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第3話

 

 2


「ただいま」

 凛の声が薄暗い玄関の中に響く。中からは誰からの返事も返ってこない。いつものことだった。

 靴を脱ぎ、そのまま階段を上って二階に上がる。自分の部屋に入ると、スクールバッグを学習机の横に置き、着ていたセーラー服を脱いで部屋着に着替えた。お気に入りの灰色のスウェットパンツと、ピンク色のトレーナーだ。相変わらず家の中はしんと静まり返り、物音一つ聞こえなかった。

 凛は学習机の前の椅子を引き、座った。

 そこで何もせずにしばらく座っていた。そして今日の放課後の出来事を思い出していた。

 放課後、屋上で凛は一人本を読んでいた。そこに現れた結城翔。

 彼は「世界って、うるさいよな」と凛に言った。そして「自分の声を聞きに来た」とも言った。その言葉はどのような意味だったのだろう。凛にもその意味がなんとなく分かるような気がする。だけど凛の中でその言葉の意味は霧のように広がるだけで、なかなか形を作ってはくれなかった。形がないと、それを手で掴むこともできなかった。

 思えば、凛が翔と言葉を交わしたのは初めてだった。

 同じクラスに所属するクラスメートであるはずなのに、今まで一度も会話をしたことがなかったのだ。凛自身社交的な性格でもなかったし、翔も敢えて自分からクラスの輪から外れるようなところもあった。その結果、高校二年にもなるのに、今まで一度も会話をする機会がなかったのだ。そのことを改めて思い出していた。その初めての会話が「世界って、うるさいよな」という言葉だったことに、何か不思議な意味があるような気がした。だけど、その意味も、そのときの凛にはうまく掴み取ることができなかった。

 不意に、階下から物音が聞こえた。

 ドアが開いて閉じるときの、キーという微かな音。その音に続いて、玄関から居間に通じる短い廊下をパタパタと誰かが歩く音がした。その音に凛の思考は妨げられる。

 どうやら母親の真由美が、パート先から帰ってきたらしい。

 真由美は近所のスーパーで働いている。凛は、自分の母親と出くわすのが嫌で、そのスーパーには行かないようにしていた。だから自分の母親が働いている姿を一度も見たことがないし、真由美が本当にそのスーパーで働いているのかもわからない。自分の娘には嘘をついて、本当は全く別の仕事をしているのかもしれない。そんなことをときどき考えたりもするが、ただ凛にとってはどうでもいいことだったので、すぐにその考えはどこかの闇の中に消えていった。

 階下からの小さな物音は続いていた。しかしその物音が階段を上ってくる様子はなく、凛はその物音をどこか別の世界の音であるかのように、一人椅子に座って聞いていた。


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