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第11話

 

 凛はゆっくりと柵に向かって歩き出す。

 翔はそんな凛の様子を黙ってじっと見ていた。凛は翔の前にではなく、翔の横の柵の前に立った。二人の間には二メートルくらいの隙間がある。その二メートルがその時の凛にとっては精一杯の距離だった。二人は並んで、柵の前に立っていた。

 凛は、それまで翔が眺めていた柵の外の世界に視線を送る。山の向こう側に見える小さな太陽が、このちっぽけな世界を照らしている。このちっぽけな世界の素顔を剥き出しにさらけ出している。いつも見ていた光景だったのだけど、その日は、その光景がなぜか少し悲しかった。

「私は、結城君の言う『あいつら』とは違うよ……」

 凛は、目の前のちっぽけな世界に向かって、もう一度呟く。

 その言葉に続けて、絞り出すような声で「私も……同じだから……」と呟いていた。

 凛は柵の外の世界を見つめたままだった。自分の横顔に、翔の鋭い視線が注がれているのを頬で感じていた。自分は誰に向かって話しているのだろう。それすらも分からなくなってしまいそうだった。隣に立っている翔に向かってなのか。自分自身に向かってなのか。それとも目の前のちっぽけな世界に向かってなのか。

 いや、それ以外の誰かに向かってだったのかもしれない。

 だけど凛には、そのようなことはもはやどうでもいいことに思えた。

「私も、同じだよ……」

 凛は左隣に立つ翔の方を初めて振り向く。

 翔の長い前髪が風に揺れていた。その前髪の向こうに、どこか虚ろな翔の目が見えた。

「……私の母親は、自分の娘に、自分自身の姿を重ねるような人だった。

 小さい頃の私はそれが当たり前のことのように思っていた。だって、それ以外に『母親』というものを知らなかったのだから。誰も教えてくれなかったのだから。

 だから私は、必死になって母の望む理想の娘になろうと思った……」

 凛はぽつりぽつりと自分のことを話す。

 なぜ自分のことを話しているのだろうか。自分でも分からなかった。ただ、自分は翔と同じなのだと、目の前の少年に向かって訴えかけたかった。翔にそのことを分かってほしかった。いや、それよりも、この世界の誰かに訴えかけたかっただけだったのかもしれない。ずっと閉じ込めてきた自分のことを、自分の本当の言葉を誰かに聞いてほしかっただけだったのかもしれない。そしてその誰かに「あなたは、あなたのままでいいんだよ」と言ってほしかっただけだったのかもしれない。

 様々な感情が凛の中で渦巻いていた。

 凛自身でも、その感情の姿を掴むことはできなかった。ただ、その感情を剥き出しの言葉として吐き出すことしかできなかった。

「……だけど、私は彼女の理想の娘にはなれなかった。それくらい彼女の理想は私にとっては高すぎた。幼いながらも、私はその事実に気づいていた。それでも、その事実に見て見ぬ振りをした。その時の私は、母の理想の娘になれないのなら、自分の存在意義なんてないのだと信じていたから。

 だから私は、その理想の娘を演じようと思った。外見だけでもその理想を装うことを覚えた。自分が思ってもいないことを『思っている』といい、自分が感じてもいないことを『感じている』と言った。そのようなことを繰り返しているうちに、もう、自分でも何が本当の自分なのか分からなくなっていた。

 知らないうちに、『限界』はすぐ目の前までやってきていた……」

 凛はそこで言葉を区切る。

 翔の口から何かしらの言葉が溢れてくることを待っていたが、その口からは何の言葉も出ては来なかった。相変わらず虚ろな目で凛のことを見ていた。凛は再び口を開くしかなかった。

「……中学生の時に私は、母の理想の娘であることをやめた。今までかぶっていた『母の理想の娘』という仮面を剥ぎ取った。

 その時だったと思う。

 今、結城君が言ったように、この世界の中に私の居場所が無くなってしまったのは……。

 剥ぎ取ってしまった仮面と一緒に、私の世界も無くなってしまった。自分で自分が分からなくなっていた私の中身は、空っぽだった」

「……」

「……だから、私も、結城君と同じなんだよ」

 凛の言葉は、風と一緒にすぐにどこかに消えていく。屋上は風の音だけが残された。自分が口にした言葉が本当にここに存在したのかすらも曖昧で、一瞬前のことすら、十年も前のことのように感じられた。

 凛は黙って柵の向こうに広がるちっぽけな世界を見つめる。

 グランドの端にある正門からは、六限目を終えた生徒たちが楽しそうにおしゃべりをしながら、ぞろぞろと蟻のように外に吐き出されていくのが小さく見えた。


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