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朝、目が覚めた瞬間に、世界が“うるさい”って思った。
時計の針が動く音は、淡い青。
冷蔵庫のモーター音は、濁った紫。
窓の外で聞こえるトラックのバック音は、鋭い黄緑にきらめいていた。
手元で通知音が鳴った。
鈍い灰色が、目の奥でチカチカしていた。
画面には、未読のメッセージがいくつか並んでいたけど、そっと伏せる。
音も、文字も、いまは受け止めきれそうになかった。
目じゃなくて、耳が疲れる。
――いや、色に、かもしれない。
音に色が見えるなんて、たぶん信じてもらえない。
でも、わたしには見える。
ずっと、そうだった。
枕に顔をうずめる。できるだけ音を遮って、気配も気持ちも押し込めるように。
それでも、世界はわたしの中に入ってくる。
だから、今日も学校には行かない。
「休む理由なんていらないよ」って、母は言ってくれたけど――
それが逆に、しんどかった。
教室のなかは、もっと騒がしい。
笑い声も、ざわめきも、全部が鮮やかすぎて、色の洪水みたいだった。
わたしの居場所なんて、すぐに埋もれて見えなくなる。
朝食をとる気にはなれなくて、
冷蔵庫をなんとなく開けて、すぐに閉めた。
ドアの音が、グレーの煙みたいに目の前をすり抜けていった。
テーブルの上には、いつものように母の書き置きがある。
《今日も無理しなくていいよ。お昼は冷蔵庫にあるから》
母の文字は、まっすぐで、少しだけ柔らかい。
やさしい。でも、そのやさしさが、何かを問い返すように感じてしまう。
“今日も”。それは、“明日も”ってことかもしれない。
ソファに座って、イヤホンを耳に差す。無音。何も流さない。ただ、耳をふさぐためだけのもの。
それでも、音は色になって、入ってくる。
電子レンジが「ピッ」と鳴った。明るすぎる赤が、視界の奥でぱっと弾けた。
わたしの心に、ひそかに痛みが残った。
少しの静寂がほしかった。ただ、それだけなのに。
イヤホンのなかの無音に、ふと、遠い音が重なった気がした。
記憶の奥の、やさしい音。頭のなかにだけ響いた、あの日の声。
十年前。
まだ小学生だったわたしが、ひとりで泣いていた公園。
冬の午後で、遊んでいる子は誰もいなかった。
ジャングルジムの影にうずくまって、声を殺して泣いていた。
理由なんて、いまではもうはっきり思い出せない。
たぶん、誰かに何かを言われたとか、学校でうまくいかなかったとか、
そんな、些細で――でも、そのときのわたしには、大ごとだったこと。
誰にも気づかれたくなくて、でも、本当は誰かに見つけてほしかった。
そんなときだった。
「がんばって、生きてみて。」
すぐそばから聞こえたその声は、やさしくて、あたたかくて、どこまでもまぶしかった。
その瞬間、わたしの目の前に――金色の光が、ふわっとにじんだ。
その声は、触れられそうで、触れられなかった。
耳じゃなくて、もっと深いところ――心に直接、しみ込んできた。
わたしは顔をあげることもできず、ただ、涙が止まっていた。
その声だけが、世界で唯一、金色に見えた。
その日の午後。
なんとなく、外の空気が吸いたくなって、久しぶりにひとりで街に出た。
駅前の小さな通り。人混みを避けて、静かな喫茶店に入った。
なるべく奥の席に座って、カバンから文庫本を取り出す。
カップを置く音、レジで鳴る小さなベル。
空気がゆっくり流れているのが、音になって聞こえる気がした。
音のない時間をつくりたくて、イヤホンを耳に差したけれど、何も聴いていない。
ただ、外の音をシャットアウトしたいだけだった。
そして――そのとき。
後ろの席から、本のページをめくる音がした。
紙が、空気をすべるように音を立てた――「しゃり」と。
その瞬間、目の前に――
あの金色の光が、ふわっとひろがった。
本当に、同じ色だった。