01 アルデルファ・ベイリー
きっかけは、ただのくしゃみだった。
「……っくしゅん」
「お嬢様、大丈夫でしょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
ハンカチで鼻を拭いてくれた侍女に礼を言いながら、私は今しがた脳内に流れてきた記憶に驚いていた。
私はどうやら転生したらしい。くしゃみと同時に前世で佐倉 結衣として過ごしていた記憶が蘇った。
今まで何となく自分の中に何らかの記憶があるような気はしていたけれど、はっきりとはせず、遠い夢のようにぼやっと頭の中を漂っていた。それが、くしゃみをきっかけにもう一つの世界の存在が頭の中ではっきりと色づいた。
何だかぱっとしない蘇り方だ。もっといいきっかけはなかったんだろうか。自分の才能に気がついた時だとか、小説内の登場人物に出会った時だとか、色々きっかけはあったはずだ。くしゃみだって、生まれてから何度もしているのに、なぜ今なのか。疑問は尽きないけれど、思い出してしまったのが今だったのだから、どうしようもない。
私の今の身体の軽さを思えば、前世の私は相当身体が悪かったらしい。過労死だろうか。死亡当時は記録的な連勤中で、何か月も休んでいなかったはずだ。あのアパートの一室で、一人静かに亡くなったのだと思う。心の奥がぎゅっと痛む。最期は一人だったのか。あんなに必死に頑張った先にあったのは孤独死。自分の人生を思うと苦しいものが込み上げてくる。
でも、そこまで振り返り、思考が止まった。最期は本当に一人だったのだろうか。たしか誰かの声が聞こえた気がする。その声は「ルーファ」と言っていた。「僕の愛するルーファ」とも言っていた。誰だったのだろう。前世の私の周りに「ルーファ」という名の人はいなかったし、今の世界にもいない。死ぬ間際に金縛りにあっていたし、事故物件に住んでいたのかもしれない。そう考えると一人で亡くなったとは言えないのだろうか。いや……そんなことを今考えてもどうしようもない。だって今の私は、新しい人生を生きているのだから。
私の今の人生での名前は、アルデルファ・ベイリー。四大公爵家の中の一つであるベイリー家の令嬢である。
ベイリー家は、慈愛の一族として知られている。200年前に起こった大陸統一戦争において、兵士や民間人の身体や心の傷を癒した事が功績として認められ、戦争後に建国されたレイ帝国で公爵の位を賜った。位を賜る際に、慈愛の一族の称号を得たのだ。
ああ、この設定、前世で同じような話を読んだことがある。死ぬ前に読んでいた『破滅のアデル』と一緒だ。私の名前であるアルデルファ・ベイリーもヒロインの名前だ。こんなことってあるのだろうか。転生したら、小説の中の登場人物になっていた。それに、若くして死ぬことが分かっている鬱小説のヒロイン。一度死んだ身。少し人生が引き延ばされたと喜ぶべきか、再び死に追いやられるのかと悲しむべきか。正直、複雑だ。
でも、この世界には私が死ぬことで悲しむ人間が多い。さすがは慈愛の一族と言うべきか、私を全力で愛してくれる家族がいる。前の世界では体験することがなかった家族愛がこの世界にはあった。
「お嬢様、奥様より伝言を賜っております。そろそろ勉強は休憩して、一緒にお茶でもどうかしら、とのことですが」
私の侍女として仕えてくれているパトリシアが微笑みかけてくれた。たしか小説では、ペリシアン家に嫁いだアデルについてきてくれた。アデルが命を絶つ直前まで屋敷で彼女の傍におり、屋敷に乗り込んだソウマに抵抗して、殺されていた。アデルの大切な人と知っていながらも、長く彼女に仕え、アデルの傍にいることが許されたパトリシアにソウマは嫉妬していた。胸を一突きされていたパトリシアを想像してしまい、ぞっとした。そうだ。小説で死ぬのは私一人だけではない。
「お嬢様、どうかされましたか? 体調でも悪うございますか?」
若草色の瞳を心配そうにこちらに向けるパトリシア。綺麗な瞳だ。それが苦痛で歪むところなんて見たくはない。この世界に生まれて記憶を有してから、ずっと彼女は私の傍にいてくれている。
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていました。お母様には、喜んでご一緒いたします、と伝えていただけますか?」
「かしこまりました。でも、本当に体調は悪くはないのですね?」
「大丈夫ですよ。パトリシアは心配性ですね」
照れ臭くなって、つい可愛くないことを言ってしまう。前世の記憶が蘇ったこともあって、より照れ臭く感じているような気がする。だって、前世では誰かから心配されることは少なかった。
「だってお嬢様が大好きなんですもの。お嬢様のすべてが気になりますわ」
そんな可愛くない私の返答にもパトリシアは明るく笑ってくれた。私の気持ちが分かっている、そんな笑顔だ。
「それでは奥様に伝えてまいりますね。お嬢様はすぐにお支度を整えてしまいましょう」
「ありがとう。よろしくお願いします」
誰かが私のことを大好きと言ってくれる。
異性としての愛を求めているわけではなく、それとは異なる愛を私に対して持ってくれている。それがどれだけ尊いことか。世界にはその愛を受けられずに死んでしまう人がいる。その愛を真の意味で理解できずに上澄みだけの感情で受け取ってしまう人もいる。とても尊いことなのだ。
私はどう生きるべきか。お茶会用のドレスに袖を通しながら、ぼうっとこれからの自分について考えていた。