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きみの声をおぼえてる  作者: Rivi
第1章
5/6

5

朝、光がカーテンのすき間から差し込んでいた。

まぶたの奥にやさしく触れて、澪はゆっくり目を覚ます。


ベッドの脇に置いた本が、少しだけ開いていた。

寝る前に読んでいたままのページ。

そこから、しおりの端がふわりと顔をのぞかせている。


“よければ、読んでください。”


澪はそっと息を吐いた。

声ではないその言葉が、胸の奥で昨日より少し深く響いていた。


横に置いていたノートを手に取って、昨夜書いた金色の円をなぞる。

ページの上には、まだ新しいインクのにおいがほんのり残っていた。


キッチンから、トースターの“カチン”という音がかすかに響く。

淡いオレンジの光が、空気の中にふわっと揺れたように見えた。


澪はゆっくりと立ち上がる。

制服じゃない、いつもの柔らかいシャツに袖を通す。

昨日と同じ、気負わない服。

作られた姿じゃなくて、素のわたしのまま。

あの光は、そういう自分にだけ届いた気がしたから。

今日も、なにかを隠すことなく――ただの、わたしでいたかった。


バッグにノートだけをそっと入れると、

リビングに、母の姿はなかった。


いつものように、テーブルの上には書き置きだけがある。

《今日も無理しなくていいよ。お昼は冷蔵庫にあるから》


まっすぐで少しだけ柔らかい、母の文字。

それを見つめたあと、澪は声に出さずに小さくうなずいた。


***


駅までの道は、昨日と同じはずなのに、

どこか景色が違って見えた。


遠くの工事音が、くすんだ青ににじんでいる。

信号機の点滅音は、やさしい黄色で、いつもよりすこし淡く見えた。


喫茶店の前に立つと、胸の奥で“とくん”と音がする。

期待じゃない。願いでもない。

ただ、昨日感じたあたたかさに、もう一度触れたくなっただけ。


扉を開けると、変わらない香りが迎えてくれた。

やわらかなコーヒーの匂い。

この匂いさえ、澪には静かな“色”に感じられた。


澪の視線は、自然とあの窓際へ向かう。

昨日、本を読んだあの席。

今日は何もないと、わかっていたはずなのに――

それでも、無意識に、足がそちらへ向いていた。


席の上には、やはり何も置かれていない。

椅子はきちんと揃えられ、テーブルも整っている。


けれど、何かが引っかかった。


澪はゆっくりと席に近づいた。

テーブルの隅に、小さな紙が一枚だけ置かれていた。


薄いしおりのような紙。

色も模様もない、ごく普通のもの。


でも、そこに――

昨日と同じ、どこかやさしい気配が残っている気がした。


そっと手に取って、裏返す。


「また来てくれて、ありがとう。」


たったそれだけの手書きの文字。

でも、澪の胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。


声じゃない。けれど――

たしかに、“返事”を受け取った気がした。


澪は静かに席に座り、バッグからノートを取り出す。

昨日のページを開いて、すぐその隣に新しい記録を綴った。


「しおりが残ってた。

言葉は静かで、短くて――それでも、ちゃんと届いた。」


その下に、金色の円をまたひとつ描く。

今度は、少しだけ丸く、柔らかい光をまとわせるように。


***


向かいのビルの階段の影から、ガラス越しに見える喫茶店。

空は今日もそこに立っていた。


彼女は来てくれるだろうか。

それだけを胸に、静かに待っていた。


手のひらの中には、小さな紙片――

今日、自分がテーブルに残したしおりと、同じ言葉を書いたメモ。

何度も折りたたんで、端に少しくせがついている。


「また来てくれて、ありがとう。」


本を手に取ってくれた昨日の澪の姿が、ずっと心に残っていた。

あの手つき、ページをめくる速度、ノートを開く動作――

ひとつひとつが、空にとっては奇跡のようだった。


だから今日は、ほんの少しだけ勇気を出してみた。

声のかわりに、しおりで言葉を渡す。

それが、今の自分にできる精一杯だった。


そして今――

彼女が来た。


窓越しに見える横顔が、テーブルの前で立ち止まり、

そっとしおりを手に取る。


その指が少しふるえた気がして、

そのあとノートを開いた彼女が、ふっと小さく笑ったように見えた。


何も言えない。

それでも――

今日も、彼女の姿を見ることができた。


それだけで、胸の奥に、やわらかな光がそっと灯った。


***


その夜、澪はノートを開いたまま、机に向かっていた。

部屋の明かりは少し落として、静かな音楽もかけずにいた。


何かを書きたい。

でも、うまく言葉にならなかった。


しおりのメッセージは、今もそっと手元に置いてある。

小さな紙片に書かれた、たった一行の文字。


「また来てくれて、ありがとう。」


声じゃない。でも、やさしさが伝わってきた。

あたたかくて、胸にすっと入ってきた。


ページの隅に金色の円をひとつ描いてから、

澪はペンを止めて、ふと思った。


――この人は、誰なんだろう。


やさしさだけが伝わってきて、

それ以外は、何もわからない。


でも、知りたいと思った。

ほんの少しでも、相手のことを。


ノートの真ん中に、ひとつの問いを書いた。


「あなたは、誰ですか?」


とても短い言葉。

でも、澪にとっては、勇気のいる問いだった。


それ以上は書けなかった。

だけど、今の自分にできるのは、ここまでだった。


ページをそっと閉じると、金色の光が、かすかに目の奥に残った。


知らないままでいたくない。

名前も、声も、全部じゃなくていい。

ただ、少しだけでいいから、近づきたい――


心の中で、そんな願いが、音もなくゆっくりと広がっていた。

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