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お昼休みの教室。窮屈な授業から開放された、くつろぎのひととき。
うちのクラス、三年二組の生徒たちの騒ぐ声のなか、彼女の声はひときわ目立った。
「サチ、今日おにぎりだけっ? おかず、どーしたのっ?」
机の横にかけてあったサブバッグから、わたしが取り出したおにぎりを見て、真向かいにすわっていた小春がすっとんきょうな声をだしたのだ。
それもそのはず、いつものわたしのお弁当は、ご飯もおかずもたっぷり入った二段重ねの大盛り弁当。男子に負けないぐらい食べる量を誇るわたしが、おにぎりをたったの二個しか持ってこなかったのだから、びっくりするのも当たり前だよね。
「あ、だいじょうぶ。今日は、これだけじゃないの。ちゃんとナオが……あのう、もしもし?」
おにぎりしか持ってこなかった理由を説明しようとしたのに、小春の耳には全然届いてなかった。
「もしや……、いや、ひょっとして……」
胸の前で腕を組み、ブツブツひとり言を言っている。なんか……イヤな予感。
「これは……サチの親友として、捨てて置けない、ゆゆしき事態ですなあ……」
き、来たあああっ!
小春の黒目がちな瞳が、きらりんと鋭く光った。
真向かいにくっつけた反対側の席から身を乗りだして、小春は右手を伸ばしてきた。マイクのつもりなんだろうな。わたしの口のそばに、ずいっとゲンコツをつきだした。
「遠藤紗智さん、もしかしてダイエットしてるんですか? 好きな人ができた……とか? 心境の変化をお聞かせくださいっ!」
「げえほおうっ」
いくら待ち構えていたとはいえ、小春が変なこと聞くもんだから、やっぱり思いっきりむせちゃった。
酸素を求めて口を大きく開ける。はい、吸って吐いてエ、吸って吐いてエ。深呼吸を何度も繰り返し、胸の中で『落ち着け、落ち着け』って呪文のように唱えた。
「なあに、その反応。サチ、あ、や、しーいっ! ほら、白状したらどーう?」
胸に手をあてて深呼吸をするわたしを見て、ますますなんかあると思われちゃったみたい。
「や、やだなあ、小春ちゃん。突撃インタビューなんかやめてよ。わたしの憧れの人知ってるくせに……」
小春は、今思い出した! というような顔つきで目を丸くさせると、ぽんと自分の手を打った。
「ああ、そっかー。そんな人いたねえ。矢島クンとかいう……」
そうそう、隣のクラスの矢島クンだよっ、矢島クン! ぶんぶんと激しく頭を上下にふったら、小春は目をつりあげた。
「……って、信じるわけないっしょ!」
そして、身体を低くする姿勢をとって、声をひそめた。
「アンタ、矢島クンが好き! って言ってるわりには、全然そんな素振りないじゃん。いっつもたくさん食べるし、大口開けてあくびするし、スカートの下にジャージはいてるし」
「い、いいじゃん、べつにい……。だって、おなかすくし……。眠たくなったら、あくびでるし……。スカートの下にジャージはいた方が、あったかいしい……」
ひーん、なんで怒られてるのー。
まるで悪いことしたみたいに、上目遣いになって、手が自然にもじもじと動く。
小春は、そんなわたしを見て、「あーあ」とため息ついて、机の上に両手で頬杖ついた。
「サチったら、わかってないなあ。恋する乙女は、常日頃から、カワゆく見えるように努力してるもんなのよ! 学校に好きな人がいたら、気いつかうの当たり前。お弁当だって、ちっさいの持って来るでしょ、みんな!」
「へ、そーなの? だから、みんなのお弁当箱ちっさいんだあ……」
「だから、そこがおかしいのよ、サチの場合! 好きな人のことを考えるだけで、おなかいっぱいになるもんでしょ、普通?」
「ふーん、そーなんだ。節約になるねー。わたし、すぐおなかすいてコンビニでおやつ買っちゃうからあ。毎月ジリ貧になっちゃうんだよね……」
わたしは、『あはは』と声をださずに笑った。
「そーなんだって、アンタね! そこは、感心するとこじゃないでしょうっ!」
「は、ハイいっ!」
小春がいらいらしてバシンと強く机を叩いたので、その音と迫力に驚いたわたしはびくついてしまった。
「サチはさ、食欲なくなったことないの? 病気以外で! テストの点数が心配だっていうのも抜きにしてっ。本当に好きな男いないの? 食欲なくなるほど、恋に悩んだことないのっ?」
「え、それは、そのう……」
うーん、恋に悩む……かあ。今まで生きてきたなかで、そんなことあったかなあ?
食べることが大好きなわたしが、病気やテストのとき以外で食欲なくなるなんてこと……。しかも、理由は男……。矢島クン以外の……。
・ ・ ・
ええーーーっ、ナオおおーーー!? なんでナオの顔がーーーっ?
打ち上げ花火がひゅーっと夜空に上がってパッと花開いたように、わたしの頭の中に能天気なナオの笑顔が突然現れたの。
そ、そういえば、昨日……。
ママからナオの引越しの話を聞かされたとき、急におなかいっぱいになって、ご飯食べたくなくなっちゃったんだっけ……。めっちゃ大好きな、高級松坂牛のひき肉入りコロッケが、夕飯のおかずだったのに……。
ふえーん、ウソーーーっ! し、信じられないっ……。
両手でほっぺを挟んだら、すごく顔が熱かった。
わたし、昨日とおんなじ反応してる。ナオがわたしにコートを着せてくれたときと同じ……。
何がどうして、こうなっちゃってるのおーーーっ!?
「ふふん、その顔は、ズバリあるでしょう!」
小春は、マイク代わりのゲンコツを、わたしの口に再び近づけた。
「さあ、わたしにだけこそっと白状しなさい! 親友のこのわたしに、こそっと!」
「こ、こそっと言われても……」
「ほらほら、遠慮しないで! 小春姉さんが相談にのってあげるからっ」
そんなあ……。『食欲がない=恋でおなかいっぱい』の法則が成り立つのなら……。
わたしの好きな人は、ナオってことになっちゃうじゃん!
ナオが引越しのことをはっきり教えてくれないことは、すっごく気になるけど……。
だからといって、あのナオなんだよっ。
あ、ありえないよう……。
ふにゃっと身体から力が抜けて、机の上にパタンと上半身が倒れた。もち、おにぎりをつぶさないように避けながら、だけど。
でも、頭ん中がグルグルでグチャグチャで……。
どうしちゃったんだろう。胸がいっぱいになってくる。
「ごまかそうたって、そうはいかないんだからね!」
特ダネ追求魂にいったん火がついた小春は、わたしにも手に負えない。
「食欲魔人のサチを恋する乙女に変えたんだから、相当イイ男なんでしょ? もったいぶらないで、名前教えてよ!」
どっ、どうしよう……。心臓がばくばくと音を立てはじめた。
お願い! 誰か、小春をなんとかしてえっ。
誰か、助けてっ!
ナオーーー!
机に伏せてぎゅっと目をつむっていたら、誰かがわたしの背後に立つ気配がした。
「はーいっ! サチを女にしたイイ男は、ぼっくでえーすっ!」
げっ、ナオ!?
ナオの大声が響き渡ったとたん、騒がしかった三年二組の教室がしんと静まり返った。
い、今、なんかスゴイこと言われたような……。
身体が固まる。顔もあげられない。
身じろぎしないでじっと息を殺していたら、
「槙原、じょーだん!」
と、あきれたような小春の声が聞こえてきた。
「アンタたち二人が彼カノ関係になりそうにないこと、みーんなわかってんのよっ。それじゃ、まるでアンタがサチを食っちゃったように聞こえるんだけど、どーいうつもりなのかしら?」
なっ、なんてこと聞くのよっ、小春!
「え、食っちゃった……? サチを……? どーいうつもり……?」
戸惑うようなナオの声。
「そーうよ。どーなのよ、槙原尚道! はっきりしてもらおーじゃん、びしっと! 今すぐここでっ」
あーーーっ、お願い、ナオ! 小春の挑発にのらないで!
小春が詰問したのを最後に、沈黙が流れた。
数秒なのか、それとも数分なのか。時の流れがわからない。とても長く感じるし、短くも感じる。
「冗談にきまってるだろー」
ナオが口を開いた。
「マヨネーズかけたって食べられないじゃん、腹こわしちゃいそうだしねー。それに、オレ彼女持ちだしぃ」
ナオの明るい声が聞こえると、「なーんだ、冗談かよう」と誰かが言って、小さなさざなみのようにざわめきが広がり、また元の教室の騒がしさに戻っていった。
わたしは、机に顔を伏せたままナオにたずねた。
「な、何しにきたのよ、よそのクラスに?」
すると、頭の上に柔らかい感触があたった。
「ほい、約束してたジャムパンだよん。もっと買ってあげたかったんだけど、一個しか買えなかったんだ。これでかんべんしてくれよな、サチ」
「……うん」
わたしは、頭の上に乗っているジャムパンをつかんで、ゆっくり身体を起こした。
「小春、わかった……? わたしがおにぎり二個しか持ってこなかったわけ……。ナオにジャムパンを買いに行ってもらってたからなの。さすがのわたしも、お弁当とジャムパンの両方はキツイからね……」
視線を制服のスカートに置いたまま、小春に説明した。
「そうだね……。ジャムパン、結構カロリー高いもんね……」
彼女は、ぽつりと言った。
「ごめんね、サチ。調子に乗りすぎた、ホントごめんね。もしサチに好きな男子がいたら、応援したかっただけなんだ。槙原がくっついてるせいで、サチに彼氏できないんじゃあさ、ダメだと思って……」
「うん、いーよ、小春。気持ちだけで十分。許してあげる」
わたしは、椅子を引いて立ち上がった。
「ど、どこ行くの、サチ? わたしも一緒に行こうか?」
あわてる小春の声。
「ううん、ちょっと……トイレ……。だいじょうぶ、すぐ戻るから……」
おにぎりとジャムパンを机の上に残したまま、わたしは席に近い前方の出入り口から教室をでた。
教室をでて、すぐ近くにある階段を下りながら、制服のスカートのポケットからハンカチを取り出した。
ハンカチで目頭を押さえる。
どうして、どうして、涙がでてくるんだろう……。
何度もゴシゴシこすっても、次から次へと涙があふれだして、ハンカチを顔の上から離せない。
乾いていたハンカチが、わたしの涙を吸い込んで、だんだん湿ってきた。
もしかして、わたし……。ナオの言葉に傷ついてる?
だから、こんなに涙がでるの?
『冗談にきまってるだろー』
ナオの声が、頭のなかでグルグルまわった。
「サチ、待てよっ」
そのとき階段の上の方から声がしたので、心臓が止まりそうになった。
やだっ、ナオ?
ナオにこんな顔を見られたくない。
「ついてこないで、ナオのバカっ。トイレに行くんだから、あっちに行って!」
それでも、わたしの背後から階段をバタバタと下りる音が近づいてくる。
あとをついてこようとするナオを振り向きもせず、歩くスピードを速めて手すりにつかまり、すべるように階段を駆け下りた。
校舎の一階まで下りたら、体育館へ続いている渡り廊下にでられる。体育館の横にはプールがあって、プールの壁と体育館の壁に挟まれた人ひとり分しか通れない通路があった。冬で使われていない今だったら、めったに人が通らないことを、わたしは三年間の中学生活で学んでいた。
早く、早く、行かなきゃ……。追いつかれる前に、早く……!
あの場所だったら、誰にも見られずに泣ける……!
目的地を目指し、一番下の階段を飛び降りた。階段から渡り廊下までは、ほんの二、三メートルの距離。
息が苦しかったけど、足を止めずに渡り廊下へでようとしたちょうどそのとき、
「きゃっ……!」
腕をぐいっと引っ張られて、階段のそばに引き戻された。
「こっち向けって言ってんだよ!」
同時に肩をつかまれて、強引に身体の向きを変えさせられる。そのまま二、三歩うしろ向きによろめくように歩かされ、壁に背中を押し付けられた。
目の前に、緩めた詰め襟からのぞいた彼の鎖骨があった。
恐る恐る視線を上にあげたら、尖った顎に薄いくちびる。
ナオの薄いくちびるが、ゆっくり動いた。
「様子がおかしいと思ったら……、やっぱトイレじゃないじゃん……」
わたしの前髪に、ナオの息がかかる。
「なんで泣いてるんだよ、サチ。オレが変なこと言ったから……?」
ナオは、頭を下げると、自分のおでこをコツンとわたしの顔の横の壁につけた。
「サチ、ごめんな。オレ、冗談のつもりで……」
冗談のつもりだったら、どうしてこんなことするの?
あともう少しで、ほんの一センチの距離で、二人の身体がくっついてしまいそう……。
「べつに……謝ることないよ……」
ナオの胸をどんと突き飛ばして、わたしは両手で顔をかくした。
「だって……、どうせ冗談なんだもん。そうでしょう、わたしのこと……?」
「サチ……」
「だいじょうぶ、ちゃんとわかってるから、あっちに行って! ついてこないで。ひとりでだいじょうぶだから……」
ごめんね、ナオ。こんな言い方しかできなくて……。
「ナオなんかキライ! だから、向こうに行って……」
「だったら、余計にほっとけないよ!」
わたしの両手の上に、ナオの手が重ねられた。
「オレ、ちゃんと知ってるんだぜ。サチが強がりだってこと……」
ナオがわたしの手をぎゅっとにぎる。
「それとも、サチ……。小春っちの言ったとおり、ホントに……好きなヤツいるのか……? オレ、やっぱ……サチの邪魔になるのか……?」
手をにぎられたまま腕を下におろされたので、顔から手が離れたわたしは、彼の顔を正面から見ることになってしまった。
ナオの強い視線に貫かれる。
「本気で矢島のこと好きなのか……?」
ナオのバカ!
わたしは、とっさにナオの手を振り払った。
「……聞いてどうするの? もし、わたしが矢島クンのこと好きだったら、ナオ……どうするの? うまくいけるように協力してくれるつもりっ?」
そうだよ、ナオなんか何もできないくせに……!
そう言おうとしたら、言葉を飲み込んでしまった。
ナオのこわい顔があったから。
びっくりして呆然とナオの顔を見上げていたら、彼の手がわたしの顔の両横に来た。
「じゃあ、サチは? どうしてほしい……?」
「な、何……?」
「矢島に取られちゃう前に本当に食っちゃおうかなー……って、オレが思ってたらどうする?」
ちょ、ちょっと! 何、それ……?
「そんな……冗談だよね? だって、ナオも冗談って言ったじゃん、さっき……」
作り笑いするかのように、ナオの口の端があがった。
「さっきはね」
「それに、ほら! ナオ、彼女いるし……」
「うっさいなあ、ごちゃごちゃと。サチには関係ないだろっ。」
「でも……」
すると、ナオの両手に頬を挟まれて、顔を真正面にがっちり固定されてしまった。
ナオの顔が、斜めに傾き少しずつ近づいてくる。
彼のくちびるが開いて、わずかな隙間をつくるのが見えた。
まさか、キスされる……!?
そう思って息を呑んだ瞬間、キーンコーン、カーンコーンと大きく鳴り響くチャイムの音。
びくっとしてナオの動きが止まり、そのまま時の流れが止まったように感じた。
予鈴が鳴り終わると、ナオがゆっくり息を吐き出して身を起こした。呆気にとられたようにつぶやく。
「やっべー……。そうだった、ここ……学校だったんだ……」
彼の手の力が緩んだ。
「ナオの……バカ!」
「いってえーーーっ!」
ナオの足を力いっぱい踏みつけて、急いで彼の横をすり抜け階段を上った。
背中に突き刺さるような視線が、痛くてこわい。
くちびるを、ぐっとかみしめる。
また涙がこぼれそうになった。