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〔秋人〕 兆候

朝目覚めた僕は、ベットから立ち上がって部屋の東側にある窓辺に向かい、カーテンを開いて窓を開放した。光が室内に差し込むと同時に、朝の新鮮な空気が、徐々に室内を満たしていった。

机上の時計を見ると、時刻は七時五分だった。目覚ましのアラームをセットした時刻よりも前に起きてしまったようだ。愛猫のすずはというと、気持ちよさそうな顔で寝息を立てていた。僕は目覚ましのスイッチを切り、すずを起こさぬよう静かにドアを開けると、一階へと向った。

一階に下りると、そのまま台所に向った。食パンを二枚トースターに入れタイマーをセットし、パンが焼けるまでの間にトイレを済ませ、洗面所で顔を洗った。顔を洗い終え台所に戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。トーストの方はというと、いい具合に焼けて出来上がっていた。僕はそれに、ひとつはマーガリン、ひとつは杏のジャムを塗り、先にマーガリンのほうから食べ始めた。僕がトーストを食べていると、すずが引き戸の隙間から台所に入ってきた。僕はすずの分の朝食を用意してから、再びトーストを口に運んだ。

朝食を食べ終え、歯を磨いてから二階の自室へ戻った。学校の制服に着替えて時刻を確認すると、七時三十分だった。僕は部屋の窓を閉めた後、鞄を持って一階の居間に行き、テレビをつけた。どこの局も朝はニュース番組なのでそれをぼんやりと眺めていると、程なく玄関インターホンが鳴った。玄関に向かい扉を開けると、そこには例によって幼馴染の葵が笑顔を浮かべて立っていた。

「おはようあきちゃん」

僕はテレビを消してから、再び葵の待つ玄関へと向った。それと同じくして、すずも台所から顔を出し、僕らと一緒に玄関を出た。(すずはいつもぼくが朝登校すると同時に外出し、夕方過ぎになるまで帰ってこない)

自宅から学校までは歩いて十五分ほどの距離にあった。朝の住宅地の通りには、緑色の通学帽をかぶった集団登校する小学生達、ゴミ出しをする主婦、陰気な顔つきをしたスーツ姿のサラリーマンなどの姿が見られた。僕らもそんな雑多な人たちの一部となり、学校へ向かって歩いた。すずはというと、どこへ消えたのか、その姿はもう見えなくなっていた。

「すずちゃんいつも元気だよねー。朝早くからお出掛けだもん。私達も負けてらんないな」

葵が呟く。それを聞いて僕は、姉に聞かされたある話を思い出した。それはすずが僕の家に住まうきっかけとなった話だった。



――その日は日曜日で、僕は昼過ぎまで外出した後帰宅し、疲れたので自室で眠っていた。姉はこれから夕飯の準備に取り掛かろうとしていたところで、そんな時に玄関のチャイムが鳴らされた。回覧板は先日に回したばかりなので、隣の立花のおばさん(葵のお母さん)が裾分けに訪れたのかと思ったらしい。――立花家は、我が家にしばしば訪れては、惣菜を作りすぎたと裾分けをしてくれるのだ――玄関に向かい、来客を出迎えようと扉を開けた姉は首を捻った。玄関先に誰も立っていなかったからだ。チャイムの音は聴き間違いだったのかと思って扉を閉めようとした時、玄関先の地面になにか黒いものが置いてあることに気づいた。それは一般的な炊飯器程の大きさをしていた。怪訝に思いながらもその黒いものが何か確かめるために近づくと、どうやらそれは、なにか布のようなものらしかった。手にとって確かめようとしたとき、その衣の包まれるようにしてなにかが中に潜んでいることに気づき、姉は身を退いた。布が微かに上下していたのだ。周囲の地面を見渡すと、その黒い布に向って血痕のようなものが点々と続いていることが確認できた。それで姉は、布に包まれて小さな動物かなにかが中にいるのだと考えた。姉は布の中身を確認することにした。中に潜んでいるものの得体が知れないという恐怖はあったが、仮にそれがまだ息のある生き物であった場合、一刻も早くそれを動物の病院へ運ぶ必要があると思った。また、先程の布の上下が呼吸によるものだとすると、中の動物はまだ生きているはずだと考えた。姉は覚悟を決め、包んでいた衣を取り払った。

中に隠れていたのは、一匹の黒猫だった。黒猫は左の前足を怪我しているらしく、その周辺が血で濡れていた。猫の怪我に気づいた姉は駆け足で家の中へ引き返し、直ぐ様きれいなタオルを持って戻ってくると、猫に駆け寄り患部をタオルで止血した。その後電話帳で最寄の動物病院の住所を調べてそれをメモすると、二階の自室で眠っていた僕を揺すって起こした。姉は僕に、「出かけてくるから留守番お願い」とだけ言い残し、車に乗り込み動物病院へ向ったのだった。

それから二週間経ち、黒猫は我が家に引き取られることとなった。――といっても、我が家で引き取るということを僕が知ったのは、黒猫の退院する当日のことだったのだが――

病院に運ばれた黒猫には首輪がついていなく、また捜索願などもでていなかったという。おそらく野良猫だという判断がなされ、引き取り手が現れなければそのまま保健所へ送られることとなった。姉はそこで、その猫を自ら引き取りたいと申し出た。その申し出は受諾され、黒猫の傷が完治した頃迎えに来るという約束を交わした。そして僕には一切そのことについて知らされないまま、二週間後の退院の日を迎えたのだった――



以上が姉が僕に話してくれた、すずを引き取るに至るまでの話の顛末だ。因みに怪我を負わせた人物や、玄関先に放置されていた理由はわかっていない。もしもそれが嗜虐趣味の異常者による犯行なら、早い段階で捕まってほしいと願う。


「それじゃあね」

学校へ到着した僕らは、いつものように生徒玄関で別れ、それぞれの教室へ向った。教室の直ぐ近くまで来ると、既に扉の向うからの騒がしい声が聞こえていた。扉を開けて自分の席へ向う。朝にも関わらず教室は賑やかで、あちこちで談笑やら奇声やらが飛び交っていた。僕は席に着くと、教室正面の時計を見やった。八時十分。ホームルームの時間まではまだあと五分ある。

ホームルームが始まる前にトイレに行こうかなどと考えていると、友人の『八木武』が声をかけてきた。

「おはよう。おい秋人、三年の須田と神尾。二年の三田村って先輩、しってるか?」

唐突な質問だった。『須田』と『神尾』と『三田村』。三人とも知らない名前だったので僕は首を振った。

「そうか。いやなんかな、最近そいつら三人が一年の奴を標的に金をまき上げてるらしいんだ。それで、最低でも既に五人は被害にあってるらしい。ほら、今日伊藤が休んでるだろ。そいつらにたかられたって噂だ。だからお前も気をつけたほういいぞ」

そこで予鈴が鳴り担任の教師が現れた為、八木は手を振り自分の席へと戻っていった。

それにしても、この学校でゆすりが横行しているという事実は初耳だった。確かに今日クラスメイトの伊藤という生徒は欠席していた。しかしその原因がゆすりによるものなのかどうか本当のところがわかり得るはずもなく、僕は暗鬱な気持ちを抱えたまま午前の授業に臨むこととなった。


 四時限目の授業が終り、校内は昼食の時間へと突入した。僕はいつものように仲の良い友人三人と合流すると、適当に空いている場所を見つけて一ヶ所に集った。そして机を四つ寄せ合わせてから弁当を並べ、箸を取った。。

依然として僕の頭の中は、今朝八木の話していたことの内容で占められていた。僕は気持ちの晴れぬままに弁当を口に運んだ。当の八木はというと、その話についてはまったく気にしている様子はなく、お得意の機知に富んだ発言で皆の笑いを誘っていた。そんな彼の姿を見て塞いでいる自分が馬鹿馬鹿しく思った僕は。そのことについては、あまり深く考えないようにしようと心内で思った。しかしその思いは直ぐにかき消されることとなった。

昼食を終えた僕は、しばし友人たちの語る面白おかしな話に耳をを傾けていた。そんな時、教室の出入り口のほうでクラスメイトが僕の名前を呼ぶ声がした。

「おい、藤沢いるー? 二年の先輩が、お前に話があるからちょっと屋外の体育倉庫のとこまで来てくれってよ」

その一言で、恐れていたことが訪れてしまったと思った。たまたま自分に用があって呼び出したのかもしれないが、僕には二年に知り合いと呼べるような人はいないし、第一体育倉庫の裏なんかに呼び出すのは不自然だ。多分その二年の先輩というのは、八木の話していた三田村という先輩だろう。比較的内気な性格である僕は、ゆすりを働こうとしている者には格好の標的なのだ。

「秋人、お前その二年に心当たりあるのか? ……ないなら、もしかしたら朝話した例のやつかもしれん。おい、俺も一緒についていこうか?」

八木が同行を申し出てくれたが、僕は首を振り、それを制した。友人をこんなことには巻き込みたく無かった。他の友人は、「屋外に呼び出しなんて絶対に怪しいから、行かないほうがいい」「先生に報告したほうがよい」などと助言してくれたが、今行かなくても再び呼び出しが掛かることは明白だし、教師に告げ口したとして、それが相手に露見した時にさらに悪質な報復をされるかも知れないと考え、結局彼らの助言には背く形となった。僕は彼らにこの事は誰にも口外しないと約束させ上で、教師にも何も告げずに一人だけで指定された場所へと向った。


体育倉庫は生徒玄関を出た後、校舎沿いを西へ真っ直ぐいったところの隅に設置されていた。体育倉庫は学校の敷地を囲うフェンスと校舎の間にちょうど挟まれるように建っていて、人目につきにくい倉庫の裏は殆ど不良たちの喫煙所と化しているらしかった。僕が倉庫の近くまで来ると、僕を呼び出した当人だと思われる男が倉庫に寄りかかるようにして立っていた。がっしりとした体格で背が高く、遠目に見ても百七十後半はありそうだった。彼は僕が現れたことに気づくとこちらに歩いて近づいてきた。

「よう。誰にも言ってねーよな? とりあえず裏までついて来い」

彼はそう言ってから周囲を見渡し、近くに誰もいないこと確認してから倉庫の裏へと歩き出した。僕は覚悟を決め、後ろに従って歩き出した。

 倉庫の裏では二人の生徒が煙草を燻らせていた。一人は小柄で、まるで爬虫類のようなぎょろぎょろとした双眸の男だった。地べたに座りこみ、こちらを一瞥してから興味がないという風にすぐ視線を戻した、もう一人はだらしなく制服を着崩した中肉中背の男で、いやに浅黒い肌をしていた。その男はフェンスにもたれかかった状態でこちらを値踏みするような目で見ていた。

 黒い肌の男が僕を連れてきた男に言った。

「三田村、そいつがお前の言ってた奴か? たしか藤沢とかって一年」

「はい、そうです。だろ? 一年」

僕はおずおずと頷いた。気がつけば両手のひらに凄まじい量の汗をかいていた。

「ふーん。おい須田、こいつ知ってる?」

座り込んだ男は振り向きもせずに、「しらね」とだけ答えた。

「……まぁいいや。とりあえず本題入るけど、俺ら今見ての通り金銭的に非常に困窮してるわけよ。それでね、今お金に余裕ある方々を呼び出して、僅かながらカンパを頂いております。もちろんそちらの厚意という形でね。まぁいくら察しが悪い奴でもここまで言えば後は大体わかるよね。ようするにあなたの温情に与りたいと。そういうことなんですよ。……んでお前今金持ってる?」

こういう事態に慣れていないためか、それとも緊張によるものか、その時僕は極度の吐き気をもよおしていた。そんな混濁する思考の中で、この状況に置いて考え得る作善の策を導き出そうとした。まず考えられる道として二つの道が浮かんだ。一つに、素直に所持している金銭を引き渡すということ。しかしこの方法をとってしまうと心の弱さに付け込まれることとなり、今後彼等からの強請を度々強いられることは自明だ。そしてもう一つに、彼らの要求に断固として拒否すること。こちらは相手に、「こいつは金をよこしそうもない」と判断されて見限ってもらうことができれば、今日限りで彼等との関係を断ち切ることができるだろう。しかしこちらがそういう意向を示せば、彼等が暴力的制裁に出てくることは必至だ。


問い掛けられてから三分程が経過していた。相変わらず僕は激しい嘔吐感に抗いつつ、荒い呼吸を繰り返していた。実のところ僕の考えは大方まとまっていた。だがどちらを選ぶにせよ、僕にはもうひとつ解決すべき事柄が残っていた。それはこちらの意思を相手に〝どう伝えるか〟ということだった。

「ねえ、金もってるのもってないの? 黙ってたらわからないだろって。 ……もしかしてこのまま黙ってればこの場を乗り切れるとか思ってる? 残念ながらそれないから。今直ぐ答えないと血を見る事になっちゃうよ。」

 黒肌の男が痺れを切らして責め立てる。しかし僕には沈黙するほかなかった。そうしていると、三田村という男が口を開いた。

「神尾さん、もしかしたらこいつ、言葉を喋れないのかも知れないです。さっきこいつを呼び出しに言った時にこいつのクラスの奴が言ってたんですが…… 神尾さん、一年くらい前にこの街でトラックの暴走事故があったの覚えてますよね? 赤信号を無視したトラックが交差点を突っ切ろうとして横から来た乗用車とぶつかった後、そのまま歩道に乗り上げて歩いていた人を何人かはねたってやつです。そんとき新聞やニュースでも大きく取り上げられてたんでまだ覚えてると思いますが、実はこいつ、そん時乗用車に乗ってた本人らしいんですよ。両親と三人で乗ってたらしいんですが、運転席と助手席の両親は死んで後部座席にいたこいつ一人だけが助かったらしいです。それでその時からこいつ、ショックで声が出なくなっちゃったらしいですよ。本当かどうかは知りませんけどね」


「……おい一年、いま三田村が話したことは本当か?」

三田村とかいう男の話していることは概ね事実だった。一年前、僕は交通事故によって両親を失った。後から姉に聞いた話だと、両親があんな姿になったのに僕が無傷で生き残ったのは奇跡的なことらしい。しかし本当の意味では、僕は無傷ではなかった。

事故の後、僕は自分が言葉を発声できなくなっている事に気づいた。医者に問診を受けた際、口頭で伝えようとしても声を出すことができなかったのだ。発声の仕方をまるで忘れてしまったようで、つい先日まで自分がどんな風に喋っていたのかさえ思い出すことができなかった。医者の診断の結果は、心的外傷による失声症ということだった。といってもこれは一時的なもので、個人差はあるが普通に生活していれば徐々にだが話せるようになるとのことだった。しかし僕の場合は、一週間が経ち、一ヶ月が経っても回復の兆しは見えず、事故から一年経った今でも未だ声を取り戻せずにいた。自分でも時が解決してくれるような簡単なことではないのだと自覚していた。周りが思っている以上に僕の心に刻まれた傷は深く、その当時の衝撃が、まるで楔のように心に突き刺さって残っているのだ。なんたって、あんな凄惨な光景を目の前で見せられてしまったのだからしかたがないというものだ。僕は一生という長い時間をかけて自分の声を取り戻すしかないのだ。


僕は神尾という男の問いに頷いて答えた。その時僕はやりきれなさと同時に、静かな怒りを感じていた。こんな奴等に僕の過去を詮索されたことが嫌で嫌でしかたがなかった。

「ちょ、マジなのかよ。引くわー。でも、なんか嘘っぽいけどなあ……。まあ別にそんなこと俺には関係ないですけどね。とりあえずお前が喋れないことはわかったからさ、金持ってるのかどうかだけはっきりしさせてよ。肯定なら頷く、否定ならなら首振ってでいいからさ」

僕は肯定の意を示す為に頷いた。

「そうか。それじゃあお前に同情の気持ちがあるなら、三田村に金を渡してやってくれ。いいか、これは強制じゃなくお前の心持次第だからな」

僕は三田村という男に所持していた金を渡した。それは姉に昼食代として渡されているものだった。断然納得できる行為ではないが、僕としてはとにかくこの状況から解放されたかったのだ。彼らの言うことをはいはい聞いているほうが、解放される方法としては手っ取り早いと判断した。

「話がわかるねえお前。三田村、いくらだ?」

「三千円ですね」

「三千円? おいおい勘弁してくれよ。こんなんじゃ足りねえ。すぐに使っちまうよ。うーんそうだな……十倍。これの十倍の金を持って、明日同じ時間にこの場所に来い。ばっくれたり金が足りなかったりしたら、どうなるかわかるよね? それじゃあまた明日。おいお前ら、戻るぞ」

神尾という男の号令で、彼らは生徒玄関の方へと引き上げていった。一人残された僕は、こみ上げてくる嘔吐感に耐え切れず、近くにあった外トイレに駆け込み嘔吐した。吐いた後も口の中に残った吐瀉物が更に吐き気を煽り立て、何度も嘔吐を繰り返した。やがて胃に吐き出すものがなくなると、僕は水道にいき、水で口をすすいだ。

胃の中身とは対照的に、僕の頭の中は様々な感情が入り混じり、破裂しそうなほどに膨れ上がっていた。そのせいで僕の頭は悲鳴を上げ、何も考えられぬ具合だった。それに精神が極度に疲れたせいか、ひどく眠い。今はただひたすらに眠りたかった。僕は自分の教室へ向って、足を引きずるようにのそのそと歩き出した。

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