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おソバのつゆがぐつぐつ煮立ち、小さな気泡が鍋の底からわいてきたので、おたまで二、三回かき回してから、小皿にすくって味見してみた。
まろやかなこくのある風味が、ハーモニーを奏でるようにゆったりと、口の中いっぱいに広がる。
ワインの試飲をするかのように(もちろん、わたしは未成年だから飲んだことないけど)、舌の上でじっくりころがして、だしとしょうゆ、みりんのさじ加減をたしかめた。
うん、ばっちり。この味だったら、おソバにうるさいナオも文句言わないだろうな。
だしも、インスタントの粉末じゃなくて、きちんとカツオ節からとったしね。
もともと料理するのが大好きで、ママのかわりに時々キッチンに立つことがあるわたしは、自慢じゃないけど歳の割にレパートリーだけはたくさん持っていた。
おソバもそのひとつで、今わたしがつくっているこのおつゆは、小学校五年生のときおばあちゃんに教えてもらった秘伝のレシピだったりするの。
さすがにおばあちゃんの味には全然かなわないけど、少しは近づけてるかな?
ナオ、おいしく食べてくれるといいんだけど……。
ちょうどそのとき、おソバのゆであがる時間にセットしておいたキッチンタイマーが鳴ったので、あわててガスコンロの火をとめて鍋をおろした。
「いやあ、あったまった、あったまった。やっぱ、寒いときは風呂に入るのがいちばんだよなあ」
濡れた頭をごしごしバスタオルでふきながら、ナオがキッチンに入ってきた。
お風呂に入って、すっかり上機嫌。さっきまで冷えて白かった顔が上気して、頬も赤く健康的な色をしている。
部屋着代わりのジャージを身に着けていたけれど、上半身は半そでTシャツ姿のナオを見て、わたしは彼が湯冷めしないか気になってしまった。
「ナオ、ダメだよ、上も着なきゃ。髪もドライヤーできちんと乾かして。じゃないと、あったまった意味ないじゃん、カゼひいちゃうよ!」
「もーう、うっさいなあ。サチは母さんより小言が多くて困っちゃうよう」
ナオは両目の端を指できゅっと上にあげた。
「ガミガミ怒鳴ってばっか。カミナリ母ちゃんだ!」
「あっ、そう! ガタガタ震えていたナオのために、お風呂のお湯をはって、大好きなおソバまで作ってあげたのは、どこのだれだったかなあ。おソバ食べたくないんだ、ふーん……」
お鍋のお湯を流しに捨てて、アツアツのおソバをザルにとる。軽く水気をきって丼に入れた。
「だって、サチ、男の純情ふみにじるんだもん。フツー『あっためて』って言われたら、こう、抱き合ってぎゅーっとするだろう? ほら、雪山で遭難したときにするじゃん。こうやって、ぎゅーっと。ほら、見てよ、サチ!」
「あのね、ここは雪山じゃないの!」
自分で自分の身体をぎゅーっと抱きしめているナオに、冷たい一瞥をくれてやった。
「身体が冷えたときは、お風呂にゆっくり入ったり、あたたかい食べ物をとったりするほうが、断然いいにきまってるでしょっ」
もう、なんだっての。このスケベ! まぎらわしいことしちゃってさ。
寒いのなんとかしてほしかったら、もっとわかりやすく言ってよね。
「わかったら、さっさとや・る・の!」
おたまをしっしっと振って『向こうに行け』って合図を送ってから、丼におつゆをたっぷり注いだ。
顔が白い湯気に包まれて、しょうゆのにおいがぷんとする。
先に切って用意しておいたかまぼこと、ゆでたほうれん草をのせたら……、遠藤紗智特製のおソバのできあがり。
いっけなーい、肝心なもの忘れてた!
ラベルをこちら向きにし、カントリー調の小さな棚のなかに並んでいる香辛料の列から、赤い小瓶を見つける。
それを丼にふりかけようとしたとき、ナオが大きな声をあげた。
「ああっ、サチ! 入れちゃダメだ!!」
「いたっ!」
急に手が伸びてきて、流し台に背中を押しつけられたと思ったら、ナオはわたしの足をひとまたぎしてぎゅっとしめつけた。
両ヒザが彼の足の間にがっちり挟まれて、逃げようがない。
「何すんのよ!」
「サチ、よけいなことするなよな」
ナオは、わたしの両手首を片手でつかんだ。
「オレ、このまんまが好きなんだからさ」
やせて筋張った筋肉質の腕の上に、バスタオルが頭からすべり落ちる。
「あいかわらず唐辛子キライなんだね。でも、かけたほうがおいしいよ、絶対!」
手足が自由にならないってわかっていたけれど、わたしは力をふりしぼって動かそうと試みた。
でも、圧倒的な力の差はどうやったって縮まらない。
わたしは、なす術もなくナオをにらみつけるしかなかった。
「いーんだよ、かけなくても」
頬にナオの手が触れる。
「矢島に知られたくないだろ……?」
「ナオ……」
ナオの親指が、わたしの鼻の横をくすぐるようにそっとなであげた。
「そんなにキライなの? わたしは、大好きなのに……」
『あっ、変な言い方しちゃった』と思いながらも、『大好きなのは、唐辛子なんだからね。唐辛子!』と自分の中だけで訂正する。
「そうだよ、キライだよ。じゃなかったら、こんなことしないって」
だてに十五年つきあっているわけじゃない。ちゃんとわたしの言いたいことが彼に通じていた。
でも、ほっとしたのもつかの間。ナオはバスタオルを床に投げ捨てた。
ナオが『あっためて』なんて言うから、食べるとあったまるだろうと思って、はりきっておソバ作ったのに。
おいしく食べてもらおうと思って、おつゆも手作りして、七味もかけようとしただけなのに。
足元に落ちたバスタオルを見てるうちに、同じように自分までナオに捨てられた気がして、なんだか悲しくなってくる。
すると、おとなしく流し台に身をもたれかけ黙っているわたしに安心したのか、ナオはうなずいて手を離し目元だけで笑った。
「そうそう。いい子だよ、サチ」
わたしの耳に、ナオが唇を寄せてささやきかけた。
「そうやって、いつもいい子でいてくれれば、サチはラブリーなのにな。もったいないよ……」
冷蔵庫の『ウィーン』とうなる鈍い音が、低く長く鳴り響いて、ナオのささやき声にかさなる。
鳴り終ったあとも、鼓膜に余韻が残った。
「な、なあんちゃって! びっくりした……? 昨日見た海外ドラマのマネだったりして……どう? きまってた?」
無反応なわたしのことが心配になったらしく、ナオはあたふたと言い訳をはじめた。
いつもの悪ふざけのつもりでやったんだろうけど、調子に乗って好き放題言いまくったナオのことが許せない。
何の関係もない矢島クンの名前をだして、わたしを半分脅すようなこと言っちゃって。
口で丸め込むだけじゃ気がおさまらないっ、つーの!
「ぷっちん」
わたしは、ひと言だけ返事をした。
「え……、『ぷっちん』って? この寒いのに、サチ、プリン食べたいの……?」
思ったとおり、わたしの返事に意表をつかれたみたい。
ナオの目が大きく開いて、わたしのヒザを挟みつけている彼の足の力が弱くなるのを感じた。
「ナオ、わたしが今、プリンを食べたがってるかどうか、どうしても知りたい?」
わたしは、ゆっくり口を動かしてナオにたずねた。
「う、うん。できれば……。冷蔵庫にあるかもしれないし……」
ナオの喉仏が上下に揺れて、彼がつばを飲み込んだことがわかる。
「あのね、さっきの『ぷっちん』はね、わたしの……」
目標、照準あわせ完了。
「サチの……?」
「かんにん袋のヒモが、切れた音だってばよおっ!!」
ひざをバネのように伸ばしてジャンプ!
ナオのあごに思いっきりぶつかって、頭突きを食らわしてやった。
今はじんじん痛くたって、すぐに痛みがおさまるからだいじょうぶ。
頭突き勝負でナオに負けたこと一度もないし!
「いってえええっ! 何すんだよううう、サチいぃ……」
ふん、ざまーみろ!
ナオは、あごを手で押さえながら、うらめしそうな顔でわたしを見上げていた。目にも涙を浮かべている。
やっと解放されて軽くなった腕と肩を、左右交互に一回ずつまわしてから、しりもちついて床にすわりこんでいるナオの前に、わたしは「だん!」と足を踏み鳴らして立ちはだかった。
「『いってえええっ!』じゃないっ! わたしだって、痛かったんだからっ。あと、ラブリーなんて気色悪いこと言うなっ。どアホっ!」
「へへーんだ! オレ以外にだれも言ってくれるヤツいないくせに、サチなんかよっ」
な、なあんだとおおおっ! めっちゃムカつく!
ふくれっ面して口を尖らせているナオの目に入らないように、腕を背中のうしろにやって、手に持っている赤い小瓶の中ブタを爪を使ってこじ開けた。
流し台とガスコンロの間にある調理台のスペースに、さっと視線を走らす。
そこには、丼からおいしそうなしょうゆのにおいと湯気をたてている、アツアツのおソバが置いてあった。
「ナオ……、どうしてそんなひどいこと言うの? わたし、ナオのためにがんばっておソバを作ってあげたのに……」
ナオの関心を自分に引くために、しおらしく小声で彼に話しかける。
「だって、オレのキライな唐辛子をソバに入れようとしたんだもん。オレ、このまんまが好きなんだよ。よけいなことしないで、食べさせてくれよ。もう腹がへって、ガマンできないんだからさあ」
ナオは、情けない声をだしてお腹をなでた。
「わたしは、七味かけたほうが大好きなんだけどな……」
うーん、このへんの角度だったかな……?
ナオの前にちょこんと両ヒザそろえてすわった。
かわいらしくみえるように首をちょっと横にかたむけて、上目づかいでじっとナオの目をみつめる。
くちびるもちょっと突きだして、すねたような顔をつくった。
「ナオにおいしいおソバ食べてほしかっただけなの、本当よ……」
リップクリーム塗ってあったら、もっとよかったんだけど……。
ナオがどんな反応するかそのままの体勢で待っていたら、彼の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「な、なんだよ、サチ……。急に、そんな顔するなよ、わかったから……」
う、ウソみたい……。あの雑誌に載ってたこと、本当だったんだ。
その効果にびっくりして、ぽかんと口が開きそうになっちゃう。
先週の日曜日、パパといっしょに行った喫茶店に置いてあった雑誌の『彼のハートを動かす小悪魔テクニック なにげないしぐさ編』をマネしただけなのになあ。
はじめ読んだとき、なんかうさんくさい特集だなって思ったけど、意外にけっこう使えるかも。
それとも、ナオがだまされやすいだけ……なのかな?
一センチ、二センチと少しずつ、うしろ向きで調理台ににじりよる。
わたしをバカにしたこと、後悔させてやるんだから!
「じゃあ、かけてもイイよね!?」
立ち上がると同時にふりむくと、おソバに七味をたくさんかけるために、小瓶をいきおいよく振ろうとした。
よし、もらったあ!
「だあああーっ、やっぱ、ダメ! ストップ、ストップぅ! かけないでくれええ」
「ちょ、ちょっと、ナオ! こらっ、乙女に抱きつくな! 彼女さんに言うぞっ」
ゆ、油断しちゃったよ……!
勝利を確信した瞬間、ナオにうしろから羽交い絞めにされてしまい、また身動きがとれなくなっちゃって。
ナオに七味唐辛子の瓶をとられまいと、たて横ななめ、むちゃくちゃに腕をふりまわした。
「わっ、サチ、やめろよ! 抵抗しないで、おとなしくオレの言うこときくんだ!」
ぱらぱらと赤い粉が髪や肩に落ちてくる。
「イヤって、言ってるでしょ! ナオのバカっ、えっち、へんたい、ちかん!」
唐辛子のせいで目が痛くなり、まぶたを開けていられない。
ぎゅっとまぶたを閉じたまま、腕をふりつづけた。
「サチなんかに手え出すほど、欲求たまってないよ!」
ナオが叫んだそのとき、
「いや、たまってるように見えるぞ。どこからどう見てもね」
わたしとナオ以外の声が耳に飛び込んできたので、思わず腕をふるのが自然にとまった。
こ、この声は……。
「おじさん!?」
「親父!」
ナオの腕がわたしから離れる。わたしもふりあげていた手を下ろした。
「女の子に乱暴するような息子に育てたおぼえないけどな、おとーさんは」
目を開けることができなくて姿を確認することはできなかったけれど、その声の持ち主はまちがいなく、ナオのパパだった。
とんでもないところ見られちゃった……。
「こ、こんばんは。おじさん、おじゃましてます……」
ナオのパパがどんな顔でわたしたちを見ているのか……なんてことは、全然知りたくない!
大粒の涙をぽろぽろ流しながら口だけは笑っているという変顔で、わたしはナオのパパと久々の対面をはたすはめになってしまった。




