〔秋人〕 日常
「それじゃ今日はここまでね。ここら辺テストに出るからよく復習しておくこと。おい、ちゃんと聞いてるのかー? ……ったく」
教材を慣れた手つきで整えると、国語の教師は呆れ顔で教室を後にした。6時限目を終え放課の時間に突入すると、教室内はしじまに代わって、がやがやとした喧騒に包まれた。皆は互いに労いの言葉を交し合った後、清掃当番のため担当区域へ向う者、そのまま部活動へ向う者と、各々の目的のために散っていった。僕はというと、別に清掃当番というわけでもなく、部活動に属しているわけでもないので、勉強道具を鞄に詰め終えると、まばらに人の残る教室を後にし、そのまま生徒玄関へと向った。
生徒玄関へ向う途中、階段の踊り場で、隣家に住む幼馴染と出くわした。名を『葵』という。傍らには友人らしき人物も見受けられた。
「あきちゃんこれから帰り?」
僕は頷いた。
「そっか。私これから部活だから、一緒に帰れなくてごめんね。気をつけて帰るんだよ。それじゃあまた明日、あきちゃん家で」
葵は友人からの質面攻めに遭いながら、弱った様子で去っていった。僕は手を上げ葵を見送った後、再び玄関へ向った。
校門を出た後、僕は特に寄り道などはせず真っ直ぐに自宅を目指した。十五分程掛けて自宅に到着すると、玄関の扉を開錠し、そのまま一直線に二階の自室へと向った。そして、スクール鞄を机上へほっぽり、部屋隅にある棚の中からスケッチブックと画材を取り出すと、また直ぐに家を出て玄関を施錠した。僕はこれから、趣味である写生に出かけるつもりだった。
――写生を始めたのは、父の影響からだった。写生を趣味にしている父とは、一緒に様々な場所へ赴いては、二人仲良く並んで写生に興じたものだ。その父も昨年事故で亡くなってしまい、今では専ら一人で絵を描き続けている。父亡き後も趣味の写生が続いているのは、自分でも不思議だった。父の死をきっかけに、写生への興味も薄れていくのだろうと考えていたのだが、決してそんなことは無く、今に至るまで描く事への意欲は失われていはいなかった。それどころか、描くことへの意欲は日に日に強まっていくように感じられるのだった――
左手に視線を落とすと、腕時計の針は午後四時十分を指していた。五月の空はこの時刻ではまだ明るく、ほんのりと赤みが差している程度たった。僕は明るい内にと目的地に向けて歩き出した。
目的地である場所までは歩いて十分程の距離があった。僕は自宅のすぐ脇を通る急勾配の上り坂を一定のコンパスで一息に上りきると、左手に現れる細い路地へと入っていった。昼でも薄暗い林と家々に挟まれたその路地を進んでいくと、間も無く右前方に神社の鳥居が、生い茂った笹に半ば隠れるようにして見えてくる。鳥居をくぐり緩やかな石の階段を上ると神社の拝殿が姿を現す。境内は人気というものがおよそ無く、拝殿はその静謐な雰囲気の中に身を沈めるようにして建っていた。拝殿は丈の高い雑草に囲まれていて、その周りをさらに雑木林が囲っていた。その為境内への陽光は遮られ、年がら年中じめじめとして薄暗かった。僕は生い茂る雑草を掻き分けながら拝殿の裏側目指して進んだ。そこまでくれば目的地はもう目と鼻の先だった。裏手まで来ると、拝殿の裏側を背にして真っ直ぐに草むらの中を進む。すると、絡みついていた雑草が唐突にに姿を消し、開けた場所に出る。そこが僕の目指す場所だった。
目の前に広がる世界は、まさに絶景と呼べる程の壮観だった。高台であるその場所からは、眼下に僕が住んでいる町全体が一望でき、視線を真正面に向ければ、果てしなく広がる大洋を望むこともできた。さらにもう少し日が落ちてくれば、西日で全てのものが橙色一色に染まり、夕映えにより殊更美しさ増した眺めを堪能することもできる。この場所は地元の人間でも知っているものは少なく、まさに穴場だった。僕はこの高台から望む景色をスケッチする為、最近はほぼ毎日この場所に通いつめていた。それともう一つ、僕がここに連日訪れる理由として、この場所である人物に会えるという事もあった。僕が視線を右に向けると、いつものように彼女はそこに立っていた。
烏羽色のワンピースを纏い、その服装とは対照的にぬけるような白い肌。見た目から察するに同い年くらいの少女。彼女がここに現れるようになったのはつい最近のことだった。最初に彼女と出会った日、僕は目の前の景色を描くことに夢中で、周囲の状況に気など配っていなかった。そんな時、不意に背後から草同士が擦れ合う音がしたのだ。気になってそちらを振り向くと、彼女が佇立したままじっとこちらの方を見つめていた。僕達の視線が交差すると、彼女は柔らかな笑みを浮かべ、そのまま僕の横手まで歩み寄り、正面に広がる景色をただ静かに眺めていた。その日彼女に出会った瞬間から、僕は彼女が纏う、一種形容しがたい何か不思議な魅力に惹かれていった。それから僕はほぼ毎日、夕刻前のこの時間、この場所へ訪れるようになった。
彼女のことについて、僕が認識していることは、左腕に見え隠れする、何がしかの傷痕だけだった。名前、学校、住所など、彼女の素性については一切知らない。彼女は自らについて、進んで語ろうとはしなかったし、僕も彼女のことについて、詮索するようなことはしなかった。彼女の素性についてまったく関心が無いというわけではなかったが、彼女自ら語らない以上、そこには何らかの語れぬ理由があるのではと思ったのだ。なにより僕は彼女とこの場所で同じ景色を眺め、同じ時間を過ごせるだけで十分だったし、それだけで僕の心は充足した。余計なことをして彼女の気を害するくらいなら、僕も彼女と同様に沈黙することで、この居心地の良い安穏な時間を守りたかったのだ。このようにして僕たちの関係は、お互いを詮索しないという不文律の元に成り立ってきたと言える。そしてそれが、できることならばこの先もずっと続いてほしいと思った。
僕はいつもの様に彼女の横に陣取ると、いつものように沈黙を守ったまま筆を握った。基本的に僕はスケッチをする際、人物を描く対象に選ばない――それについて特に理由はない――のだが、今描いている風景画が完成した暁には、この景色をバックにした、彼女がモデルの人物画を描きたいと考えていた。夕焼けの中で黄昏れる彼女の姿はあまりにも幻想的で、絵になっていたからだ。まだ本人にその旨を伝えたわけではないがないが、彼女ならきっと快く了承してくれる気がした。
それから僕は、景色が段々と赤味を増していく中、黙々と筆を動かした。その間僕達は、例によって一言も言葉を交わすことはなかった。日が落ち、周囲が黒味を帯び始めた頃、僕は筆を止め時刻を確認した。針はもうすぐ6時を回ろうとしているところだった。丁度きりも良いので、今日はここで切り上げることにした。立ち上がり、彼女の方に目をやると、僕の視線に気づいたようで、こちらに向き返った。彼女は僕の意思を汲み取った様子で頷き、微笑んだ。まるで天使のような笑顔だった。僕はいつものように鳥居の所で彼女と別れ、そのまま帰途に着いた。
帰宅すると玄関の鍵が開いていた。どうやら姉が帰ってきているらしい。僕は家の中入ると、一度二階の自室へ行き、画材を棚に戻して部屋着に着替た後、一階の台所へ向った。
台所では、姉が夕食の支度をしているところだった。漂ってくる香りからすると、どうやら今日の夕飯はカレーのようだ。
「おかえり。もうちょっとで夕飯できるよ。あんたカレー好きでしょ。あ、食器並べておいてね」
僕は頷き、食器を並べた。
夕飯が出来上がるまでの間、居間で過ごすことにした。居間に移動すると、庭に面する掃き出し窓をほんの少し開放した。夜気を孕んだ心地よい風が入り込んできて、そこで僕は人心地ついた。
ソファーに腰掛けぼんやりとしていると、開放した窓から黒いものが家の中へ飛び込んできた。我が家の一員、黒猫の『すず』だった。すずはいつも朝に家を出て、いつもこのくらいの時間に帰ってくる。足元に寄って来たので顎下を撫ぜてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らした。しばらく戯れていると、居間の入り口から姉の声が掛かった。
「あき、それからすずちゃんもご飯よ。手を洗って台所にいらっしゃい」
手を洗った後、姉と僕は向かい合う形でテーブルに着いた。すずは台所隅の定位置で姉の作った夕飯をおいしそうに食べていた。
「そういえば、すずちゃんがこの家に来てもう一ヶ月くらい? 案外早いものね」
……一ヶ月。僕にしてみればあっという間の時間だ。しかし本で読んだ情報によると、猫にとっての一ヶ月は人間でいう約一年に相当するというのだ。僕が漫然と過ごしてきたこの一ヶ月を、すずは何を思い、何を考えて過ごして来たのだろうか。
「よく、『猫は家につく』なんていうけど、すずちゃんはあんたにべったりよね。猫はもっとつっけんどんというか、可愛げがない生き物だと思ってたけど、なんか猫に対する私のイメージが根底から覆されたわ」
確かに猫は、同じく愛玩動物の代表格である犬と比較されることが多く、そういう時、犬は人につき、猫は家につくなんて言い方がされることがある。しかしそれは全部が全部あてはまるわけではなく、結局は猫も犬も人間と同じで、気性は十人十色なのだろうと思う。実際一緒に暮らしてみて、僕が抱いたすずへの印象は、姉の言ったそれとほとんど同意見だった。
「じゃあお姉ちゃん、部屋で学校の課題進めてるね。食べ終わったら食器流しに運んでおいてね。お風呂は沸いてるよ。あと、今月の家庭訪問の日時、決まったらちゃんと教えるのよ」
僕は夕食を終えると風呂へ入り、その後居間で一時間程テレビを観てから自室へ向った。
部屋に入ると、ベット上にはすずがいつものように、先回りして待機していた。頭を撫でてやってから、勉強のために机に向った。
勉強をしている間、すずは僕をただじっと見つめていた。身動き一つせず、机に向う僕の背中を眺めている。何かおもしろいことでもあるのだろうか。僕には猫の考えていることはわからない。
予習復習を終え、明日の授業の準備をしてから、僕は電気を消して布団に入った。すずは僕が立ち上がるの確認してからベットから降りて自分の寝床に就いた。灯りを消し、布団の中で今日の一日の出来事を振り返る。葵と学校へ行き、高台で絵を描き、すずと戯れ、姉と夕飯を食べる。取り留めの無い一日だが、それでいて満ち足りた一日。明日も明後日も変わらぬ日常であることを願い、僕は目を閉じた。