第6話
凛の心は、時間を翻っていく。
凛は、まだ自分が小学生だった頃のことを思い出していた。
凛の母親である真由美は、自分の娘に完璧さを求めるような母親だった。教育熱心で、凛が小学生の時などは自分自身で娘に夜遅くまで勉強を教えた。一見すると「良い母親」に見えるのかもしれない。だけど、その実情は、「良い母親」でも何でもなかった。凛が問題を一つ間違えると、その倍、凛に対して体罰を与えた。
「痛みを与えないと、あの子はわからないのよ」
それが彼女の口癖だった。
凛にはどこにも逃げ場はなかった。
小学生だった凛は家を出ることもできるわけがなかったし、帰る場所は自分の家しかなかった。放課後、学校からの帰りが遅いだけで、その体罰は二倍にも三倍にも増えた。凛はその体罰が怖くて、学校の授業が終わると急ぎ足で家に帰った。端から見たら、自分の家が好きなあどけない子どもに見えていたのだろう。だけど凛は、地獄しか待っていない場所に自分から飛び込んでいったのだ。飛び込んでいくしかなかったのだ。
そのくせ真由美は凛に、「外では常に笑ってなさい」と言った。「人に好かれるようになりなさい」と言い続けた。真由美の実家に帰省したときなどに凛が親戚に対して無愛想にしていたら、家に帰ったときの体罰がどうなってしまうのか。凛は想像することすら恐ろしかった。だから凛はいつだって笑っていた。笑いながら、泣いていた。母親が期待する「良い娘」を必死に演じ続けていた。
今になって考えてみると、真由美が気にしていたのは、凛そのものではなかったのだと思う。凛が外からどのように見えるのか、それだけだったのだと思う。凛は幼いながらも、その差を敏感に感じ取っていた。真由美はいつだって世間体を気にしていた。自分の娘が「良い娘」に見えることに、自分の人生をかけていた。そしてそれによって、自分自身が「良い母親」に見えることが彼女にとって全てだった。
凛が真由美の期待に答えられなくなるのは、時間の問題だった。
中学に進学し、凛は真由美に初めて反抗した。
「私は、お母さんの玩具じゃない」
涙をぼろぼろ流しながら、真由美に向かって叫んだ。そんな凛の様子を、真由美はどこか冷たい視線でじっと見ていた。そして恐ろしいくらい冷たい口調で、凛に次のように言ったのだ。
「そう。それなら、勝手にしなさい」
凛が真由美の期待を満足させられなくなったときに、凛がその期待を満足させることを放棄したときに、凛は真由美から見捨てられた。
それ以来、凛は家に居るのに、居なかった。居ない存在になっていた。
そうか……。
そうだったんだ……。
凛は心のなかで呟く。
右手の甲に落ちた自分の涙をいつまでもじっと見つめていた。




