第14話
「私と、同じだ……」
凛の少し掠れた声に反応するように、翔が凛の方を振り向く。すでに暗くなりつつある屋上で、翔の表情は闇に紛れてはっきりとは見えなくなっている。凛はその闇の中の翔に向かって、いや、もしかしたらその闇そのものに向かって言葉を続ける。
「私の母親も、私を見捨てた……。
誰も私のことを見ようとはしなかった。誰も私の本当の声を聞こうとしなかった。私はいつだって、自分の母親から、私という存在は許されていないと思いながら生きていた。私は、自分が生まれてきたことをこの世界からは許されていないのだと思いながらこの十七年間生き続けてきた……」
凛は口をつぐむ。
屋上は闇と沈黙が満ちていた。その闇の向こう側から、声が聞こえてきた。
「それで、いいんじゃないかな……」
「え?」
「……きっと、それでいいんだよ。
こんなにもうるさい世界を、誰もが孤独を抱えて生きている。自分の本当の声は誰にも届かない。もはや自分の本当の声が何なのか、自分ですらわからない。
それでも、明日はやってくるから、時間は止まってくれないから、人は生きていかなければならなくて、その現実に目を逸らして一日一日を生きている。
みんな同じなんだよ。
みんな、そんな生き方しかできないんだよ。
だから……きっと、それでいいんだよ」
翔の言葉は、諦念を帯びている。だけどその諦念は不思議な優しさを引き連れて凛の耳に届いた。凛が視線を前にやると、山の端に引っかかっていた太陽は完全に山の裏側に隠れていた。これから本格的な夜が訪れようとしていた。
みんな同じ……。
みんな、そんな生き方しかできない……。
翔の言葉が、凛の頭の中で響いていた。
そうか……そうだったんだ……。
私だけではなかったんだ……。
屋上の闇は優しく凛を包み込む。
なぜだったのだろう。同じ存在である翔の隣に立ち、凛はようやく自分がこの世界から許されたような気がした。
この日以来、凛と翔は放課後に屋上で顔を合わせるようになった。
別に待ち合わせをしているわけではなかった。屋上で顔を合わせると言っても、言葉を交わすという訳でもなかった。
翔は柵に両肘を載せてタバコを吸い、凛は塔屋にもたれかかるように座って本を読む。ただそれだけだった。言葉がなくても、二人はこの世界の片隅で同じ空間に居る。そのことだけで良かった。そのことだけで十分な気がした。そんな日々がこれからも続いていくものだと思っていた。
数日が経ち、その日の放課後も凛は屋上で、図書室から借りていた「透明な涙の音」という小説を読んでいた。物語は終盤に差し掛かっていた。
主人公は、凛と同じく十七歳の少女。
少女は高校の図書室で一冊の本を手に取る。題名は「透明な涙の音」。それは、冒頭が「透明な涙の音を聞く者は、心の底にある真実から逃れられない」という一文で始まる不思議な本だった。その本を読んでから、少女に不思議な出来事が起こり始める。少女の心が揺れ動く瞬間に、少女にしか聞こえない、何かが滴る音が聞こえ始めたのだ。それはまるで、透明な涙が床に落ちるような音だった。
そのような日々の中で、少女は、かつて大切な人を失った「あの日」のことを思い出す。あの日、自分は泣かなかった。泣いてはいけないと思いこんでいた。「自分が泣く資格なんてない」と心に蓋をした。その結果、涙は外に流れなかった。代わりに、心の奥に溜まり続けていた……。
凛はそこまで読むと、ぱたりと本を閉じる。
周りはすでに薄暗くなり始めていて、本も読みづらくなっていた。そのことは、この屋上での時間も終わりなのだと凛に知らせていた。視線を本から上げて前を見ると、いつの間にか翔がすぐ目の前に立っていた。いつからそこに立っていたのだろう。少し驚きながら翔に、「どうしたの?」と尋ねる。翔はいつもと違い、ひどく真剣な表情をしていた。
「もし、突然俺がいなくなっても、探さなくてもいいから」
翔の言葉はあまりにも唐突で、凛にはすぐにはその意味が分からなかった。ただ、その言葉は不吉な予言のように、凛の胸の中で響いていた。凛は戸惑いながら「どういう意味なの?」と問い返す。
「明日、教えてやるよ」
翔はそれだけ言うと、凛の横をすり抜け、塔屋の扉を開けて中に入る。凛が振り返ったときには、すでにその姿は煙のように消えていた。
明日……教える……?
だけど結局、翔の口からその言葉の意味を聞くことは無かった。




