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ナオの家の門が軋んでギシギシと鳴っている音が、休みなく暗がりの中響き渡った。
「帰ってくるの遅かったな、サチ。おばさんが心配してたぞ」
うっかり聞き逃してしまいそうになるほどかすれた低い声だったけれど、わたしの耳にはナオの声がはっきり届いた。
ナオがどんな表情でわたしを見てるのか、声を聞いただけでわかる。
今この場所に外灯の明かりがなくったって、月が雲にかくれた暗い夜だとしたって、生まれたときからの長いつきあいだもの。
眉間にしわがよって目じりが上がるのが、ナオが怒っているしるし。わかりやすいサイン。
やっぱり……。
ひじを抱えながら門の上部で重ねた腕に顎を置いて、わたしの予想していたとおりの険しい表情を見せる彼。意識してわざと揺らしているの? それとも気づかずに? ナオの身体が細かく揺れていた。
目がくらみそうだった。
「うん、ちょっと……。気分わるくて……」
急に襲われた寒さに身を震わせ、二の腕をさすりながらも、わたしは彼から視線をはずすことができなかった。
「昼から、ずっと保健室で寝てたの……。帰ろうとしたら、矢島クンに偶然会って、心配してくれて……。それで……家まで送ってくれたんだ……」
ナオもまた、視線をそらさず見つめ返してきたの。昼間に階段の下で見せた、あのときと同じ瞳で。
いつもの、冗談のつもり……だったんだよね?
ちょっとした性質の悪い、冗談のつもりだったんだよね?
だって、そのあと平気で彼女らしき女の子と仲良くしているところを、わたし見たんだもん。
わたしがどんな気持ちでいるのか、ナオはちっともわかってないんでしょう?
わたしがどんなにへこんでいるか、想像がおよばないだけで。
自分がしでかした行為をすっかり忘れて、わたしを責めるような目つきで見つめる態度のナオ。
もう知らない……ナオなんかキライ。
そんなこわい顔で見ないで……!
「ね、矢島クン?」
真正面で彼の視線を受けとめるのがつらくなったわたしは、思いきって背を向けて矢島クンに笑いかけた。
「家まで送ってくれて、どうもありがとう。矢島クンのおかげで気分よくなったし、小春にも心配かけちゃったよね……。でも、わたし、矢島クンとはじめて話ができて……、いろんな話ができて、あの、その……」
なんて言ったらいいんだろう……。
憧れの矢島クンとおしゃべりできて、わたしの大好きな星の話を聞いてくれて、本当にうれしかったことをなんとか言い表したいんだけど……。
ダイレクトに気持ちを伝えるのはいけないような気がして、なんとなく躊躇してしまう。
それに、気をとがめるようなナオの視線。
矢島クンと会話を交わすところを、背後からナオに見られているかと思うと、緊張してしまって……。身体がこわばり、胸のみぞおちのあたりがズキズキ痛くなってくる。
わたしの頭ん中は、なんにも書かれていない真っ白なノートのようになってしまったの。うまく文字を選んでつづりたくても、なかなかできそうになくって。今の思いにぴったりとくる言葉を、思いつくことができそうになくって。
「えーと、なんて言うか、そのう……」
どうしよう、なんか話さないと……!
お礼を言うチャンスは、たぶん今しかないんだから。
口ごもってばかりであとに続く言葉がでてこないわたしを見かねたのか、矢島クンは手のひらをわたしに向けて待ったのポーズをとった。そして、身をかがめて顔を近づける。
「オレは、……た……よ」
声の調子を下げて、彼はひそひそと小さな声で話しだした。
「え……?」
ナオが身体を揺らして立てる門の音でかき消されてしまい、彼の言葉がよく聞こえない。
「な、なあに? なんて言ったの? もう一回言って……」
彼の言葉を拾おうと耳をすますために、わたしも顔を近づけたら、急に音が消えてしんと静かになった。矢島クンは、その機会を狙って待ちかまえていたかのように、いち早く口を動かした。
「オレは、すっげーよかったよ、遠藤さん!」
よかった……?
な、何それ……。何のこと言ってるの?
矢島クンが何を言おうとしているのか、イマイチ理解できなかったわたしは、きょとんとして彼の顔を眺めた。
何かをたくらんでいるような意地悪な笑みとも、面白がって笑いをかみ殺しているような表情とも見て取れる、彼の顔がそこにあった。
「さっきの、あの横断歩道でのことだよ。マジ最高だったよ! またしてほしいんだけどな、いい?」
矢島クンが今度はもう少し詳しく言ってくれたので、わたしは合点がいった。
「あー、あれね……?」
意外……。矢島クン、そんなに気に入ったのかな? あの、いないいないばあ!
その場しのぎのアドリブ同然、ない知恵をしぼって考えた苦肉の策だったんだけどな……。
「そう、あれだよ、遠藤さん。あれ!」
夜空に輝くお星さまに負けないぐらいの眩しい笑みを彼は浮かべていたので、またしてもわたしの乙女心は複雑になってしまった。でも……まあ、いいか。
物静かで大人っぽい矢島クンが、子供みたいにはしゃいで喜んでるんだもの。
憧れの彼のかくされた一面をまた知ることができて、わたしもうれしいし……。
「うん、いいよ……。いいけど……今するの恥ずかしいから、また今度でいい……? ダメ……?」
おずおずとたずねると、矢島クンがにっと笑った。
「そうだよなあ、今は槙原がこっそり見てるし。二人っきりじゃないと恥ずかしくって出来ないよなあ、あんなこと……」
「え? あ……うん、そーだね……」
話にあわせてあいづちを打ったものの、矢島クンの思わせぶりな言い方に面食らってしまった。
なんかわざとらしい……。小さなささやき声から、急に声が大きくなったんだもの。他の誰かに言って聞かせるみたいに。
すると、矢島クンの視線がどこか遠くへさっと泳ぎだすのに気づいた。
はっと思って彼の動きかけた視線を追いかけ、とっさにうしろを振り返ろうと頭を動かしたちょうどそのとき、両肩をぐっと背中の方からつかまれてしまって。
「きゃ……、何っ?」
一連の動きで今立っている場所から引きずられるように後方に押しやられ、わたしの視界から矢島クンの姿が完全に消えてしまったの。
ふと気づいたら、目の前にあるのは……見慣れた、ナオの背中。
ナオが、わたしと矢島クンの真ん中に割り込んで、片手を横に大きく広げて立っていた。ナオの背中でさえぎられ、前方が見えない。矢島クンにお礼を言いたくても、とうぜん言えやしない。
「ちょ、ちょっとナオ、まだ話の途中なのに……」
うしろから手を伸ばしてナオを押しのけようとしたら、ナオの腕が動いて反対に払いのけられた。
「うるさいっ、サチは黙ってろ!」
ナオの怒鳴り声に、思わずびくっと身体が反応する。
そのあと、軽く舌を鳴らす音がした。
「矢島、こんなところで何、油売ってんだよ? 今日は塾あるんだろ? 用が済んだら、さっさと帰れよな」
刺々しいナオの声。
「うーん、それはそうなんだけど……。はい、そーですかって、帰るわけにいかないんだよねえ」
対する矢島クンは、ナオと正反対。間延びした口調でのんびり答えた。それが余計ナオをイライラさせたみたいで。
「なんでだよ、何か用があるのか?」
ナオの声が、ますます怒りを帯びて震えているように感じた。
「うん、そーなんだ。実は、ある人に頼まれちゃってね。といっても槙原に用があるんじゃなくって、遠藤さんになんだけど……」
「え、わたし……!?」
二人の会話に突然わたしの名前がでてきたので、ナオのうしろからあわてて顔をだした。矢島クンが、わたしの顔を見て、またにっと笑う。
「遠藤さん、今度の土曜日ヒマ? 受験生がヒマなのは、よくないけどさ。まあ、気晴らしに行く程度ならいいよね? たまには息抜きしたいと思わない?」
「ど、どーいうこと?」
「実はさ、その……、さっき言ったように、ある人に頼まれたんだ。遠藤さんをデートに誘えって、槙原のいる前でさ……」
「矢島、てめえ……」
ナオが怒って矢島クンにつかみかかろうとした。
「ふざけるのもいい加減にしろ! サチをからかったら許さねえぞっ」
「ナオ、ダメ! それ以上、やったらダメ!」
矢島クンの胸倉をつかんだナオの腕がぴたりと止まった。
「わたし、べつに気にしてないから……。だいじょうぶだから……」
おねがい、ケンカしないで!
すがりつくようにナオの腕に手を添えた。
すると矢島クンが、わたしに向かって天使のほほ笑みで話しかけてきた。
「いーんだよ、遠藤さん、強がらなくったって。殴られたって仕方ないことやってんだからさ、オレ」
「矢島クン……?」
「ホントふざけた話だよね。オレだってさ、最初聞いたとき思ったもん。ふざけんな、って。ごめんね、遠藤さん」
矢島クンは、ナオの手を振り払った。
「ふつー、しゃべったことない女の子、いきなりデートに誘えないじゃん、やっぱさ? なあ、槙原?」
「ったく……! オレに聞くなよ……」
ナオは苦々しい顔をして、矢島クンをにらんだ。
「そう思うんなら、誘わなきゃいいじゃん! なんでサチなんだよ……! オレだって、しゃべったことない女の子を誘ったことなんかないぜっ」
「そーだよな、普通はそーだよ。さすが元サッカー部のチームメイト、気が合うよなオレたち!」
「いでっ!」
矢島クンがナオの背中をバシッとたたいた。
ちょっと、ちょっと、なんなのよ?
なんか、この二人変……じゃない? 仲がいいのか、わるいのか、わかんない。それに……。
や、矢島クンって、こんな性格だったの!? 思いっきり、軽くない!?
わたしの中の矢島クンのイメージにピシッとヒビが入って、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
あ、頭イタイよ……。 もうフラフラ……。
「矢島クン、その人……ある人って、だれなの? なんの目的があって、矢島クンにわたしをでっ、デートに誘わせるの? そんなことやって、なんか得することあるの……?」
フラフラな頭を抱えそうになりながらも、わたしは矢島クンにたずねた。
「さー、知らない。だけど、考えるの面倒だよね。だから、いーんじゃない、考えなくっても?」
「矢島……!」
矢島クンの答えに、ナオが素早く行動を起こしかけた。ナオの手が動く。
でも、矢島クンは顔色を変えなかった。元サッカー部キャプテンとして、友達として、ナオの性格を把握している余裕があるのかもしれない。ナオの反応を見ても、眉をぴくりとも動かさなかった。
「言っとくけど、槙原は口だすなよ。決めるのは遠藤さんなんだから。それにお前、さっきだって学校で彼女とよろしくやってただろ。だから関係ないよな、お前には……」
ナオは、再び振り上げそうになった腕を下におろし、にぎりこぶしをつくった。
わたし……。ナオのことなんかキライ! ついさっきまで、そう思ってたのに……。
ナオの開いた手のひらが内側に折り曲げられ、強く指をにぎりしめるところを目の当たりにしたとたん、胸がつぶれそうになった。
そして、徐々に鼓動が早くなる。
『サチをからかったら許さねえぞっ』
ナオが真剣な顔で矢島クンに言い放ったとき、正直言うとどきりとした。
どきりとして、うれしくって、ため息がこぼれそうになって……。
そう思ってしまう自分に戸惑いながらも、わたしは頬が熱くなってしまったの。
やっぱり断ろう。断ったほうがいい。心と身体の両方が、わたし自身を裏切るなと呼びかける。
自分にウソつけない。ウソつきたくない。
わたしは、矢島クンに断りの言葉をかけようと口を開きかけた。
「どうする、サチ? 決めるのは、サチだってさ」
「え……?」
ナオのセリフに驚いて、わたしは顔をあげた。
「こいつ猫かぶってて人格分裂しちゃってるけど、わるいヤツじゃないしさ……」
ナオは、くすくす冗談めかして笑いながら、茶目っ気たっぷりに言った。
「なんちゅう言い草だよ、それ」
矢島クンが、ナオのとなりで文句を言っているのが聞こえた。
けれど、わたしの目にはナオの姿しか映ってなかった。
ナオの顔つきが急に変わり、笑顔が消えて視線が引き締まったところを目撃してしまったの。
すっかり落ち着きを取り戻したような穏やかな顔で、黙って立っていた。まるで、わたしの返事を待っているみたいに。
ナオのなかでどんな変化が起きたのか、わたしにはわからなかった。
「ナオ、何が言いたいの? それって、まさか……」
息が詰まって、これ以上声がでてこない。
冷たい空気が肺の奥で渦巻いているのを感じる。
「ちょうどよかったんじゃないの? サチだって、ホントはうれしいんだろ?」
瞬間、手のひらに固い手ごたえと痛みを感じた。
「ナオのバカ! 大っキライ……!」
ナオの顔を見るよりはやく、じんじんと熱く染みる手のひらを胸に抱え、家の敷地内に逃げ込んだ。
カバンからもどかしげに家のカギを取り出し、錠を解いてドアを開ける。
そして、力いっぱいたたきつけるようにドアを閉めると、わたしはその場にうずくまってひざを抱えた。