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帰り道、陽がすっかり落ちた街を、澪は静かに歩いていた。
喫茶店を出たときの金色の光が、まだ心の奥でふわりと揺れている。
でも、それは現実か夢か、まだ確かな輪郭を持たないまま、体の中に残っていた。
部屋に戻ると、上着を脱いで、そのまま机の前に座る。
鞄の中からノートを取り出して、金色の記録が並ぶページをそっと開いた。
本のことが、頭から離れなかった。
黒いカバー、置かれた角度、差し込んでいた光――
手に取れなかったけれど、何かがそこに“残っていた”気がしてならない。
ページの余白に、ゆっくりとペンを走らせる。
「今日は、声じゃなくて、本から音がした気がした。」
そう書いてから、ペン先が止まる。
タイトルも著者名も、まだわからない。
でも、その本が“あの人”のもののような気がしてならなかった。
たまたま誰かの忘れ物かもしれない。
けれど、あそこに“置いていった”ようにも感じた。
まるで、わたしに何かを託したように。
「……明日、まだあるかな」
心の中でつぶやいた声は、ページの上で静かに消えていった。
***
翌日、午後の光が少しだけ傾きはじめたころ。
澪は三度目の喫茶店の前に立っていた。
「今日も、あの本があるかもしれない」
そんな希望がほんのすこし、背中を押してくれる気がした。
けれど、いざドアの前に立つと、胸の奥で鼓動が強く響いた。
ガラス扉を押すと、いつものやわらかなコーヒーの香りがふわっと広がる。
澪の視線は、自然と奥の窓際へ向かった。
――あの席には、もう何も置かれていなかった。
椅子はきちんと揃えられ、テーブルの上には何もない。
昨日までそこにあった黒い本も、姿を消していた。
「……やっぱり、忘れ物だったのかな」
喉の奥がすこしだけ苦くなる。
このまま帰ってもいい。でも――
澪は、カウンターへ足を向けた。
「すみません、昨日この席にあった本って……」
「黒いカバーの本ですか? ありますよ」
店員の女性は、ふっと微笑んだ。
「忘れ物かと思ったんですけど、中にこんなメモがあって。
“よければ読んでください”って。気になるなら、どうぞ」
そう言って渡された本は、まさに澪の記憶のままだった。
表紙に触れた瞬間、手のひらに、金色の気配がふわっとにじんだ。
澪は席に戻り、本をそっと開いた。
指先が紙にふれた瞬間、小さな音が生まれる。
しゃりと、小さな音が響いた。
その音に、金色の光がふわっと重なる。
まるで、誰かがやさしく語りかけてくるようだった。
一枚ずつページをめくるたび、
“音”と“記憶”と“なにか大事なもの”が、ゆっくりつながっていく。
最後のページに、しおりが挟まっていた。
そこには、小さな手書きのメッセージがある。
「この本、好きでした。
よければ、読んでください。」
声じゃない。けれど、確かに“伝わる”何かがあった。
澪はノートを開き、ペンを走らせる。
「本の音。声じゃないのに、たしかに届いた。」
その下に、金色の円をもう一つ、
新しく出会った“音の光”を、そっと、丁寧に描いた。
***
向かいのビルの階段から、ガラス越しに彼女の姿を見つけた。
澪。名も知らないその少女の名前を、空はまだ声に出せない。
喫茶店で彼女を見かけたとき、
ノートを開く姿と伏せた横顔が、冬の公園の記憶と重なった。
あのとき――
うずくまって泣いていた少女に、空はたった一言をかけた。
「がんばって、生きてみて」
あのときの表情は、ずっと心に残っている。
涙をこらえた、強くて、壊れそうな目だった。
でも、今の自分には、もう声が出せない。
気づいたとしても、話しかけることもできない。
だから、昨日――あの本を、わざと置いていった。
声のかわりに、気持ちを残すみたいに。
「この本、好きでした。
よければ、読んでください。」
ただそれだけ。
名前も書かなかった。伝えたい気持ちは全部、ページの間に込めた。
読まれなければ、それでもいい。
でももし、手に取ってくれたなら――
そして今日、彼女はまた来た。
今、ページをめくっている。
何も言えないけれど、それだけで、
胸の奥が、すこしだけあたたかくなった。
もう声が届かなくても、
想いは、きっとまだ、どこかでつながっている。