第20話
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次の日の朝も、二年一組の教室に翔の姿はなかった。
生徒たちが上辺だけの会話で時間をやり過ごしていると、八時三十分になり、山科がやってきていつものように朝のホームルームを始める。その途中途中で山科が凛のことを見ているのには気付いていたが、凛はそのことに気付かないふりをした。おそらく昨日の放課後、凛が職員室に来て「結城翔」について話したことが原因だろう。いつもと変わらない凛の様子にほっとしたのか、その後は凛のほうを見ることはなかった。
凛の外面は昨日と変わらなかった。変わらないふりをしていた。上辺だけで進んでいくこの学校という空間の中で、その凛の変化に気付いた者はいなかった。
だけど凛の内面は明らかに昨日と違っていた。
心の中にぽっかりと空いた大きな穴のような喪失感を抱えていた。それは「結城翔」という人間が消えた喪失感というよりも、凛の中で世界そのものが消えてしまったかのような喪失感だった。「結城翔」という人間を信じていた自分が消えてしまった凛の内側は、もう何も残っていなかった。いや、もともと「世界」なんてものは存在していなかったのかもしれない。「世界」というものが存在するのだと思い込んでいただけだったのかもしれない。「結城翔」という存在が消え、その事実を思い出しただけなのかもしれない。
教室の片隅で、そのようなことをぼんやりと考えていた。
いつもと変わらない教室。廊下側の一番後ろの席に座り続ける空っぽの自分。「結城翔」という人間が存在しない世界は、何の不都合もなく進んでいく。
朝のホームルームを終えると、山科は凛のことなどすでに忘れてしまったかのように、凛のことを気にかけることもなくそのまま教室の外に出ていった。凛は、山科がホームルームの中で何を言っていたのか、何一つ覚えていなかった。
隣の席の女子生徒が、凛に話しかけてくる。
「次の授業、数学だよね。課題やった?」
「え?」
凛はその女子生徒の顔を見つめる。
「ほら、中間テスト前の課題出されていたでしょ?」
「あ……そうだった。私、まだやっていない」
凛の体はロボットのように、自分の意志とは関係なく隣の女子生徒と当たり障りのない会話を始める。その二人の会話を、外から黙って見ているもう一人の自分が凛の中にいた。
「そう。凛が課題をやってこないなんて珍しいね。ノート貸そうか?」
「うん、ありがとう」
どっちが本当の私なのだろう……。
作り笑いを浮かべて女子生徒との会話を楽しんでいる演技を続けながら、凛の中のもう一人の自分が問いかけてくる。
もしかしたら、どちらも本当の自分ではないのかもしれない。女子生徒と楽しそうに会話を続ける自分も作り物の架空の自分だったし、凛の中にいるもう一人の自分も「結城翔」の一件をきっかけに砂の城のように崩れていき、もうそこには何も残っていなかった。
いや、「早川凛」なんて存在は、「結城翔」と同じように始めから存在していなかったのかもしれない。そのような思いが、心の奥底から染み出していく。
「そうなんだ……」
「うん」
架空の自分が女子生徒との会話を続けていた。
凛は自分がなぜここにいるのかも分からなくなりそうだった。もしも存在していることに理由がないのなら、存在していても存在していなくてもどちらでも変わらないように思えた。
女子生徒は凛との会話に飽きると、次は左隣の生徒と会話を始める。
凛は突然一人になる。ただ、その時間ですら「友達のいない寂しい生徒」に見られないように、次の授業の準備を始める。何かの作業をしていれば、そしてその様子を周りに見せていれば、自分は「友達のいない寂しい生徒」ではなく、「次の授業の準備をしている生徒」になることができる。様々な仮面を付け替えて、凛は「教室」という空間を生きるしかなかった。
凛は机の中に入れっぱなしになっていた数学のノートを取り出そうと右手を差し入れる。ノートを掴もうとする瞬間、その人差し指が何かに触れた。四角い紙のようだった。凛はその紙を机の中から掴み出す。
一通の封筒だった。
表には何も書かれていない。
昨日まではそのようなものは机の中には入っていなかった。差出人を確認しようと機械的に封筒をひっくり返すと、そこにはひどく几帳面な文字で「結城翔」と書かれていた。




