〔少女〕 焦燥
意識を取り戻した時、私ははじめ、自分がどこにいるのかわからなかった。まったく見覚えのない景色、匂いだったからだ。周りを見渡すと、なにかの計器類のようなものがたくさん置いてあるのが目に付いた。普通の家には置いてない物のようだが、一体ここはどこなのだろう。
意識を失う前の記憶を思い出そうとした。最初は朧げだった記憶が、徐々にだが時間とともに覚醒していき、やがて記憶の全容を思い出すに至った。
私は一人の少年の家に上がり込む為に、ある計画を企てた。その計画とは、自らを傷つけることで彼の同情を誘い――汚いやり口だが、他に良い方法がなかった――彼の家の住人として取り込んでもらう、という内容だ。計画を無事完遂した私は、不覚にもそこで意識を失ってしまった。そして先程、この見知らぬ場所で目覚めたという次第だ。
回想してから初めて、自分が負傷している事実を自覚した。怪我をしているほうの腕を見やると、自ら傷つけた腕には包帯が巻かれていた。傷の具合はというと、時折軽い疼痛が襲ってくる程度で、それほど重症というわけではなさそうだった。私をここに寝かせてくれた人物が治療を施してくれたのだろうか? そうだとしたら、一体どのような人物なのだろうか? 一番考えられる可能性としては、ここが病院で、私を治療してくれた人物が医者であるという可能性だろう。私が彼の家の玄関先で倒れているところを、彼または、彼の親兄弟が発見し、病院に運んでくれたという風に考えれば、今おかれている状況についても納得がいく。そしてもし、この想像が正しいのなら、傷が完治する頃には、晴れて私は、彼の家の新しい同居人として迎え入れられることだろう。
これから始まる新しい生活のことを思うと、胸が躍った。嬉しさのあまり動悸がして、心臓が脈打つたびに、傷がずきずきと痛んだ。身を削ってまで計画を敢行した甲斐があったというものだ。もう少ししたら彼が迎えに来てくれるだろう。それまでに私にできることいえば、傷の治療に専念することだけだ。今は体をゆっくり休め、来る日に備えることにしよう。
私は目を閉じ、まどろみの中で夢想する。眩く光る虹色の未来。どこまでも暗く灰色だった日々に、生きる目的という光を彼は与えてくれた。感謝せずにはいられない。……ありがとう。久しかった温かい気持ちの中で、私は眠りについた。
翌朝、私は何らかの物音で目を覚ました。部屋の入り口に目をやると、白衣を纏った人物が医療品らしき物を乗せた台車を押して部屋に入ってくるところだった。私は促されるままに薬の塗布と包帯の交換をしてもらった。治療が終わるとその人物は部屋を後にした。そういうわけで、またも私は部屋にひとり残されてしまった。
医者は現状については何も説明してはくれなかった。聞かれぬことには我関せずといったところだろうか。それにしても、いたわりの言葉一つくらいかけてくれてもよいと思うのだが。まあ良い。私はそんな細かいことなど気にしない性質だ。それよりも、私には起きてからずっと気にかけていることがあった。
彼は今日、面会に来てくれるだろうか。そのことが頭の中の殆どを占めていた。もしも来てくれるのなら、夕刻あたりだろうか。日中は学校へ行っている可能性が高いからだ。それまでは彼に会える事だけを考え、憂鬱な時間を乗り切ることにしよう。きっと彼の笑顔を目にすれば、腕の傷だってたちどころに完治してしまうことだろう。私は期待に胸を膨らませ、対面の時を待った。
辺りに夕闇が広がりはじめ、病室のカーテンが閉められる。
結局その日、彼は面会には訪れなかった。私は憮然として、ただ病室の天井を仰いでいた。
今日私の前に現れたのは、食事を運んできた看護士のみで、他に見舞い客などは一人も訪れなかった。窓の外を眺めては、まだかまだかと溜め息をつき、扉が開かれたと思えば看護士で、気がつけば日が落ち、室内灯が点けられていた。抱いていた期待が大きかった故に、落胆の度合いも大きかった。
私は彼が訪れなかった理由について、あれやこれやと思案してみた。例えば、体調を崩してしまって、今は家で安静にしている、とか、親類に不幸があり、そちらの葬儀に出席するために、こちらに来られなくなった、とかだ。しかし、いくら考えたところで、本当の理由など確認する術も無いし、この胸苦しい気持ちがどうにかなるというものでもなかった。
そんな時、ふっとある嫌な可能性が脳裏をよぎった。それは、彼、または彼の家族に私を迎え入れるという意思がはなっから無く、私の存在などは疾うに忘れていて、私は訪れるはずも無い彼の迎えを胸躍らせ待ち焦がれている、という可能性だった。それは私が考え付いたシナリオの中で、もっとも無慈悲で、哀れで、残酷なシナリオだった。私は頭を振りその考えを振り払おうとしたが、一度その思考に至ってしまうと、なかなか考えを拭い去ることはできなかった。私は何度も自分に言い聞かせた。彼は私を見捨てなどしない、必ず私を迎えに戻ってくるのだ、今日はたまたま急用が入って、来れなかっただけのことなのだ、と。しかしその言葉は、言い聞かせるほどに真実味を欠き、胸の中に虚ろに響いた。そしてそれは、私が眠りに就くその間際まで、私の頭の中に纏わりつき、離れることは無かった。
翌日、依然として私は彼を待ち続けた。しかしながら、その日も彼は私の前に姿を現すことは無かった。疑念は深まり、私はその夜、ついに耐え切れずに嗚咽した。頭の中では彼のことを信じたいと思っていても、つきつけられる非情な現実に、その思いも打ちのめされ、弱っていった。
その後も彼が訪れる気配は一向になく、ここに来てからすでに一週間が経過していた。その間私は、包帯を交換し、彼を待つだけの日々が続いた。それでも私は彼のことを待ち続けた。彼のために生きると誓った故に、その儚い希望にすがる他無かったのだ。
一日、また一日と、無常にも時は流れる。私は相変わらず、彼へ思いを馳せる。傷は完全に癒え、包帯も外されていた。そしてもうすぐここも二週間が経とうという時、唐突にそれは訪れた。
私はその日、朝食を終え、いつものように窓の外を眺めていた。扉が開かれる音がしたのでそちらを見ると、そこには医者が立っていた。医者は私の元に歩み寄ると、一言だけ、「おめでとう」と告げた。
その後、医者とともに部屋を後にした。その時私は、困惑に似た複雑な思いを抱いていた。今までに、医者に連れられて病室の外に出たことなどなかったし、先程医者の口からでた『おめでとう』の意味も量りかねていたからだ。言葉通りに受け取るならば、それは私に対してなにか良い事が起きたことを意味するだろう。それが単に、傷が完治したことに対する言葉なら落胆するだけだが、今私が置かれている状況からして、私にはある期待が胸奥にあった。
受付ロビーに到着した時、若い女が一人、ロビーチェアに座っていた。見知らぬ女で、私達の接近に気づくと、女はこちらに歩み寄り頭を下げた。
「こんにちは」
私の予測は当たっていた。私は女の家に、引き取られることになったらしい。それがいつごろに決定した事なのかはしらないが、これでようやく、ここから脱け出すことができるのだ。私は素直にそれを受け入れた。
それから女は医者と何がしかの言葉を交し合った後、礼を述べて施設を後にした。私も女と連れ立って玄関を出た。女はそのまま付置された駐車場へ向うと、自分の所有しているらしいネイビーブルーの軽自動車の前で立ち止まった。女は私を助手席に乗せると、自らも運転席へ乗り込んだ。これから彼女の自宅へ向うのだろうか。車は微かな振動と静穏なエンジン音とともに、ゆっくりと動き出した。
施設を出てしばらくは市街地の中を走った。窓外を通過していく景色から、どうやら車は私の見知らぬ土地を走っているようだった。先程まで私が収容されていた施設は、私が元いた地域からは幾分離れた場所にあるのだろうか。
道すがら、女は誰とはなしに呟いた。
「あき、今日の事知らないからきっと驚くだろうな。ふふ」
『あき』とは、どんな人物だろうか。願わくば、私の知る『彼』であってもらいたいと思った。だが、一度も面会に訪れなかったことを考えると、その可能性は低いだろう。例えその人物が私の知る彼とは別人で、全く繋がりのない人物に引き取られたのだとしても、機会をみてその家から脱け出せばいいだけの話だ。そしてまた改めて彼に会いに行けばいい。その時は、先のような失敗は避けなければならない。今はただ、前回よりも優れた策を練ることだけを考えていればいい。それまでは彼女の家に居座り、好意を有効的に利用することにしよう。
十五分ほど走り、二人を乗せた車は市街地から郊外へと抜けた。そのころには、背の高いビルなどの建築物は目に付かなくなっていた。車が丁字路に差し掛かる。信号機は青だったので、そのままウインカーを点灯し右折する。その直後、視界に入った景色に、私はなにか、既視感のような感覚を覚えた。確信ではないのだが、そこはかとなく見覚えがあると感じたのだ。しかしそれは単なるデジャビュなどではなく、実際に視認したことのある景色だということが、目的地に近づくにつれてわかってきた。
車を数分走らせると、飛び込んでくる景色は私のよく知る懐かしき故郷の町並みへと変わっていた。私は、元いた町へ帰ってきたのだ。そしてそれは、『彼』の住む町でもあるのだ。
思いがけない幸運に、私の胸は高鳴った。彼は今、この町の何処にいて、何をしているのだろうか。私は今すぐにでも車から飛び出し、彼を探しに行きたいという衝動に駆られた。しかし私は、それを懸命に堪えた。つい先程、きちんと計画を立てた上で改めて会いに行こうという今後の方針を心に留めたばかりではないか。冷静になれ。今は成り行きを見守る他無いのだ。とりあえずは女の住まいが町のどの辺に位置するのかと、そこから彼の家までの位置関係を把握することが大切だ。希望としては、なるべく彼の家までは近い距離であって欲しいのだが。
思いが通じてか、女の運転する車は彼の住む地区へと向っているようだった。もしかすると女は、彼の家のすぐ近所に住んでいるのかもしれない。あわよくば、実は隣家だということもありえぬ話ではない。などと考えている間にも、車は彼の住まう場所へと着実に近づいていた。そしてついには、彼の家を視界に捉えられるほどの距離まで来てしまった。尚も車は彼の家へ近づいていく。十字路差し掛かるが、道を逸れる気配はない。そして残りは五十メートル程となった。私の心拍数が上昇する。車は彼の家を行き過ぎることなく、徐々に減速し、家の正面まで来ると、一旦停止した。そしてそのまま車を後退させ、敷地内に進入した後停車した。
「よし、着いたわよ」
あまりの出来事に、私は正直面食らってしまった。なんと彼女の目指していた場所とは、彼の家だったのだ。女と彼がどういった間柄なのかはわからないが、想像するに、近親であることは間違いないだろう。そして、私もこれからはこの家の住人として生活していくのだろうと思った。これで計画などといった煩わしいものに、あれこれ悩むこともなくなった。いや、これはもうそういう問題ではないのだ。だって、扉一つ開ければ、その向うに、彼がいるのだから。
期待と不安で、胸が一杯だった。私は車から降りると、女とともに正面玄関へと向った。そこは、私が施設に運ばれる前に意識を失ったあの場所だった。その場所にいると、達成感に満ちていたあの時の情景が蘇るようで、なんとも感慨深かった。足元の白いタイルは、洗い流されたのか血の痕は残っていなかった。
彼女は上着のポケットから鍵束を取り出すと、玄関の扉にそれをさして開錠した。小気味好い音がして扉が開かれる。
「ただいまー。あきー、帰ったわよー」
二階の方からこちらへ向ってくる足音。正面の階段を何者かが降りてくる。私の心臓は早鐘を打った。
――そして階下に姿を現したのは、紛れもない彼だった。
私を認めた彼は、一瞬驚いた表情を見せた。だが、それはすぐに、微笑へと変わった。その笑顔を見て、緊張で強張っていた私の体は一気に弛緩した。それはまさに天使のようで、ああ、私はこの日のために生まれてきたのかもしれないな、と思った。女が私に話しかける。
「ようこそ我が家へ。あなたはたった今から、私達家族の一員よ」
こうして私は、この家の家族の一員となった。これから私の新しい人生が始まるのだと思うと、胸が高鳴った。そしてこの幸福が永劫に続いてほしいと、私は願った。