3
朝、目が覚めても、ノートの昨日のページが開いたままだった。
机の上に置きっぱなしのノート。
金色のインクが、朝の光にふわっとにじんで見えた。
澪は、その文字の横に描いた金色の円を、ただじっと見つめた。
うまく描けなかったその丸は、少しいびつにかすれていて、
けれど、澪の目には確かにやさしく、あたたかく見えた。
ノートを閉じようとして、手を止める。
もう何度目かのためらい。
昨日から、何度も開いては閉じて、また開いて――
まるで、この記憶を逃さないようにする儀式みたいだった。
「……行こうかな」
声にはならなかったけど、そう思った。
昨日と同じ場所へ。もう一度だけ。
***
朝の街は、昨日よりもすこしだけやわらかく見えた。
陽の光も、風の音も、人の気配も――
どれも澪の中で、きのうとは少し違って映っていた。
シャツの上にカーディガンを羽織って、
小さなショルダーバッグのなかに、ノートをそっと入れる。
その重さが、ほんの少しだけ、背中を押してくれるような気がした。
道順は、昨日とまったく同じ。
駅までの歩道。信号の音。
遠くを通りすぎるトラックの低音は、きょうは少し青みがかって見えた。
駅の改札を通るとき、
ICカードが読み取られる音が、小さなオレンジ色で跳ねた。
こんなふうに、色がいつもより“明るく”見えるのは、
たぶん、ほんのすこし、心が動いているから。
――また、会えるかもしれない。
そんな期待を抱くのは、怖くもあった。
でも、それでも。
「行くだけでも、ちゃんと一歩だよ」
そう、自分に言い聞かせる。
誰にも届かない小さな声が、胸のなかでそっと響いた。
電車の窓越しに、昨日と同じ景色が流れていく。
小さな踏切の音が、少しだけ白っぽく揺れて、消えた。
そして、駅前の通りへ。
少し歩いて、喫茶店の看板が見えたとき、
澪の足が、ほんのすこしだけ早くなった。
***
澪は静かに喫茶店の扉を押した。
ガラスの向こうから、やわらかなコーヒーの香りが流れてくる。
昨日と同じ時間、同じ場所。
足元から胸の奥にかけて、ざわざわと音のような感情が広がっていた。
中に入った瞬間、澪の視線は――
自然と、あの席へ向かった。
窓際、奥から二つ目のテーブル。
昨日、ページをめくる音がした、あの場所。
……そこには、誰もいなかった。
椅子はきちんと押し込まれ、
テーブルの上にも何もない。
ただ陽の光だけが、まっすぐ差し込んでいた。
澪は、入り口で立ち尽くした。
期待していたわけじゃない。
でも、どこかで「いるかも」と思ってしまっていた。
喉の奥がきゅうっと締まる。
鼓動が少しだけ速くなって、膝が冷えるような感覚。
何も起きていないのに、世界だけが静かになった気がした。
店員が声をかけてくれる前に、
澪は空いていた別のテーブルにそっと腰を下ろした。
メニューを開く手が、ほんの少しだけ震えていた。
その動きを隠すように、視線を落として――
鞄の中から、ノートを取り出す。
昨日のページが、開いたままふわりと広がる。
金色のインクが、今日の光の中でもまだやわらかく輝いていた。
「……ただの偶然だったのかな」
声には出さなかったけれど、心のなかでそう呟いた。
でも、言葉にした瞬間、その考えがひどく悲しく感じた。
偶然であってほしくなかった。
そのときだった。
ふと視線をあげた澪の目に――
あの席のテーブルの上、ひとつだけ置かれている“何か”が映った。
黒いカバーの文庫本。
閉じられていて、表紙は見えない。
まるで誰かが忘れていったように、そこだけ時間が止まっていた。
澪はすっと息をのんだ。
本の周囲に、うすく金色の余韻が揺れているように見えた。
昨日の光より、すこしだけ淡くにじんで見えた。
でも、それはまぎれもなく――あのときの金色だった。
澪は、その本をじっと見つめた。
手を伸ばすことはできなかった。
勝手に触れる理由も、勇気もなかったけれど――
ただ“そこにある”というだけで、胸がぎゅっとなった。
昨日も、あの席で誰かが本を読んでいたのかもしれない。
その音が、わたしにとっての金色だった。
もしかして、忘れ物かもしれない。
また誰かが取りに来るかもしれない。
それが“あの人”かどうかはわからない。
でも、またここへ来たら、会えるかもしれない――
そんな思いが、ふわっと澪の中に浮かんだ。
それは、ほんのわずかな希望だった。
けれど、いまの澪にとっては、
何より確かな、前に進める理由になっていた。
澪は鞄からノートを取り出し、
空いたページに、そっと文字を走らせる。
「今日の音:いなかったけど、光は残ってた。」
その下に、小さな金色の円を描く。
今度は、にじみすぎないように、そっと、丁寧に。
そしてページの端に、少しだけためらってから、もう一行書き足した。
「また来よう。」
言葉にならない願いが、インクの中にすこしずつ染みこんでいく。
喫茶店を出たとき、
西の空はうっすらと茜色に染まりはじめていた。
まだ声は聞こえない。
けれど――
音は、今日もたしかに、わたしの世界で揺れていた。