第13話
世界の声……。
凛は心の中で呟く。
翔の言っていることが分かるような気もするが、かといって、その本当の意味をうまく自分の中で形作ることができなかった。
凛がこれまでの十七年間生きてきた無音の世界。そして翔が生きているという、うるさい世界。その二つの世界は全く正反対のようであり、だけど、もしかしたら実は隣り合わせの世界なのかもしれないと思った。
自分はその世界の音に対して耳を塞いでいただけなのだ。世界の音はあまりにもうるさくて、あまりにも暴力的で、あまりにも無慈悲で、その声に背を向けるために必死になって両手で自分の耳を塞いでいただけなのだ。そうでもしていないと、凛はこの世界の中を生きていくことはできなかった。
だけど翔は、その世界の音に耳を塞ぐことはしなかった。うるさいものをうるさいと感じられるような生き方をしてきた。きっとそういうことなのだろうと思った。
どちらの方が正しい生き方だったのか……。
凛にはよく分からなかった。
翔は、自分が投げかけた「お前には聞こえないのか?」という問い掛けに対する答えを特に期待はしていなかったのだろう。いつの間にかその視線は凛から引き剥がされ、すでに薄暗く闇に包まれつつある誰もいないグラウンドを見ていた。上着のポケットに右手を差し込み、タバコの箱とライターを取り出す。風の中でライターのレバーをカチカチと何度か押した後、やっと火がついたタバコをまずそうな顔をしたまま吸っていた。
凛はその横顔を黙って見ていた。その横顔に向かって「世界はうるさい、か……」と呟くように言う。
「私は、そんなこと、今まで一度も考えたこともなかった。
結城君がこれまで生きてきた世界は、そんな世界だったんだ……」
翔はもはや凛の方を振り向くこともなかった。全てに興味を無くしたかのように、黙ってタバコの煙を吐き出していた。その赤い火が、薄暗い屋上で鈍く光っている。
もしかしたら、今の翔は、自分が生きているということにすら興味はないのかもしれない。
そんな気がした。すると逆に、翔がこれまで生きてきた十七年間について知りたくなった。
「ねえ……。結城君のご両親って、どんな人?」
きっと翔は答えないだろうと思いながらも凛は尋ねる。「お前には関係ないだろ」であったり、「お前に話す筋合いなんてねえよ」なんて返事が返ってくることも覚悟していた。だけど、翔の口から溢れた言葉は、意外な言葉だった。
「親父はアル中で、お袋はうつ病。
親父は俺が三歳のときに家を出ていった。今は何をしているのか俺も知らない。生きているのか、死んでいるのかすら知らない。家にはうつ病のお袋と、まだ幼かった俺だけが残された」
翔はぽつりぽつりと自分の両親のことについて語り始める。
その口調は、どこかの見知らぬ他人の話をしているかのようにひどく冷めていた。だけどその言葉を止めることはなかった。もしかしたら、翔は自分のことをずっと誰かに話したかったのかもしれない。凛は翔の横顔を見つめながら、そのようなことを考えていた。
ずっと自分の本当の声を聞いてほしかった。だけど世界はうるさくて、その小さな声はあまりに簡単にかき消されてしまって、そして自分の本当の声は誰にも届くことはなくて、この十七年間、ずっと絶望し続けていたのかもしれない。自分が絶望しているってことを忘れてしまうくらいに。
翔が先ほど凛に言った言葉。
「逆に、友達から本当の声を聞かされると、それが重たすぎて迷惑がる」
それは翔自身のことだったのかもしれない。
教室の中で誰とも会話することもなく、窓際の席に座ってつまらなそうな顔で誰もいない空っぽのグラウンドを見つめている翔の後ろ姿を思い出す。このうるさい世界の中で、いつしか翔は口を噤むことを覚え、自分自身の声すら聞こえなくなった。屋上で翔と初めて会話したときに翔が口にした「自分の声を聞きに来た」という言葉。その言葉の本当の意味がようやく分かったような気がした。
翔は自分の両親についての話を終える。
それは凛には一時間にも感じられたし、逆に一瞬にも感じられた。
視線を柵の外に転じると、山の端にはまだ太陽のかけらが残っていた。




