第零章 『絞まる首輪、残された呪い』
——巻かれた首輪。繋がれた鎖。地面についた手足。全身を甘く侵食する鈍い痛み。脳内に満ちる奇妙な満足感。
静寂と漆黒に包まれた月明かりが降り注ぐ寝室。
『福良木 杏実』は身を床に委ね、ぐったりしながら首輪から伸びた鎖を持つ男、楪を熱のこもった濡れた目で見上げていた。
…鞭や蹴りを喰らった体が痛む。やや白い肌には夥しい痕跡が残っていた。
楪「…杏実、今日もいい子できたね。少し休んでいいよ。」
そう言いながら楪はこちらを振り返ることもなく、静かにソファへ腰を落とし眉間を押さえた。
いつも躾のあとは満足気に電子タバコを吸う彼のはずだが、何やら様子がおかしい。
福良木「…ご主人様。顔色…悪い。」
楪は福良木へ視線を移し、軽く微笑みながら答えた。
楪「お前も知ってる通りだけど、俺今やばい状況でね?来週敵とまた会談してくるけど…無事じゃ済まないかな。」
彼は自身の組織を持っているにも関わらず、ここ数ヶ月間、恩人の男の組織が敵と抗争になるのを食い止めるため奔走していた。
福良木「なぜ…こちらの組織のことではないのにそこまで…。」
楪「…まぁ男の意地よ。明日から会談終わるまで、準備もあるからまたここを離れる。」
楪は余裕のある表情を浮かべているが、やはり焦りはあるようでこちらの鎖を引く手に力がこもり始めた。
福良木「…アルトルにいれば敵はあなたを見つけ出せない。でも会談になんて行ったら…っ。」
——『アルトル』。楪が運営している非合法組織であり主に「法を逸脱するような異常性癖を持った倒錯者」をターゲットにしたビジネス展開をしている。
ただ今回の件にはアルトルには関係は全くない。楪は完全に私情で、恩人を助けるために自分がトップの組織を空けているのだ。
楪は一瞬思案するような素振りを見せ、こちらへ問いかけた。
楪「…杏実。もし俺が死んだらさ、俺の物として、一緒に棺に入ってくれる?」
楪が戯けるように笑い、こちらを見ている。——分かっている、彼はそんなことを望むような人ではない。
自分の死後のことなど全く興味がない。楪はそういう男だ。
福良木「…アルトルはどうされるのです?」
……言葉は紡げど、質問への答えは返さない。それがこちらの回答だ。
楪「はは、そういうと思ってた…。ならさ。」
楪の表情に黒く澱んだ影がかかる。口元が三日月状の曲線を描き、こちらを試すような不気味な笑みが浮かび上がってきた。
——次が本題だ。
楪「……俺に何かあった後の主人は決めといてやる。」
楪の視線にどんどん絡みつくような闇が混じっていく。彼の圧が強くなり心なしか視界が歪んでいく。彼の姿さえもぼやけていき、彼がどこか人ならざる何かに見えた気がした。
楪「だから、何があってもソイツに従うこと。」
その言葉が意味するものを悟る。ゆっくり、静かに涙が溢れ落ちていくが無言で頷いて彼を見つめた。
——彼は助からない。今日が最後に会える日で、今の言葉が最後の命令だと。
楪は静かに右手に巻きつかせていた鎖を強く引きこちらを手繰り寄せる。
ぬいぐるみを抱きしめるかの抱擁。それなのにどこか深淵に包み込まれ、自分を失う感覚に、強く目を瞑る。
楪はそれを見てまるで仮面のように、魔物のように、悍ましい笑みを浮かべながら続けた。
楪「大丈夫。俺にとって死ぬっていうのあんま大したイベントじゃない。それに杏実にはいいおまじないかけてあげるよ。」
楪がこちらの頭を抱え込む。耳元に口を寄せてきたと思うと、低くそれでいて脳を溶かすような甘さを宿した声で囁いた。
その言葉は今も焦げ跡のように、刻まれ続けている。
——「死してなお永遠に。」