3-2
「アリアちゃん……体調はいかがですか……?もし、余裕があれば、おかゆ置いておきますので、食べてくださいね」
扉の奥から聞こえるメアの声を、明かりの点いていない真っ暗な部屋で聞き届けたアリアは、潜っていた布団から顔を出して、身体を起こした。
「本当……何やってんだろ……メアちゃんにも迷惑掛けて……」
ベッドから足を抜け出して、靴を履き、扉の前で耳を澄まして、メアの気配が完全に無くなったことを確認すると、扉を開けてメアの遺した土鍋の乗ったトレーをいそいそと部屋に引き込んだ。
「ごめんね、メアちゃん……」
だけど今のアリアにとっては、それが限界だった。胸を刺すような罪悪感も、メアに対しての必要な誠意も、その一言だけでは一ミリも解消されないことをアリアは理解していたが、それ以上の行動を今の時点では行えるような気がしなかった。
アリアは暗がりで、月の明かりを頼りに、窓際までトレーを運んで、手前の机の上に置いた。
――――ぐう…………
しかし、人間、どうしても空腹には耐えられぬものである。特にメア達のおかげで、規則正しい生活習慣を送っていたアリアの胃にとって、その少しのずれは癇癪を起した子供のように宥めるのが難しいものだった。
「はあ……」
空気の読めない自らの胃に、一つため息をつくと、アリアは観念した様に暗がりの中で椅子を探しだすと、窓際の丸机の前に置いて、それに腰かけた。
「ごめんなさい、メアちゃん。私が悪うございました……いただきます……」
アリアは手のひらを合わせて、感謝と謝罪の念を込める。それは玲瓏館に来てから初めて知った習慣だったが、この時ほどその儀式の有用性を実感したことはなかった。
「――――そもそもこれなんだろ……確かおかゆって言ってたよね……」
土鍋の蓋を開けたアリアは、月明りにきらめく、卵に閉じられたやや水分過多に炊きあげられた米たちを前に、それが病人の前に出される異国の料理の一種であるだろうことをなんとなく理解した。
「懐かしいな……昔、私も風邪をひいた時はこうして――――はむ……美味しい……」
アリアはトレーに乗せられていた匙を口元に運びながら、故郷の、同じように粥として煮たかれた小麦や、風邪の時にだけ特別に供される鹿肉の味を思い出して、しばしの郷愁に浸った。
「本当に美味しい……メアちゃんが作ってくれたのかな……?素朴な味わいだけど、それが逆に優しくて……やばい、なんか泣きそう……」
空腹にその暖かな愛情にも似た粥が注ぎ込まれて、冷え切ったアリアの体を温めた。
「美味しい――――美味しいけど……」
だけどアリアの胸の内に吹きすさぶ冷たい風は、その暖かみすら打ち消して、また空虚な伽藍を作り出す。
アリアはまだ食べかけのおかゆを置いて、窓から差し込む冷たい月の明かりを眺めた。温度を感じないその青白い光の下でアリアは、自らの欠けた部分を探した。
「失恋……ってやつなのかな……これ……」
指先で匙の柄を弄んで、心なしか重さを増したそれを、ゆっくりと口の中に押し込む。少し冷めてしまった粥にアリアは罪悪感とやるせなさを感じた。
「リアルとは別……そう思ってたはずなのに……それで良いと思ってたはずなのに……」
涙は流れない。そんなに大層な事じゃない。でも心が痛い。すきま風がびゅうびゅう吹き荒れて寒い。
「いないんだ……メイジ郎さん……――――現実には……どこにも……」
虚像――――彼は幻だった。アリアはありもしないものに恋をして、それに救いを求めていた。それは恋というにはあまりにも遠く、その形は紛い物ですら無い虚構だった。
「私って最低だ――――メイリさんは何も悪くないのに……」
そして、アリアはそのありもしないものに依存していた自分を慰めるように、責任の所在をメイリに求めて、その痛みを彼女にぶつけてしまった。
「どうして、気が付かなかったんだろう……あのメイジ郎さんはきっと……」
――夜の闇を吸い上げたような黒髪に、小生意気そうな目元、背丈の合っていないローブを引き摺りながら懸命に戦う後ろ姿――今思えば、彼女のその深い愛が、あの姿を作り上げていたのだとわかる。
「そうか……そうだったんだね……メイジ郎さん……」
アリアは最後の一口を飲み込むと、また手を合わせて、玲瓏館の習わし通りに「ごちそうさま」と呟いた。
すぐに割り切れるものじゃない。だけど、いつか終わりが来ることも、心の底では理解していたのかもしれない。
「――――……」
アリアは無言で窓から差し込むその青白い光を眺めた。綺麗だった。直接手で触れることもできず、温度も感じないその光に、アリアは彼の姿を重ねた。
――――……
いつの間にか開いていた窓から、風が流れて、ふわりと白いレースのカーテンが揺れた。
「――――小鳥…………?」
その隙間から入り込んだ小鳥が、窓の端に止まって、アリアを見つめていた。
「いや……違う、これは――――」
月の明かりを受けて、青白く発光する小鳥は、しばらくアリアを見つめた後に、透き通る光の粒子となって、虚空の中に消えた。
アリアはその姿をしばらく、驚きと少しの恐怖が入り混じった表情で見つめていたが、少し時間が経って、それが何だったかを理解すると、何もかもを諦めたような無表情へと変わっていった。
アリアはその魔法に見覚えがあった。そしてその知らせが終わりを告げる鐘の音だということも――――
「そっか……もう終わりなんだ……」
その呟きは月明りの下で、誰にも聞かれることもなく、その小鳥と同じように、解けるように消えていった。
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――――
――…………




