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きみの声をおぼえてる  作者: Rivi
第1章
3/6

3

朝、目が覚めても、ノートの昨日のページが開いたままだった。

机の上に置きっぱなしのノート。

金色のインクが、朝の光にふわっとにじんで見えた。


澪は、その文字の横に描いた金色の円を、ただじっと見つめた。

うまく描けなかったその丸は、少しいびつにかすれていて、

けれど、澪の目には確かにやさしく、あたたかく見えた。


ノートを閉じようとして、手を止める。

もう何度目かのためらい。

昨日から、何度も開いては閉じて、また開いて――

まるで、この記憶を逃さないようにする儀式みたいだった。


「……行こうかな」


声にはならなかったけど、そう思った。

昨日と同じ場所へ。もう一度だけ。


***


朝の街は、昨日よりもすこしだけやわらかく見えた。

陽の光も、風の音も、人の気配も――

どれも澪の中で、きのうとは少し違って映っていた。


シャツの上にカーディガンを羽織って、

小さなショルダーバッグのなかに、ノートをそっと入れる。

その重さが、ほんの少しだけ、背中を押してくれるような気がした。


道順は、昨日とまったく同じ。

駅までの歩道。信号の音。

遠くを通りすぎるトラックの低音は、きょうは少し青みがかって見えた。


駅の改札を通るとき、

ICカードが読み取られる音が、小さなオレンジ色で跳ねた。

こんなふうに、色がいつもより“明るく”見えるのは、

たぶん、ほんのすこし、心が動いているから。


――また、会えるかもしれない。


そんな期待を抱くのは、怖くもあった。

でも、それでも。


「行くだけでも、ちゃんと一歩だよ」


そう、自分に言い聞かせる。

誰にも届かない小さな声が、胸のなかでそっと響いた。


電車の窓越しに、昨日と同じ景色が流れていく。

小さな踏切の音が、少しだけ白っぽく揺れて、消えた。


そして、駅前の通りへ。

少し歩いて、喫茶店の看板が見えたとき、

澪の足が、ほんのすこしだけ早くなった。


***


澪は静かに喫茶店の扉を押した。

ガラスの向こうから、やわらかなコーヒーの香りが流れてくる。


昨日と同じ時間、同じ場所。

足元から胸の奥にかけて、ざわざわと音のような感情が広がっていた。


中に入った瞬間、澪の視線は――

自然と、あの席へ向かった。


窓際、奥から二つ目のテーブル。

昨日、ページをめくる音がした、あの場所。


……そこには、誰もいなかった。


椅子はきちんと押し込まれ、

テーブルの上にも何もない。

ただ陽の光だけが、まっすぐ差し込んでいた。


澪は、入り口で立ち尽くした。

期待していたわけじゃない。

でも、どこかで「いるかも」と思ってしまっていた。


喉の奥がきゅうっと締まる。

鼓動が少しだけ速くなって、膝が冷えるような感覚。

何も起きていないのに、世界だけが静かになった気がした。


店員が声をかけてくれる前に、

澪は空いていた別のテーブルにそっと腰を下ろした。


メニューを開く手が、ほんの少しだけ震えていた。

その動きを隠すように、視線を落として――

鞄の中から、ノートを取り出す。


昨日のページが、開いたままふわりと広がる。

金色のインクが、今日の光の中でもまだやわらかく輝いていた。


「……ただの偶然だったのかな」


声には出さなかったけれど、心のなかでそう呟いた。

でも、言葉にした瞬間、その考えがひどく悲しく感じた。

偶然であってほしくなかった。


そのときだった。


ふと視線をあげた澪の目に――

あの席のテーブルの上、ひとつだけ置かれている“何か”が映った。


黒いカバーの文庫本。

閉じられていて、表紙は見えない。

まるで誰かが忘れていったように、そこだけ時間が止まっていた。


澪はすっと息をのんだ。


本の周囲に、うすく金色の余韻が揺れているように見えた。

昨日の光より、すこしだけ淡くにじんで見えた。

でも、それはまぎれもなく――あのときの金色だった。


澪は、その本をじっと見つめた。


手を伸ばすことはできなかった。

勝手に触れる理由も、勇気もなかったけれど――

ただ“そこにある”というだけで、胸がぎゅっとなった。


昨日も、あの席で誰かが本を読んでいたのかもしれない。

その音が、わたしにとっての金色だった。


もしかして、忘れ物かもしれない。

また誰かが取りに来るかもしれない。

それが“あの人”かどうかはわからない。

でも、またここへ来たら、会えるかもしれない――


そんな思いが、ふわっと澪の中に浮かんだ。


それは、ほんのわずかな希望だった。

けれど、いまの澪にとっては、

何より確かな、前に進める理由になっていた。


澪は鞄からノートを取り出し、

空いたページに、そっと文字を走らせる。


「今日の音:いなかったけど、光は残ってた。」


その下に、小さな金色の円を描く。

今度は、にじみすぎないように、そっと、丁寧に。


そしてページの端に、少しだけためらってから、もう一行書き足した。


「また来よう。」


言葉にならない願いが、インクの中にすこしずつ染みこんでいく。


喫茶店を出たとき、

西の空はうっすらと茜色に染まりはじめていた。


まだ声は聞こえない。

けれど――


音は、今日もたしかに、わたしの世界で揺れていた。

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