積読
からっ風の吹き荒れる2月の初旬に遠藤琢磨は職を失った。それまではピアノ調律師として10年近く神奈川の調律事務所で働いていた。仕事にはいつも真摯に取り組み、調律師の腕も確かなものがあった。いったいなぜ自分が首になったのか皆目検討もつかない。この不況の時代にピアノの売上もあまり良くないとは聞いていたが、まさか自分に火の粉が降りかかるとは正直思ってもいなかった。
相模大野からの帰りの電車は、まわりではしゃぐ男子高校生との空気の違いは明らかだった。遠藤は、コンビニエンスストアで買った缶ビールを片手に、自暴自棄になってやけ酒を飲んでいた。周囲から浮いていたのは確かだ。ヒソヒソとわかるように悪口をしゃべる者もいた。悪目立ちをする遠藤をよそに時間は皆平等に過ぎていく。今日の電車はやけに揺れるなと思いながら、3本目の缶ビールを飲み干す頃に新宿に着いた。平日のまだ午後の早い時間、新宿駅はそれでも人でごったがえしていた。これからどうするかなあと呑気につぶやいてもいられない。ここで人生詰んだらおしまいだ。遠藤はその足で紀伊國屋書店に向かう。
学生の頃に読んで挫折した三島由紀夫の『金閣寺』を購入するためだ。三島には傾倒していなかったが、失業して暇な自分に何かしらのインプットが必要と思われたのでその決断に至った。30歳を過ぎて今さら三島というのも抵抗があったが、店員にどう思われようが今の自分にはどうでもよかった。ついでにカミュの『異邦人』も購入する。
レジ打ちは若い女性で酔っ払っている遠藤にあからさまに嫌な顔をした。遠藤はそれに構わずに「カバーお願いします」と、上機嫌に言った。店員の顔が赤らむのを確認すると、遠藤はそれだけで満足して、三島とカミュを抱えて紀伊國屋をあとにした。
西武新宿線の駅に向かう途中の「一水軒」で温かいラーメンを食べようと思い入店する。そこでは遅い昼休みのサラリーマンが思い思いにラーメンをすすっている。平日の昼にこの店に来るのは初めてかもしれない。店の壁に貼られたメニューを見る。いつもの穏やかではないメニューに苦笑しながら、今日も「極右ラーメン」の塩を頼む。カウンターの奥に陣取りさっそくさっき購入したばかりの『金閣寺』を開く。いや、待てと遠藤は思い、今は食べることに集中しようと思い『金閣寺』を閉じた。ちょうどそこへ『極右ラーメン』が運ばれてきた。遠藤は店員に『独裁餃子』も追加で注文する。「独裁一丁!」という声が店内に響き渡る。遠藤はその声に感慨深げに頷くと『極右ラーメン』を美味しそうにすすった。そしてこれからのプランの思いにふけっていると、隣で「ここあいてますか?」と声をかけてきたものがいた。
「なんだ、芳賀じゃないか」遠藤はすする手を止めてまじまじと芳賀を見た。長い髪を後ろで一本に結び、顔には無精ヒゲをたくわえている。スラリと伸びた背は遠藤よりも10センチは高いだろうか?久しぶりに見た顔だ。白いシャツとベージュのチノパンは、見るものに清潔感をあたえる。
「久しく見てなかったけど、こんなところでなにやってんの?」芳賀の低くて小音量の声を遠藤はなんとか聞き取ることができた。この男はまったく学生気分がいまだに抜けていないなと思いながら、遠藤は聞きたいことが山ほどあったが、半分は胸にしまいこんで、芳賀にストレートに聞いた。
「まだ職にはついてないようだな?」芳賀はたじろぎもせずに「そうだ」とだけ言った。
「お前は、今昼か?酔っ払っているようにも見えるが」芳賀が店員を呼び止めて『資本ラーメン』の味噌を注文した。やっぱりこいつは今だにファッション左翼かよと、芳賀を一瞥したあと、出来立ての『独裁餃子』に箸をつける。この遠藤の一連の動きを見て芳賀が少し微笑むと、遠藤は、こいつが暇ならこいつ家に呼べばいいじゃないか。どうせこいつも無職なんだし。
「おい、芳賀。今から俺の家に来ないか?どうせ暇なんだろ?俺の家で今からみっちり読書会をしないか?見ての通り、俺も今日、晴れて無職になった。これからは何をやっても自由だ。誰にもつべこべ言われることはない。だからこれから1週間、所沢のアパートで今まで積みに積んだ本をお前と2人で読み漁ることにした。お前にノーという返事は許されない。飯代と飲み代ぐらい俺が払う。つべこべ言わず、その70年代的な『資本ラーメン』を早く食え。」遠藤が一気にまくしたてると、芳賀はお国言葉の「たまげたなー」と言って遠藤の満足そうな顔に、不思議と腹が立つことはなかった。学生の頃も芳賀と遠藤はこんな感じでいつもつるんでいた。不思議なもので、あの時のまま時間が止まっているような感じだった。芳賀は『資本ラーメン』をテキパキと食べ始める。遠藤はタバコを吸いながら、店員と何か喋っている。いい気なもんだなと芳賀は思いながら『資本ラーメン』を食べおえた。
西武新宿の所沢行きの各停に乗車した二人は、ガラガラの車内で何も語ることなく静かにシートに収まっている。
「お前、まだ所沢に住んでいるんだな。なぜそんな不便なところに住む理由でもあるのか?もっと都心に出た方が便利じゃないか」突然、誰に言うでもなく芳賀が空をみつめてぼそっと言った。
「芳賀はわかってないな。大学生の頃は何かと不便だったが、俺はそれから小手指の調律の専門学校に入学したんだ。都内から小手指に通うのは大変だが、新所沢からだと自転車で通学出来るんだ。そこが魅力なんだよ。家賃も非常に安い」
「まさか岩手から出てきてあの時と同じアパートに今も住んでいるのか?」芳賀が軽蔑気味に言うと、遠藤は自慢げに「素晴らしいことだ」と誇らしげに言った。あの頃はお互いに若く、遠藤は芳賀を心のどこかでバカにしていた。こいつなら笑いながら哲学を説いても、いや、新興宗教の勧誘をしても、簡単に洗脳できそうだ。それほど芳賀はイカれた奴だった。授業中に爆睡して突然、大声で寝言を言ったり、わざと授業前から大酒を飲んで授業中に騒ぎ出したりした。 ふだん大人しいだけに、それらがすべて奇行として遠藤の目に焼き付いていた。
「各停は所沢まで何分かかるんだ。急行で新所沢まで行った方が早かっただろ」
「そんなことぐらいわかっているさ。今は無職の自由を謳歌したいんだよ。芳賀にはわからないだろうがな。東京に一軒家があって、家族が養ってくれて、10歳から東京暮らしの芳賀には到底この解放感は想像もできまい」遠藤は両腕を組み目の前の車窓から見える風景を思う存分味わっていた。これから先のことをうじうじ考えても仕方ない。なるようにしかならないが、遠藤の持論だった。
2人は各停に揺られながら何を語るでもなく、思い思いの時間を過ごした。遠藤は上石神井辺りで眠りに入ったし、芳賀は芳賀で手持無沙汰の車内ですることもなく、ただボーっとして車窓の変わりゆく景色を見ていた。
所沢に着く頃にはもう夕方になっていて駅前の西友も繁盛しているように見える。
「西友で夕飯の買い出しをしていこう。今晩は焼き肉でいいか?まあふだんからいいものを食っていると思うが、たまには贅沢をして国産牛でを食べるのも悪くないだろ」遠藤はあいかわらず芳賀に有無を言わせない。芳賀は憮然としながらも、遠藤の買い物に黙ってついていった。芳賀には一人暮らしの経験がない。白金の一等地に家族3人で暮らしている。弟は自衛官で防衛大上がりだ。今は舞鶴に勤務していると聞いている。さほど興味のないことなので、両親も詳しいことは芳賀には話さない。
遠藤はカートに買い物かごをのせて慣れた手つきで次々と品物をかごの中に放りこんでいく。めったにスーパーで買い物をしない芳賀には、遠藤が惨めに見えた。30過ぎて一人暮らしなど芳賀には想像もできなかった。芳賀は自分の運命にあらためて感謝した。
遠藤の足が突然止まった。〆のラーメンを用意するかどうかで悩んでるようだ。昼間にラーメンを食べたし・・・・。しかし〆の何かは欲しいところだ。芳賀がじゃあクッパにしたらどうだと提案したが、岩手育ちの遠藤は冷麺を食べたいとひそかに思っていた。岩手のスーパーなら普通に戸田久の冷麺が売っているが、どうやら所沢にはないことを、今さらながら遠藤は知った。「ここには冷麺がないな」
「そんなの売ってないだろ。冷麺は焼き肉屋で食うもんだ」芳賀がこともなげに言った。遠藤はそんなものかと思い、〆はバケットにした。
「おい。マジかよ」バケットを見て芳賀が思いとどまるように遠藤からバケットを取り上げようとするが、遠藤はそれを右わきに抱えて、けして放そうとはしなかった。「おい、お前いい加減にしろよ。焼き肉のあとはクッパと相場が決まっているだろ」芳賀が真面目な口調で言うのが、遠藤には面白くて「じゃあ、芳賀がクッパを作れよ」というと芳賀は急におとなしくなって「お前が普通は作るだろ」独り言のように言った。
「仕方ない。クッパは俺が作るよ。芳賀が皿洗い全面を引き受けてくれたらの話だがな。どうだ、俺がつくって芳賀が洗う。一挙両得じゃないか。悪い取引ではない」芳賀が黙って頷くのをみて、遠藤は愉快な気持ちになった。こいつ意外と悪い奴じゃないかもしれない。その調子で遠藤は続けさまに「酒は1人3本までだ。あくまで読書が主役だ。さあ時間は有限じゃないぞ。さっさと酒を買ってアパートに戻ろう」そういって芳賀の背中をポンと叩くと芳賀が小さく「いてっ」と唸った。
新所沢のアパートの前に着くと、赤いレンガの建物が街灯を灯して輝いている。芳賀が「変わってないなあ」と思いにふけっていると、遠藤が自慢げに「ここにもう13年住んでいる。芳賀も何度か来たことがあると思うが、ここは家賃4万円で有意義に過ごせる。都心に住むよりだいぶ安く上がる。まあ芳賀にはわからないと思うけど」遠藤はスーツの胸ポケットから鍵を取り出すと「さあ行こう」といってドアのカギを開けた。薄暗いリビングに何か所にも高く積まれたであろう本が、芳賀の目にも薄っすらと見える。リビングの電気をつけると、部屋いっぱいに本が積まれていた。芳賀は度肝を抜かれ「ずいぶん積んだな」と感慨深げに言った。それを受けて遠藤は「どうだ。すごいだろ。学生時代から積んできた品々だ。なんて言ったって俺の趣味は積ん読だからな。見ての通りだ。芳賀の好きな本多勝一全集も積んでいる。さっそく読もう。俺は今日買ってきた『金閣寺』を読むよ。芳賀は何読むんだ?俺のおすすめは、一水会の鈴木邦男だ。見沢知簾の『天皇ごっこ』は面白かった記憶がある。まあほとんどが手つかずの状態だから、好きにやってくれ」芳賀は初めこそ興味を持って背表紙追いかけていたが「ここ寒いな」といって「暖房つけないのか」と遠藤を促した。「何言ってるんだ。ここには暖房なんてないぞ。俺は岩手の極寒の地から来たんだ。芳賀も福島なら寒さぐらいどうってことないだろ」
「馬鹿言え。俺は10歳から東京暮らしだぞ。そんな未開の地の話を聞きたい訳じゃない。頼むからエアコンの暖房ぐらいつけろよ」
「軟弱者だな」遠藤はそういって仕方なくエアコンの暖房をオンにした。「読書に集中するためだ」遠藤はとりあえず『金閣寺』を読み始める。しかし10ページほど読みすすめると三島のデカダンスが気になりだし読書に集中できない。芳賀は鈴木邦男を読み始めている。遠藤は鈴木を左かぶれといって大いに気に入っていた。
遠藤は30分経つと『金閣寺』を放り投げていた。調律学校の頃三島好きの生徒がいたが、彼は美少年といういでたちで、クラスの女子から人気を博していたことを今さらながら苦々しく思いだされる。その頃の自分は痩せ細っていて、あばらが浮くほど骨と皮しかなかった。そんなことを思いながら紀伊国屋で購入した『異邦人』を読むことにする。パラパラとページをめくると新品の本の匂いがして、それだけで本を買って良かったという気持ちになる。芳賀を見るとビスケットを食しながら順調に鈴木を読んでいるようだ。
「酒はいらないか?」遠藤が芳賀に問いかけたが「いらない」といって読書にふけっている。遠藤は買い物袋から今さらながらビールを冷蔵庫に放り込んだ。寒いからって、ビールがキンキンに冷えるとは限らない。遠藤が『異邦人』に集中するのにそう時間はかからなかった。「これは」と思い、何十年かぶりの小説を楽しむ。たぶんここに積まれた本の中にも少なからず小説も混じっている。しかし遠藤の趣味はあくまで積ん読だ。本の匂いを嗅ぐまでがその本のステータスなのだから、そこで最高潮を迎えたとしても遠藤は悔いることはない。
芳賀は鈴木の『夕刻のコペルニクス』を興味深く読んでいた。鈴木邦男の存在は知ってはいたが、これまで通ってこなかった。こんなに柔軟な右翼の人がいるのかと感銘をうけ、スラスラと読める文章力にも好感がもてる。一気に読み上げると、次は何を読もうかと思案していると、埴谷雄高の『死霊9章』が目にとまった。「埴谷か。悪くないな」そうつぶやいて、装丁の黒一色に死霊味を感じ、埴谷雄高を知ったのはいつだったかな?と芳賀は自分に問いかけた。高校生の頃だったろうか?そう思ったが記憶違いかもしれない。しかし遠藤の奴、やはりあいつは左向きだな、と言って、おかしくなり埴谷の『死霊9章』にとりかかった。これは時間がかかりそうだと息巻いていると、遠藤が換気扇の下でタバコを吸っているのが目にとまった。
「遠藤タバコなんか吸っている暇はないぞ。本読めよ」芳賀は珍しく強い口調で遠藤に言った。
「もう飽きたんだよ。俺は本を積むために本を買っていたんだ。集中力がもたない。勘弁してくれ」遠藤は弱音を吐いた上に開き直った。
「お前が誘ったんじゃないか。じゃあ夕飯の支度でもしてろよ」
「それなら任せておけ。俺はこう見えても料理は得意なんだ。芳賀は首を長くして待ってろ」遠藤は右手を包丁に見立てて、野菜を切るそぶりをした。「まったく。よくそんな集中力で調律ができたな」芳賀はぶつぶつ言いながらも『死霊9章』を読みすすめる。キッチンでは遠藤が缶ビール片手に野菜を手際よく切る音がした。その小刻みな音に芳賀は小さな幸せを感じはじめていた。
1週間が過ぎる頃、芳賀は遠藤の本のタワーの半分を読破していた。そして自分が読んだ本のタワーを新たに積み上げていった。その集中力はすさまじく、目をみはるものがあった。芳賀は自分が本の世界に没入していることに新しい自分を感じていた。自分と本は相性がいい。「俺、物書きになってもいいかもな」といつしか思うようになった。こういう機会を与えてくれた遠藤に、もし新宿のラーメン屋で会わなかったら、今も自分は、腐して生きていくしか方法がなかったかもしれない。しかし運命は自分を遠藤に会わせてくれた・・・・。そういうことなんだ。芳賀は何にも代えがたい経験をしたことにより、人生がより充実した1週間になった。とりあえず遠藤の作る飯はうまかった。
けっきょく遠藤は、一冊も読破することができなかった。自分は調律はできるが、それ以外の集中力がないことを、いやというほど味わされた。あんなに意気込んで紀伊国屋で本を買ったのが、今さらながら馬鹿馬鹿しく思えてならない。しかし芳賀を無理につきあわせたのは良かったと自分では思っている。芳賀をひきこもり生活から、少しでも解放したことは、芳賀のためにもなった。何より今の芳賀は目が輝いている。こんなに生き生きとした芳賀を見るのは初めてだった。なぜ遠藤が芳賀にこれほど肩入れするのか?遠藤には田舎に20年ひきこもっている兄がいるのだ。また彼も本の虫で、妹が兄のリクエストに応えて、図書館で本を借りてきて、それを兄が読むというひとつのリングみたいなものが出来上がっていた。不思議なもので家族は兄が部屋から外に出たところを見たことがない。トイレはどうしているのだろう?と不思議に思ったことがあるが、昼夜逆転している兄のサイクルと家族のサイクルが違うのだから、会うはずもない。いったいその兄は今どうしているのか?もう5年も実家には帰っていない。ご飯はあいかわらず部屋の前に毎食母が運んでいるのだろうか....。妹が時々電話で近況報告をしてくれているが、中学生の頃の兄の顔しか思い出せないので、今兄がどうなっているのか、想像するだけでも末恐ろしい。
遠藤は朝食後いつものように換気扇の下でタバコを吹かしていた。芳賀はまだまだ本を読みそうだ。そう思っているところへ電話がけたたましく鳴った。ディスプレイを見ると家からだった。不吉な予感しかしない。受話器を取ると電話の向こうから妹の声がした。
「琢磨・・・・。お兄ちゃん自殺したの」妹のすすり泣く声がする。遠藤は不思議と動揺はしなかった。いずれそうなるだろうと、おおよその予測はついていた。
「最後は死ぬしか道がないからな・・・・。誰もそう簡単に救世主にはなれないんだよ」と冷たく言い放つ自分に気づき「ごめん・・・・。つい・・・・。言い過ぎた」遠藤が素直に謝ると、妹の直美が「大丈夫。いつものことだから慣れてる」
「末吉も大変だったな。俺、葬式には出ないよ。兄貴の負け顔を見たくないんだ。俺が帰るとまた母さんがうるさいから。早く結婚しろって必ず言うだろ」遠藤は直美のことを末吉と呼んでいる。もちろん末っ子で末吉だ。直美はその呼び方がおかしくて、27歳になった今でも、末吉と呼ぶ遠藤を愛おしく思っている。
「ありうる。落ち着いたら遊びにおいでよ。気分転換には最高の場所でしょ」直美は少し落ち着きを取り戻した。遠藤の声を聞いただけで、どうやら平常心に近づいたようだ。「意地悪だけど憎めない」それが遠藤への評論だった。
「あっ、末吉。もし急に気持ちが変わって帰ったとしても家に上げろよな。気持ちは変動するものだから・・・・。末吉も無理すんなよ」そう言って遠藤は電話を切った。一連の会話を聞いていた芳賀が「穏やかじゃないようだが、ほんとうに家に帰らなくてもいいのか?兄さん死んだんだろ?他人が口出ししてごめん」芳賀は口を真一文字に結んで、手で口にチャックを閉める仕草をした。
芳賀を見ていると兄を思い出す・・・・。「そうだったのか、そういうことだったのか」遠藤が急に大声を出して笑いだした。芳賀は何事が起きたのかわからなかったが、しだいに涙に変わっていく遠藤を見て感じるものがあった。遠藤の兄がひきこもっていることを、芳賀は学生の頃遠藤の口から直接聞いた。
「遠藤今ならまだ間に合うぞ」芳賀は思いっきり叫ぶ。すると遠藤がゆっくりと芳賀の方を振り向き「そう言われても今の俺に何ができる」と消え入りそうな声が遠藤の喉を通じて出てきた。やっと絞り出したような声だ。それでも遠藤の心は決まらない。
「俺には兄貴に会う資格がないんだ。もう生きてないけど、それでも兄貴は俺を許してはいないだろう。きっと俺が来ることを兄貴は待っていないと思う」
「そうか。俺に遠藤の家のことはよくわからないが、家族はお前が帰って来ることを待っているんじゃないのか。お前と家族の間に何があったのかはわからないが、今、帰らないと後悔すると思う。その胸によく聞いてみろ」芳賀は真剣に遠藤と向き合った。芳賀にこんな熱い気持ちがあるのかと、遠藤は少々ビックリした。そして遠藤は芳賀に言われるがままに自分の胸に自問自答した。そうか、俺は兄貴に謝りたかったんだ。彼の助けになることを自分は何もできなかった。なぜ兄はかたくなまでにひきこもっていたのか?いったい何を恐れていたのだろう。遠藤の胸に去来するものがあった。兄の気持ちを考えるとどうにもできなかった自分が悔しい。今の自分には兄を弔うことしか残されていない。そうだ・・・・。そうなんだ・・・・。兄貴に会ってお礼を言おう。「今まで生きてくれてありがとう」と。遠藤は涙を拭いて芳賀に言った。
「お前も何者かになったな。そうだろ、芳賀」
「お前も何者かになったな。そうだろ、遠藤」
ふたりはそれぞれの道をただひたすらに、走り出す。
「じゃあな。久しぶりの帰郷だから長くなりそうだ。留守番と読破頼むぞ」遠藤はそう言ってドアを開ける。まだ太陽は東を向いていた。




