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あの音を聞いた瞬間、時間が止まったような気がした。
でも、ふと我に返ると、喫茶店の空気は何も変わっていなかった。
本をめくる音だけが、静かに“しゃり、しゃり”と続いている。
金色の光は、一瞬で消えた。
まるで最初から、錯覚だったかのように。
けれど、鼓動だけがひどくうるさくて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
そっと顔を上げて、わたしは視線を後ろへ向けた。
窓際の席。文庫本を読んでいる制服の男の子がいた。
ただ、それだけ。
顔も知らない。名前も知らない。
あのときだって、振り返ることさえできなかったから。
顔までは見えなかった。
でも、ページをめくる、その静かな動きに、なぜだか心が揺れた。
彼の指が紙を送るたび、わたしの視界には、ふわりと金色の光がまたにじむ。
現実の音は、ただの“紙の音”なのに――
わたしには、それが金色に“見えた”。
十年前のあの声と、まったく同じ色。
わたしの心が、理屈より先に「この人だ」と知っていた。
喉の奥が熱くなる。
声をかけたかった。
でも、それができなかったのは、あのときのわたしと、まったく同じだった。
立ち上がることもできず、コーヒーをほとんど飲まないまま、レジへ向かった。
扉を開けたとき、背中から“しゃり”というページの音が響いた。
その音にも、金色のにじみがある気がして――
わたしは、振り返れなかった。
違っていたら、こわかった。
あの記憶まで、嘘だったみたいに思えてしまいそうで。
***
街の空気は、少しだけ冷たかった。
夕方に近い空が、うっすらと群青に染まりはじめていた。
駅前の通りは、人がまばらに行き交っていたけれど、
その雑踏の音すら、どこか遠くに聞こえるようだった。
イヤホンはもう外していた。
通りすぎる声、人の足音、風の揺れる音。
どの音も、さっきより少しだけやわらかく聞こえた。
コンビニの扉が開く「ピロリン」という電子音は、水色にやさしく揺れていた。
自転車のベルの音は、細く揺れる黄色。
誰かのスマホからこぼれた通知音は、灰色の粒になって漂っていた。
金色の余韻が、まだ世界のどこかに残っている気がした。
それだけで、歩く歩幅が少しだけ軽くなる。
でも、胸の奥に引っかかるものもあった。
“あれは気のせいだったのかもしれない”という不安と、
“もう一度確かめたい”という気持ちがせめぎ合っていた。
***
帰宅してからも、その音のことが頭から離れなかった。
部屋のドアを閉めて、ベッドに倒れ込む。
イヤホンをまた耳に入れてみたけど、何も再生する気になれなくて、すぐに外した。
少し時間がたってから、体を起こしてソファに移る。
そこでようやく、カバンからノートを取り出した。
そのノートには、
“音の色”を思いついたまま書き留めるためのページがある。
ただの落書き帳みたいなものだけど、
誰にも見せたことはない、わたしだけの小さな場所。
今日のページを開くと、
昨日の音――電子レンジの「ピッ」とした赤、
母の書き置きに感じた白、
スマホの通知音の灰色――
そんな色が、メモとして並んでいた。
ページの余白に、そっとペン先を走らせる。
あの喫茶店で耳にした、本をめくる音。
その瞬間、視界に、ふわっと金色の光がにじんだ。
“しゃり”――紙が空気をすべるような、小さな音だった。
けれど、その響きは、あの声と、まったく同じ色をしていた。
その横に、小さく描いたのは、淡い金の円。
ほんのりと光をまとうような、やさしい色。
ページをめくって、過去の記録をたどる。
「金色」と書かれた記録は、ただ一度だけ。
十年前、公園で泣いていたときの、あの声。
それだけに、今回の記録は、思わずペンを止めるほど――
自分でも驚くくらい、深く、心に残った。
ページの端をなぞって、
わたしはそっとつぶやく。
「……また、会いたいな」
自分でも、誰に言っているのかわからない。
でも、口にしたとき、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
あの音が、本当に“あの人”のものかどうかなんて、まだわからない。
それでも――
“あの音”に、もう一度会いに行こう。
小さな決意が、心のなかに静かに灯った。