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6-3

 「……冷たい」


 様々な困難を乗り越えて無事、人の生得的な罪と向き合うことができたアリアは、今度は玲瓏館の古めかしい蛇口から溢れ出でる清廉なる一筋の前に、山間の秋と言う洗礼を受けていた。


 「これでまだ秋とか冗談でしょ……? ああ、なんか急に生きて行く自信無くなってきた」


 ああ、生きて行くとは何故かくも厳しいものなのか。

 冷え込んだ大気によってさらに冷やされた流水を受け、ひりひりとかじかむ手を痛まし気にさすりながら、洗面台に備え付けられた鏡に映った自分の姿を見る。

 

 酷いしかめ面だ。


 それは寒さだけではない、最近のややこしい身の回りの世情も反映された表情でもあった。


 アリアは鏡の端の古風で優美な曲線を見つめながら、その主な原因である人間関係のあれやこれやに思い至り、しかめ面で睨めつける鏡の中の自分に向かって、どこかで聞いたような台詞をにわか知識でなぞって呟いた。


 「ぼんやりしている心にこそ恋の魔力が忍び込む……ね」


 ぽつりと呟いたその言葉は朝霜のようにアリアの心の淵にそっと降り注いで、そのままもやもやとした膜となって表面を覆った。


 最近の玲瓏館は寒さもさることながら、それ以外の、特に人間関係についての問題がそのぼんやりした横っ面をはたくようにして、急速に顕在化していた。


 「ううむ……」


 鏡の中を覗き込みながら、父親のそれに似てきた額のしわを見つけて、大分嫌な気分になった後にその間に人差し指を入れ込んでほぐしてから、洗面所を後にする。


 もちろんアリアだってこれらが悪いことばかりではないことは承知している。

 ただ、癖になってしまわないかだけが少し不安だった。


 「……? あれは――」


 そんなことを思いながらアリアが洗面所から出ると、ちょうど目の端に、閑静な女子寮の廊下を足早に通り抜ける一つの影を見かけた。


 噂をすれば影……だろうか。


 その姿は視界の端にちらりとしか映らなかったが、曲がり角に消える間際に見えたメイド服のフリルは彼女の良く知るパターンの一つだった。


 「メアちゃん……」


 そう、こんな朝早くから労働に従事する勤勉な住人は彼女以外にいるはずがないのである。

 しかし、アリアはそんなありきたりな日常を前にしながらもまた悩まし気に眉を寄せた。


 「どうしよう……」

  

 どうしよう、とはつまり彼女の後を追うか否かである。

 玲瓏館を取り巻く、直近の諸問題の観点から、アリアはメアと二人っきりになれる機会を密かに探していた。

 これ以上に悩める彼女の心に近づくチャンスは他にはほとんどないだろう。


 アリアは廊下の端に消えた彼女の残像に、先ほど見た深くなりつつある自らの額の皺を思い出した。


 もし今すぐにその後ろ姿を追えば、きっと望みは叶い、額に刻まれつつある皺は癖になる前に元の張りのある健康的な肌へと戻ってくれるはず。


 「――――……」

 

 だがそれでもなお彼女が躊躇うのは、その行為が言うまでも無く、薄氷の上で保っている繊細なひとひらを失ってしまうかもしれないリスクも孕んでいるからだった。


 フォーゼルグを取り囲む一つずれた季節のような、どこかずれたエルハルトやメイリ、メアの表情がぐるぐると頭の中を巡ってアリアを思考の渦へと押し込める。


 果たして、彼女がどうこうしたところで解決できる問題なのだろうか。


 「でも……うん。もうどう頑張っても二度寝は無理そうだし、行こう」


 だが少しの逡巡の後、彼女は選択した。

 たとえどうこうできない問題だったとしても、悩める友人をただ黙って見守っている事なんてできない。


 結局は自分の問題なのだ。

 自分がどういった人間でありたいのか、自分にとっての友人とはどういう存在であると思いたいのか。


 彼女は決意を固めると、メアのふわりと揺れるフリルの残像を追った。


 メアの仕事の効率を考えると悩んでいられる時間はあまり多くはない。

 

 アリアは朝の貴重な微睡みを奪い去った大自然の導きが、一見困難に見える事象を解きほぐす、神様の性質の悪い悪戯であることを願った。



 ――――……


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