6-35
「ねえ、いきなりで悪いんだけど、あなたは自分が生まれたときの事を憶えてる?」
少しの沈黙のあと、本当に唐突にレーネが言った。
「……」
メイリはもちろん返す言葉を用意してはいなかった。
「憶えていないでしょ?あなたには日常の記憶しかない。最初からあなたはメイリという人物で、妹がいて、創造主と一緒に”日常”を送っている。あなたの記憶はその時点から作られているはずで、実際に産まれる以前と、その連続的な”あなただけ”が持ち合わせている記憶の間では、あなた自身であっても区別ができない」
「……」
彼女の漆黒なうねりにまたしてもメイリは言葉を失った。
レーネはようやくそんなメイリの態度に気付いて、少しだけ表情を緩めたものの、彼女は覚悟を決めたようにそのまま話をつづけた。
どうやら、彼女としてもこれらの儀式は止めることはできないようだった。
「ごめんなさい。でもそれは私たちでも同じなの。人間が知覚する現在において、過去と呼ばれるものは存在しない。もし、そういった感覚があるのなら、例えば通常の人間であれば、脳の海馬に刻まれた物理的な変化や、人体の些細な変化による違いをそう捉えているだけにすぎない」
「……」
「だけど、同じような性質に見えて、あなたたちの特異な体質に照らし合わせると、まったく事情が異なってくる。記憶を刻むべき脳の海馬や人体はたちどころに修復してしまい、その連続性をあなたたち自身が認識できない。実際に半分ネームドの血が入っている私も、ある程度の修復が行われているようで、通常の人間と比べるとその時間間隔には大きな差異が発生している」
「……」
「そして以上の事柄がありながら、実際にはあなたたちや私はほとんど通常の人間と同じような思考体系や意識、記憶感覚を有している。これは何故か。少なくとも、現実に起こっていることを無理矢理整理するならば、あなたたちの記憶は非連続的でありながら、主観においては連続的であり、それらの現象が意味することは記憶や時間に関しての超自然的な可逆性を持ち合わせているという事。つまり、あなたたちが、私たちと同じように、この宇宙の現実世界に属する現存在であると仮定するのなら、それらの意識は時間的な可逆性を持ち合わせ、もっと簡単に言えば、あなたたちの意識は常に過去に遡って、もしくはそれと同時に存在していることとなる」
「……全くあなたの言っている意味が分かりません」
メイリはようやく言葉をひねり出した。
「そりゃそうだよ。私も意味不明だから」
「……」
メイリはなんだかすこし落ち込んでいた自分が馬鹿らしくなってきていた。
「またそれらの見かけ上のネームドの物理的な非連続的な記憶の性質や時間に関する可逆的な超自然的現象を、記憶の非連続性と言うんだけど、それが――」
「それが?」
「エル君から観測できなくなったの――具体的には記憶の連続性が確認された後に、謎の高エネルギー反応が起こり、消失、もしくはブラックボックス化していることが確認され、現象としては壊変に近いと思うのだけれど、もうすでに観測不可能となった領域はどう頑張っても解明できないために、これ以上の原因の究明は不可能となってしまった――」
「つまり、エルハルト様は徐々に観測不可能な謎の物質に置き換わっているという事ですか」
「まあ、そういう事だね。だけど、それは見かけ上は他のネームドと変わらない。あなたたちも普通に謎の物質だからね。そして、エル君もその内情はかなり異なっているとは言え、今も普通に日常を送っているし、私たちもエル君とは普通に会話をすることができる」
「そう、ですね――そんなことになってるなんて、信じられない」
まさに異世界の話だ。現実感が無さ過ぎる。
「うん、だけどね、もう一つ、確実で無視できない厄介な問題が存在しているの。それは、さっきも言った通り、彼と隣接している空間の測定結果から、彼の見かけ上の質量が、減少している事が発覚した事」
「……」
「あなたも知っての通り、ネームドはマナと呼ばれる不確定領域の集合体だとされているけど、そのマナ自体は目に見えないものの、魔法や、呪術を通して、物質的な還元が為されることが長年の人類の経験でわかっているの。まあ、つまり、エネルギーとほとんど性質は同じだね。それ故に、それらの行き来には等価性があり、質量は常に一定であると考えられている」
「……」
「まあ、つまり、その対称性が見かけ上でも失われて、またそれが観測不可能な謎のエネルギーだか物質になっているかもしれないという現状はすごく大変なことが起こっているという事なんだよね」
「それで、大変なことが起こった末にエルハルト様が消えてしまうと……?」
「うん。通常のネームドさえ、何で認識できているかわからないなら、さらに良くわかんないエル君がこのまま普通に私たちと一緒に日常を続けていけるかは正直確率としてはとても低いものになると思う」
「そう、ですか……」
メイリは消え入るような口調で彼女の結論に、申し訳程度のリアクションを返した。
一周回って幻想的に揺らめく胡乱な雰囲気の中でも、彼が消えてしまうかもしれないという単純な事実だけが確かな質量を持って、彼女の胸の奥底に重い枷となって、しぶとくぶら下がっていた。
「うん」
そしてレーネも彼女の様子に、全ての事柄が伝わったわけではないことを察しつつも、ただ一言「うん」と呟いて、彼女の解釈に全てを委ねることを決めたようだった。