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突然訪れた沈黙に気を利かせたかどうかはわからないが、クエリがリアの言葉を継いで与太話の続きを話した。
「まあ、それでもネームド以外の人間と比べたら、ほとんど微々たるものらしいけどね。とある研究論文よれば、ネームドである被験者の、持ちうる限り全ての情報を演算装置に入力してシミュレートした結果、限定的ながらもその後の行動を100%予測し、的中させることができたらしい」
「……ちょっと、黙っててもらえますか?」
さすがのメイリと言えど、今回ばかりはクエリに対しての暴言もその威力を抑えざるを得なかった。
「あはは、クエリっち、いるようでいらないアシストありがとー」
リアが感心したような呆れたような様子でクエリに言った。
しかし、確かにそれらの基礎を再度確認する手順によって更に浮き彫りになる事実もあった。
ネームドの多くの情報はもうすでに既知のものである。
そして「彼女」に関してもそれは同じであるはずだった。
「ミーシャさんの……あれ、についてあなた方はどうお考えですか」
メイリは恐る恐る、今まであえて言及を避けてきた「あれ」について二人に答えを問うた。
「あれ」とはもちろんミーシャの抱える不治の病、「恋」についてである。
「私にも正直わかんない。あれがもともと神様に与えられていて、これまで秘匿されていたものなのか、それとも本当に彼女に変化があって、その末に発現したものなのか」
「秘匿領域に関するものの類ではあるとは思うけど、俺も正直なところ半信半疑だ」
しかし、目に見えぬもの、手に触れられぬもの、それでいて大きなエネルギーを持ち合わせるそれらの事象についての答えを彼らが持ち合わせているわけは当然なかった。
二人は普遍的な論説で茶を濁したが、そうした本人たちですら、本能的にはそれらが間違った方向性の論理であることは自覚しているようだった。
「……」
メイリは視線を落として、コーヒーとミルクが混ざりきった、柔らかな茶褐色に目を止めた。
果たしてこの混ざりきった別々の液体がそれぞれの白と黒の姿を完全に取り戻すことがあるだろうか。それが自然界に起こり得る可能性はこの宇宙でどれほどあるだろうか。
本能的にはそれらはほとんど皆無に思える。そして実際にそれらが観測された試しは無い。
その事実を持って人はそれら不可逆に見える粒子の集合体の動きから、時間とは何かという問いの解を導き出した。
しかし、氷が解け、最終的に蒸気に至る過程や、混ざり合う黒と白の様子に世界の法則性を見出すのは果たして真実と言えるだろうか。たとえそれ以外の法則を人の視点から見出せなかったとして、それ以外の神によって秘匿された情報や法則の存在が示されているこの世界において、それが絶対と言えるだろうか。
その不可逆性を、たとえ真実ではなかったとしても真実と認識し、それらを結び付けることでしか時間の概念を認識することができない人間にとってはやはり認知は限界がある。
先ほどクエリが語っていた、ネームドのシミュレーション実験のなかで出てきた、「持ちうる限り全ての情報」という言葉は、とどのつまりどれだけ緻密にネームドを観察、分析したとて、絶対に触れることができない、神の秘匿領域が存在するという事である。
つまり、見かけ上にはネームドの性格が変わったように見えたとしても、ただ見えなかっただけ、秘匿されていただけという可能性も考えられる。
しかし――
「普通の人間の秘匿領域と比べてネームドのそれは限りなく少ない。人間の生物的な脳という器官については現段階では人類はほとんど知り得ることができないが、ネームドの情報に関しては創造主たちの遺した、遺跡やその他の痕跡を発掘し、再現された分析装置によって概ね解読できている。そして、それによって知り得た秘匿領域においては一般的には“恋”ができるほどにその領域は多くはないと言われている」
クエリの語る学術的情報に一切の落ち度はない。彼はただ現段階で分かっている事柄を語っているだけにすぎない。
「……」
人類に置いて――歴史的、宗教的、社会的な意味合いに置いての――の秘匿領域は、ある意味では完全なる神秘、つまり人の領域外(大体は神による創造)にある「真実」を意味する。
彼らが彼らである限り、人が人の領域に収まっている限り、それは彼らが絶対に触れることも、見ることもできないものであり、故にそれによって付随する人間の不完全性は彼らの中にある神秘を絶対なるものとしていた。
まあ、つまり何が言いたいのかというと、出所がわからない彼女の「恋」は完全なる神秘、つまり本物であるという事なのだ。少なくとも現時点の観測情報に照らすならば。
(だけどそんな理屈を知らなくてもわかる。ミーシャさんは本物だ――私とは違う……)
「ねえ……メイち、人間らしさってなんだと思う?」
「知らないですよそんなの」
「そうだね、知らないんだよ誰も……人は動物と比べてその知性や理性に人間らしさを見出す。そしてそれと同時に規則正しく動く機械からそれと比した無秩序さに人らしさを見出す――都合が良すぎるよね。でも私はそれに人の美しさと強さを感じる……だからね、あえて私は言うよ。ミーシャは人間らしいって。誰よりも人間らしいと、そう思う」
人は人を知らない。だけど人は自らの内にある、人の完全を語る。
もし人が語るそれがこの世界における人の全てであるならば、誰よりもその理想に近く、誰よりもその像から遠い彼女はやはり誰よりも人だろう。
「私も……そうだと思います――」
メイリは自らの分析を行ったことは無かったし、その結果を知らされたこともなかった。だけどその分析結果によって、自らの未来が閉じてしまうだろう事はなんとなく察していた。




