第19話
「え? 結城……。結城翔のことです。
昨日まで二年一組の教室で、窓際の一番後ろの席に座っていました」
「だから、さっきから何を言っているんだ。うちのクラスに『ユウキショウ』なんて名前の男子生徒はいない。
お前、まさか変な薬でもやっているんじゃないのか?
そして幻覚でも見たんじゃないのか?」
山科は椅子に座ったまま、眉間に皺を寄せながら凛の顔を見ていた。眼鏡の奥に覗くその目は、本心から凛のことを不審に思っている目だった。とても生徒をからかっているような、生徒に冗談を言っているような目ではなかった。
凛は自分が立っている場所がグラグラと揺れるのを感じた。その両足が立っている職員室の床ではなく、凛という存在を成り立たせている何かが揺らぎ始めていた。
凛は、ふらふらと山科の前から離れる。
山科にはもうこれ以上何も言わなかった。何も言うことができなかったし、何を言えばいいのかも分からなかった。三列に並ぶ机の間を幽霊のように歩いていた。自分がどこに向かっているのかも分からなかった。
「おい! 早川!」
背後から山科の声が聞こえる。
しかし凛は立ち止まらない。凛にとってはもはやそんなことはどうでも良かった。凛はどこかに向かって歩き続ける。口の中ではぼそぼそと、「なら……あのときの翔は誰だったの……。昨日、教室の窓際の席に座っていたのは誰だったの……。昨日、屋上で『もし、俺がいなくなっても、探さなくてもいいから』と私に言ったのは誰だったの……」と何度も何度もつぶやき続けていた。
周りの世界がぐにゃりと曲がっていく。
その歪んだ世界の中で、凛は必死に考え続ける。
翔と一緒にいた自分が正しいのか。それとも、「『ユウキショウ』なんて存在しない」と言った山科が、そしてその山科の生きている「世界」が正しいのか。
きっと、私の方が正しいんだ。
この世界の方が間違っているんだ。
だって、昨日、私は確かに結城翔と一緒にいたのだから。そして結城翔の言葉を確かに聞いたのだから。
凛の耳には、あのとき翔が言った「もし、俺がいなくなっても、探さなくてもいいから」という声がはっきりと響いていた。
気付くと凛は、自分の家の、自分の部屋にいた。
学習机の前の椅子に座り、何も置かれていない机の上をぼんやりと見ている。
どのように自分はあの職員室からこの部屋に帰ってきたのだろう。いつからこの椅子に座り続けていたのだろう。
思い出そうとしても思い出せない。記憶は深い闇の中に沈み込み、どこにも見つからない。
自分の服装に目を落とすと、黒いセーラー服が見えた。学校から帰ってから私服にも着替えずにこの椅子に座り続けていたらしい。そのまま視線を机の横の窓に移すと、カーテンが開けられたままの窓のその向こう側はすでに真っ黒い闇に覆われていた。
凛は、山科の言葉を思い出す。
「うちのクラスに『ユウキショウ』なんて名前の男子生徒はいない」
確かに山科はそのように言った。その言葉がまだ、凛の心に深く突き刺さったままだった。
凛は右手を持ち上げ、自分の掌を見つめる。
そこには確かに自分の右手があった。自分の身体があった。そして自分という存在があった。だけど、それすらも今の凛には自信がなかった。
もしも……もしも……結城翔が本当に存在しないのだとしたら……。昨日屋上で私は誰を見ていたのだろう……。誰の言葉を聞いていたのだろう……。山科が言ったように、自分は幻を見ていたのだろうか……。
いや、違う。
凛は小さく首を横に振る。
そんなはずがない。あのときの私は確かに翔を見ていた。確かに翔の言葉を聞いていた。私の方が正しいんだ。世界の方が間違っているんだ。
翔の存在が消えるということは、その翔を見ていた自分という存在が崩れていくことを意味するような気がした。そんなことがあってはならなかった。まだ、何かに縋ろうとしていた。
凛は、それを証明する方法が一つあることに気づいた。
右手で机の引き出しをそっと開ける。
その中に、二年一組のクラス名簿があるはずだ。クラス全員の名前と連絡先が載っている。結城翔は一年の時も二年の時も凛と同じクラスだった。そこには「結城翔」の名前が載っているはずだ。凛はその事実を確かめたかった。間違っているのは自分なのではなく、この世界なのだと証明したかった。
メモ帳やボールペンといった文房具の下に、一枚のプリント用紙が見えた。凛はその用紙をそっと掴み出す。
一番上には「二年一組 クラス名簿」と印刷されていて、その下には男子と女子で分けた形で名前の順で二年一組の生徒の名前が並んでいる。凛は上から順にその名前を見ていく。
「早川凛」
自分の名前がある。特に何の感慨を抱くこともなく自分の名前を見つめた後、凛の視線は更に下っていく。
「山下良輔」
「山田陽平」
「渡辺駿」
あれ……?
凛の視線はそこで立ち止まる。
本来であれば、「結城翔」は「山田陽平」と「渡辺駿」の間にあるはずだった。だけど何度見てもそこには「結城翔」という文字は無かった。
凛は呆然となりながら、その名簿を手放す。名簿はゆらゆらと舞いながら床に落ちていった。
ぽつりと心の中で呟く。
間違っていたのは、世界の方ではなかった……。
間違っていたのは、私の方だった……。




