第15話
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「おはよう」
凛は自分の机にカバンを置きながら、隣の席の女子生徒に言葉をかける。作り笑いを浮かべた形だけの挨拶だった。相手の女子生徒も「おはよう」と全く同じ挨拶を返してくる。凛はその挨拶を曖昧な笑顔で受け取り、椅子に座った。
午前八時の教室は、次々に登校してくる生徒たちが出す音で雑然としている。すでに登校を終えた生徒たちは、いくつかの机の周りに集まり、何やら楽しそうにおしゃべりをしている。教室全体が「夜」という空白の時間を隔ててどこかよそよそしく、ぎこちない。生徒たちは、そのよそよそしさを必死に埋めるように、気に入った人たち同士で中身のない会話を続けている。そして、「楽しい学校生活」という幻想の続きを思い出そうとしている。
凛は顔に浮かべた作り笑いの裏側でその浅はかさに吐き気を催しながらも、自分もその「楽しい学校生活」という狂った劇に参加しようと、先ほど挨拶を交わした女子生徒の周りにできていた輪に加わろうとした。この劇に参加することを拒むということは、このクラスの中に居場所をなくすということだった。結城翔は自分からその狂った世界に背を向けたが、凛はまだそれだけの覚悟と勇気はなかった。
カバンから一限目の教科書とノートを取り出し終えると、隣の席に集まった女子生徒たちに話しかけようと、凛は彼女たちに視線を向ける。
ふと、凛は窓際の席に翔の姿がないことに気づいた。
廊下側の凛の席から、窓際にある翔の席は視線の先にある。いつもは自分の机に頬杖をつきながら窓の外のグラウンドをつまらなそうな顔で見下ろしている翔の姿があるはずなのに、今日はその姿がなかった。
翔が学校を休むのは珍しかった。クラスから浮いた存在だったとしても、翔はこれまで律儀に学校に通っていた。風邪でもひいたのだろうか。
凛は昨日、屋上で翔が口にした自分の両親の話を思い出す。
家にはうつ病の母親と翔だけが残されたと言っていた。もしかしたら翔は学校以外に空っぽな時間を埋められる場所を見つけられなかったのかもしれない。だから、うるさい世界だとしても、毎日学校に通い続けていたのかもしれない。
その昨日の記憶は、翔が凛に最後に言った言葉も引き連れてくる。
「もし、俺がいなくなっても、探さなくてもいいから」
あの言葉は、どのような意味だったのだろうか。
凛の思索は、女子生徒の「ねえ、凛」という言葉に遮られる。一瞬で現実に引き戻される。
「え?」
「凛は昨日、『あの日、名前を呼べなかった』見た? 面白かったよね」
「あ……ああ、私は見てないよ。
そんなに面白かったのなら、私も見ればよかった」
凛は慌てて返事をする。
「あの日、名前を呼べなかった」は最近世間で流行っている恋愛ドラマだ。凛の部屋にはテレビはない。居間にしかテレビは置いていない。凛が居間に居場所を見いだせなくなってから、凛はテレビを見ることをやめた。当然、「あの日、名前を呼べなかった」は一度も見たことがなかった。
凛の返事を気にすることもなく、その女子生徒は隣の子と「あの日、名前を呼べなかった」の話を始める。凛は作り笑いを浮かべて、楽しそうなふりをしながら、いつ果てるともない相槌を打ち続けた。上辺だけの会話に溶け込んでいった。それを拒むことも、逃げることもできない。学校という世界で生きるということは、そういうことなのだ。
テレビ番組の話、好きなアイドルの話、憧れているモデルの話、吐き気を催すほど下らない会話を、凛はさも楽しそうな振りをして話し続ける。話し続けるに従って、凛の中の何かが削れていく。自分の中が空っぽになりそうになったとき、教室のドアがガラガラと開いた。
担任の山科が入ってくる。
その姿にどこかホッとしながら、凛は女子生徒たちとの会話を終え、自分の席に戻った。
山科は手にした名簿を開くと、教室の中をぐるりと見回す。そのまま目で生徒たちの列を順に確認していく。それを終えると名簿をぱたりと閉じて、「今日は欠席者はいないな」と言った。
凛は、あ、と思い、山科の顔を見る。
特に冗談を言っている風は無かった。翔が欠席のはずなのに。
凛は視線を窓際に転じる。やはりいつもは居るはずの翔の姿がない。
え……?
凛は心の中で呟く。
あるべきものがそこにはなかった。
窓際では翔の姿どころか、いつも翔が座っていたはずの椅子も、いつも頬杖を付いていたはずの机すらも消え去っていることに、凛は初めて気づいた。




