〔少女〕 狂気
私が初めて彼を見掛けたのも昼下がりの公園で、その日の公園内も、小学生や子供連れの親子が多く、笑い声やら歓声やらが溢れていた。
私はいつもの散歩コースを巡回中で、遊具などが設置されている場所からは離れた位置にある、池のほとりを歩いていた。
喧騒から逃れた場所に置かれたベンチ、そこに彼は座っていた。
ベンチに腰掛けたまま、正面の池の、ずっと先の方を見つめ、手に持つキャンバスに何かを描いている様だった。彼は接近した私に気づくことなく、黙々と筆を動かしていた。いつもと同じ光景。しかしその日の彼の表情は、これまで見てきた表情のどれとも違った。
前を見据えるその瞳はとても澄んでいて、何故だか悲しそうに見えた。その時点では、それが何から来る悲しみなのか推察することはできなかった。
私は離れた所から彼を見守ることにした。その時沸き起こった感情は、今までに感じたことの無い感情だった。彼の悲しげな瞳を見ていると、自分の心まで痛んでくる様だった。彼の悲しみの種を取り除いてあげたいと思った。彼が微笑んでくれるのならば、死んでもいいとさえ思えた。大げさなどではなく、心のそこからそう思えたのだ。あるいはそれは、一種の恋愛感情だったのかもしれない。私はこれまでの人生において、一度も幸福を感じるようなことはなかった。どうせこの先も、目的も夢も希望もない、灰色の曇り空のような人生が続くのだろう。それならば、未来ある誰かのために私の人生を捧げても構わないだろうと思った。安易な考えだと非難されるだろう。しかし私はその瞬間から、彼の笑顔の為だけに生きようと決心した。
間も無くして彼は筆を止めて立ち上がり、公園の出入り口の方へ歩き出した。私も気づかれぬように彼のあとをつけた。公園を出て十分程度。団地のような場所へ行き着くと、建ち並ぶ民家の内の一軒に入っていった。どうやらそこが彼の家らしい。私はそこでどうしたものかと思索した。私は彼の今後の人生行路を、できるだけ身近で見守ろうと考えている。その為には彼と寝食を共にする必要があるのだ。しかし彼の家に上がり込む為の良い方策が思いつかなかったのだ。かと言っていつ外に出てくるかもわからない彼をのんびり待つ気にはなれなかった。しかし、その時ふっと、一つの妙案が頭に浮かんだ。少々手荒だが多少のリスクは許容の範囲内だ。思い立ったが吉日と、私は計画遂行に必要な物を得るためにとある場所に向って走り出した。
街に何軒かある酒屋のうちの一軒。幸運にも、目的のものは一軒目の酒屋で見つけることができた。それは、店脇の路地にケースに入った状態で置かれていた。目的の物とは酒瓶だった。私はケースからビール瓶を一本を抜き取り、場所を移すことにした。
人目につきにくそうな駐車場を認めると、停めてある車の陰に身を潜めた。これから行おうとしている行為は、人に見られてしまうと計画が頓挫してしまう恐れがある。なので見咎められぬよう、注意して行動しなければならない。
周囲に誰もいないことを確認する。……人の気配は……ない。私は意を決し、手に持ったビール瓶を頭上高く振り上げた。そして、そのままコンクリートの地面に向って勢い良く叩きつけた。
耳を劈く高音とともに瓶の底が砕け、紅褐色の破片が飛散した。想像以上に音が大きかったので、誰かに音をきかれたのではないかと懸念したが、幸いにも人が駆けつけてくる様なことなかった。私はほっと胸をなでおろしたが、直ぐに気を取り直した。計画はまだ準備段階を終えただけに過ぎないのだ。これからが本番。肝心要。
右手のビール瓶に視線を向ける。それは砕けた部分に鋭利な突起が出現し、あからさまな凶器へと変貌していた。殺傷力は十分だろう。あとは力加減。致命傷にならぬ程度に加減できれば良い。浅すぎず深すぎず。彼の家までの道順も把握している。計画の障害になるような事柄はなんら見当たらない。……よし、いこう。
私には、躊躇とか、逡巡とかいうものがない。やると決めたことは必ず実行するのだ。
――私は凶器となったビール瓶を逆手に握りなおすと、それを空いている方の手に勢い良く突き立てた。たちまち傷口から鮮血があふれ出し、腕を伝って滴り落ちていく。足元の地面には血溜まりができた。
上出来だった。傷の程度も問題ないようだ。後は意識がはっきりとしているうちに彼の家へ向うのみ。疼く傷口を手で押さえ、私は彼の家へと歩き出した。
日が落ちはじめていた。人目につき難そうな道を選んだ為、少々遠回りになってしまった。しかし既に、彼の家まで残り数十メートルのところまで来ている。私は残された体力を振り絞り、一歩、また一歩と足を進めた。
ひどく流血したせいか、悪寒と倦怠感が体中を支配していた。気を抜くと意識が飛んでしまいそうだった。しかしここで倒れてしまえば、計画のすべてが水泡に帰してしまう。それだけは絶対に避けなければならぬ事態なのだ。幸いにも、彼の家は視認できる距離まできている。玄関先にたどり着きさえすれば、たとえ意識を失ってしまっても計画の成否に影響はないはずだ。
悲鳴をあげる体に鞭打ち、私は歩いた。貧血で視界がぼんやりと霞みながらも、到着点だけは見失わぬように睨み続けた。そしてついに、彼の家へたどり着いた。
最終目標であるインターホンのボタンを押す。その瞬間、達成感からなのか、または安堵感からなのか、涙が次々に溢れ出して零れた。同時に、今まで自分を支えていた何かが、体から抜けていくのがわかった。支えがなくなったことで、体が瓦解するかのようにその場に崩れ落ちてしまった。充足した気持ちの中、私は血と汗と涙を流しながら、徐々に意識を失っていった。