5
朝、光がカーテンのすき間から差し込んでいた。
まぶたの奥にやさしく触れて、澪はゆっくり目を覚ます。
ベッドの脇に置いた本が、少しだけ開いていた。
寝る前に読んでいたままのページ。
そこから、しおりの端がふわりと顔をのぞかせている。
“よければ、読んでください。”
澪はそっと息を吐いた。
声ではないその言葉が、胸の奥で昨日より少し深く響いていた。
横に置いていたノートを手に取って、昨夜書いた金色の円をなぞる。
ページの上には、まだ新しいインクのにおいがほんのり残っていた。
キッチンから、トースターの“カチン”という音がかすかに響く。
淡いオレンジの光が、空気の中にふわっと揺れたように見えた。
澪はゆっくりと立ち上がる。
制服じゃない、いつもの柔らかいシャツに袖を通す。
昨日と同じ、気負わない服。
作られた姿じゃなくて、素のわたしのまま。
あの光は、そういう自分にだけ届いた気がしたから。
今日も、なにかを隠すことなく――ただの、わたしでいたかった。
バッグにノートだけをそっと入れると、
リビングに、母の姿はなかった。
いつものように、テーブルの上には書き置きだけがある。
《今日も無理しなくていいよ。お昼は冷蔵庫にあるから》
まっすぐで少しだけ柔らかい、母の文字。
それを見つめたあと、澪は声に出さずに小さくうなずいた。
***
駅までの道は、昨日と同じはずなのに、
どこか景色が違って見えた。
遠くの工事音が、くすんだ青ににじんでいる。
信号機の点滅音は、やさしい黄色で、いつもよりすこし淡く見えた。
喫茶店の前に立つと、胸の奥で“とくん”と音がする。
期待じゃない。願いでもない。
ただ、昨日感じたあたたかさに、もう一度触れたくなっただけ。
扉を開けると、変わらない香りが迎えてくれた。
やわらかなコーヒーの匂い。
この匂いさえ、澪には静かな“色”に感じられた。
澪の視線は、自然とあの窓際へ向かう。
昨日、本を読んだあの席。
今日は何もないと、わかっていたはずなのに――
それでも、無意識に、足がそちらへ向いていた。
席の上には、やはり何も置かれていない。
椅子はきちんと揃えられ、テーブルも整っている。
けれど、何かが引っかかった。
澪はゆっくりと席に近づいた。
テーブルの隅に、小さな紙が一枚だけ置かれていた。
薄いしおりのような紙。
色も模様もない、ごく普通のもの。
でも、そこに――
昨日と同じ、どこかやさしい気配が残っている気がした。
そっと手に取って、裏返す。
「また来てくれて、ありがとう。」
たったそれだけの手書きの文字。
でも、澪の胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
声じゃない。けれど――
たしかに、“返事”を受け取った気がした。
澪は静かに席に座り、バッグからノートを取り出す。
昨日のページを開いて、すぐその隣に新しい記録を綴った。
「しおりが残ってた。
言葉は静かで、短くて――それでも、ちゃんと届いた。」
その下に、金色の円をまたひとつ描く。
今度は、少しだけ丸く、柔らかい光をまとわせるように。
***
向かいのビルの階段の影から、ガラス越しに見える喫茶店。
空は今日もそこに立っていた。
彼女は来てくれるだろうか。
それだけを胸に、静かに待っていた。
手のひらの中には、小さな紙片――
今日、自分がテーブルに残したしおりと、同じ言葉を書いたメモ。
何度も折りたたんで、端に少しくせがついている。
「また来てくれて、ありがとう。」
本を手に取ってくれた昨日の澪の姿が、ずっと心に残っていた。
あの手つき、ページをめくる速度、ノートを開く動作――
ひとつひとつが、空にとっては奇跡のようだった。
だから今日は、ほんの少しだけ勇気を出してみた。
声のかわりに、しおりで言葉を渡す。
それが、今の自分にできる精一杯だった。
そして今――
彼女が来た。
窓越しに見える横顔が、テーブルの前で立ち止まり、
そっとしおりを手に取る。
その指が少しふるえた気がして、
そのあとノートを開いた彼女が、ふっと小さく笑ったように見えた。
何も言えない。
それでも――
今日も、彼女の姿を見ることができた。
それだけで、胸の奥に、やわらかな光がそっと灯った。
***
その夜、澪はノートを開いたまま、机に向かっていた。
部屋の明かりは少し落として、静かな音楽もかけずにいた。
何かを書きたい。
でも、うまく言葉にならなかった。
しおりのメッセージは、今もそっと手元に置いてある。
小さな紙片に書かれた、たった一行の文字。
「また来てくれて、ありがとう。」
声じゃない。でも、やさしさが伝わってきた。
あたたかくて、胸にすっと入ってきた。
ページの隅に金色の円をひとつ描いてから、
澪はペンを止めて、ふと思った。
――この人は、誰なんだろう。
やさしさだけが伝わってきて、
それ以外は、何もわからない。
でも、知りたいと思った。
ほんの少しでも、相手のことを。
ノートの真ん中に、ひとつの問いを書いた。
「あなたは、誰ですか?」
とても短い言葉。
でも、澪にとっては、勇気のいる問いだった。
それ以上は書けなかった。
だけど、今の自分にできるのは、ここまでだった。
ページをそっと閉じると、金色の光が、かすかに目の奥に残った。
知らないままでいたくない。
名前も、声も、全部じゃなくていい。
ただ、少しだけでいいから、近づきたい――
心の中で、そんな願いが、音もなくゆっくりと広がっていた。