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わたしがいない間、何かあったのかな……。
洗面所へ行って顔を洗ったあとダイニングに戻ってきたら、ナオがむすっとした顔でテーブルにほおづえついているのが目に入った。
でも、よかった。食べてくれたんだ。ナオの前に置かれたおソバの丼はすっかり空っぽで、おつゆまで一滴残らず飲み干されている。
リビングに視線を移したら、ナオのパパがソファにすわり新聞を広げてくつろぎモード。無造作に脱ぎ捨てられたスーツの上着とネクタイが、足元のフローリングの床の上でしわくちゃになっていた。新聞によって顔がかくれているので、ナオのパパが今どんな表情してるのかわからない。
なんか……変なふたり。どうして、別々の離れたところにわざわざすわってるんだろう。
少しぐらい会話があってもおかしくないのに、二人ともさっきからひと言も言葉を発してない。
お互い意識しているものの、どうやって声をかけたらいいのかわからない。なんとなく、そんな感じ。
ひょっとして、さっきの取っ組み合いのことで、ナオだけ怒られたのかな。
自分の頬が赤らむのを感じる。
あーあ、失敗したなあ。年甲斐もなく取っ組み合いのケンカしてるところを、ばっちり見られちゃって。
十五歳の乙女がすることじゃないよね。いくらナオが相手とはいえ、男の子とさ。ナオのキライな唐辛子を無理やり入れようとした、わたしだって悪いんだし……。
どっちを先に声をかけたほうがいいか迷ったけれど、しかたない。入り口に立ったまま、差し障りのない言葉でお礼を言うことにした。
「あの、洗面所……お借りしました。ありがとうございました」
「サチちゃん、だいじょうぶ? もう目は痛くないかい?」
広げた新聞を折りたたみながら、ナオのパパは立ち上がった。ソファの横のサイドテーブルに新聞を投げ捨てるように置く。
「はい、だいじょうぶです。ご心配おかけしました」
「なら、よかった。たいしたことなくて安心したよ」
笑ったら、切れ長の細い目がもっと細くなった。ナオのパパは、ナオにそっくりだ。あ、ちがった。ナオがナオのパパに似てるんだった。
ナオのパパは、うちのパパと同世代の四十五歳。けれど外見は正反対、全然ちがっている。たくましいおなかをしているメタボなうちのパパに対して、ナオのパパは信じられないぐらいカッコいい。背が高くておなかもぺちゃんこで、手足だって長い。さらさらの黒い髪の毛もちゃんとある。
だからナオも大人になったら……なーんて思うときあるけれど、どうしてかなあ。わたしは、まるっきり想像つかない。ナオは中肉中背で、これといって外見的に秀でたところないし……。大人になるまでまだ時間あるからわからないけどね。急にカッコよく変身しちゃったりして……。
どきっ。
知らないうちに、わたしはナオの顔をみつめながら考えごとしてたみたい。ナオがこっちを見てた。一瞬目が合う。
ところが、ナオはすぐに視線を外すと、
「ごちそーさま」
と言って席を立ち、丼と箸を持ってさっさとキッチンに行った。口をへの字に曲げた不機嫌そうな横顔。やがて水が流れ落ちる音がして、陶器がカチャカチャとぶつかる軽い音が聞こえてきた。
「ナオ、いいよ。わたしが洗ってあげるから!」
あわててキッチンに歩いていこうとしたわたしを、ナオは首を横にふって制した。
「いい。すぐ終わるし」
ぼそっと答える。
え……、ちょっと! どうしたの、ナオ? こんな姿、おじさんに見せていいの?
わたしは、ひどく驚いてナオのパパを見た。けれど、ナオのパパは黙って立ったまま、ナオが食器を洗うところを見てるだけで眉ひとつ動かさずに立っていた。
おかしいなあ。いつもだったら、すぐ注意するのに。
ナオのパパは、長男のナオがキッチンに立ったり、家事の手伝いすることをあんまり快く思っていない。礼儀作法にも厳しい。特に目下のものが目上の者に対する口の利き方なんか、学校の先生より厳しかった。
それは、ナオのパパが『男子たるもの厨房に入らず』などといった古い頭の持ち主だから……じゃなくて、ご祖先様による習慣の違い、『考』や『礼』を重んじる儒教の教えによるものなの。
そう、ナオのパパは純粋な日本人じゃない。韓国人の血が入ってる。厳密に言うと、在日韓国人のお母さんと日本人のお父さんのハーフなの。だから、当然その子供のナオもちょっとだけ韓国人。なのに、唐辛子が苦手だなんて、笑えるお話なんだけどね。
ともかく、ナオのパパは、わたしたちが子供の頃していたままごと遊びにもいい顔しないぐらい厳しかった。それが、どうして今日に限って何も言わないんだろう。ナオのママが外出していて家にいないことと関係あるのかな。
「おじさん……?」
わたしが声をかけると、ナオのパパは驚いてはっとしたような顔をした。
「ごめんね、サチちゃん。おじさん、最近仕事が忙しくてね。ちょっと疲れてるんだよ」
指でもむようにして左右両方の目頭を押さえたナオのパパは、本当に疲れているようだった。そういえば、少しやせたような気がする。
人前で服装をくずすなんてこと、いままでしたことなかったのに、よほど疲れてるんだろうなあ。とてもじゃないけど、引越しのことについて詳しく聞ける雰囲気じゃない。
「いえ、いいんです。わたしのほうこそ突然お邪魔してすみませんでした。あの、今年も長野からおソバ届いたんです。おソバのつゆもまだ残ってますので、よかったらめしあがってください」
急に居心地が悪くなったわたしは、早口で話し終えるとナオのパパに向かって頭を下げた。
「これで失礼します。おじさん、おやすみなさい。ナオもまた明日ね!」
最後にナオにもあいさつする。
「サチ、ちょっと」
食器を洗い終わったナオがキッチンから出てきた。
「そんな薄ぺっらい格好じゃ寒いから、オレの服貸してあげるよ」
と、わたしがびっくりするようなことを言い出す。
「いいよ、べつに。すぐ隣だし」
寒かったら走っていけばいいのだから。たいした距離じゃないのに、ナオったら変なこと言うなあ。
それに服を借りたら返さないといけないから、かえって面倒くさいじゃん。
そう思って口を開こうとしたら、ナオが先制攻撃しかけてきた。
「いいことないって。この時期にカゼひいて寝込んだらたいへんだって言ったのは、サチのほうだろ?」
「それは、そうだけど……」
「いいから、玄関で待ってろよな。オレが来るまで、絶対帰るなよ!」
「う、うん……」
ナオの真剣な顔と有無を言わせない態度に押されて、結局ナオの服を借りることになってしまった。
ナオは語尾を強くして念を押すと、わたしの前を通り過ぎて部屋を出て行った。彼が二階へ上がっていく足音がする。
ナオといい、ナオのパパといい、二人とも今日はどこか変。いったいどうしちゃったんだろう。
ちらっとナオのパパを見たら、再びソファにすわり新聞を広げていた。どんな表情しているのか、やっぱり確かめる方法がない。
そして、新聞をめくる音をまだ一度も聞いていないことに、ふと気づいた。
わたしは、スリッパの足音をできるだけ立てないように廊下にそっと出ると、ゆっくり歩いて玄関へ行った。スリッパを脱いで向きを変えてから、自分のサンダルをはく。
ふう……、なんかどっと疲れた。
ドアに背中をもたれかけて、ナオが来るのを待った。
それから程なく、階段を下りる足音がして、ナオが姿を現した。
「ほい、お待たせ」
彼がわたしに差し出したのは、厚手のフリース素材のコートだった。
発色がいいキレイな青い色。よく晴れた空をイメージさせる色だ。去年彼が着てるところを何回か見たことある。
「ありがとう」
手を出して受け取ろうとしたら、ナオはわたしの手を無視して自分の目の前でコートを広げだした。
ど、どういうこと? なにがなんだかさっぱりわからない。
ナオが突然とった行動の意味がわからなくて、どうしたらいいのか迷ったわたしは、彼の顔を見た。
「何やってんの。背中を向けろよ、ほら」
ナオは、広げたコートを揺すった。
「えっ……、なんで……?」
「いいから早く。うしろ向けったら!」
「う、うん……」
彼に言われるまま、くるりとまわって玄関のドアのほうを向いた。
「ほら、手! 少し横にあげて」
「あ、うん……」
素直にナオの言うことを聞いて両手をあげたら、コートの袖が先に腕を通り、次いで背中が包まれた。冷たい空気が遮断される。そのとき、首のうしろの付け根を何かがかすめるように触れた。
ナオの指だ。
正体がわかったとたん、かーっと顔が熱くなった。
もーう、どうしちゃったの、わたし!
キッチンで取っ組み合いのケンカしてたときのほうが、接触した部分が多かったはずなのに。そのときは、何も感じないで平気でいられたのに。
ナオの指先がちょっとかすった今のほうが、思いっきり恥ずかしかった。しかも、顔から火が出そうになるほど。
ナオのせいだ。ナオが、わたしにコートを着せるなんて、らしくないことしたからだ!
そうだって。うん、そうに決まってる。
なんとか理由を探して自分を納得させることに成功したわたしは、フリースの胸元をぎゅっとにぎりしめ、『えい、やあっ』という勢いでふりかえった。
「な、ナオ、ありがと。じゃ……、また明日ね」
慣れないことをされてしまったので、顔がひきつってるのがわかった。ホント調子狂っちゃう。
こっちはあせりまくってるというのに、ナオは平気な顔で、
「ああ、明日な。それ、ちゃんと洗濯してから返せよ」
と、しっかり自分の要求をつきつけてきた。
「なんで? ちょっと着るだけじゃん、しなくたっていいでしょう!」
「ダーメ! ちゃんと自分で洗濯するんだぞ。おばさんに任せたら怒るからな。サチに貸したんだから!」
ナオは、にやりとした。
「それとも、サッちゃんは洗濯できないのかなあ? ちっちゃいから……」
「サッちゃんって言わないでよ!」
わたしは、サッちゃんと呼ばれるのがキライだった。というのも、あの有名な童謡の『サッちゃん』のせい。
幼稚園のとき教室で歌わされるたびに、自分のことをバカにされているような気がして、わたしは好きじゃなかったのだ。男の子たちによくからかわれていたことを、ナオだって知ってるはずなのに……。
「ナオなんか、キライ! さいならっ」
もう絶交してやるんだから! そう決意しながらドアのほうを向いて、ノブに手をかけてまわそうとした。
「あーっ、ごめん、サチ。ごめんな、言い過ぎたよ。だから許して!」
あたふたと言い訳するナオの声が、背中越しに聞こえてくる。
「……やだ!」
今さらそんなこと言ったってもう遅い、手遅れです!
「じゃ、さ! おわびというか、なんというか……おごってあげるよ、明日! あの入手困難なジャムパンを」
「ホント!?」
思わず、ふりかえってしまった。ナオがしてやったりという感じで、満面の笑みを浮かべる。
「ホント本当! 四時間目終わったらダッシュで購買に行くから、許してよ」
ナオは、わたしの機嫌を直すのがうまい。っていうより、わたしの機嫌を直す方法を知り尽くしている。
幼なじみだから当たり前なのかもしれないけど、わたしがどんなことが大好きでどんなことをしたら喜ぶのかを、ナオはよくわかっていた。
学校の購買で売られているジャムパンもそのひとつ。とてもおいしくて女子の間ですごく人気がある。お昼休みになってすぐ買いに走っても、手に入るかどうかわからない。まさにまぼろしのジャムパンだった。
思い出しただけで、よだれがでそう。そこまでしてくれるっていうなら、許してあげてもいい……かな。
わたしってホント現金だよね。すぐにつられるんだから。
「じゃあ、許してあげる。約束だからね! ジャムパン絶対買ってきてよね」
ナオは、『その返事を待ってました!』とばかりに指をパチンと鳴らした。
「よし、交換条件成立! ちゃんとフリース洗濯しろよ。あっ、おしゃれ着洗いでよろしく」
あーあ、今日もやっぱりナオにいいようにされちゃった。それに引越しのことも聞けなかったし……。
ナオのほうから言ってくれるかなあと薄々期待してたのに、すっかり当てが外れた。
いつものようにケンカして、仲直りして、またケンカして仲直りする。の繰り返し。
いつまでも続くと思っていたこの繰り返しも、もう少しで終わりなんでしょう?
ナオは、さびしくないの? さびしいと思ってるのは、わたしだけ?
それとも……、彼女さんだけにはきちんと伝えてあるの?
「ナオ……あのさあ……」
言葉がなかなか出てこない。
「何、サチ?」
ナオは、一段低い場所にいるわたしを見下ろした。特になんてことのない、いつもと同じまっすぐな黒い瞳。これがウソついている目だとしたら、わたしはナオの何を信じたらいいんだろう。
「ナオ……、わたしに言うこと……ない?」
「うん、あるよ」
言葉を選びに迷っているわたしとは対照的に、ナオはあっさり答えた。
「フリース洗う前に、ポケットの中身見てほしいんだよ。百円入ってるかもしんないしさあ」
「え、ひゃくえん……?」
「オレ今月ピンチなんだよ。だってさ、クリスマスあるだろう? プレゼント買わないとダメじゃん、やっぱさ? 少しでも節約しないとね」
ナオは、急にでれっと鼻の下を伸ばした。
あっ、そう! 彼女さんへのプレゼント、っていうわけね!
「わかりましたっ。その百円、わたしがもらっとくから安心して!」
「あ、おいっ、サチ……」
ナオがごちゃごちゃ言いかけたのを無視してドアを開け、勢いつけてバタンと閉めた。
ドアを閉めたとたん、ナオの声が聞こえなくなり、世界が変わった。
ひっそりと静まり返った夜の世界、冬の冷たい夜気がわたしを待っていた。
ぶかぶかのフリースの胸元を片手で押さえながら空を見上げたら、南の空をオリオン座の三ツ星が輝いてるのがはっきり見えた。
オリオン座流星群をナオと二人で見たのは、ついこの間のこと、十月二十一日のことだったのに。
それは、もう思い出なんだね。
こうやって少しずつ時間が過ぎて、全部過去のことになっていく。
いつまでも一緒に生きていられないんだ。
わたしは、今日はじめて知った。
青天の霹靂という言葉を身をもって実感した、今日という日に。
自分の中のナオの存在が大きいことを、今日はじめて意識した。
ここまで読んでくださってありがとうございました。