜けたほうがよいと判断し、私は集積所を後にした。
初めの公園に引き返し、時計台で時刻を確認した。……午後三時半。予定の時刻まで一時間程あった。到着までの時間を考えても十分間に合う。私は一日の最後を締めくくる為に目的地である神社へ向けて歩き出した。
一旦彼の家まで引き返すと、今度は公園とは逆方向へと向った。家の正面からみて右脇を通る坂道を上り、頂上付近で左手に折れて細い路地に入る。路地を進んで間も無く右手に神社の鳥居が見えてくる。それが目的の神社の入り口だった。私は鳥居をくぐって境内に進入した。そのまま神社の奥へと続く石段を登る。石段を登りきると周囲をを草むらで覆われた拝殿が正面に現れる。私は拝殿の右側面へと移動すると、拝殿下から隠しておいた紺色のワンピースを取り出しそれを纏った。これで準備は整った。あとは彼の訪れるのを待つだけだった。私は拝殿の裏手にある町を見下ろすことのできる高台へと向った。その場所は夕刻の限られた時間、彼が承知している普段の私ではなく、もう一人の、別人の私として唯一彼に面会できる場所だった。
――この場所に最初に訪れたのは、彼の家に住まうようになって間も無くのことだった。私がいつものように街をぶらついてから帰宅すると、偶然に自宅の玄関からこの場所へと向う彼を目撃したのだ。何処へ向うのだろうとこっそり後をつけてみたら、この場所にたどり着いたのだった。私は彼が何の目的で此処に訪れているのかを探るため、物陰に隠れ背後から彼の様子を窺った。どうやら彼は高台から望める景色を抱えたスケッチブックに描いているようだった。周囲には目もくれず、目の前の景色だけに集中して黙々と筆を動かしていた。彼が居なくなった後に自分もその場所立ってみて分かったのだが、確かにその場所から見下ろす景色は絶景だった。そこからは彼の住む街の全貌と、その先の遥かな大洋が一望できたのだ。彼が描いてみたいと思うのも無理はないと思った。考えてみれば彼とはじめて出会った日も、彼は同じく筆を握っていたのだ。言葉を話すことのできない彼にとって、絵を描くという行為はなにか特別な意味のあることなのだろうかと勝手に推察してみる。そうして私は次の日から彼が学校から帰宅する少し前にこの場所で彼を待ち受けるようになった。
私は彼の前に姿を現すとき、必ず紺色のワンピースを纏った。その理由は、普段彼が目にしている私では無く本当の姿としての自分として彼と面会したかったからだ。矛盾するようだが、それを纏うことで偽りの無い自分を曝け出すことができたのだ。ワンピースは彼の姉のものをこっそりと拝借した。その服を選んだ訳は単に私の趣味に合うような色の服がその一着のみだったからだ。運良く丈も丁度良かったので、初見でそれに決めた。私はその紺色のワンピースを密かに持ち出し、神社の拝殿の下に隠した。そして彼に面会するときだけ取り出して纏った。
初めて彼の前に姿を現した時彼は一瞬驚いた表情を見せたが、別段戸惑う風でもなくすぐに暖かな笑顔を浮かべ私を迎えてくれた。彼は隣りへどうぞというように手振りで私を促すと、それからまたキャンバスへと向っていった。私は彼の傍らに立ち、眼前に広がる景色へと臨む彼を、西日で全ての事物が朱色に染まりきるまでの間、ただ静かに見守った。別れの時間が訪れると、彼を神社の鳥居まで見送り、私も拝殿の下へ纏っていたものを戻してから、帰路に着いた。それから彼とその場所で過ごす時間は、私にとって、一日のうちで最も価値のある時間となった――
例によって、私は今もこうして彼の到来を心待ちにしていた。公園を発ってから三十分は経過しているはずだった。もう半時間ほどすれば彼は訪れるだろう。それまでは浮き立つ気持ちを抑え悠然と彼を待つことにしよう。
……しかし、優に一時間は経ったかという時間になっても、彼は未だ姿を現してはいなかった。日は刻々と落ちてゆき、辺りは次第に赤味を帯びていく。
彼がこの時間になっても訪れないことは今までに無いことだった。いつもなら多少前後したとしても十分程度の誤差だった。それがこの時間になっても訪れないということは、何か止むを得ない事情が発生したのだろうか。もしや彼に何か良くないことが起こったのではないか? 杞憂だと思いたい。しかし私の脳裏に、彼の家に引き取られる直前の病院で過ごした日々の記憶が沸き起こる。そしてあの果てし無く落下していくような、絶望に似た感覚。気がつけば周囲の朱は鮮明さを失い、既に薄闇へ足を踏み入れている。私は待つことを諦め、彼の家へと走りだした。
家に到着するなり、私はリビング、次いで台所の順で室内へと駆け込み彼の姿を探した。しかし彼の姿は見当たらなかった。階下に彼が居ないことを確認すると、階段を駆け上がり一直線で彼の部屋へと向う。部屋の扉は閉ざされていた。扉の前に立ち、耳を澄まして部屋の内部の様子を窺う。物音は無く嫌なくらいに静まり返っている。、室内の照明も消灯されているらしく、上部に取り付けられた磨りガラスからは、ぼんやりとした暗闇が覗いていた。部屋にはいないのか? ではいったいどこにいる? 私はひどく混乱した。家中を捜しても、彼の姿を捉えることができなかったからだ。
私が放心したように佇立していると、階下から彼の姉が現れた。
「すずちゃん、あきは学校へ行って疲れちゃったみたいで、お部屋で眠ってるの。起こすと悪いから、下へ行きましょうね。ご飯もできてるのよ」
私は階下へ下り、夕飯を食べた。私と姉の二人だけの食事だった。キッチンテーブルの彼の席には、ラップに巻かれた彼の分の夕飯が用意されていた。
彼については、姉の説明で、とりあえずは納得することにした。しかし、彼の顔を自分の目で確かめるまでは、手放しで安心はできない。食欲も出なく、姉には悪かったが、夕飯を半分ほど残してしまった。姉の方も彼のこと心配している様子で、食事を早々に終えると、食器を流しに運んでしまった。食器を洗っている最中も、表情からは憂いを見て取れた。
昨日の和やかさからは打って変わったような空気。家の中を、重々しい雰囲気が支配していた。家族の絆が強固なほど、感情も伝播しやすいのだと思った。
彼の疲れている理由について考えてみる。夕食も食べず、風呂にも入らずに寝てしまうなんて、今までに無かった。しかも今日に至っては、あの高台にも現れなかったのだ。学校でなにか、思い悩むような出来事があったのだろうか? 例えば……いじめ? ……言葉を発せぬ彼なら、十分にありえる事だ。いじめを働く輩にとって、そういう不具は恰好のいじめ対象になるだろう。とにかく、明日は朝から学校に行ってみよう。校内には入れないかもしれないが、外から見張ることは可能だ。加害者がいじめを実行するために、対象を校舎の外に呼び出すということは十分に考えられる。明日は一日、学校に張り付いてみよう。
その日の夜は、姉がリビングに用意してくれた寝床で眠った。私は布団の中で、私の推論が当たっていた場合、どうするべきなのかを考た。そして私は、ある一つの事を決意した。