6-39
「……帰る」
全ての目的を終えたことと、これ以上長居すれば、自分のATフィールドがごりごりと中和されていくことに気付いたレーネが、ソファから立ち上がって言った。
「ええ、今日はご足労いただきありがとうございました」
「ん……あと一応例の件についてだけど、さっき待たされていた時に大広間に寄って、出来る限りのことはしておいたから、よっぽどのことが無い限り大丈夫……なはず」
その言い方は明らかにフラグっぽくはあったが、問題が山積みの現状でこれ以上の杞憂は抱えきれないだろう。
「そうですか」
「それと――」
「はい」
そしてレーネは最後に何でもないことのようにその話題を切り出した。
「あなたの妹――」
「……メアがなにか?」
「あの娘について、あなたの記憶はどれだけの情報を知り得ているの」
「……」
彼女の意図がわからない。
だが、じっと見つめる、その全ての真実を暴こうとする野心的な瞳と、そこに微かに紛れる躊躇いと不安の揺らぎに、メイリはなんとなく凄みのようなものを感じて、少し躊躇したのちにその曖昧な答えを返した。
「――私の……妹である、とだけ……」
酷く抽象的な答えだと思う。
だけどそれ以上の真実は語れないことにメイリは気付いた。
――実際に産まれる以前と、その連続的な、”あなただけ”が持ち合わせている記憶の間では、あなた自身であっても区別ができない。
「彼女と最初に出会った時の記憶は?」
「……」
存在しない。
「では妹であると知らされた時の記憶は?」
「……」
存在しない。
「そう、わかった。ごめんなさい、突然こんな変な事を聞いて」
「いえ……」
メアとの出会いの記憶も無ければ、彼女が妹であると知らされた記憶も無い。
ならば何故自分は、彼女を自分の妹だと思っているのだろう。
自らの記憶と認識のみで現実を捉えるのならば、彼女の方が姉であると思うのが普通なのではないか?
それともこれが記憶の非連続性であり、超越的な存在である創造主が自らに与えた先天的な認識というものなのだろうか。
「私も彼女の体調が早く良くなってくれることを祈るよ――じゃあね」
だけどレーネは彼女の戸惑いに気付いた素振りをしながらも、また何でもないことのようにそう言ってメイリに背を向けた。
「……なんかすごく黒幕っぽいですよ、その台詞――」
どうにも足場が不安定な事にようやく気付いたメイリは、少し粘度が増したような胡乱な空気を追い払うように、冗談ぽく彼女の台詞を茶化したが、その言葉が彼女に届くことはなかった。
「いない……」
いつか見た姿隠しの魔法。
どうやら彼女はこの立ち去り方を気に入っているようだ。
「……さようなら、レーネさん、またのご来館をお待ちしております――」
唐突な沈黙にメイリは最後の足掻きとして、あえていつも通りの定型文で、立ち去ったレーネに別れの言葉を告げたが、その行為には何一つ気休め以上の効果は期待できないようだった。
「……――――」
窓から差した幻想的な月明かりが、湧き出た粘度の高い濃霧に乱反射して、青白い、鈍い光を放った。
割れた鏡の破片のような記憶が、そこかしこの宙に浮かんで、濃霧の中を行ったり来たりしている。
果たしてその内のどれが認識できる記憶で、どれが本来の自分の記憶と言えるものなのだろうか。
あるいはそのどれもが間違いであるか。
それともその間違いという認識すらも誤りであるのか。
霧の立ち込めた部屋で、メイリはしばし動けずに立ちすくんでいたが、唐突に何かに気付いたようにその足を前に出して歩き始めた。
濃霧の中を手探りで進んで、繰り返された記憶からドアノブを掴んで部屋を出る。
決して誤りではない。
廊下に出たメイリはその道標――彼の居る場所を目指して、その足を進めた。
何故、自分はその方向が正しいと知っているのだろうか。
記憶の非連続性。境界の無い宇宙。不動の動者。
何故、自分は彼の崩壊が永久に訪れないことを知っているのだろうか。
「――――……」
わからない。
だがメイリは構わず、その足をあの淡い碧の輝きへと向ける。
全てがそこに繋がっているのだとしたら、その向かう足は決して不機嫌であってはならない。
それが、神を、世界を愛するという事なのだろう。
メイリはこの世界を愛した彼のように、世界を愛したかった。
――――踏みしめて、軽やかに、飛ぶように、踊るように――
メイリは濃霧の中でただひたすらに彼と瓜二つの碧い輝きを求めた。
――――――…………
――――……
――……