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第22話

 

 凛は扉の外に出る。

 あの日、翔が立っていた場所に向かってゆっくりと歩いていく。柵の前で立ち止まり、スクールバッグは両手で抱えるようにして持ったまま柵の外の世界を眺めた。

 校舎の出入り口からぞろぞろと吐き出される生徒たち。その列はそのまま正門まで続く。グラウンドでは、部活の練習を始めようと何人かの生徒が準備運動をしている。視線を上に上げると、学校を取り囲むように並んでいる小さな山の端に、太陽がゆらゆらと浮かんでいた。もう一時間もすれば、太陽も山の向こう側に姿を消していくだろう。

 何もかもが、あの日のままだった。

 ただ、隣に翔がいないことだけが違っていた。

 凛は胸に抱えるようにして持っているスクールバッグに視線を落とし、バッグを開く。一瞬、この屋上の翔の姿と同じように封筒も消えてしまっているのではないかという思いもよぎったが、ノートに挟まれた白い封筒が顔を覗かせていた。右手でその封筒を抜き取る。代わりに、持っていたスクールバッグを手放すと、バッグはバサッという鈍い音を立てて屋上のコンクリートがむき出しになった地面に落ちた。開いたままの口からノートや教科書が飛び出していたが、凛はそれを気にすることもなく手元の封筒を見つめる。恐る恐る裏を返してみると、やはり丁寧な女性のような文字で「結城翔」と書かれていた。

 凛は翔の書いた文字を一度も見たことはないはずだったが、その筆跡にどこか見覚えがあるような既視感を感じる。だけどどこで見たのかまでは思い出すことができなかった。

 封筒には封がなされていた。

 封筒の蓋を慎重に開けていく。翔が残してくれたものはできるだけ壊したくなかった。だけどその時の凛は、ペーパーナイフやハサミといった気の利いたものも持ち合わせていなかった。だからゆっくりと、できるだけ丁寧に蓋を開けていった。

 中には一枚の便箋だけが入っていた。

 何が書かれているのだろう。

 翔は私にどのような言葉を残してくれたのだろう。

 何かを期待するような、それでいて目を塞いでしまいたいような矛盾した思いに襲われる。もしかしたら、この手紙を見てしまったらもう元の日常には戻れないかもしれない。そんな不吉な思いが凛の心の奥底で蠢いていた。

 凛は一度深く息を吐いてから、覚悟を決めて便箋を開く。そこには次のように書かれていた。



『世界の音はうるさすぎて、俺にはもう聞いていられなかった。

 だから俺は、この世界から消えることにした。

 そうすれば、もうこの音を聞かずに済むから。


 お前にも、俺のこの気持ちが分かる時が必ず来ると思う。それは十年後かもしれないし、一年後かもしれないし、あるいは今かもしれない。

 その時はお前も、俺と同じように「消える」という選択をきっとするだろう』



 凛は便箋を握ったまま、しばらく呆然と立っていた。

 そのとき、凛の耳に「音」が聞こえた気がした。

 それは今までも凛が聞いてきた「音」だった。だけど必死になって耳を塞ぎ、聞かないようにしてきた「音」だった。凛は両手で自分の耳を塞ぐ。だけど「音」は両手なんて簡単にすり抜け、凛の存在自体に直接響いてくる。

 それは、「◯◯のように生きるべきだ」という常識という名の音だった。「◯◯をしなければならない」という社会という名の音だった。「◯◯をしてはいけない」という学校という名の音だった。そして、「親の言う通りに生きなければならない」という家族という名の音だった。

 凛はさらに自分の耳を強く塞ぐ。それでも様々な「音」は鳴り止まなかった。

 翔は、こんなにもうるさい世界を生きてきたんだ……。

 そして私はこれから、このうるさい世界を生き続けなければならないんだ……。

 絶望とともに両手を離す。そのまま、柵の外の、あの日、翔が黙って見ていた「世界」を見つめていた。そして「世界の音」を聞き続けていた。

 屋上を冷たい風が吹き抜け、凛の髪を揺らす。

 凛は幽霊のようにゆっくりと後ろを振り返り、扉に向かって歩く。中身が飛び出したスクールバッグは屋上の地面に置かれたままだった。凛にとってはもはやそのようなものはどうでもよかった。ただ、歩き続けていた。

 扉の取っ手に手をかける。そのまま扉を開けようとしたときだった。


 ぽた……。


 凛の耳に、何かが滴るような音が聞こえた。

 動きを止め、反射的に自分の頬を触る。濡れていない。何かに呼ばれるように、静かに後ろを振り返る。だけどそこには誰もいなかった。ただ、空虚な世界だけが広がっていた。


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