5-36
――ざんと音が鳴った。
「……!――」
レーネの瞳が驚きで見開かれる。
エルハルトを中心に回る星々の全ての運行が停止し、その命が絶たれたことを知った幾何学と術式が力を失ったようにその光を散らした。
「ミーシャ……どうしてここに……」
この世にただ一人。全ての理屈を反故にし得る存在。
「ごめんね、レーネ。結局は私が全部悪いの」
完全なる善。故に彼女は全ての罪を負う。
「ふふ、私の目が悪くなったからレーネも油断してたでしょ?逆だよレーネ。見えないものが増えるから、人はもっと良くものを見ようとするの……少し時間を掛け過ぎたね」
どうやら、レーネはレーネでその役者の対策はしてはいたようだが、彼女たちの攻防については人智の超えた領域にあるようで、エルハルトには彼女たちの視線のやり取りの内にその真意を確かめる術はなかった。
「でも、そんなことはどうでもいいの。ねえ、レーネ、もう一度よく考えてみて欲しい。いや、頭の良いあなたには逆に一度思考を止めてみて欲しいって言った方が良いかな。ねえ、レーネ、私が思うあなたの幸せって、なんだと思う?」
「そんなの、わかるはずがない。人と人は隔絶されている。もちろんそれは私とミーシャも同じ」
「じゃあ、何で私に気付かれないように、こんな事しようとしたの」
しかし二人は繋がっていた。
「――――……」
「でも、わからなくてもいいの。人には言葉がある。人と人は隔絶されていたとしても、言葉である程度の真実を伝えることができる――」
ミーシャは人の間で生き、それが真実であると知った。
だから伝えるよレーネ、とミーシャは言った。
「私の思うあなたの幸せは、その心が自由であること。もしあなたがありもしない罪を償うために、その心に制限を掛けているのなら、私は私の我がままであなたを止める」
彼女は正しい。なぜなら、
「私はあなたがすきだから――」
愛は善であり、善は愛だから。
「ミーシャ……」
全ての悪は彼女に屈するようにその頭を垂れるだろう。
そして――
「それに、もう一つ私はあなたに言いたいことがある――あなたはもうちょっと器用になりなさい」
そしてミーシャは大きく息を吸った。
「私が今からあなたにもっと冴えたやり方を見せてあげる……」
ミーシャはその眼光をもってへたり込むエルハルトを見据える。
「私は本当の勇者。レーネとは違ってね。だから全て自分の手で理屈を覆して見せる。世の中の全てを奪って見せる」
エルハルトの、状況を把握しきれていない動揺しきった瞳とかち合う。
「見てなさい、レーネ。力とはこうやって使うものなのよ」
そして、もう一度深呼吸。だけどその深呼吸は酷く不安定で、吐く息は震えて、まるで極寒の中で吐く、白い息が見えている様だった。
「……」
「……」
勇者はようやく歩みを進めた。
エルハルトの方へ一歩一歩、ゆっくりと足を進める。
「エル君――」
「……はい」
ミーシャが震える声で言った。
エルハルトは消え入るような声で答えた。
ミーシャがへたり込む彼の視線に合わせるようにその身を屈めた。
二人の視線が至近距離でぶつかる。
「私は――」
「……」
そして最後に、勇者は高鳴る心臓を抑えるように自らの左胸にそっと手を添えた。
「私はあなたのことが好きです。あなたの全てを私にくれませんか」
白と灰の記憶は鮮やかな赤い炎に包まれた。
――――――…………
――――……
――……