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朝の古書店には、いつも以上に深い静けさが満ちていた。
街が目を覚ましはじめる時間帯だというのに、この小さな店の中だけは、どこか時間の流れが遅れているかのようだった。
硝子戸の向こうには、まだ薄い朝の光が柔らかく漂っていて、建物の影が通りをゆっくり横切っていく。
車の音も、川を渡る風のざわめきも、ここまでは届かない。
空気は澄んでいて、微かな埃の匂いに混じって、紙とインク、古い木材のにおいが漂っていた。
店内の明かりはまだ灯っておらず、棚の間には影が深く落ちていた。
空はその薄暗がりの中を、静かに歩いていた。
一冊一冊、手にした本を棚へ戻していくその動作には、慣れ親しんだ落ち着きがあった。
まるで体が、覚えているかのように。
何度も繰り返してきた朝の作業――それは儀式のように自然で、静かな時間の中に溶け込んでいた。
本の重さ、ページのざらつき、指先に触れる紙の感触。
それらすべてが、空にとっての「安心」だった。
ここに漂う空気、その匂い、その手触り。
それは単に静かな空間だから落ち着く、というだけではない。
この店には、空の祖母と過ごしてきた“静けさ”が染み込んでいるのだった。
祖母が丁寧に手入れしてきた木の棚、年季の入ったレジ台、どこか丸みのある椅子とテーブル。
それらはすべて、幼い空が見上げていた記憶の一部だ。
この古書店は、空が祖母と暮らしている家の一部でもある。
子どものころからずっと変わらない空気が、今日もまた、そっと空を包み込んでいた。
***
ふと、本を並べる手が止まった。
何かに触れたわけでも、気配を感じたわけでもない。
ただ、胸の奥に、ある光景が不意に浮かんだのだ。
あの喫茶店での午後。
数日前、窓際の席にいた彼女の姿が、静かに心によみがえってきた。
彼女はノートを開き、黙々と何かを綴っていた。
視線はノートに落とされたままで、その表情は穏やかで、どこか遠くを見つめているようでもあった。
その横顔には、柔らかい光が差し、まるで時が止まったように見えた。
顔のすべてをはっきりとは見られなかったが、それでも空は、そこにたしかな“気配”を感じていた。
静かに浮かんでいた微笑み。
そっとページをめくる手の仕草。
そのすべてが、どこか懐かしく、そして胸を締めつけるようなものだった。
なぜだろう。
十年前、うずくまって泣いていた少女の背中と、その姿が重なって見えた。
ただ、黙って、そこにいるということ。
声を出すこともなく、感情を押し込めながら、それでも何かを伝えようとする気配。
その空気は、あの午後とよく似ていた。
あの日、自分が初めて言葉を発した瞬間。
「がんばって、生きてみて」――そう、無意識に口をついて出た言葉。
空は、いつからか、声を出すことに臆病になっていた。
けれどあの日、その一言だけは、不思議と自然にこぼれていた。
その言葉だけは、今でも胸の奥に沈み続けている。
時にそれは痛みとなり、時に温もりのように思い出される。
でも、本当にあの彼女が、かつての少女だったのだろうか。
わからない。ただの偶然かもしれない。
でも――そうであってほしいと願う気持ちは、確かにあった。
***
空は、あのあと何度か、喫茶店の向かいに立った。
階段の踊り場から、彼女の姿を探して。
けれど、距離は決して縮まらなかった。
「また来てくれて、ありがとう」
あの一言をしおりに託した夜、少しだけ光が射した気がした。
でも、それ以上は近づけなかった。
声を持たない自分が、誰かの世界に入り込むこと。
それは、どうしてもこわかった。
それがやさしさなのか、逃げなのか、自分でもわからない。
けれど、足を踏み出せなかったその事実だけが、はっきりと残った。
でも、あのとき彼女が、ほんの一瞬ふっと笑ったように見えた。
その光景だけは、今でも胸の奥に灯り続けている。
まるで夢のような、たった一度きりの、奇跡のような時間だった。
だから、そっと離れようと思った。
彼女の静けさを守るには、それがいちばんいいのかもしれない。
その笑顔を、壊したくなかった。
ただ、それだけだった。