03 仮の従魔契約
母とのお茶会の後、ベイリー家専属の治癒術師に診てもらい、ついでに母にも診てもらい、どちらからも過労だと言われ、寝衣を着せられ、瞬く間にベッドに送られた。本当に元気なんだけどな、と思いながらうっかり寝落ちし、夜中にばっちり目が覚めた。想像以上に疲れていたみたいだ。
天蓋付きのベッドの天井を見つめて息をつく。前世とは違う世界に本当に生まれ変わったんだな。手もこんなに小さい。家族も愛情いっぱいで、私は何不自由なく毎日を過ごせる。前世と比べると幸せな環境だ。
でも、このまま小説の通りに未来が進んだら、みんな死んでしまう。前世の最期の瞬間を思い浮かべる。ぷつんと頭の中が弾けて、意識が闇の中に沈んでいく感覚。ぶるりと身体が震えた。昼間の母の言葉が過る。「自分が幸せに生きられることを一番に考える」ということ。今の私は、どうしたいのか。
私は、みんなに生きていてほしい。私もこの世界で長く生きたい。ただ生きるのではなく、前世以上に周りに愛され、そして、私もその愛を返したい。この世界で生きて4年。たったの4年かもしれないけれど、私は前世以上のものを受け取っている。いつも誰かが私の傍にいて、私の存在を気にかけてくれている。愛を求めれば、それ以上の愛で返してくれる。その愛を私はどれだけ前世で欲していたか。
それに、ソウマ・ムスビ。彼の存在が気になる。『破滅のアデル』では、戦争を引き起こすきっかけとなった人物だから、一番警戒するべきだとは分かっているけれど、彼のことは放っておけなかった。彼は、前世の私に似ている気がする。こう言ってしまうと、ソウマに失礼かもしれないけれど。
『破滅のアデル』で彼の人生の一部を読んでいただけではあるけれど、彼の人生は悲惨だった。幼い頃から秘術を扱うのに必須の力『妖力』が強かった彼は、一族の期待もあって厳しく育てられていた。特に両親からの扱いは厳しく、彼は自分の家であっても落ち着けることはなかった。
そして、今から1年後となるソウマが10歳の時に悲劇が起こる。鍛錬のためにイヅル国にいたソウマは、その際に国内の反帝国派に攫われてしまう。
反帝国派側の思惑としては、将来レイ帝国で中心的存在となるソウマを傀儡とするべく秘術で洗脳することだった。攫われたソウマへの扱いは、読んでいるだけでも吐いてしまいたくなるほどだった。
心身共に人間としての尊厳を踏みにじられるような行いの数々を一か月間、ソウマは受け続けた。身体の細部まで弄られ、拷問され、暴言を浴びせられ続け、まともに食事さえもとれない。ソウマが覚醒し、自ら脱出するまでの一か月間、ソウマは苦しみ続けた。
10年後にアデルに自分の過去を語る時に、ソウマ自身がひどく取り乱すほどに心に深く傷をつけた出来事だった。どんな過去があろうと小説のように周りの人を巻き込んで人を殺めてもいい理由にならない。戦争を起こしていい理由にならない。けれど、苦しみ抜いたソウマの未来を思うと、放ってはおけなかった。ソウマごと、みんなを助けたい。
そう思った時、ざらりと頬を撫でる感触があった。
「誰!?」
身体を起こし、ベッドの端まで避難する。外に護衛はいるけれど、部屋の中は私一人だけのはずだ。私が先ほどまでいた場所にぼうと青白く光る何かがいる。それは獣の形をしていた。ベッドの上に前足のようなものを乗せ、頭のようなものが首をかしげる動きでこちらを見ている。猫……いや、結構大きい。虎のような形をしている。どうやってこの部屋に入って来たんだろう。窓は開いていない。昼間にどこからか忍び込んだとしても、使用人の誰かが気づくはずだ。
目も口もない、ただただ青白く光る何か。でも不思議と敵意は感じない。ただこちらを見ている、ような気がする。
「はじめまして。アルデルファ様」
「ひやっ」
子供のようなころころとした声がした。どこから声がしたのか分からず、部屋を見回す。私とこの虎のようなもの以外誰もいない。
「どうか怯えないでください。私はあなた様の味方です」
ベッドの反対側にいた虎はベッドに飛び乗ってきた。私に向かってゆっくりと近寄ってくる。どうやら子供の声はこの虎からするようだった。
「あなたは、誰なの」
「私は妖魔。人間からはよく白虎と認識されているものです」
「嘘」
妖魔は小説でも書かれていた内容だ。イヅル国の秘術で従魔契約の際に従えることができる魔物の一種を指す。従魔契約は、物の怪の世界に干渉し、妖魔を召喚および契約をする術であることからも、イヅル人の血を引き、かつ、とりわけ妖力が強い者のみが扱える術だ。イヅル国でも片手で数える程度の者しかこの術を使えないはず。そのような強い力がない限り、妖魔はこの世界に召喚することができない。それほど特殊な魔物がこの場にいること自体が有り得ないことなのだ。
「妖魔はご存知なのですね。さすがはアルデルファ様」
白虎は嬉しそうに声を上げた。ここまでは概ね好意的な感情を向けられているけれど、真意がわからない以上安心はできない。イヅル国の誰かが仕向けてきた暗殺者の仕業だったらどうしよう。でも、従魔契約ができるほどの人が、わざわざリスクを負ってまでベイリー家の一令嬢を暗殺するだろうか。何の得があるというのだろう。
「どうして私のことを知っているの? 何でここにいるの?」
めいいっぱい身体をベッドの端に寄せる。けれど、白虎は構わず私に近づいてくる。
「契約の関係で詳しくはお話できません。でも、私はアルデルファ様をお守りするためにここにいます」
やはり従魔契約をしている妖魔のようだ。でも、どうして私に会いに来たのか。今の私には従魔契約ができるようなイヅル人の知り合いはいない。ソウマも私を知らないはずだ。いや、私が婚約者候補であることは両親から知らされているのだろうか。そうだったとしても、出会ったこともない少女に従魔を向かわせるとは思えないし、そもそもソウマは1年後に覚醒するまでは力が足りず、従魔契約ができないはずだ。
「詳しく話せないが守らせろということでしょうか? 今のままでは信用ができません。ただ恐ろしいだけです」
「そうですか……」
白虎は残念そうに首を垂れた。申し訳なくは思うけれど、私も手放しで信用はできない。この場面は小説で書かれていない話だ。未来を考えると死ぬことはない気がするけれど、気は抜けない。
「私はアルデルファ様がご存知の未来を知っております。その未来は私と主様が避けたい未来です」
「どういうこと」
「私がお話できるのはここまでです。申し訳ございません。ただ、アルデルファ様をお守りするために、私は仮の従魔契約を結びに参りました」
混乱してきた。私以外に小説の内容を知っている存在がいるの? 一体、誰。小説の中でそんな動きを見せた登場人物はいただろうか。何か私側で見落としていることがある? だめだ、分からない。
ひょっとして、私が前世で死ぬ前に聞いたあの声の主だろうか。
「従魔契約は相当な妖力を持つイヅル人の血を引いた人間でなければできないはず。それに、仮の従魔契約というのは聞いたことがないわ」
「契約の対価は既にいただいております。それに、ご存知ないのは当然でしょう。仮の従魔契約は、主様が生み出した唯一の術。イヅル人がイヅル人ではない者に従魔を従わせる権利を渡す特別な術です。イヅル人の中でも知る人はおりません」
「あなたの主様は相当な術の使い手のようね」
「ええ、誇りに思っております」
白虎はごろごろと喉を鳴らした。
小説の中でそれほどまでの秘術使いはいただろうか。ソウマくらいしか思い浮かばない。ただ、ソウマの従魔は水龍だった。白虎がいた描写はない。考えれば考えるほど沼にはまっていくようだ。
でも正直、助けは欲しい。仮の従魔契約が結べるほどの人が従える妖魔。力が強い事が伺える。それに、ソウマが攫われるまであと1年しかない。4歳の令嬢にできることは限られている上に、ソウマをただ助ければいいという話ではない。これからやってくる悲劇をこれからも退けていく必要がある。味方は多いほどいい。
「仮の従魔契約を結ぶとして、どのように守ってくれるの?」
「アルデルファ様が命じられたことには、未来永劫従います。未来のことや、契約内容、主様については詳しくお話できませんが、必ず命はお守りいたします」
「私が仮に自害するとしても守ってくれるの?」
白虎はぴくりと身体を揺らした。
少し怖く思っていることがある。小説の強制力だ。すべてが小説通りというわけではなさそうだけど、結末が同じ道を通ることが決まっているのであれば、私は自害することになる。私が望んでいなくても、そうなってしまう未来であるならば、可能な限り避けられるように努力したい。
「大変申し訳ございませんが、その場合であってもお守りいたします。現実がどれほど辛くともアルデルファ様の命を失うわけにはいきません」
「そう。分かったわ」
これからどんな未来が待っているのかは分からない。死んだ方がマシだと思う未来が来るかもしれない。でも、少なくとも今は今世をせいいっぱい生きたい。生の保証が欲しい。前世で死んだ時に感じたあの一瞬の絶望が忘れられない。
「あなたの主は私を守ることで、どんな利点があるの?」
「契約に触れるため、お話はできないのですが、主様はアルデルファ様をお守りしたいのです」
頭をふるふると振りながら白虎は私に訴える。
相手の素性が分からないことが気になるけれど、これ以上聞いても答えは得られそうにないと思う。
今ソウマのいるイヅル国には、今の私には伝手がない。妖魔ならば、イヅル国と何らかの繋がりを得ることができるかもしれない。今の私にはあまり選択肢がない。覚悟を決めて、選び取るしかない。息を吸って前を向く。白虎の目と思われる位置に視線を合わせた。
「契約をお願いできるかしら」
白虎は顔を上げ、尻尾を立てた。表情は分からないけれど、喜んでいる様子は見て取れた。
「ええ、 ええ! もちろんでございます!」
白虎は私の手に自ら頭を近づけ、頭を擦り付けた。猫のようだ。
「私はどうすればいいの?」
「私に名を授けてくだされば契約は締結されます」
「名前」
白虎では駄目なのだろうか。でも、それだとまるで飼い猫を「猫」と呼んでいるようなものなのかもしれない。ただ困った。私は前世の時から名づけは得意ではない。
「あなたは好きなものはあるの?」
「好きなもの……主様とアルデルファ様です」
「それ以外で」
「えー!」
白虎は考えるように頭を揺らす。ゆらりゆらりと尻尾も一緒に動いている。思考が尻尾に表れるのだろうか。そう考えると可愛い一面がある。
「私が主様に召喚された日、辺り一面雪に覆われていました。足跡さえ残すことも憚れるような真っ新な雪。その景色が私は好きなのかもしれません」
「とても素敵な日に召喚されたのね」
そう言うと、白虎は照れ臭そうに俯いた。
誰も踏み込んでいない真っ新な雪原を思い浮かべる。太陽の光が反射して、地面がきらきらと光る場所。3歳の時に家族でベイリー家の別荘に行った時のことを思い出す。まだ前世の記憶がぼんやりとしていた時だ。雪原の中にぽつりと建つワイン色の別荘はとても美しかった。日の光が差し込む瞬間は絶景だった。景色でこんなに温かい気持ちになるのだと驚いたことを覚えている。
「では、あなたの名前はセツね。私の国の言葉で雪という意味なの」
「セツ」
ぴんと尻尾が立ったかと思えば、先程セツと名付けられた白虎の身体が輝いた。
同時に私の胸の奥が火を灯すように温かくなる。とても安心する。この温かさがあれば何も怖くないとすら思えるようなもの。嬉しくて愛おしい。どうしてここまで愛おしく思うのか自分でも分からない。何だかすごく泣きたくなった。この感情は何なのだろう。どこから来るものなのだろう。
「ああ。セツ、セツ…嬉しいなぁ。そんな意味のあるお名前をいただけて、セツは嬉しいです」
気が付くと私とセツはお互いの額を合わせていた。セツの触れたところが冷たくて肌触りがいい。
名前を付けたせいなのだろうか。先程は青白く虎の形をした光だったセツが、実体を持っている。光沢のある青白いシルクのような毛に、黒い虎模様。切れ長の虎の目の中に、金の瞳が光っている。月明かりに照らされた美しい白い虎。神々しさに目が奪われた。とんでもない妖魔と契約をした気がする。
少し緊張しながらも、身体の奥で温かな繋がりがあるのを感じた。とくとくと脈打つ感覚。これはセツの鼓動なのだろうか。
「契約完了です、アルデルファ様。今この時より、私はあなたの従魔です」
「ルーファでいいわ。よろしくね、セツ」
セツの首の下に手を持っていく。抵抗されることなく、手がすっぽりと埋まる。すべすべでふわふわな手触りだ。気持ちいい。セツも撫でられるのが好きなのか、ごろごろ喉を鳴らしている。
「早速なんだけど、セツ、お願いがあるの」
「何なりと、ルーファ様」
目を細めていたセツがその美しい瞳で私を見る。契約をしてすぐにはなるけれど、今一番気になること。私には時間がない。
「ソウマ・ムスビという少年を見つけて、見守ってほしいの」
「ソウマ・ムスビ様」
「ええ。私の将来の婚約者。私より5つ年上の男の子で、今はイヅル国で秘術の修行をしているはず」
「存じ上げております。ただ、私はルーファ様をお守りするため、お傍を離れる訳にはいきません。なので、私の使い魔を向かわせたいのですが、よろしいでしょうか?」
私に従ってくれるとは言っていたけれど、理由を聞かずにすぐに使い魔を手配してくれるその姿に驚いた。嫌な様子を少しも見せない。
「いいの?」
「勿論です。私はルーファ様に従います。あっ、でもルーファ様が危険な目に遭うことはダメですけけどっ」
あわあわと慌てたようにセツが答える。こんなに神々しいのに、子供のような動きがちぐはぐで可愛い。
「ありがとう」
首を撫でると、セツは忙しない動きを止めた。
「ソウマは反帝国派に1年後に誘拐されて、拷問されるの。心が壊れてしまうほどの」
金の瞳が私を見る。特に驚いた様子はない。未来を知っているからだろう。
「私はそれを止めたい。だから、ソウマの周りに不審な人がいないかも気を付けてほしい」
「そのように致します」
「ありがとう、セツ」
少し気が楽になった。まだ未来が変えられるかどうかは分からないけど、一歩を踏み出せた。安心から息を吐く。
「ルーファ様は、ソウマ様が大切なのですか?」
「よく分からない。けど、守りたいと思うの。あんなに苦しんでいい人だとは思えないから」
「そうですか」
セツの主はソウマのことをどう思っているんだろう。セツの反応からは分からない。同じ未来が見えているならば、好意的には思っていないかもしれないけれど。
セツに触れている内に、何だか眠たくなってくる。変な時間に目が覚めて眠れなかったはずなのに。
「今日はおやすみください、ルーファ様。契約で身体が必要以上に疲れているはずです。使い魔は今夜の内にイヅル国に向かわせます」
「ありがとう」
欠伸が漏れる。セツの体毛に顔を埋めるといい香りがした。ふわふわで、もふもふでお日様のいい匂い。夜なのに不思議だな。そんなふわふわな気持ちで私はそのまま瞼を下ろした。